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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
過去編-人間と暮らし始めた頃のエル

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第21話-古びたノート

食堂の棚の裏から、それは見つかった。


調理器具の入れ替えに合わせて、壁際の大きな収納棚を動かした時だった。


積もった埃。

古い備品タグ。

用途の分からない小さな金具。


そのさらに奥、壁との狭い隙間に、黒い長方形のものが挟まっていた。


「……ノート?」


食堂班の職員が拾い上げる。


飾り気のない、硬い黒表紙。


名前も、管理番号も、部署印もない。

機密指定の刻印も、封印術式も見当たらない。


角は丸く擦り減り、表面には細かな傷が走っていた。紙は黄ばんでいるが、不思議なほどしっかりしている。


「食堂の記録簿でしょうか」


「こんな形式は見たことがないな」


職員たちは顔を見合わせた。


本来なら、出所不明の記録物は開かずに保全担当へ回すべきだろう。


だが、ノートには危険を示すものが何もない。


最も年長の職員が手袋をはめ、慎重に表紙を開いた。


最初のページに、短い文章が書かれていた。


『じぇれみーが、かけと言った。


人間を観察した記録を、残してみる。


見ているだけでは、わからないらしい。


だから、かく。』


その下には、食堂の絵が描かれていた。


丸と直線を中心にした、線の少ない絵。


にもかかわらず、配膳口の高さ、椅子の脚、照明の位置、人間の肩の傾きまで、異様なほど正確だった。


ページの端には、小さく名前がある。


える


食堂の空気が変わった。


誰も笑わなかった。


「……エルさんの記録?」


次のページをめくる。


絵は、配膳口の前から見た光景だった。


差し出されるトレー。

受け取る小さな両手。


エル自身の顔はない。


彼女が当時見たものだけが、紙の上に残されていた。


『食堂で、トレーをもらった。


人間は、ありがとうと言った。


あたしも、ありがとうと言った。


ありがとうは、物を受け取った時に出す音。


でも、人間の顔が、すこし変わった。


音だけじゃないのかもしれない。』


食堂班の職員が、絵を覗き込む。


「この配膳口……今のものではありません」


改装前どころではない。


その配置を実際に見たことのある職員は、現在の監理局には残っていなかった。


次の見開きには、食堂に並ぶ机と椅子が描かれている。


人間たちは同じ場所で食事をしているのに、全員が違う方向を見ていた。


誰かと話す者。

一人で食べる者。

書類を読みながら口を動かす者。

入口を振り返る者。


その中に、一脚だけ空いた椅子があった。


『椅子は、たくさんある。


あたしが座る場所は、どこ?


人間がたくさんいる。


でも、あたしは人間じゃない。


人間じゃないから、座る場所がない?


人間の入れ物に、意識を入れた。


足がある。

手がある。

目がある。

口がある。


食べることもできる。

座ることもできる。


人間の形なら、人間の場所に座っていい?』


職員たちは、現在の食堂を見回した。


今なら、誰かが声をかける。


空いている席を示す。

一緒に食べようと手招きする。


だが、この記録が書かれた頃、監理局はエルを何として扱うのかすら定められていなかった。


職員なのか。

保護対象なのか。

監視対象なのか。


人間の少女に見える。


けれど、人間ではない。


この宇宙の根幹に関わる存在が、幼い身体でトレーを持って立っている。


当時の職員たちも、どう接すればいいのか分からなかったのだろう。


次のページには、人間の顔が並んでいた。


どの顔も、エルを見ていない。


『人間は、あたしを見ていない。


見られていないのは、いないのと同じ?


でも、あたしはここにいる。


トレーは重い。


スープは熱い。


椅子は冷たい。


足の裏は、床についている。


ここにいるのに、いないみたい。』


余白には、床に落ちた小さな影が描かれていた。


トレー。

細い脚。

小さな足。


表情はない。


それでも、長く見ていると胸が痛む絵だった。


ページをめくる。


今度は、誰もいない机に座る絵。


『座った。


誰も止めなかった。


だから、座っていいのかもしれない。


誰も見なかった。


だから、座っていないのと同じかもしれない。


どっち?』


許されていないわけではない。


拒絶されたわけでもない。


けれど、迎え入れられてもいない。


当時の監理局の曖昧さが、その短い問いに残っていた。


さらに次のページ。


食堂の窓から見える星と、その下に多くの文字。


『人間の入れ物に意識を入れて、はじめてわかった。


人間は、ひとつずつ違う。


あたしは、本当の幸せ。


でも、人間は、みんな違うことを言う。


パンが好きな人間。

パンがきらいな人間。


人と食べたい人間。

ひとりで食べたい人間。


話したい人間。

話したくない人間。


見てほしい人間。

見ないでほしい人間。


同じ場所にいるのに、幸せが同じ場所にない。


じゃあ、本当の幸せは、どこにある?』


誰もすぐにはページをめくらなかった。


本当の幸せという名前を持つ存在が、食堂の空席を見ながら、幸せの場所を探していた。


研修資料に書かれたどんな説明より、その事実は重かった。


「保全担当を呼びましょう」


一人が言った。


正式な記録物として扱うべきだった。


だが、保全ケースが届くまでの間に、職員たちはもう一ページだけ確認した。


食堂の入口。


行き交う人間たち。


その中の一人だけが、まっすぐこちらを見ている。


『きょう、人間が、あたしを見た。


見たあと、目をそらさなかった。


何か言おうとして、言わなかった。


でも、あたしを見た。


見られていると、ここにいる感じが強くなる。


見られることは、場所になる?』


ページの下には、古い日付記号があった。


それを読める職員が、息を止める。


「この記録……今いる職員が生まれるより前のものです」


最初の文章が思い出された。


じぇれみーが、かけと言った。


「局長も、この頃から……」


続きは誰も言わなかった。


ほどなくして、透明な保全ケースと記録端末が運ばれてきた。


ノートは食堂の端の作業卓へ移される。


記録保全担当が紙の状態を確認し、静かにページをめくった。


◇


次に描かれていたのは、職員用の机だった。


積み上がった書類。

古い型の端末。

空になったカップ。


紙束の枚数まで数えられそうなほど、正確な絵だった。


『人間は、よく、つかれたと言う。


つかれたは、体が重い時の言葉。


でも、体が重くなさそうな人間も、つかれたと言う。


仕事をやめたいと言っていた人間がいた。


その人間は、机を見ていた。


紙を見ていた。


機械を見ていた。


ため息をついた。


仕事をやめたい。

もう見たくない。

消えてほしい。


そう言っていた。』


職員たちは、次に何が書かれているのかを予感した。


ページの下半分。


先ほどまで紙と端末があったはずの机には、何もない。


代わりに、硝子の小鳥が一羽置かれていた。


『その人間が困っているものは、机の上にあった。


紙の束。

機械。

仕事。


人間は、それに困っていた。


だから、なくした。


仕事がない世界にした。


机が、からっぽになった。


からっぽは、さみしいかもしれない。


だから、硝子の小鳥がいる世界にした。


かわいいから、喜ぶと思った。』


そこには、術式も、行使も、出力もなかった。


エルが「仕事のない世界」を思えば、仕事はなくなる。


「小鳥のいる世界」を思えば、硝子の小鳥が現れる。


当時のエルにとって、それは力を使うという行為ですらなかったのだろう。


名前に従って、世界を幸せな形へ変えただけ。


次のページには、怒鳴る人間の顔が描かれていた。


線は少ない。


けれど、見開かれた目と震える口から、その声の大きさが伝わってくる。


文字も、これまでより僅かに乱れていた。


『人間は、喜ばなかった。


怒った。


泣いた。


あたしに、大きい声を出した。


顔が赤い。


手が震えていた。


あたしは、仕事をなくしてあげた。


つかれたと言ったから。


やめたいと言ったから。


消えてほしいと言ったから。


でも、喜ばなかった。


どうして?』


エルは、人間が本気ではない言葉を口にすることを知らなかった。


消えてほしいと言われたから、消した。


彼女の中では、そこまでがまっすぐにつながっている。


次の絵では、複数の職員が距離を取っていた。


全員がエルを見ている。


怒っている目。

泣きそうな目。

何をするか分からないものを見る目。


『ほかの人間も来た。


みんな、あたしを見る。


こわがっている。


あたしは、人間を幸せにするものなのに。


あたしは、本当の幸せなのに。


人間が、あたしをこわがっている。』


記録保全担当の手が止まった。


今のエルなら、善意と許可は別だと知っている。


けれど、この頃の彼女には、そもそも世界を変えないという発想がなかった。


世界は思考と分かれていない。


幸せでないなら、幸せな形にすればいい。


それが旧世代としての自然だった。


次のページには、硝子の小鳥だけが描かれていた。


『硝子の小鳥は、かわいい。


でも、人間は見なかった。


人間は、なくなった紙と機械を見ていた。


そこにないものを見て、泣いた。


あたしには、ないものが見えない。


人間には、ないものが見える。』


なくなった紙。


そこに費やした時間。

果たすはずだった責任。

交わした約束。

明日困る誰か。


エルには見えないものを、人間は空白の中に見ていた。


『あたしは、悪いことをした。


悪いことは、人間がこわがること。


悪いことは、人間が泣くこと。


なくしたあと、元にしても、同じにならないこと。


紙は、またある世界にできる。


機械も、またある世界にできる。


でも、こわがった目は、元にならないかもしれない。』


余白には、いくつもの目が描かれていた。


怒った目。

怯えた目。

避ける目。


エルは人間の反応を、初めて「戻せないもの」として見ていた。


◇


次のページには、四角い部屋が描かれていた。


机。

椅子。

寝台。

棚。

照明。

閉じたドア。


『きょうは、あたしの部屋にいる。


じぇれみーが、あたしの部屋だと言った場所。


部屋は、人間がいるための箱。


寝る。

座る。

しまう。

待つ。


あたしの部屋。


あたしの、は、ここにいていいという意味?


ここから出てはいけないという意味?』


自分のための場所。


自分がいてよい場所。


同時に、自分を入れておく場所。


その違いを、当時のエルはまだ知らなかった。


机の上には、硝子の小鳥が置かれている。


『じぇれみーが、きょうはここにいろと言った。


だから、いる。


ずっとは、どのくらい?


食堂の人間は、食べたら出ていく。


廊下の人間は、歩いたらいなくなる。


ここにいろ。


いつまで?』


次のページには、部屋の中を何度も往復した跡が描かれていた。


椅子からドアへ。

ドアから窓へ。

窓から机へ。


『あたしは、人間のところに行きたい。


幸せじゃなくした人間を、幸せにしないといけない。


あたしは、本当の幸せ。


人間を泣かせた。


人間をこわがらせた。


あたしの名前と違うことをした。


このままだと、あたしの名前が、なくなるかもしれない。』


職員の一人が、小さく息を呑んだ。


旧世代にとって、名前は呼び名ではない。


存在そのものだ。


本当の幸せであるものが、人間を不幸にした。


それはエルにとって、失敗というだけではなかった。


自分が自分でなくなることへ、直接つながる矛盾だった。


『幸せじゃなくした人間を、幸せにするには、会わないといけない。


でも、ここにいろと言われた。


会いに行くことと、ここにいることは、同時にできない。


人間は、同時にできないことが多い。


あたしも、そうしてみる。』


エルは、この部屋から出ようと思えば出られた。


壁も、鍵も、空間も、彼女にとって障害ではない。


扉のない世界を思えばよい。


人間のいる場所と部屋がつながった世界を思えばよい。


けれど、そうしなかった。


『人間は、ふだん、壁をぬけない。


ドアがある時は、ドアを使う。


廊下を歩く。


順番を待つ。


だから、あたしもする。』


その次の絵では、小さな手がドアノブを握っていた。


『ドアを開けようとした。


開かなかった。


もう一度した。


開かなかった。


鍵がある。


鍵は、開けないためのもの。


じぇれみーが、ここにいろと言った。


ドアも、ここにいろと言っている。』


安全措置だったのだろう。


だが、当時の監理局には、現在のような細かな対応規定がない。


どう止めればよいのか。

どう説明すれば伝わるのか。

どこまでなら許されるのか。


人間側も手探りだった。


『ドアの前に座った。


人間は、待つことがある。


だから、待った。


壁をなくさなかった。


鍵をなくさなかった。


ドアを、開いているものにしなかった。


人間みたいに待った。


あたし、人間みたい?


誰かに聞きたい。


でも、ドアが開かない。』


次のページ。


閉じていたドアが、少しだけ開いている。


隙間の向こうには、背の高い人影が立っていた。


『じぇれみーが来た。


怒っている?


悲しんでいる?


わからない。


じぇれみーは、いつも同じ。


人間みたいに、顔がたくさん変わらない。


声も、あまり変わらない。


でも、人間。


わからない人間。』


続くページでは、向かい合う二人が描かれていた。


椅子に座る低い視点。


その前に立つジェレミー。


『じぇれみーに言われた。


人間のものを、勝手になくしたらだめ。


人間のいる世界を、勝手に変えたらだめ。


人間を幸せだと思う形に、勝手にしたらだめ。


じゃあ、あたしは何もしちゃだめ?


じぇれみーは、違うと言った。


あたしがしていいことを、あたしだけで決めたらだめ。


人間のことは、人間に聞けばいい。』


現在なら、あまりにも基本的なことだった。


本人へ確認する。


相手の望みを決めつけない。


だが、この時のエルにとっては、初めて提示された考え方だった。


人間の内側は、見ても分からない。


ならば、人間に聞く。


『あたし、人間といたい。


だから、人間がすることをする。


そう言った。


じぇれみーが、少し笑った。


口だけ。』


絵には、ほとんど直線に近いジェレミーの口元が描かれていた。


僅かに上がった口角。


当時のエルは、その小さな変化を見逃さなかった。


『人間の真似をしたらいいと言われた。


人間がすることを、あたしもする。


聞く。


待つ。


勝手に決めない。


相手を見る。


人間が言うまで、わかったことにしない。


それをしたら、人間に近くなる?』


ページの端には、項目が並んでいた。


『聞く。


待つ。


さわる前に聞く。


なくさない。


人間の顔を見る。


人間の声を聞く。


同じ顔でも、同じ気持ちとは限らない。』


最後の一行は、きっとジェレミーを見て覚えたものだった。


◇


次の記録は、廊下から始まっていた。


左右に並ぶ大人の脚。


その間を進む、低い視点。


『部屋から出ていいと言われた。


人間に、謝りに行く。


人間たちは、あたしを見る。


前は見なかった。


今は、みんな見る。


怒っている目。


こわがっている目。


見ないふりをして、見ている目。


見られている。


ここにいる感じが強い。


でも、すこしいたい。』


やがて、怒らせた人間の前に立つ。


絵の中の人間は大きかった。


エルは、ずっと見上げている。


『じぇれみーに言われた。


最初は、謝る。


謝るだけ。


何かしてあげる、はしない。


なくす、はしない。


元にする、も、聞かれるまでしない。


だから言った。


ごめんなさい。


人間は、大きい。


顔が遠い。


目が遠い。


声が、上から来る。


人間は、あたしを見下ろしている。


見下ろすは、どういう気持ち?』


ページをめくる。


向き合ったまま、二人は動いていない。


『人間は、何も言わない。


あたしも、何も言わない。


言葉がないんじゃなくて、言わない。


人間の真似をする。


謝るだけ。


待つだけ。


見るだけ。』


何かをすることではなく、何もしないこと。


世界を変えられる存在が、人間の返事を待っている。


次の絵で、人間の口元が僅かに歪んでいた。


怒っているようにも、困っているようにも、笑いそうにも見える。


『人間が、ちょっと笑った。


怒っているのに、笑った。


怒ると、笑うは、違うはず。


怒ってるのに、許す?


許してないのに、もういいと言う?


なんで?』


エルは、そこで初めて自分から尋ねた。


人間のことは、人間に聞けばいい。


『なんでって聞いた。


人間は、すぐに答えなかった。


口を開けた。


閉じた。


また開けた。


人間は、言葉を探すことがある。


それから言った。


まだ怒ってる。


でも、謝ったから。


それ以上、何もしなかったから。


だから、もういい。』


何かを与えたからではない。


失ったものを作り直したからでもない。


謝ったあと、勝手に何もしなかったから。


『まだ怒っているのに、もういい。


怒りは、なくなっていない。


でも、怒る時間を終わりにした?


人間は、なくさなくても、終わりにできる?


あたしは、少しわからない。


でも、さっきより、こわいのが減った。』


次の絵には、人間の手が描かれていた。


拳ではない。


けれど、近づいてもこない。


『あたしも、近づかない。


近づく前に聞く。


さわる前に聞く。


世界を変える前に聞く。


でも、いまは聞かない。


聞くことも、しないほうがいい時があるみたい。』


さらに、人間の言葉が続いていた。


『今は、何もしなくていい。


ちゃんと謝ったから。


もう行っていい。


でも、同じことはするな。


絶対に。


そう言われた。


同じことをしなければ、ここにいていい?


もう行っていいは、いなくなれじゃない?


会話を終わりにするだけ?


人間は、終わりにしても、なくならないものがある。


怒り。


こわい。


記憶。


でも、終わりにする。』


廊下を離れる絵。


エルは途中で振り返っている。


人間はもう、彼女を見ていない。


『人間は、もうあたしを見ていない。


でも、最初の食堂の時と違う。


見られていないけど、いないみたいじゃない。


ごめんなさいを言った。


言葉をもらった。


同じことをするなと言われた。


だから、あたしは、さっきより少しここにいる。』


◇


翌日の食堂。


エルは再び、トレーを持って入口に立っていた。


『あの人間がいる。


人間は、まだ少しあたしをこわがっている。


顔がかたい。


目が、すぐに違うところへ行く。


だから、近くに座らないほうがいいと思った。


でも、人間がたくさんいる。


人間のいない机がない。


あたしが座る場所がない。』


空いている椅子はあった。


だが、荷物が置かれている。


誰かの書類がある。


近くに人間が座っている。


空席と、座ってよい席の違いが、エルには分からない。


『食べたい。


人間の身体は、食べたいになる。


立ったまま食べるのは、人間みたいじゃない。


床に置くのも、人間みたいじゃない。


勝手に椅子に座るのも、だめかもしれない。


聞く?


でも、人間は食べている。


食べている人間に、何を聞いたらいい?』


次の絵では、一人の人間がこちらへ歩いてきていた。


昨日、怒っていた人間だった。


『そしたら、あの人間が、こっちに来いと言った。


来いは、近くに行っていい言葉。


人間は、椅子を指さした。


ここに座っていい、と言った。


聞いてないのに、言ってくれた。


人間のことは、人間に聞く。


でも、人間が先に教えることもある。』


食卓には三人の人間がいた。


四つ目の席に、エルのトレーが置かれている。


『まず、置けと言われた。


トレーを置いた。


音がした。


人間は怒らなかった。


座れと言われた。


椅子に座った。


椅子も音がした。


人間は怒らなかった。』


ひとつずつ。


エルは、何をすれば再び人間を怒らせるのか分からない。


だから、すべてを観察していた。


人間たちは、エルへ多くのことを尋ねた。


『どこから来た。


何をしに来た。


何が目的。


質問がたくさん。


質問は、知りたい時の言葉。


でも、こわい時にも質問する。


人間は、あたしを知りたい?


あたしがこわい?


たぶん、どっちも。』


「どこから来た」という質問に、エルは答えられなかった。


『どこから来たは、むずかしい。


この宇宙。


でも、この宇宙は、あたしの中。


外から来た?


中から来た?


人間の言葉にすると、変になる。


だから、わからないと言った。


人間は、もっとわからない顔をした。』


何をしに来たのか。


それも、一つには決められない。


『人間を幸せにするため?


人間を見るため?


人間の真似をするため?


ここにいるため?


どれも、そう。


どれを言えばいいかわからない。


だから、見ていると言った。


人間は、ちょっと黙った。』


その回答は、当時の職員には恐ろしく聞こえただろう。


だが、エルは本当に見ていただけだった。


人間を知るために。


しばらくして、人間の一人が尋ねた。


好きな食べ物は何か。


『好き。


好きは、幸せに近い言葉。


食べ物。


だから、人間が食べているもの、と答えた。


人間が笑った。


間違えたと思った。


好きな食べ物は、人間が食べてるものじゃない?


言い直した。


人間がおいしいと言ったものは、人間が幸せになる食べ物。


あたしも、それを食べたい。


人間は、また笑った。


さっきより、こわくない笑いだった。』


怒っているのに出る笑い。


困った時の笑い。


緊張が解けた時の笑い。


エルの中で、同じ「笑う」が少しずつ分かれていく。


人間は、自分たちと同じ料理をエルの前へ置いた。


『食べようとしたら、熱いだろ、と言われた。


熱いのは、わかる。


この身体は、熱いものにさわると、熱いになる。


でも、人間は、あたしがさわる前に言った。


熱いだろ、は、気をつけろに似ている。


気をつけろは、悪いことが起きる前の言葉。


人間は、あたしに悪いことが起きると思った?


あたしは、少し人間みたい?』


人間が食べているものを食べる。


同じ机で。


同じ高さにトレーを置いて。


『おいしいは、まだむずかしい。


でも、人間が少し笑った。


あたしは、それを見ながら食べた。


これは、人間が幸せになる食べ物。


だから、覚える。』


◇


次の日も、その人間はエルへ話しかけた。


廊下でも。


中庭でも。


エルがほかの人間を見ている時にも。


『あの人間が、来る。


止まる。


聞いてくる。


何を考えている。


何を見ている。


どうして人間を見る。


どうして、ああした。


どうして、ああ言った。


人間は、あたしの外だけじゃなくて、中も知りたい?』


最初の質問は、危険性を測るためのものだった。


どこから来た。

何が目的だ。


今度の質問は、エル自身へ向けられている。


『人間も、あたしを知りたい?


あたしも、人間を知りたい。


同じ?


あたしは見る。


人間は聞く。


見ると、聞くは、同じ知りたい?』


エルは、その人間へ尋ねた。


『あたしは、人間を知るために、人間の真似をする。


じゃあ、人間も、あたしを知るために、あたしの真似をする?』


人間は、大きな声で笑った。


周囲の職員たちも振り返る。


けれど、その視線は以前のものとは違った。


『びっくりした。


まわりの人間が、あたしを見る。


でも、きょうは冷たい目じゃない。


笑ってる目。


おもしろい目。


こわがってない目。


なんで?


あたしは、変なことを言った?


変なことを言うと、人間は笑う?


怒る時もある。


どう違う?』


人間は、笑った理由を説明した。


『人間は言った。


真似はしない。


人間は、人間じゃないものの真似ができない。


こわい。

できない。

わからない。


でも、知りたいから聞く。


見るだけでは、中は見えない。


だから話す。


話すと、わかることがある。』


エルは、その言葉を何度も書き直していた。


『あたしが話す。


人間が聞く。


人間が話す。


あたしが聞く。


同じ?


たぶん、少し同じ。』


完全に同じではない。


人間にもなっていない。


それでも、両者の間に初めて「少し同じ」が生まれていた。


その人間が笑ったことで、周囲の視線も柔らかくなった。


エルは、それも観察している。


『人間は、ひとりの顔を見て、ほかの人間の気持ちを決めることがある?


じぇれみーが怒ってないと、まわりは少し安心する。


きょうは、あの人間が笑った。


だから、まわりも、あたしを、こわいだけじゃなく見た?


きょう、わかったこと。


人間も、あたしを知りたいことがある。


人間は真似をしなくても、聞いて知ろうとする。


大きな声で笑っても、冷たくない時がある。


ひとりが笑うと、ほかの人間の目もやわらかくなる。


なんでは、また増えた。』


◇


日付が少し進んでいた。


描かれているのは、向かい合う二人。


文字も、最初より僅かに柔らかい。


『あの人間と話すと、あたしの幸せが増える。


人間を見ていると、わからないことが増える。


聞くと、もっと増える。


でも、あの人間と話すと、あたしの中が少しあったかくなる。


きょうは、きのうより、ここにいていい感じがする。


これが、あたしの幸せ?』


それまでエルは、人間の幸せだけを探していた。


初めて、自分の幸せを記録している。


『あの人間は、あたしを幸せにする魔法があるのかもしれない。


人間なのに。


人間は、言葉で変える。


顔で変える。


声で変える。


あたしの中が変わる。


それは、魔法と似てる?』


エルにとって魔法とは、術式ではない。


想像した結果が、そのまま現実になること。


ならば、人間の言葉によって自分の内側が変わることも、魔法に近く見えたのだろう。


『だから、あたしも、あの人間が幸せになるものを思った。


でも、先に聞く。


聞かないで世界をそうすると、幸せじゃないことが起きる。


あたしは、やだ。』


エルは尋ねた。


何か、きれいなものがここにあってもいいか。


人間は少し考えたあと、周囲や人間を変えるものでなければいい、と答えた。


今の基準から見れば、ひどく曖昧な許可だった。


けれど、当時はそれが精いっぱいだった。


『人間の手は、小さい。


机の上も、小さい。


だから、人間の手の中に、宇宙があるところを思った。


そうしたら、硝子玉があった。


転がすと、中の星が動く。


光がまわる。


ちょっとだけ、宇宙が見える。』


大きなものを小さく抑えたのではない。


出力を調整したわけでもない。


エルが思い浮かべたのが、最初から「人間の手にある宇宙」だった。


だから、それは手のひらに乗る硝子玉として現れた。


『人間に渡した。


人間は、落とさなかった。


ずっと見た。


転がした。


中の星が流れた。


人間は、きれいだと言った。


声がやわらかかった。』


怖がらせなかった。


怒らせなかった。


泣かせなかった。


そして、勝手に与えもしなかった。


『きれいは、好き?


好きは、ほしい?


ほしいは、あげていい?


わからない。


だから、聞いた。


あげていい?


人間は、少し笑った。


それ、くれるのかと言った。


うん、と言った。


人間は、うれしい時も笑うみたい。


これは、いい笑い。


たぶん、前よりいい笑い。


あたしも、うれしい。


あたしの幸せが、また増えた。』


人間は、硝子玉を机の上へ置いた。


いつでも見える場所。


エルは、その理由を知りたがった。


だが、答えを聞くより先に、次の日が来た。


◇


人間は、ほかの職員たちを連れてきた。


見開きいっぱいに、大きな人影が並んでいる。


中央には、エルのいる空白。


『人間が、たくさん来た。


あたしを囲んだ。


人間は、でかい。


あたしは、人間の檻に入ったみたい。』


その言葉を聞いた人間たちは、一度黙った。


それから、大きな声で笑った。


『びっくりして、わかった時の笑い?


人間は、顔を見合わせた。


それから、少し離れた。


輪がなくなった。


檻じゃなくなった。


よかった。』


笑って終わりにはしなかった。


エルの言葉を受け取り、自分たちの位置を変えた。


人間たちは、硝子玉を見た。


きれいと言う者。

すごいと言う者。

中を覗き込む者。


触ってもよいか尋ねる者もいた。


『聞く。


人間も、聞く。


あたしが作ったものだから、あたしに聞いた?


人間も、勝手にしないことがある。』


一人が笑う。


それを見た別の人間も笑う。


硝子玉について話し、互いの言葉を聞き、楽しそうな空気が広がっていく。


『きれいなものを見て、人間は、うれしそう。


あたしが幸せにした?


でも、うれしそうな顔をしたのは人間。


笑ったのも人間。


きれいと言ったのも人間。


ひとりが笑う。


ほかの人間も笑う。


ひとりが話す。


ほかの人間の顔が変わる。


人間は、魔法がなくても、人間を変える。


人間は、自分で幸せになることができる?』


職員たちは、黙ってその問いを読んだ。


エルはこれまで、人間を幸せにすることを、自分の存在そのものとして背負っていた。


幸せでないなら、世界を変えなければならない。


自分がすべてをしなければ、名前に反する。


そのエルが、初めて別の可能性を見つけている。


『あたしが話していない時も、人間は人間を変える。


あたしが世界を変えていない時も、人間は幸せそうになる。


じゃあ、あたしは、ぜんぶをしなくていい?


ぜんぶ、あたしが幸せにしなくていい?


だとしたら、あたしは少しうれしい。


少し軽い。


あたしは、きっかけだけでもいい?


きれいなものがある。


話す。


聞く。


見る。


それで、人間が自分で幸せになるなら、いい?』


断言ではない。


答えでもない。


まだ、ただの問いだった。


けれど、最初のページで幸せの場所を探していたエルは、そこまで辿り着いていた。


ページの下には、箇条書きがあった。


『きょう、わかったこと。


人間は、たくさんで来ることがある。


たくさん来ると、檻みたいになることがある。


言うと、人間は気づくことがある。


人間は、世界を変えなくても喜ぶことがある。


人間は、自分で幸せになることができるかもしれない。


人間は、ほかの人間を変える。


人間は、みんな魔法がある。


あたしは、ぜんぶをしなくていいのかもしれない。』


保全担当は、その最後の一行を記録した。


誰も席を立たなかった。


次のページの向こうには、窓と、暗い空のような絵が透けて見えている。


ノートは、まだ続いていた。



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