第21話-古びたノート
古い絵日記 食堂の席
食堂の棚の裏から、それは出てきた。
調理器具の入れ替えに合わせて、壁際の収納棚を少し動かしただけだった。
埃の塊と、古い備品タグと、どこから入り込んだのか分からない小さな金具。
その奥に、黒い長方形のものが挟まっていた。
「……ノート?」
拾い上げた職員が、思わずそう言った。
表紙には何も書かれていなかった。
名前も、管理番号も、部署印もない。
ただ黒く、硬く、冷たい。
いかにも事務用品として渡されそうな、飾り気のない無機質なノートだった。
けれど、相当な年期が入っている。
角は丸く擦り減っていて、表面には細かい傷がいくつも走っている。
紙の束は変色していたが、不思議と崩れてはいない。
誰かが意図してしまいこんだというより、長い時間の中で、偶然そこに入り込んで、そのまま忘れられたように見えた。
「食堂の記録簿ですか?」
「こんな形式、見たことないですね。備品管理にもないはずです」
職員たちは、少し迷った。
開けていいものか。
開けずに記録保全室へ回すべきか。
だが、紐も封もない。
警告の魔術刻印もない。
機密保護の印もない。
一番年長の職員が、慎重に表紙を開いた。
最初のページには、短い文字があった。
じぇれみーが、かけと言った。
人間を観察した記録を、残してみることにした。
見ているだけでは、わからないらしい。
だから、かく。
その下には、絵が描かれていた。
線は少ない。
丸と直線と、わずかな曲線だけで構成されている。
けれど、その少なさに反して、異様なほど精密だった。
食堂の入り口。
配膳口の角度。
トレーの縁。
遠くの照明の位置。
椅子の脚の数。
人間の肩の傾き。
描かれているものは単純なのに、見れば見るほど、そこにあった空間を正確に写し取っていると分かる。
「……エルさんの字ですか」
誰かが小さく言った。
ページの端に、小さく名前があった。
える
食堂の空気が、少し変わった。
騒ぐ者はいなかった。
笑う者もいなかった。
名前を見ただけで、これはただの落とし物ではないと全員が理解した。
次のページをめくる。
そこには、食堂でトレーを受け取る場面が描かれていた。
視点は低い。
今の職員たちが知っている、あの小さな身体の目線に近かった。
配膳口の向こうにいる職員。
差し出されるトレー。
受け取る小さな手。
エル自身の顔は描かれていない。
視界に入った自分の手だけが、画面の端にある。
食堂でトレーを受け取った。
人間は、ありがとうと言った。
あたしも、ありがとうと言った。
ありがとうは、物を受け取った時に出す音。
でも、人間の顔がすこし変わった。
音だけではないのかもしれない。
「……この配膳口、古い型ですね」
食堂班の職員が絵を覗き込み、眉を寄せた。
「改装前どころじゃないです。今の職員で、この配置を実際に見た人はいないと思います」
「じゃあ、これ……本当に初期の記録?」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
次の見開きには、椅子が描かれていた。
たくさんの椅子。
たくさんの机。
人間たち。
人間は何人もいる。
同じ食堂にいる。
同じ時間に、同じ場所で、同じように食事をしている。
なのに、全員が違う方向を向いていた。
隣の人に話しかける者。
一人で黙っている者。
食べる前に手を止める者。
誰かを探すように振り向く者。
その中に、一脚だけ空いた椅子があった。
文章は、その空席の横に書かれていた。
椅子はたくさんある。
あたしが座る場所はどこ?
人間がたくさんいる。
でも、あたしは人間じゃない。
人間じゃないから、座る場所がない?
人間の入れ物に意識を入れた。
足がある。手がある。目がある。口がある。
食べることもできる。座ることもできる。
でも、人間の形なら、人間の場所に座っていい?
職員たちは、しばらくページを見つめた。
食堂は、今も食堂だった。
誰かが食べて、誰かが笑って、誰かが急いで通り過ぎる場所。
だが、その古い絵の中では、食堂はもっと冷たく見えた。
そこにある椅子が、誰のものでもないようで。
同時に、エルのものだけではないようで。
「扱いが、まだ決まっていなかった頃でしょうか」
一人が言った。
「エルさんを職員として扱うのか、保護対象として扱うのか、監視対象として扱うのか……そういう規定が、まだ曖昧だった時期」
「それで、食堂にいても誰も声をかけなかった?」
「声をかけてはいけないと思った人もいたかもしれません。何をしていいか分からなくて」
その推測は、誰にも責められなかった。
昔の職員たちが冷たかった、という話ではない。
目の前にいる存在が何なのか、組織としてまだ言葉を持っていなかった頃。
人間の形をしている。
けれど人間ではない。
幼く見える。
けれど幼い存在ではない。
世界の根幹に関わる存在で、しかし目の前ではトレーを持って立っている。
その矛盾の前で、人間側も立ち止まっていたのだろう。
次のページには、人間たちの顔が並んでいた。
こちらを見ていない顔ばかりだった。
横を向く顔。
食事を見る顔。
会話相手を見る顔。
書類を見る顔。
線は少ない。
けれど、視線の向きだけは、冷たいほど正確に描かれている。
人間は、あたしを見ていない。
見られていないのは、いないのと同じ?
でも、あたしはここにいる。
トレーは重い。
スープは熱い。
椅子は冷たい。
足の裏は床についている。
ここにいるのに、いないみたい。
誰かが、小さく息を呑んだ。
ページの余白に、食堂の床が描かれていた。
床に落ちた光。
トレーを持つ影。
小さな足。
それだけだった。
顔はない。
表情もない。
それでも、その絵は、しばらく見ていると痛かった。
「……これ、本人は寂しいって分かってなかったんでしょうか」
「分かっていたかもしれません。でも、その言葉をまだ持っていなかったのかもしれない」
「いないみたい、か」
誰かが呟いた。
その言葉だけが、食堂の壁に落ちたように残った。
次のページへ進む。
今度は、椅子に座っている絵だった。
ただし、周囲には人間がいない。
空いた机。
空いた椅子。
その一つに、トレーだけが置かれている。
視点は、少し上から。
まるで、自分が座っている場所を外側から観察し直したような構図だった。
座った。
誰も止めなかった。
だから、座っていいのかもしれない。
誰も見なかった。
だから、座っていないのと同じかもしれない。
どちら?
職員たちは、何も言えなかった。
たった数行だった。
しかし、その数行の中に、当時の監理局全体の曖昧さが沈んでいるようだった。
許可されていないわけではない。
拒絶されているわけでもない。
だが、迎え入れられているとも言い切れない。
止められない。
見られない。
声をかけられない。
そのすべてが、幼い形をした旧い存在の前に置かれていた。
ページをめくる手が、少し遅くなった。
次のページには、文字が多かった。
絵は、端に小さくひとつだけ。
食堂の窓から見える星の線画だった。
人間の入れ物に意識を入れて、はじめてわかった。
人間は、ひとつずつ違う。
あたしは幸せの魔法。
本当の幸せという名前。
でも、人間はみんな違うことを言う。
同じ宇宙にいる。
同じ星にいる。
同じ建物にいる。
同じ食堂にいる。
隣にいる人間と、違うことを考える。
パンが好きな人間。
パンがきらいな人間。
人と食べたい人間。
ひとりで食べたい人間。
話したい人間。
話したくない人間。
見てほしい人間。
見ないでほしい人間。
同じ場所にいるのに、幸せが同じ場所にない。
じゃあ、本当の幸せはどこにあるの?
そのページだけ、誰もすぐにはめくれなかった。
エルという存在について、職員たちは研修で知っている。
旧世代。
本当の幸せ。
硝子玉の宇宙の創造者。
人間とは感覚の尺度が違う存在。
だが、その研修資料のどこにも、食堂で椅子を前に立ち止まる姿は載っていない。
本当の幸せという名前を持つ存在が、食堂の空席を見ながら、幸せの場所を探していた。
そのことが、資料のどんな説明よりも静かに重かった。
「……保全ケース、持ってきます」
ようやく一人が言った。
「このまま素手で読み進めるのは危険です。発見時刻、場所、状態、全部記録して、正式に回しましょう」
「そうですね」
「ただ、ページ順だけ確認を。途中で脱落している紙があるかもしれません」
理由をつけるようにして、職員たちはもう一枚だけページをめくった。
そこには、食堂の入口が描かれていた。
さっきよりも、少しだけ人間の線が増えている。
入口から入ってくる人。
出ていく人。
振り返る人。
その中の一人だけが、こちらを見ていた。
顔は簡略化されていて、誰かは分からない。
けれど、視線だけが、まっすぐこちらへ向いている。
文章は、途中で切れていた。
今日、人間があたしを見た。
見たあと、目をそらさなかった。
何かを言おうとして、言わなかった。
でも、あたしを見た。
見られていると、ここにいる感じが強くなる。
見られることは、場所になる?
そこで、ページの下端に小さな日付のような記号があった。
今の暦法とは少し違う。
古い監理局内部で使われていた記録形式らしい。
日付を読める職員が、目を細めた。
「……これ」
「どうしました?」
「この記録、今の職員が生まれるより前です」
その言葉に、周囲が静かになった。
エルがそれほど前からいることは、知識としては知っている。
研修でも聞く。
資料にもある。
けれど、古いノートの紙面に、実際の食堂の絵と一緒に残されていると、急に距離感が変わる。
誰かが、最初のページを思い出した。
じぇれみーが、かけと言った。
「……局長も、この頃からいたんですね」
誰かが、ほとんど独り言のように言った。
誰もそれ以上は触れなかった。
触れていい話ではないのかもしれないし、今はこのノートの話をするべきだと思ったからかもしれない。
保全ケースを取りに行った職員の足音が、食堂の外へ遠ざかっていく。
残った職員たちは、開かれたページを囲んだまま、もう一度そこに描かれた視線を見た。
見ている人間。
見られているエル。
そして、その下に続く、まだ読まれていない次の行。
ページは、そこで静かに待っていた。
◇
古い絵日記 消えた仕事
保全ケースが運ばれてきた。
透明な保護板の上に、古いノートがそっと移される。
手袋をつけた記録保全担当が、ページの端を確認し、劣化の具合を見てから小さく頷いた。
「読み取りは可能です。ただし、ページを強く開かないでください」
「記録は?」
「こちらで取ります。発見状況、現在位置、閲覧者、全部残します」
その声は事務的だった。
けれど、保全担当の視線もまた、ノートの文字から離れなかった。
食堂の端に置かれた作業卓。
その上に開かれた、無機質な黒いノート。
昼食前の食堂は、いつもより少し静かだった。
ページをめくる。
前のページでは、誰かがエルを見ていた。
見られることは場所になるのか、と書かれていた。
次のページは、食堂ではなかった。
机が描かれている。
職員用の机。
積まれた紙束。
古い型の端末。
引き出し。
椅子。
空になったカップ。
線はやはり少ない。
だが、紙束の枚数まで分かるような描き方だった。
重なった書類の角度が、ほんの少しずつ違う。
端末の画面には文字らしきものは描かれていないが、光の反射だけが細く入っている。
その横に、文字があった。
人間はよく、つかれたと言う。
つかれた、は体が重い時の言葉。
でも、体が重くなさそうな人間も、つかれたと言う。
仕事をやめたいと言っていた人間がいた。
その人間は、机の前に座っていた。
紙の束を見ていた。
機械を見ていた。
ため息をついた。
仕事をやめたい。
もう見たくない。
消えてほしい。
そう言っていた。
読み上げていた職員の声が、そこで少し止まった。
「……あ」
誰かが小さく声を漏らした。
続きに何が書いてあるのか、なんとなく分かってしまったからだった。
ページの下半分には、小さな絵が描かれている。
さっきまで紙束と端末があった机。
その上に、何もない。
いや、何もないわけではなかった。
机の中央に、小さな硝子の小鳥が置かれていた。
羽をたたみ、首をかしげている小鳥。
単純な線だけで描かれているのに、硝子の透明感まで分かる。
食堂の照明を受けて、きっと青白く光っていたのだろうと思わせる絵だった。
文章は続く。
その人間が困っているものは、机の上にあった。
たくさんの紙の束。
機械。
人間はこれに困っていたみたい。
だから、消してあげた。
仕事を消した。
机の上がからっぽになった。
からっぽは、さみしいかもしれない。
だから、代わりに硝子の小鳥を置いた。
かわいいから、喜ぶと思った。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
古い記録だ。
今とは規定も違う。
エル自身も、人間の言葉をまだ学んでいる途中だった。
それは分かっている。
分かっていても、職員たちは同時に想像してしまった。
長時間かけて作った書類。
未処理の申請。
端末に残っていた作業データ。
どこまでが消えたのか分からない。
復元できたのかも分からない。
そして、机の上に残された、美しい硝子の小鳥。
「……善意だったんですね」
「善意、ですね」
「でも、された側は……」
その先は誰も言わなかった。
ページをめくる手が、さらに慎重になる。
次の見開きには、人間の顔が描かれていた。
怒った顔。
ただし、誇張はない。
漫画のような怒りではない。
線は少なく、口が開いていて、眉が上がっていて、目が見開かれている。
それだけなのに、ページのこちら側まで声が届きそうだった。
その横には、少し乱れた字があった。
これまでの機械的な筆跡より、わずかに線が揺れている。
その人間は喜ばなかった。
怒った。
泣いた。
あたしのことを怒鳴った。
声が大きかった。
顔が赤かった。
手が震えていた。
あたしは、仕事を消してあげた。
つかれたと言っていたから。
やめたいと言っていたから。
消えてほしいと言っていたから。
でも、喜ばなかった。
保全担当が、紙面を記録する手を止めた。
古いノートの文字には、まだ「悪いこと」という判断がない。
ただ、結果が分からないという困惑だけがある。
つかれたと言った。
やめたいと言った。
消えてほしいと言った。
だから消した。
その単純さが、あまりにも危うかった。
「言葉を、そのまま叶えたんだ」
「当時のエルさんなら、そう考えたのかもしれません」
「人間は、本当に消えてほしいものばかりを、消えてほしいって言うわけじゃない」
「それをまだ知らなかった」
誰かの声が、少し掠れていた。
次の絵は、もっと静かだった。
部屋の端から見た構図。
怒った人間の背中。
その周囲に集まる数人の職員。
誰も、エルの方には近づいていない。
全員が、一定の距離を取っている。
そして、その視線だけがこちらへ向いていた。
他の人間も来た。
みんな、最初に怒った人間と同じ目であたしを見た。
怒っている目。
泣きそうな目。
何をするかわからないものを見る目。
怖がっているのがわかった。
あたしは、怖がられている。
人間を幸せにするものなのに。
本当の幸せなのに。
人間が、あたしを怖がっている。
食堂の隅で、誰かが小さく息を吐いた。
その場にいる職員たちは、今のエルを知っている。
廊下をふわふわ歩いている姿。
変な魔法アイテムを見せにくる姿。
人間の反応をじっと観察して、楽しそうにする姿。
褒められると、少し得意そうになる姿。
だからこそ、ノートの中のこの場面が遠く感じる。
遠いのに、完全には切り離せない。
「現在の他者所有物干渉禁止規定……これが元になってる可能性、ありますね」
「断定はできません。でも、条文に近いですね。『本人の言葉のみをもって同意とみなさない』って部分」
「今なら研修で最初に教わるやつです」
「たぶん、こういうことがあったからでしょう」
記録保全担当は、そこで一度ノートから目を離し、現在の食堂を見た。
職員たちの机。
共有端末。
配膳口。
食器返却棚。
今の監理局は、エルに何を許し、何を止め、どう説明するかを知っている。
だが、その知識は最初からあったものではない。
誰かが失敗し、誰かが怖がり、誰かが泣き、誰かが記録した。
その積み重ねで、今の距離が作られている。
次のページには、硝子の小鳥だけが描かれていた。
机の上に置かれた小鳥。
周囲には誰もいない。
小鳥はきれいだった。
羽の線は少なく、身体の形も単純。
けれど、光の通り方だけは精密で、見れば見るほど本物の硝子細工のように感じられる。
その下の文章は、短かった。
硝子の小鳥は、かわいい。
でも、人間は見なかった。
人間は、なくなった紙と機械を見ていた。
そこにないものを見ていた。
ないものを見て、泣いた。
あたしには、ないものが見えない。
人間には、ないものが見える。
「……きついですね」
誰かが呟いた。
エルは、机の上から物を消した。
だからそこには、もう何もない。
だが人間は、そこにあった時間を見る。
手間を見る。
責任を見る。
約束を見る。
明日困る自分を見る。
消えてしまったものの重さを見る。
その感覚を、当時のエルは知らなかった。
幸せの魔法であるはずの存在が、幸せのために消したものの重みを知らなかった。
次のページには、文章だけが書かれていた。
あたしは、悪いことをした。
悪いことは、人間が怖がること。
悪いことは、人間が泣くこと。
悪いことは、消したあとに、戻しても同じにならないこと。
戻せるものと、戻らないものがある。
紙は戻せるかもしれない。
機械も戻せるかもしれない。
でも、怖がった目は、戻せないかもしれない。
その行を読んだあと、誰も動かなかった。
ページの余白には、目だけがいくつも描かれていた。
怒った目。
怯えた目。
困惑した目。
避ける目。
その中に、ひとつだけ、閉じた目があった。
眠っているようにも見える。
見ないようにしているようにも見える。
「この頃のエルさんは……」
職員の一人が言いかけて、言葉を選び直した。
「人間の反応を、痛みとして覚えていったんですね」
「痛み、ですか」
「たぶん。自分の痛みではなくても」
保全担当が、記録用端末に短く入力する。
発見物。
無記名黒表紙ノート。
内容、初期観察記録。
筆者推定、エル。
記述内容、初期接触期における人間理解過程。
そこまで打ってから、少しだけ指を止めた。
正式な文書にすれば、いくらでも乾いた言葉にできる。
だが、目の前のノートには、もっと単純な言葉で書かれている。
あたしは、悪いことをした。
それだけだった。
ページをめくる。
次の絵は、廊下だった。
誰もいない廊下。
壁際に、小さな硝子の小鳥が置かれている。
食堂の棚裏から出てきたノートの中で、その小鳥だけが、妙にはっきり描かれていた。
文章は、途中から始まっていた。
小鳥は、まだある。
捨てると、もっと悪いことになる気がした。
置いておくと、見るたびに思い出す気がした。
思い出すのは、悪いこと?
忘れるのは、悪いこと?
職員たちは、また次の行へ視線を落とした。
その先には、まだ読まれていない文字が続いていた。
◇
古い絵日記 部屋とドア
ノートの次のページは、食堂でも廊下でもなかった。
四角い部屋が描かれていた。
机。
椅子。
寝台。
棚。
照明。
壁。
ドア。
それだけの絵だった。
線は少ない。
けれど、部屋の寸法が分かるほど正確だった。
机と寝台の距離。
椅子の向き。
ドアノブの高さ。
床に落ちる照明の範囲。
生活班の職員が、絵を見て小さく言った。
「……居室ですね」
「初期型の個室配置です。今の職員寮とは違います」
「エルさん用に用意された部屋、でしょうか」
誰も断定しなかった。
ページの上部に、文字があった。
今日は、あたしの部屋にいる。
じぇれみーが、あたしの部屋だと言った場所。
部屋は、人間がいるための箱。
寝る。座る。しまう。待つ。
いろいろする場所。
あたしの部屋。
あたしの、というのは、ここにいていいという意味?
ここから出てはいけないという意味?
職員たちは、黙ってその行を読んだ。
「あたしの部屋」という言葉が、どこかぎこちない。
所有という概念を、まだ確かめている途中の書き方だった。
自分の場所。
自分のために用意された場所。
けれど同時に、そこへ入れられる場所。
その両方が、当時のエルには区別しきれていなかったのかもしれない。
次の絵には、部屋の中の椅子に座る視点が描かれていた。
正面にドア。
ドアの前に、床の線。
壁には何も飾られていない。
絵の端には、机の上に置かれた硝子の小鳥が描かれていた。
前のページに出てきた小鳥と、同じものに見える。
じぇれみーが、今日はここにいろと言った。
だから、ずっといた。
ずっとは、どのくらい?
食堂の人間は、食べたら出ていく。
廊下の人間は、歩いたらいなくなる。
仕事の人間は、鐘のあともいる。
ここにいろ。
いつまで?
「指示を、そのまま受け取ってる……」
若い職員が呟いた。
保全担当は、記録用端末に視線を落としながら答えた。
「この頃は、比喩や省略の理解がまだ不安定だったのかもしれません」
「今なら、確認しますよね。何時までですか、とか」
「今なら、ですね」
その一言で、少しだけ空気が重くなった。
今なら、できる。
今なら、分かる。
今なら、職員側も説明する。
けれど、このノートは「今なら」の前にある。
ページをめくる。
次は、文字が多かった。
絵は、ドアだけだった。
閉じたドア。
ドアノブの形が、やけに丁寧に描かれている。
鍵穴も、扉の隙間も、ほんの少しの影も。
その下に、揺れた線の文字が続いていた。
あたしは、人間のところに行きたい。
幸せじゃなくした人間を、幸せにしないと。
あたしは、幸せの魔法。
本当の幸せ。
幸せじゃない人間を作った。
怖がる人間を作った。
泣く人間を作った。
あたしの名前と、違うことをした。
このままだと、あたしの名前がなくなっちゃう。
そこで、読んでいた職員の声が止まった。
「……名前」
誰かが、ほとんど音にならない声で言った。
研修で習っている。
旧世代にとって、名前はただの呼称ではない。
存在の定義であり、力の形であり、生き方そのもの。
名前と違う。
名前がなくなる。
人間が軽く使う不安とは、重さが違う。
「これ、反省文じゃないですね」
「違いますね」
「怖がってる」
「……そう見えます」
ノートの中の文字は、泣き言のようには書かれていない。
感情を誇張する言葉もない。
ただ、論理だけがある。
幸せの魔法である。
人間を不幸にした。
それは名前と違う。
名前と違えば、名前がなくなる。
だから、直さなければならない。
その単純なつながりが、かえって痛かった。
次のページには、部屋の中を歩いた跡のような絵があった。
床に細い線が何本も引かれている。
椅子からドアへ。
ドアから机へ。
机から窓へ。
窓からドアへ。
同じ場所を、何度も往復したような線だった。
部屋の中を歩いた。
ドアまで行った。
机まで戻った。
またドアまで行った。
人間は、考える時に歩くことがある。
だから、歩いた。
考えた。
幸せじゃなくした人間を、幸せにするには、会わないといけない。
でも、ここにいろと言われた。
会いに行くことと、ここにいることは、同時にできない。
人間は、同時にできないことが多い。
あたしも、そうしてみる。
「……自分で制限してる」
生活班の職員が、小さく言った。
「部屋から出ようと思えば、出られたはずですよね」
「出られたでしょうね。物理的なドアなら」
「空間を歪めることも、壁を通ることもできた」
「でも、しなかった」
その事実が、重く残った。
閉じ込められたのではない。
少なくとも、物理的には違う。
エルは出られた。
世界を作った存在なら、ドアなど障害物ではない。
けれど、人間の形をして、人間のルールを覚えようとしていた。
仕事ではない時、人間は壁をすり抜けない。
空間を歪めない。
ドアがあれば、ドアを開ける。
だから、ドアを前に立ち止まった。
ページの隅に、小さな注釈のような文章があった。
仕事の人間は、障害物を越えることがある。
すり抜ける。飛ぶ。壊す。曲げる。
でも、普段はしないと言われた。
普段は、ドアを使う。
普段は、廊下を歩く。
普段は、順番を待つ。
だから、あたしもそうした。
保全担当の手が止まる。
「これ……今の行動制限教育の原型に近いですね」
「日常時と業務時の能力使用区分?」
「はい。今は明文化されています。でも、この頃はたぶん、口頭説明だった」
「口頭説明を、そのまま守っていたんですね」
「守ろうとしていた、の方が近いかもしれません」
その言い方に、誰も反論しなかった。
守っていた。
守ろうとしていた。
その違いは小さいようで、大きい。
次のページ。
ドアの前に立つ小さな足が描かれていた。
視点は下を向いている。
ドアノブは画面の上に少しだけ入っている。
文章は、短い行で区切られている。
ドアを開けようとした。
開かなかった。
もう一度、開けようとした。
開かなかった。
ドアは、開くもの。
でも、開かなかった。
鍵がある。
鍵は、開けないためのもの。
あたしは、ここにいるように言われた。
ドアも、ここにいるように言っている。
若い職員が、目を伏せた。
「……安全措置、ですかね」
「おそらく。前の件の直後なら、外に出さない判断はありえます」
「でも、説明は足りてない」
「当時の誰が、どこまで説明できたかは分かりません」
厳しいことを言おうとして、誰も言えなかった。
現在の基準なら問題になる。
けれど当時の監理局には、まだ基準そのものがなかった。
何をすれば危険なのか。
何をすれば傷つけるのか。
どう説明すれば伝わるのか。
どう止めれば、ただ閉じ込めるだけにならないのか。
すべてを、手探りで決めていた頃。
ノートの中のエルも、手探りだった。
次の見開きには、ドアを中心にした絵がいくつも並んでいた。
閉じたドア。
ノブに触れる手。
離れる手。
ドアの前に座る視点。
ドアの下の隙間。
線は少ない。
けれど、時間の経過が分かる。
何度もドアを見た。
何度も触った。
何度も開かないことを確かめた。
ドアの前に座った。
人間は、待つことがある。
だから待った。
待っているあいだ、人間みたいにしていた。
壁をすり抜けなかった。
空間を曲げなかった。
ドアを壊さなかった。
鍵を消さなかった。
あたし、人間みたい?
誰かに聞きたい。
でも、ドアが開かない。
そこまで読んで、食堂の職員たちは完全に黙った。
先ほどまで、ノートの内容は「過去の記録」だった。
古い事件。
初期の失敗。
規定ができる前の出来事。
けれど、このページは違った。
そこにあるのは、危険性の記録だけではない。
人間の真似をしようとした、ひとつの問いだった。
あたし、人間みたい?
その質問を、誰にも聞けない。
聞くためのドアが開かない。
「……これ、きついな」
誰かが、もう一度呟いた。
今度は、誰もたしなめなかった。
保全担当が、静かに次のページの端へ指をかける。
「続きがあります」
開いたページには、絵がなかった。
ただ、真ん中に短い文章だけが書かれていた。
ドアの向こうで、足音がした。
人間かもしれない。
聞きたい。
その下に、まだ続きの文字があった。
職員たちは、息を潜めるようにして、その次の行へ目を落とした。
◇
人間に聞けばいい
次のページには、ドアが描かれていた。
前のページと同じドア。
けれど、今度は閉じていない。
ほんの少しだけ、隙間がある。
その隙間の向こうに、細い線で人影の輪郭が描かれていた。
顔はほとんど描かれていない。
ただ、背が高いことだけが分かる。
職員たちは、その絵を見て、誰も名前を口にしなかった。
文字が続いている。
じぇれみーが部屋に来た。
怒っている?
悲しんでいる?
わからない。
じぇれみーは、いつも同じ。
人間みたいに顔がかわったり、音がかわったりしない。
でも、人間。
わからない人間。
「……分からない人間」
記録保全担当が、小さく読み返した。
局長についてそんな表現を見たことがある職員は、おそらくこの場にはいなかった。
冷静。
無表情。
判断が速い。
感情が読みにくい。
そういう印象なら、今でも職員たちは知っている。
けれど、ノートの中のエルは、それをもっと根本的な不思議として見ていた。
人間は顔が変わる。
声が変わる。
笑う。
怒る。
怖がる。
泣く。
なのに、ジェレミーは変わらない。
それでも人間。
その事実が、当時のエルには理解しにくかったのだろう。
次のページには、部屋の中で向かい合う二つの視点が描かれていた。
椅子に座る低い視点。
その前に立つ高い人影。
線は少ない。
人影の顔には、目と口があるだけだった。
表情はほとんどない。
けれど、姿勢だけで、そこに強い静けさがあると分かる。
じぇれみーに言われた。
勝手にしたらだめ。
変えるのもだめ。
無くすのもだめ。
じゃあ、作るのは?
作るのも、ちょっとだめ。
「ちょっとだめ……」
若い職員が、思わず呟いた。
その言い方は、今の研修資料にも近いものがある。
完全禁止ではない。
けれど、自由にしていいわけでもない。
作ること自体が悪いのではない。
だが、作ったものが誰かの場所を変える。
誰かの気持ちを変える。
誰かの選択を奪う。
それをまだ、エルは知らなかった。
次の行へ進む。
あたし、何もしちゃだめ?
じぇれみーは、それを違うと言った。
あたしがしていいことは、あたしだけが決めちゃだめ。
人間のことは、人間に聞けばいい。
その一文で、職員たちは静かになった。
人間のことは、人間に聞けばいい。
今なら、当たり前の言葉だった。
むしろ、監理局の基礎倫理に近い。
本人に確認する。
同意を取る。
望みを推測だけで決めない。
助ける前に、助けていいか聞く。
できることと、していいことを分ける。
だが、このノートの中では、それが初めて手渡された答えのように見えた。
「これ……今の規定の根っこですね」
「たぶん、もっと前段階です。規定になる前の、言葉そのもの」
「人間に聞けばいい、か」
「簡単なはずなのに、エルさんには難しかったんでしょうね」
「逆かもしれません」
保全担当が、紙面から目を離さずに言った。
「エルさんにできることが多すぎるから、聞く前に叶えられてしまう」
誰も反論しなかった。
人間は、できないから聞く。
知らないから聞く。
相手の中に入れないから、言葉を待つ。
エルは、その多くを飛び越えられる。
だからこそ、聞くという行為を、学ばなければならなかった。
次のページには、短い文章と、小さな絵があった。
絵には、机が描かれている。
机の上には、紙束も端末もない。
硝子の小鳥もない。
ただ、空いた場所だけが描かれている。
あたしは、人間が簡単にやることを、できていない。
人間は聞く。
人間は待つ。
人間は、相手が言うまで知らない。
あたしは、聞く前にした。
待つ前にした。
知らないのに、わかったことにした。
それは、人間がすることじゃない。
食堂の職員たちは、ノートの中の言葉を追いながら、誰もが少しだけ背筋を伸ばしていた。
これは、エルだけの話ではない。
相手のためだと思って、先回りする。
困っているはずだと決めつける。
良いことをしたつもりで、相手の場所を変えてしまう。
人間同士でも起きることだった。
ただ、エルの場合は、その規模があまりにも大きい。
紙束を片付けるのではなく、仕事そのものを消せてしまう。
慰めの言葉をかけるのではなく、代わりの硝子細工を存在させてしまう。
善意の速度が、人間の確認を追い越してしまう。
次のページには、ジェレミーと思われる人影の口元だけが描かれていた。
目はない。
鼻もない。
ただ、横線に近い口。
その横線が、ほんの少しだけ上がっている。
文章は、少しだけ間が空いていた。
あたし、人間といたい。
だから、人間がすることをする。
そう言った。
じぇれみーが、少しだけ笑った。
口だけ。
職員の一人が、思わずページに顔を近づけた。
「これ、笑ったって分かったんですね」
「口だけ、と書いてあります」
「今の局長でも、見逃しそうですけど」
「当時のエルさんは、表情を観察し続けていたからかもしれません」
たしかに、その絵は小さかった。
ほんのわずかな口の角度。
普通なら、無表情と見過ごすほどの変化。
だが、エルはそれを記録していた。
怒っているか分からない。
悲しんでいるか分からない。
いつも同じで、顔も声も変わらない。
それでも、少しだけ笑った。
その小さな変化が、ページの中に大事そうに残されていた。
次の文章は、さらに短かった。
人間の真似をしたらいいと言われた。
そしたら、人間のことがわかるかもって。
真似。
人間がすることを、あたしもする。
聞く。
待つ。
勝手にしない。
相手を見る。
相手が言うまで、決めない。
それをしたら、人間に近くなる?
「……これが、最初なんですね」
生活班の職員が言った。
「今のエルさんが、人の反応を見てから動くようになった、その始まり」
「それでも今でも、変なことはしますけどね」
「それは……まあ」
誰かが小さく苦笑しかけて、すぐに表情を戻した。
このノートの前で軽く笑うのは、少し違う気がした。
けれど同時に、今のエルを知っているからこそ、救われる部分もあった。
このページのエルは、まだ何も分かっていない。
人間の場所も、仕事の重さも、怒りの理由も、確認することの意味も。
でも、分かろうとしている。
それは今のエルにも続いている。
次のページには、部屋の中の机が描かれていた。
机の上に、ノートが開かれている。
その横に、小さな硝子の小鳥。
さらにその横に、空白の紙。
文章は、少しだけ整っていた。
今日から、真似を書く。
人間がしたこと。
あたしが真似したこと。
真似して、できたこと。
真似して、できなかったこと。
じぇれみーは、書けばわかることがあると言った。
書く。
人間は、忘れるから書く。
あたしは、わかるために書く。
保全担当が、そのページを丁寧に撮影した。
ページの端には、小さな項目が並んでいた。
聞く
待つ
さわる前に聞く
消さない
作る前に聞く
人間の顔を見る
人間の音を聞く
同じ顔でも、同じ気持ちとは限らない
その最後の行に、職員たちの視線が止まった。
同じ顔でも、同じ気持ちとは限らない。
それは、おそらくジェレミーから学んだことだった。
顔が変わらなくても、人間。
分からなくても、人間。
聞かなければ、分からない人間。
ノートの中で、エルはそのことを最初に書いていた。
次のページの上部には、またドアが描かれていた。
今度のドアは、開いている。
開いた先には廊下がある。
廊下の向こうに、人間の足元がいくつか見える。
文章は、そこで始まっていた。
部屋から出ていいと言われた。
でも、すぐに行かない。
まず、聞く。
職員たちは、次の行へ目を落とした。
その先には、まだ小さな文字が続いていた。
◇
古い絵日記 謝るだけ
次のページには、廊下が描かれていた。
長い廊下。
壁の線。
床の反射。
遠くへ続く照明。
その真ん中を、低い視点が進んでいる。
左右には、人間の足が描かれていた。
膝から下だけ。
靴。
制服の裾。
立ち止まった影。
絵の中の視界は、ずっと下からだった。
職員たちは、その構図だけで少し黙った。
エルは、今も小さい。
けれど、普段の姿を見ていると忘れそうになる。
あの身体で廊下に立てば、人間はみんな大きい。
見上げなければ顔が見えない。
その感覚が、古い絵の中にはそのまま残っていた。
そとに出た。
廊下を歩いている。
人間たちは、あたしを見る。
いままで見てなかった。
でも、いまは見る。
いろんな目で見られる。
怒っている目。
こわがっている目。
見てはいけないと思っている目。
見ないふりをしながら見ている目。
見られている。
ここにいる感じが強い。
でも、少しいたい。
「……見られていることが、場所になるって書いてましたよね」
「前のページですね」
「でも、場所になるだけじゃなくて、痛くもなる」
誰かがそう言って、すぐに口を閉じた。
職員たちは、ページの中の廊下を見た。
今の監理局なら、誰かが付き添う。
声をかける。
通行人にも説明がある。
接触範囲も整理される。
だが、この頃は、まだ全員が手探りだった。
エルをどう見ればいいか。
怖がっていいのか。
怒っていいのか。
普通に接していいのか。
人間側も分からず、エルも分からない。
だから廊下には、視線だけが増えていた。
次のページには、短い文章が続いていた。
絵は、廊下の端に立つ小さな影と、その前にいる大きな人間の影。
顔は描かれていない。
人間の胸元あたりまでしか、視界に入っていない。
じぇれみーには、怒らせた人間には、何をしたいか聞くなと言われた。
謝るのが最初。
謝るだけ。
それ以外はしない。
何かしてあげる、はしない。
消す、はしない。
作る、はしない。
戻す、も聞かれるまでしない。
謝るだけ。
保全担当が、その部分を丁寧に記録した。
「謝罪と補償を分けてる……」
「今の対人対応規定にもありますね。謝罪時の追加干渉禁止」
「善意で上書きしないためか」
「ええ。謝る場面で、相手の望みを聞くのも危険だったんでしょう。エルさんの場合、言葉をそのまま叶えられるから」
怒っている人間に、何をしたいか聞く。
普通なら、謝罪の一部に見えるかもしれない。
どうすれば許してくれるか。
何を望んでいるか。
何を償えばいいか。
けれど、当時のエルがそれを聞けば、相手の怒りや衝動まで現実にしてしまう可能性がある。
だから、謝るだけ。
それは冷たい制限ではなく、相手をこれ以上巻き込まないための境界線だった。
次のページ。
文字が、少しだけ小さくなっていた。
ごめんなさいを言った。
人間は、まだ怒ってた。
顔がかたい。
声が低い。
手が動かない。
目があたしを見ている。
怒ってる。
でも、いいと言った。
「いい、って……」
若い職員が呟く。
「許すって意味なのか、もういいって意味なのか、どっちでしょう」
「たぶん、エルさんにも分からなかったんでしょうね」
「人間の『いい』は多いですからね」
いい。
もういい。
それでいい。
よくないけどいい。
許してはいないけど、これ以上は言わない。
怒っているけど、謝罪は受け取った。
同じ言葉が、いくつもの意味を持つ。
エルにとって、それはかなり難しいものだったはずだ。
ノートの続きには、そう書いてあった。
いい、はいいこと?
でも、顔はいい顔じゃない。
声もいい声じゃない。
いいと言った。
でも、怒っている。
どっち?
あたしは、謝るだけだから、何もしなかった。
その一文で、職員たちはまた少し静かになった。
何もしなかった。
それは、エルにとってかなり大きな行動だったのだろう。
何でもできる。
消せる。
作れる。
変えられる。
幸せにしたいと思えば、すぐに手を伸ばせる。
その存在が、怒っている人間の前で、何もしない。
ただ謝って、相手の反応を見て、次の行動を止める。
人間にとっては当たり前の抑制が、エルにとっては学習だった。
次の絵には、二つの影が描かれていた。
小さな影が、見上げている。
大きな影が、見下ろしている。
ただそれだけ。
けれど、大きな影の手は、拳ではなかった。
強く握られてもいない。
少しだけ開いている。
人間を見た。
人間は、みんなでかい。
あたしは、人間を見上げている。
見上げると、顔が遠い。
目が遠い。
声が上から来る。
人間は、あたしを見下ろしている。
見下ろすのは、どういう気持ち?
「……これ、立場が逆なんですよね」
食堂班の職員が言った。
「実際には、エルさんのほうがずっと大きい存在なのに」
「でも、この身体では見上げている」
「見上げながら、人間の怒りを受けてる」
誰も、その感覚をうまく言葉にできなかった。
旧世代。
創造者。
幸せの魔法。
そんな言葉で説明される存在が、古い廊下で、人間の顔を見上げて謝っている。
その矛盾が、紙面の中で静かに残っていた。
次のページには、沈黙が描かれていた。
廊下。
向き合う二人。
周囲で立ち止まっている数人。
誰も口を開いていない。
絵なのに、静かだと分かる。
人間も、何も言わない。
あたしも、真似をして何も言わない。
人間は、言わないことがある。
言葉がないのではなく、言わない。
あたしも、言わない。
謝るだけ。
待つだけ。
見るだけ。
「真似してる……」
「ええ」
「沈黙まで」
「人間は黙る、ということを学んでいるんでしょうね」
職員たちは、ノートの向こうにある場面を想像した。
怒った人間。
謝るエル。
周囲の視線。
開かないはずだった部屋から出て、最初に向き合う相手。
そこで、誰も何も言わない時間があった。
その沈黙を、エルは逃げずに観察していた。
次のページには、顔が描かれていた。
怒っている顔。
けれど、口元だけが少し歪んでいる。
笑っているようにも見える。
苦しそうにも見える。
困っているようにも見える。
絵の線は少ない。
しかし、その曖昧さだけは妙に精密だった。
人間が、ちょっと笑った。
怒っているのに、笑った。
怒ると、笑うは、違う感情のはず。
でも、人間は怒りながら笑った。
怒ってるのに、許す。
許してないのに、もういいと言う。
なんで?
「……人間、難しいですね」
誰かが言った。
「今さらですけど」
その場にいた数人が、ほんの少しだけ頷いた。
怒りながら笑う。
納得していないのに許す。
まだ傷ついているのに、相手をこれ以上追い詰めない。
人間同士なら、なんとなく分かる。
それでも説明しろと言われれば難しい。
怒りが消えたわけではない。
許したから痛みがなくなるわけでもない。
謝られたから全部戻るわけでもない。
それでも、人間はどこかで区切りをつけることがある。
その区切りの表情を、エルは初めて見たのかもしれない。
ページの最後に、短く続いていた。
なんでって聞いた。
聞く。
人間のことは、人間に聞けばいいと言われた。
だから聞いた。
その行の下には、少し空白があった。
職員たちは、ほとんど同時に次のページへ視線を移した。
けれど、すぐにはめくらなかった。
質問をした。
初めて、自分で決めずに、人間へ聞いた。
その答えが、次のページにある。
そう思うと、誰もが少しだけ指先を止めた。
保全担当が、深く息を吸ってから、ページの端を持ち上げる。
次の紙の裏側に、薄く文字が透けていた。
まだ読めない。
けれど、そこに確かに、返事が書かれていた。
◇
古い絵日記 怒ってるのに許す
保全担当が、次のページをめくった。
紙の音が、やけに大きく聞こえた。
食堂の作業卓を囲む職員たちは、自然と身を乗り出していた。
誰も急かさない。
誰も先に読もうとしない。
ノートの中で、エルは初めて「なんで」と聞いた。
人間のことは、人間に聞けばいい。
そう教えられて、その通りにした。
その答えが、そこにあった。
なんでって聞いた。
人間は、すぐに答えなかった。
口を開けた。
閉じた。
また開けた。
人間は、言葉を探すことがある。
絵には、怒らせた人間の顔が描かれていた。
さっきと同じ顔。
まだ眉は下がっていない。
目も柔らかくなってはいない。
けれど、口元だけが迷っている。
言うか、言わないか。
怒鳴るか、説明するか。
突き放すか、少しだけ近づけるか。
そんな迷いが、少ない線で描かれていた。
次の文章を、職員が静かに読み進める。
人間は言った。
まだ怒ってる。
でも、謝ったから。
それ以上、何もしなかったから。
だから、いい。
若い職員が、息を止めた。
「……何もしなかったから」
その言葉は、エルにとってどれほど大きかったのだろう。
何かをしてあげることではなく。
消すことでも、戻すことでも、作ることでもなく。
謝ったあと、何もしなかったこと。
それが、人間にとっては「少し安心できること」だった。
ノートの続きには、エルの困惑がそのまま残っていた。
何もしないことが、いいこと?
あたしは、何かをするためにいる。
幸せにするためにいる。
でも、人間は、何もしないのがいいと言った。
何もしないと、幸せにならない。
でも、何かすると、怖がる。
むずかしい。
「むずかしい、か」
生活班の職員が小さく呟いた。
その一言が、妙に幼く見えた。
世界を創った存在の言葉としては、あまりにも単純。
けれど、だからこそ痛い。
幸せにしたい。
でも、手を出せば怖がられる。
何もしなければ、幸せにしていないように見える。
エルにとって、人間との距離は、最初から難問だったのだ。
次の絵には、廊下の端に立つ二人が描かれている。
怒らせた人間は、少しだけ横を向いている。
真正面ではない。
けれど、完全に背を向けてもいない。
エルの視点は、まだ見上げている。
人間は、また言った。
許したわけじゃない。
でも、もう怒鳴らない。
こわいのが、少し減った。
それだけ。
職員たちは、その行を何度も目で追った。
許したわけじゃない。
でも、もう怒鳴らない。
怖いのが、少し減った。
それだけ。
その「それだけ」は、軽い言葉ではなかった。
失った仕事が戻ったわけではない。
恐怖が完全に消えたわけでもない。
怒りがなくなったわけでもない。
それでも、少しだけ減った。
人間は、完全に幸せになる前に、少しだけましになることがある。
その少しを、大事にすることがある。
ノートの中のエルは、それを必死に理解しようとしていた。
許すは、幸せになることじゃない。
怒らなくなることでもない。
こわいのが、少し減ること?
でも、許したわけじゃないと言った。
じゃあ、これは許すじゃない?
でも、いいと言った。
いいは、許すじゃない?
わからない。
「人間の言葉、最難関ですね」
誰かが小声で言った。
今度は、少しだけ苦笑が混じった。
けれど、誰も軽く扱ってはいなかった。
人間同士でも曖昧な言葉を、エルはそのまま受け取ろうとしている。
いい。
許す。
もういい。
まだ怒っている。
でも怒鳴らない。
怖いのが少し減った。
全部、同じではない。
けれど、重なっている。
その重なりを、人間は感覚で扱う。
エルは、それを記録しながら覚えようとしていた。
次のページには、怒らせた人間の手が描かれていた。
拳ではない。
握ってもいない。
ただ、体の横で垂れている手。
少し震えているようにも見える。
人間の手を見た。
さっきより、かたくない。
でも、近づいてこない。
あたしも近づかない。
近づく前に聞く。
さわる前に聞く。
作る前に聞く。
消す前に聞く。
でも今は、聞かない。
聞くことも、しない方がいい時がある。
「……それも覚えたんですね」
保全担当が、ほとんど独り言のように言った。
人間に聞けばいい。
だが、何でもすぐに聞けばいいわけではない。
相手が答えられない時がある。
答えたくない時がある。
聞かれること自体が負担になる時がある。
それもまた、人間の難しさだった。
次のページには、短い会話のような記録が残っていた。
ただし、台詞として整えられてはいない。
エルが聞き取った言葉を、そのまま並べたような書き方だった。
人間は言った。
今は、何もしなくていい。
ちゃんと謝ったから。
もう行っていい。
でも、同じことはするな。
絶対に。
「絶対に、が強い」
「強いですね」
「でも、必要だったんでしょうね」
職員たちは、その言葉の硬さを見た。
怒っている。
まだ許していない。
それでも、会話を終わらせようとしている。
そして、境界だけははっきり伝える。
同じことはするな。
絶対に。
それは拒絶であり、同時に次があるという言葉でもあった。
二度と近づくな、ではない。
存在を消えろ、とも言っていない。
同じことをしなければ、まだ同じ場所にいられる。
エルは、その部分をどう受け取ったのか。
次の文章に、それが書かれていた。
同じことをしない。
それなら、ここにいていい?
もう行っていい、は、ここからいなくなれ?
それとも、もう終わり?
終わりは、悪いこと?
人間は、終わりにすることがある。
怒りを、終わりにする。
会話を、終わりにする。
今日を、終わりにする。
終わりにしても、なくならないものがある。
その行で、職員たちはまた静かになった。
終わりにしても、なくならないもの。
怒り。
怖さ。
記憶。
失った作業。
謝罪を受けた事実。
もう怒鳴らないと決めたこと。
人間は、何かを終わりにしても、完全には消せない。
だからこそ、次の日に持ち越す。
時間をかけて薄める。
記録に残す。
誰かに話す。
消して終わらせるのではない。
抱えたまま、区切る。
次の絵には、廊下を離れる視点が描かれていた。
振り返っている。
遠くに、怒らせた人間が立っている。
その人間は、もうこちらを見ていない。
横を向いて、誰かと話している。
表情は分からない。
人間は、もうあたしを見ていない。
見られていない。
でも、さっきのいないと同じじゃない。
ごめんなさいを言った。
いいと言われた。
同じことをするなと言われた。
だから、あたしは、さっきより少しここにいる。
「……ここにいる」
食堂班の職員が、前のページを思い出すように言った。
最初の食堂。
誰にも見られず、いるのにいないみたいだったエル。
そこから、怒られ、怖がられ、謝り、止まり、何もしないことを覚えた。
そして、見られていないのに、さっきより少しここにいる。
その変化は、本当に小さかった。
けれど、ノートの中では確かに前へ進んでいた。
保全担当が、次のページをめくる。
そこには、部屋に戻った後らしい絵があった。
机。
ノート。
硝子の小鳥。
そして、小鳥の横に、新しく描かれた小さな丸。
よく見ると、それは人間の目を簡略化した記号だった。
文章は、いつもより丁寧に並んでいる。
今日の真似。
一、謝った。
二、何もしなかった。
三、人間を見た。
四、待った。
五、なんでと聞いた。
六、聞いたあと、また何もしなかった。
できた。
でも、まだわからない。
「できた、って書いてある」
若い職員が言った。
「自分で採点してるんですかね」
「ジェレミー局長に言われた『真似』の記録でしょう。できたこと、できなかったことを書くって前にありました」
「できた。でも、まだわからない」
「それが正しいんでしょうね。分かったことにしなかった」
その言葉に、何人かが頷いた。
分かった、と書いていない。
できた、とだけ書いている。
人間の真似はできた。
謝ることも、何もしないことも、聞くこともできた。
でも、人間の心はまだ分からない。
その区別が、次のページにも続いていた。
人間は、怒っていても、怒るのをやめる。
人間は、許していなくても、終わりにする。
人間は、こわくても、言葉をくれる。
人間は、わからない。
でも、聞くと、少し言葉をくれる。
だから、聞く。
ページの下には、次の項目が書かれていた。
次に真似すること。
その下に、いくつかの短い言葉が並んでいる。
あいさつ
席を聞く
食べてもいいか聞く
物にさわる前に聞く
人間の顔を見すぎない
怒っている人間から少し離れる
ありがとうを言う
そして、一番最後に、小さく書かれていた。
ごめんなさいのあと、待つ
職員たちは、その最後の行をしばらく見ていた。
次のページは、まだ開かれていない。
けれど、薄い紙の向こうに、食堂らしき線が透けて見えていた。
◇
古い絵日記 こっちに来い
薄い紙の向こうに透けて見えていた線は、やはり食堂だった。
保全担当が、慎重にページをめくる。
古い紙はわずかに軋んだが、まだしっかりしている。
開かれた見開きには、食堂の全景が描かれていた。
机。
椅子。
配膳口。
人間たち。
トレー。
そして、入口のところに立っている、小さな視点。
エルの目線だと分かる構図だった。
食堂で、あの人間がいる。
あたしは、トレーを持って立っている。
人間が、ちょっと怖がってる。
顔がかたい。
目が、すぐにそらされる。
でも、見ている。
だから、人間の近くには座らないほうがいいと思った。
「……前の続きですね」
「ええ。謝った後の食堂だ」
「距離を取ろうとしてる」
職員たちは、ページを囲んだまま小さく言葉を交わした。
前の記録では、怒らせた人間に謝っていた。
何もしないこと。
待つこと。
聞くこと。
それを覚えたあとで、また同じ食堂に来ている。
だが、今度は、ただ来ればいいという話ではなかった。
絵の中の食堂には、人間がたくさんいた。
そして、そのどこにも、エルの場所がはっきりとは描かれていない。
次の文章は、前より少し短く、切れ切れに並んでいた。
でも、人間がたくさんいる。
だから、あたしが座る場所がない。
人間がいないテーブルを探してる。
見つからない。
ページの下半分には、食堂内を見回す視線が描かれていた。
右を向いた絵。
左を向いた絵。
空いていそうで空いていない椅子。
端に寄せられた鞄。
先に取られている席。
机に置かれた書類。
複数人で囲まれている卓。
線は少ないのに、すべての席に「すでに誰かのものらしさ」がある。
「これ、席が空いてないというより……」
生活班の職員が小さく言った。
「入っていいか分からない席ばかりなんでしょうね」
「空席に見えても、座っていい席とは限らない」
「しかも、人を怖がらせた直後ですから」
誰も、否定しなかった。
今の監理局の食堂なら、相席は珍しくない。
誰かが手招きもするだろう。
空いてるよ、と言う者もいる。
だが、このノートの時代は違う。
エルの扱いも定まっていない。
人間側も戸惑っている。
席がない、というより、席の意味が分からない。
そして、誰かをまた怖がらせることが怖い。
その両方が、この数行にあった。
次のページには、トレーだけが大きく描かれていた。
スープ。
パン。
小さな皿。
飲み物。
それを持つ小さな手。
食べないと、人間みたいじゃない。
食べたい。
椅子に座って、テーブルにトレーを置いてから食べるのが人間。
でも、できない。
その「食べたい」という一行で、何人かの職員が目を止めた。
今までのノートでは、エルはずっと「人間を理解するため」に動いているように見えた。
人間の真似をする。
人間を観察する。
人間の行動を記録する。
だが、ここには、単純な欲求が書かれている。
食べたい。
もちろん、人間の真似としての意味もあるだろう。
だがそれだけでなく、その身体を得たからこその欲求でもあるのかもしれない。
「食べたい、ってちゃんと書いてるんですね」
若い職員が、ほとんど独り言のように言った。
「ええ」
保全担当が答える。
「観察だけじゃなくて、身体の感覚も記録してる。初期の記録としては大事です」
「人間の入れ物に意識を入れて、って前にもありましたね」
「食べる、座る、待つ。そういう行動が、全部学習対象だったんでしょう」
次の文章は、前よりもさらに切実だった。
人間がしてることができない。
どうしたらいいか、わからない。
立ったまま食べるのは、人間みたいじゃない。
床に置くのも、人間みたいじゃない。
空いてる椅子に勝手に座るのも、だめかもしれない。
聞く?
でも、みんなごはんを食べている。
食べている人間に、何を聞いていいかわからない。
「……細かい」
「細かいですね」
「でも、すごく人間っぽい悩み方だ」
その言葉に、何人かがわずかに頷いた。
勝手に座っていいのか分からない。
食事中の人に声をかけていいのか分からない。
立ったまま食べるのは変かもしれない。
人間なら、日常の中で自然に処理している判断。
だが、エルはそれを一つずつ止まって考えている。
それはぎこちない。
けれど、人間の真似としては、たしかに正しい方向だった。
勝手にしない。
聞く。
でも、聞くにも場面がある。
何もかもが、その場での勉強だった。
次の見開きには、少しだけざわついた感じの食堂が描かれていた。
人間たちの顔は、細い線でいくつも並んでいる。
こちらをちらりと見る目。
すぐに視線を外す目。
見ないようにしている目。
困っているような顔。
その中に、一人だけ、こちらへ向かって歩いてくる人影があった。
大きい。
立っているエルの視点から見上げる構図。
文章は、その人影の前で止まっている。
そしたら、あの人間が、こっちに来いと言った。
そこで、職員たちは一度息をついた。
食堂の空気が、少し緩む。
もちろん、完全な安心ではない。
だが、少なくとも誰かが声をかけた。
怒らせたその人間が、自分から近づいてきた。
それは、ノートの流れの中では大きな変化だった。
「……呼んだんですね」
「ええ」
「まだ怖がってるのに」
「怖がっていても、呼んだ」
「怒っていても」
「怒っていても、ですね」
次のページには、その場面がもっと詳しく描かれていた。
大きな人間の手。
その手が、食堂の奥の方を軽く示している。
そこには四人掛けの卓がひとつ。
すでに二人座っていて、一つ空席がある。
もう一つの椅子には、荷物が置かれていたらしいが、今はどかされている。
エルの視点は、その空席を見ている。
こっち。
そう言われた。
指が、机をさしていた。
机の前の椅子。
座っていい場所。
あたしの場所?
「ここで初めて、“場所”を与えられたんだ」
生活班の職員が、小さく言った。
最初の食堂では、椅子はたくさんあるのに、自分の座る場所が分からなかった。
人間ではないから、場所がないのかと考えていた。
だが、今は違う。
こっち。
と言われた。
椅子を指された。
座っていい場所として示された。
まだ完全に受け入れられたわけではないかもしれない。
それでも、「ここ」があった。
ノートの文字も、その変化を追っていた。
行っていい?
聞こうと思った。
でも、こっちに来いは、来ていいってことだと思った。
だから、行った。
ゆっくり歩いた。
トレーを落とさないようにした。
みんな見ていた。
こわい。
でも、行った。
若い職員が、その「こわい」を目で追ってから、静かに言った。
「エルさんも怖かったんですね」
「そりゃ、そうでしょう」
「怖がられてる側でもあるけど、本人も怖い」
「ええ。人間の中に入っていくのは、たぶんずっと怖かった」
その言葉のあと、少し沈黙があった。
ノートの中のエルは、強くない。
少なくとも、人間理解の場面では、全能ではない。
怒られる。
見られる。
席が分からない。
聞くのが難しい。
間違える。
そして、また近づいていくのが怖い。
その怖さごと、人間の方へ進んでいる。
次のページには、椅子が大きく描かれていた。
席を引く前の椅子。
そこへトレーを持って近づく視点。
机の上には、他の人間の食事がある。
その横に、いつもより短い文章。
椅子がある。
ここに座っていい。
人間が言った。
座っていい椅子は、人間が決める。
人間のことは、人間に聞けばいい。
聞かなくても、言ってくれることがある。
「……学んでるな」
誰かがぽつりと言った。
聞く。
待つ。
勝手にしない。
そして、人間が先に示してくれることもある。
その受け取り方が、少しずつ変わっている。
前なら、空席を見ても意味が分からなかった。
今は、指さされた椅子が「座っていい椅子」だと分かる。
人間の言葉が、行動の許可としてつながっている。
次の行には、もっと小さな文字が続いていた。
でも、まだわからない。
近くに座るのは、怖がらせるかもしれない。
トレーを置く音が大きかったらだめかもしれない。
椅子を引く音もだめかもしれない。
話しかけたらだめかもしれない。
何をしたらいい?
そこで、ページの下に、細い線で小さく描かれていた。
大きな人間の口元。
開いている。
何かを言っている。
その横には、まだ続きの文字。
職員たちは、ほとんど同時に次のページへ視線を向けた。
保全担当がそっと紙をめくる。
その裏には、食卓の絵と、短い言葉が並んでいた。
まだ全部は読めない。
ただ、一行目だけははっきり見えた。
まず、置け。
食堂の作業卓を囲んだ職員たちは、誰も口を開かなかった。
続きを読む空気は、そのまま静かに続いていた。
◇
古い絵日記 好きな食べ物
次のページには、食卓が描かれていた。
四人掛けの机。
そのうち三つの席に人間が座っている。
一つの席に、エルのトレーが置かれている。
視点は、椅子に座った高さになっていた。
今までのように、立ったまま見上げる構図ではない。
机の向こうに、人間の顔がある。
近い。
けれど、少し遠い。
食卓を挟んだ距離が、そのまま絵になっていた。
まず、置けと言われた。
だから、トレーを置いた。
音がした。
人間は怒らなかった。
座れと言われた。
だから、座った。
椅子は少し音がした。
人間は怒らなかった。
「一つずつ確認してる……」
若い職員が、小さく言った。
トレーを置く。
椅子に座る。
今の職員なら、何も考えずにすることだ。
だが、ノートの中のエルは、そのひとつひとつを失敗の可能性として見ている。
音がしても怒られなかった。
椅子を動かしても怒られなかった。
それを記録している。
「前の件があったからでしょうね」
保全担当が言った。
「何が相手を怒らせるか、まだ分かっていない。だから全部、確かめている」
「でも、座れたんですね」
「ええ。座れた」
その言葉だけで、少しだけ食堂の空気が柔らかくなった。
次のページには、人間たちの顔が並んでいた。
怒らせた人間。
その隣の人間。
向かいの人間。
全員、完全には笑っていない。
警戒もある。
戸惑いもある。
だが、前のページのような鋭い視線だけではなかった。
人間は、あたしのことをたくさん聞いてきた。
どこから来た。
なにをしに来た。
なにが目的。
質問がたくさん。
質問は、知りたい時の言葉。
でも、こわい時にも質問する。
人間は、あたしを知りたい?
あたしがこわい?
たぶん、どっちも。
「……鋭いですね」
「人間側の緊張まで読んでる」
「尋問みたいになってた可能性もありますね」
「でも、食卓で聞いている。真正面から責める場ではなくて」
職員たちは、絵の中の食卓を見た。
相手を怖がっている。
けれど、追い出してはいない。
食卓に座らせて、質問している。
それは、受け入れとは呼べないかもしれない。
でも、拒絶でもなかった。
知りたい。
怖い。
確かめたい。
怒っている。
それでも同じ机にいる。
人間の感情は、また重なっていた。
次の文章には、少し間が空いていた。
どこから来た、はむずかしい。
この宇宙。
でも、この宇宙はあたしの中。
外から来た?
中から来た?
人間の言葉にすると、変になる。
だから、わからないと言った。
人間は、もっとわからない顔をした。
そこを読んで、数人の職員が静かに目を伏せた。
当時のエルに、どこから来たのかと聞く。
普通の人間にする質問としては自然だ。
だが、エルには難しすぎる。
世界の内側にいて、世界そのものに関わる存在。
人間の「出身地」や「所属」では説明できない。
ノートの中の人間たちも、きっと困ったのだろう。
次の行には、さらに続いていた。
なにをしに来た、もむずかしい。
人間を幸せにするため?
人間を見るため?
人間の真似をするため?
ここにいるため?
どれもそう。
どれを言えばいいかわからない。
だから、見ていると言った。
人間は、ちょっと黙った。
「それは黙る……」
誰かが思わず呟いた。
見ている。
悪意はない。
だが、言われた側は少し怖い。
何を見ているのか。
どこまで見えているのか。
自分の何を観察されているのか。
当時の職員たちが警戒した理由も、少しだけ分かる。
だが、ノートの中のエルは本当に見ているだけだった。
分かるために。
真似するために。
人間の幸せを知るために。
そのズレが、食卓の上に静かに置かれている。
次のページになると、少し絵の雰囲気が変わっていた。
人間の一人が、口を開けている。
前の質問より、口元が柔らかい。
机の上には、食事が描かれている。
パン。
スープ。
煮込んだ野菜。
小さな菓子のようなもの。
文章は短く始まっていた。
好きな食べ物を聞かれた。
好き。
好きは、幸せに近い言葉。
食べ物。
人間が食べるもの。
だから、人間が食べてるやつと答えた。
その次の絵には、人間たちが笑っている顔が描かれていた。
大きく笑っているわけではない。
吹き出したような、小さな笑い。
怒らせた人間も、口元だけ少し緩んでいる。
ノートの文字は、そこで少し揺れていた。
人間が笑った。
だから、変なのかと思った。
間違えた?
好きな食べ物は、人間が食べてるやつ、ではない?
言い直した。
「笑われた、って受け取ったんですね」
「でも、たぶん……」
「少し和んだんでしょうね」
「ええ。緊張がほどけた笑いかもしれません」
職員たちは、絵の中の小さな笑いを見た。
嘲笑ではない。
少なくとも、絵からはそう見えなかった。
困惑して、緊張して、何を聞けばいいか分からないまま、好きな食べ物を聞いた。
返ってきた答えがあまりに素直で、少しだけ笑ってしまった。
そんな笑い。
けれど、当時のエルには、その違いがまだ分からない。
笑われた。
だから間違えたかもしれない。
言い直す。
その流れが、まっすぐすぎて痛い。
次の文章は、丁寧に書き直したように見えた。
人間がおいしいって言ったやつが、人間が幸せになる食べ物だから。
あたしも、それを食べたい。
そう言った。
人間は、また笑った。
さっきより、こわい笑いじゃなかった。
「こわい笑いじゃなかった」
若い職員が、少しだけ安心したように繰り返した。
笑いにも種類がある。
怒っているのに笑う。
困って笑う。
緊張がほどけて笑う。
相手を傷つけるために笑う。
嬉しくて笑う。
エルは、またひとつ見分けようとしている。
次の絵には、食卓の上の皿が描かれていた。
人間の一人が、自分の皿を少し指さしている。
その料理を示しているらしい。
文章は、さらに続く。
人間が、これはおいしいと言った。
これ。
指が、食べ物をさしていた。
これがおいしい。
おいしいは、食べる幸せ。
あたしは、同じものを食べたいと思った。
「ここ、かなり大事ですね」
保全担当が言った。
「エルさんにとって、好きな食べ物は味覚だけじゃない。人間が幸せになるものを共有したい、という意味になってる」
「人間がおいしいって言ったものを、自分も食べたい」
「同じものを食べる、か」
食堂の職員たちは、周囲を見回した。
今の食堂では、ごく普通の光景だ。
誰かが「それおいしい?」と聞く。
「おいしいよ」と返す。
同じものを注文する。
一口もらう。
次はそれにしようと言う。
その全部が、人間同士の小さな共有だった。
ノートの中のエルは、それを初めて知ろうとしている。
次のページには、エルのトレーが描かれていた。
皿の中の料理。
スプーン。
パン。
湯気。
そして、向かいの人間の手が、スプーンの持ち方を示すように浮いている。
食べ方を見た。
人間は、スプーンを持つ。
すくう。
口に入れる。
熱い時は、少し待つ。
あたしも真似した。
少し熱かった。
人間が、熱いだろと言った。
怒ってる声じゃなかった。
「前にもスープは熱いってありましたね」
「ありましたね。配膳口で」
「今度は、食卓で言われてる」
「同じ言葉でも、状況が違う」
同じ「熱い」。
同じ注意。
けれど、前とは意味が少し違う。
今回は、相手がエルを見ている。
食べ方を見て、熱さを気にしている。
それは警戒かもしれない。
面倒を見ているのかもしれない。
つい言っただけかもしれない。
エルにはまだ分からない。
だから、ノートにはこう続いていた。
熱いだろ、は、気をつけろと似ている。
気をつけろは、悪いことが起きる前の言葉。
人間は、あたしに悪いことが起きると思った?
あたしは、少しだけ人間みたい?
職員たちは、その最後の行を見て、しばらく黙った。
少しだけ人間みたい。
それは、この古い絵日記の中で何度も形を変えて出てくる問いだった。
見られたら、ここにいるのか。
謝れたら、人間に近いのか。
何もしないで待てたら、人間らしいのか。
同じものを食べたら、人間みたいなのか。
答えはまだない。
次のページには、食卓全体の絵があった。
人間たちが食べている。
エルも、同じ机で食べている。
距離はまだある。
会話もぎこちない。
けれど、トレーは同じ高さに置かれている。
文章は、ページの下に小さく書かれていた。
人間が食べてるやつを食べた。
おいしい、はまだむずかしい。
でも、人間が少し笑った。
あたしは、それを見ながら食べた。
これは、人間が幸せになる食べ物。
だから、覚える。
保全担当が、次のページの端を確認した。
紙の向こうには、また食卓の線が続いている。
今度は、皿ではなく、誰かの手が描かれているようだった。
職員たちは、まだ誰もノートから離れなかった。
◇
古い絵日記 知りたい
次のページには、日付の記号があった。
前のページより、ほんの少しだけ整った文字。
けれど、筆圧の癖も、線の少なさも変わらない。
保全担当がページの端を押さえ、職員たちは自然と身を寄せた。
前日は、食堂で同じ卓につき、同じものを食べた記録だった。
その翌日。
見開きの右ページには、廊下が描かれていた。
左ページには、中庭のベンチと木。
どちらも、エルの目線から見た高さで描かれている。
そして、どちらの絵にも、同じ人間がいた。
きょう。
あの人間が、話しかけてくる。
廊下で歩いてても。
中庭で人間を見てるときも。
ほかの人間を観察してるときも。
来る。
止まる。
聞いてくる。
「……翌日も接触してるんですね」
「ええ。しかも、向こうから」
食堂班の職員が、小さく呟く。
前日は、同じ机で食事をした。
それだけでも十分に大きな変化だったのに、翌日にはもう、廊下や中庭でも話しかけてきている。
怖がっていないわけではない。
たぶん、完全に打ち解けてもいない。
それでも、人間の側から近づいている。
次の文章は、細かく並んでいた。
あたしの中身を知りたがる。
なにを考えてる。
どこを見てる。
どうして人間を見てる。
どうして、ああ言った。
どうして、ああした。
中身。
人間は、外だけじゃなくて中も知りたい?
職員たちは、その「中身」という言葉をしばらく見た。
外見ではない。
能力でもない。
危険性でもない。
もっと内側。
何を考えているのか。
何を見ているのか。
どうしてそうするのか。
「最初の質問と違いますね」
若い職員が言った。
「前は、どこから来たとか、何が目的とか……外側の確認に近かった」
「今は、本人そのものに近づいてる」
「知りたい対象が、存在から人格に移ってる」
保全担当が小さく頷いた。
最初は、危険かどうか。
何者か。
何をしに来たのか。
そういう確認だった。
だが、このページでは違う。
エル自身を知ろうとしている。
それは警戒の延長かもしれない。
けれど、警戒だけでは、こういう聞き方にはならない。
次の絵には、中庭のベンチが描かれていた。
エルは座っていない。
立っている。
遠くにいる人間たちを見ている。
その横に、例の人間が立っている。
どちらも、同じ方向を見ていた。
人間も、あたしを知りたい?
あたしも、人間を知りたい。
同じ?
あたしは見る。
人間は聞く。
見ると、聞くは、同じ知りたい?
「この辺り、面白いですね」
生活班の職員が言った。
「エルさんにとっては、“観察する”ことと“質問する”ことが、同じカテゴリに入ってる」
「知るための方法、ってことですね」
「本人は見る側だったのに、今度は聞かれる側にもなってる」
職員たちは、絵の中の中庭を見た。
前までのエルは、人間を見ていた。
理解するために。
真似するために。
幸せを探すために。
今度は、人間がエルを見る。
同じように知ろうとしている。
その対称性に、エルは初めて気づいたのかもしれない。
次の文章は、少しだけ幼い響きがあった。
あたしは、人間の真似をする。
じゃあ、人間も、あたしの真似をするの?
そこで、何人かの職員が思わず顔を見合わせた。
「それは……」
「聞きますよね、エルさんなら」
「発想が直線すぎる」
けれど、たしかに自然でもある。
自分は人間を知りたいから真似をしている。
人間も自分を知りたいなら、同じことをするのか。
理屈としてはおかしくない。
むしろ、かなり筋が通っている。
ただ、人間にとっては少し意外な問いだったのだろう。
次のページには、口を大きく開けて笑っている人間の顔が描かれていた。
今までの笑いとは違う。
吹き出すような小さな笑いではない。
もっとはっきりした、大きな笑い。
その顔の周囲に、いくつかの視線が描かれている。
廊下や中庭にいた他の人間たちの目だろう。
そう聞いたら、大きな声で笑った。
びっくりした。
まわりが、あたしを見る。
でも、きょうは冷たい目じゃない。
「冷たい目じゃない、か……」
食堂班の職員が、静かに繰り返した。
最初の頃、見られることは痛かった。
怖がられているのが分かった。
冷たい目だった。
けれど今日は違う。
同じように見られているのに、冷たくない。
視線そのものではなく、視線の中身が違う。
ノートの中のエルは、その違いを確かに感じ取っていた。
次の文章は、ひとつひとつの違いを確かめるようだった。
笑ってる目。
おもしろい目。
こわがってない目。
なんで?
あたしは、変なことを言った?
でも、変なことを言うと、人間は笑う?
怒る時もある。
笑う時もある。
どう違う?
「人間の笑い、また難題ですね」
「ええ。しかも今回は、周りまで反応してる」
「その人だけじゃなく、空気が変わったんでしょうね」
保全担当が、絵の端を指先で軽くなぞった。
そこには、少し離れた位置からこちらを見ている人間たちが描かれている。
けれど前のような、避ける目ではない。
何か面白いものを見た時の顔。
意外なものを見た時の顔。
緊張がほどけた顔。
同じ「見る」でも、前とは明らかに違う。
次の見開きには、中庭のベンチに並ぶように立つ二人の視点が描かれていた。
例の人間は、笑いながら何かを説明しているらしい。
エルは見上げている。
文字は会話の記録のように並んでいた。
人間は言った。
真似はしない。
でも、知りたいから聞く。
人間は、人間じゃないものの真似はあまりしない。
こわいし、できないし、わからないから。
でも、話すとわかることがある。
「……この人、ちゃんと説明してるな」
誰かがぽつりと言った。
笑っただけで終わらせていない。
どうして笑ったのか。
どうして真似しないのか。
人間はどうやって知ろうとするのか。
きちんと、言葉を返している。
おそらく、その説明自体もまだ十分ではない。
けれど、少なくとも突き放してはいない。
エルも、その説明をそのまま受け取ろうとしていた。
話すと、わかることがある。
見るだけじゃ、わからないこと。
あたしは見てた。
でも、人間は、見ても中身は見えない。
だから、聞く。
人間はそう言った。
「いいですね……」
若い職員が、思わずそう漏らした。
見るだけでは分からない。
だから聞く。
それは、このノート全体を通して、少しずつ繰り返されてきたことだった。
だが、ここで初めて、相手の側からもその原理が言葉にされている。
エルが人間に聞くように。
人間もエルに聞く。
知りたい、が双方向になる。
次の文章には、少し間があった。
あたしは、話す。
人間は、聞く。
人間が話す。
あたしは、聞く。
同じ?
たぶん、少し同じ。
「ここで対等さを見つけてるんですね」
生活班の職員が言った。
「真似はしていない。でも、知りたいという気持ちは同じかもしれない、って」
「人間とエルさんの間に、“同じ”を見つけてる」
「それ、大きいですね」
たしかに大きかった。
このノートの初期には、「あたしは人間じゃない」が何度も出てくる。
席がないのか。
見られていないのか。
ここにいていいのか。
そういう問いばかりだった。
けれど、このページでは少し違う。
知りたい気持ちは、少し同じ。
完全に同じではない。
でも、少し同じ。
その「少し」が、前よりも確かだった。
次の絵には、周囲の人間たちがまたこちらを見ている場面が描かれていた。
ただし、前と違って、目元の線がやわらかい。
口元が少し開いている者もいる。
誰かが小さく笑っているようにも見える。
まわりの人間も、あたしを見る。
きょうは、冷たい目じゃない。
なんで?
人間は言った。
おまえが、おもしろいことを言ったから。
「おもしろい、か」
「また難しい言葉が来ましたね」
「エルさんにとっては、“おもしろい”も分解対象でしょうね」
その通り、次の行には分解が始まっていた。
おもしろい。
笑う時の言葉。
でも、ばかにする時もある。
うれしい時もある。
びっくりした時もある。
今回は、どれ?
「全部の可能性を残してる」
「まだ信用しきってないんでしょうね」
「でも、“冷たい目じゃない”とは分かってる」
それが大きかった。
完全な理解はない。
おもしろい、の意味もまだ曖昧。
だが、少なくとも冷たさではないと分かっている。
人間の感情の温度を、エルは少しずつ区別している。
次の会話記録には、その人間の答えが続いていた。
人間は言った。
変だから笑ったんじゃない。
まっすぐだから笑った。
そんなこと聞くやつ、あんまりいない。
でも、おまえは本気で聞いた。
だから、笑った。
食堂の作業卓のまわりで、何人かが黙った。
変だから笑ったんじゃない。
まっすぐだから笑った。
その言い方は、少し不器用だ。
けれど、悪意はない。
エルの問いが奇妙だったからではなく、あまりにも真剣で、正面からすぎて、思わず笑ってしまった。
そういう笑い。
ノートの中のエルは、その説明もちゃんと書いていた。
まっすぐ。
曲がってない。
変えない。
そのまま。
あたしは、そのまま聞いた。
そのままだと、人間は笑う?
でも、冷たくない。
なら、少しいい笑い。
「少しいい笑い」
若い職員が、ほんの少しだけ笑った。
「分類してる」
「ええ。人間の笑いを、またひとつ分類してる」
「悪くない笑い、ってことですね」
ノートの言葉は幼い。
けれど、その分類は意外と正確だった。
冷たくない。
怖くない。
ばかにされている感じではない。
だから、少しいい笑い。
人間なら感覚で流すところを、エルはひとつずつ名前にしようとしている。
次のページには、中庭の木が描かれていた。
葉の一枚一枚ではなく、塊としての葉。
けれど、その塊の向こうにいる人間たちの位置まで、きちんと分かる。
その下に、短く書かれている。
きょうは、みんなが少しやわらかい。
あの人間が大きな声で笑ったから?
笑うと、人間はほかの人間を安心させる?
ひとりが笑うと、まわりもこわくなくなる?
なんで?
「空気の伝播まで見てる」
保全担当が小さく言った。
たしかにそうだった。
一人の反応が、周りの反応を変える。
怒っていた相手が笑えば、周囲の警戒も少し緩む。
その人がエルと話していれば、ほかの人間も少し距離を測り直す。
人間社会の空気の動き。
それも、エルは観察している。
次の行には、その疑問をさらに進めたような文章があった。
人間は、ひとりの顔を見て、ほかの人間の気持ちを決めることがある?
じぇれみーが怒ってないと、まわりはすこし安心する。
きょうは、あの人間が笑った。
だから、まわりも、あたしをこわいだけじゃなく見た?
その一文で、職員たちは少しだけ顔を見合わせた。
かなり本質的だった。
人間は、周囲の反応を見て、自分の反応を調整する。
危険かどうか、笑っていいか、近づいていいか。
誰かの態度が指標になる。
それをエルがもう見抜き始めている。
次のページの下部には、小さな項目が並んでいた。
きょう、わかったこと
一、人間もあたしを知りたいことがある。
二、人間は真似しなくても、聞いて知ろうとする。
三、大きな声で笑っても、冷たくない時がある。
四、ひとりの笑いで、まわりの目がやわらかくなる。
そして、その下にもう一行。
五、なんでは、また増えた。
職員たちは、その最後の行を読んで、誰も急いで次のページをめくらなかった。
なんでが減るどころか、増えている。
人間を知るほど、問いは増える。
けれど、その増え方は、最初の孤独な戸惑いとは少し違っていた。
前は、席がない、見られていない、どうすればいいか分からない、だった。
今は、笑いの種類、空気の伝わり方、知りたい気持ちの向き。
少しだけ、人間の輪の中に入りながら増えている「なんで」だった。
保全担当が、そっと次のページの端に指をかける。
薄い紙の向こうには、今度は廊下ではなく、机と紙束の線が透けて見えていた。
また別の観察が始まるらしい。
職員たちは、黙ったまま、その先を読む準備をしていた。
◇
古い絵日記 あたしの幸せ
保全担当が、次のページをめくった。
薄い紙の向こうに見えていた机と紙束は、今度はほとんど描かれていなかった。
描かれていたのは、人間の手と、向かい合っている小さな視点。
廊下でもない。
食堂でもない。
どこかの空いた机の前らしい。
人と向かい合って、話している場面。
文字は、これまでより少しだけ柔らかく見えた。
あの人間と話すと、あたしの幸せが増える。
誰かが、ほんの少し息を止めた。
その一行は短いのに、今までの記録の流れの中ではとても大きく見えた。
人間の幸せを知りたがっていたエル。
人間を幸せにしなければと考えていたエル。
そのエルが、ここで初めて、自分の幸せを書いている。
「……自分のことだ」
若い職員が、小さく言った。
保全担当は、頷きながら先を読む。
人間を見てると、わからないことが増える。
聞くと、もっと増える。
でも、あの人間と話すと、あたしの中が少しあったかくなる。
きょうは、きのうより、ここにいていい感じがする。
これが、あたしの幸せ?
「ここにいていい感じ……」
食堂班の職員が、その言葉をゆっくり反芻した。
最初の頃のエルは、「席がないのか」「見られていないのはいないのと同じか」と書いていた。
ここにいていいのかどうか、そればかりを確かめていた。
それが今は、
ここにいていい感じがする。
完全な確信ではない。
けれど、感覚としては明らかに前へ進んでいる。
次の文章には、その変化をエルなりに解釈しようとした跡があった。
あの人間は、あたしを幸せにする魔法が使えるのかもしれない。
人間なのに。
でも、人間は、ことばで変える。
顔で変える。
声で変える。
あたしの中が変わる。
それは魔法と似てる?
「……エルさんらしい考え方ですね」
生活班の職員が言った。
「人間の言葉や態度を、“魔法”として見てる」
「実際、本人にとってはそうなんでしょうね」
「自分の内側が変わってるんだから」
誰もその見方を笑わなかった。
むしろ自然だった。
エルにとって魔法とは、世界や状態を変える力のことだ。
ならば、人間の言葉や笑いが自分を幸せにしたなら、それもまた似たものに見えるのだろう。
次のページには、小さな丸がいくつも描かれていた。
最初は何か分からなかったが、よく見ると、それは球体の試し書きのようだった。
丸。
丸。
丸。
その中に、小さな点や線。
文章は続く。
だから、あたしも魔法を使おうとした。
でも、まずは聞く。
聞かないと、幸せじゃないことが起きる。
あたしはやだ。
その「やだ」は、ここまでの絵日記の中でも特に幼く、率直だった。
理屈の前にある拒否。
怖がらせること。
怒らせること。
泣かせること。
そういう「幸せじゃないこと」を、もう起こしたくない。
「ちゃんと残ってるんですね」
若い職員が言った。
「前の失敗が」
「ええ。規定としてじゃなくて、本人の中に」
保全担当の声は低かった。
聞く。
勝手にしない。
変える前に確認する。
それはもう単なる教えではなく、エル自身の中のルールになり始めている。
次の見開きには、向かい合って座る二人の絵があった。
人間の手。
机。
その上に置かれた空いた場所。
まだ何も作られていない。
その横に、短い会話の記録。
人間に聞いた。
魔法、使っていい?
「直球だな……」
誰かが思わず呟いた。
けれど、それでよかったのだろう。
遠回しにしない。
先にやらない。
まず、聞く。
今まで学んできたことが、そのまま形になっている。
次の行には、人間の返事が書かれていた。
人間は、少し考えてから言った。
変えるやつじゃなきゃいい。
職員たちは、その一文を見て小さく顔を見合わせた。
「すごく初期的な許可ですね」
「ええ。“何をするか”の具体性は足りない」
「でも、当時としては前進か」
「おそらく。少なくとも、止めるだけじゃなく、条件つきで許してる」
変えるやつじゃなきゃいい。
曖昧な言葉だ。
だが、前の「勝手に変えるな、無くすな」と比べれば、かなり違う。
エルが何かをしたいと思っていることを前提に、その中で境界を示している。
完全な拒否ではない。
次のページには、その答えを受けたエルの思考が続いていた。
変えるやつじゃない。
なくすのでもない。
だれかのものを、だれかのものじゃなくするのでもない。
机を変えない。
人間を変えない。
仕事を変えない。
それなら、つくる。
ページの下には、小さな球が描かれていた。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
透明な丸。
中に細い線がいくつも巡っている。
職員たちは、その絵に自然と視線を引かれた。
線は少ない。
なのに、球体の透明感と、その内側に広がる何かの奥行きが伝わってくる。
保全担当が、次の文章を静かに読んだ。
だから、あたしは硝子玉を作った。
転がすと、中に宇宙がちょっとだけ見えるやつ。
その言葉のあと、しばらく誰も声を出さなかった。
硝子玉。
中に宇宙が見える。
あまりにもエルらしい発想だった。
けれど、同時に、どこか胸の奥を引っかくようでもあった。
小さな丸の中に宇宙。
人間の手のひらに乗る、ちょっとだけの宇宙。
「……それ、見てみたいな」
誰かが、思わずそう呟いた。
誰も咎めなかった。
むしろ、数人が無言で同意するようにノートを見つめていた。
次のページには、その硝子玉の絵がいくつも並んでいた。
静かに置かれているもの。
手のひらの上のもの。
少し転がっているもの。
中には、星のような点。
細い流れのような線。
遠くの光みたいな輪。
エルの絵は相変わらず線が少ない。
なのに、その小さな球体の中に、広がりがあると分かる。
きれいなものは、人間も好きだから。
人間は、きれいなものを作るのが好き。
見るのも好き。
そう思ったから作った。
「観察の積み重ねですね」
生活班の職員が言った。
「食堂の飾り、廊下の窓、書類の端の小さな模様……そういうのを見てたのかもしれない」
「人間は、必要じゃなくても綺麗なものを置く」
「それを“好き”だと判断したんでしょうね」
エルの理解はいつも少しずつだ。
食べ物は人間がおいしいと言うもの。
笑いには種類がある。
そして綺麗なものは、人間も好き。
その理解をもとに、今度は自分から作る。
けれど、今度はちゃんと聞いてから。
次の文章には、その時の細かな意識が書かれていた。
ほんとうは、もっと大きいのも作れる。
もっとたくさん星を入れられる。
もっとほんものみたいにできる。
でも、それをしたら、変えすぎかもしれない。
だから、小さくした。
手の中に入るくらい。
人間がこわくないくらい。
「……抑えてる」
保全担当が小さく言った。
「ええ、自分で」
それが大きかった。
エルは作れる。
もっと大きく。
もっと本物に近く。
もっと圧倒的に。
けれど、あえて小さくした。
人間が怖くないくらいに。
それは、単なる技術の選択ではない。
人間の側の受け取り方を考えた、明確な配慮だった。
次のページには、人間の手のひらが描かれていた。
その上に、硝子玉がひとつ乗っている。
小さな球体の中に、細い光のようなものが走っている。
向かいには、エルの視点。
見上げている。
人間に渡した。
手の上に置いた。
つめたかったはず。
でも、人間は落とさなかった。
ずっと見ていた。
その「ずっと見ていた」に、職員たちは自然と引き込まれた。
見ていた。
怒ったのではない。
怖がったのでもない。
すぐに置いたのでも、捨てたのでもない。
見ていた。
その反応は、エルにとってかなり大きな意味を持ったはずだ。
次の文章は、少しずつその空気を記録していた。
転がした。
中が動いた。
星が少し流れた。
光が回った。
人間は、きれいだと言った。
声がやわらかかった。
誰かが、静かに息を吐いた。
きれいだ。
その一言は、エルの観察と推測が間違っていなかったことを示している。
しかも、人間の声がやわらかかった。
怖がらせていない。
怒らせていない。
泣かせていない。
確認して、考えて、抑えて、作って、渡して。
その結果、相手の口から出てきたのが「きれい」だった。
若い職員が、小さく呟く。
「成功、ですね……」
けれど、ノートの中のエルは、そこで終わらない。
次の行には、いつものように確かめが続いていた。
きれいは、いい言葉。
でも、きれいは、好き?
好きは、ほしい?
ほしいは、あげていい?
わからない。
だから、また聞いた。
「ちゃんと聞くんだな……」
誰かが苦笑まじりに言う。
それはもう、半ば感心に近かった。
普通の人間なら、相手が「きれいだ」と言えば、そのまま渡してしまうこともあるだろう。
けれど、エルはもう知っている。
思い込みのまま進めると、幸せじゃないことが起きる。
だからまた聞く。
次の会話記録が、それに続いていた。
あげていい?
人間は、また少し笑った。
それ、くれるのかと言った。
くれるは、あげると似てる。
うん、と言った。
「また笑ってる」
「でも、たぶん今回はもっと柔らかいですね」
「ええ。驚きと、嬉しさのほうでしょう」
職員たちは、絵の中の人間の口元を見た。
前よりもやわらかい。
警戒はゼロではないかもしれない。
それでも、その場の空気はたしかに変わっている。
次の文章には、エルの判断が書かれていた。
人間は、うれしい時も少し笑う。
だから、これは、少しいい笑い。
たぶん、前よりもっといい笑い。
あたしも、うれしい。
あたしの幸せが、また増えた。
その最後の一行で、職員たちはまた静かになった。
あたしの幸せが、また増えた。
最初のページの「ここにいていい感じがする」よりも、もっとはっきりしている。
人間を幸せにしたいだけではなく、人間とのやりとりで自分の幸せが増えている。
それを、エルはちゃんと自覚し始めている。
次のページには、小さな箇条書きが並んでいた。
きょう、わかったこと
一、聞いてから作ると、こわくないことがある。
二、小さいと、人間は安心する。
三、きれいなものは、人間が好きなことがある。
四、きれいだと言う声は、やわらかい。
五、人間にあげると、あたしの幸せも増える。
そして、その下にもう一行。
六、あたしの幸せは、人間と少しつながってるかもしれない。
「……かなり大きな発見ですね」
保全担当が、静かに言った。
誰もすぐには返事をしなかった。
その通りだった。
本当の幸せとはどこにあるのか。
同じ場所にいるのに、どうしてみんな違うのか。
そう書いていた最初のエルが、ここでは「自分の幸せは人間と少しつながっているかもしれない」とまで書いている。
まだ仮説だ。
断言ではない。
けれど、その変化はあまりにも大きい。
ページの下の隅には、小さく硝子玉の絵が描かれていた。
その中の宇宙は、さっきのものより少しだけ精密に見える。
そして、その隣にはまだ続きの文字があった。
人間は、その硝子玉を机に置いた。
ずっと見える場所。
どうして、そこ?
職員たちは、また自然に次のページへ視線を落とした。
まだ読み終わっていない。
その理由も、きっと次に書かれている。
◇
古い絵日記 人間の檻
保全担当が、次のページをめくった。
紙の縁が光を受けて白く浮く。
食堂の作業卓を囲む職員たちは、もう誰も言葉を急がなかった。
前のページでは、人間に渡した硝子玉が、机の上の「ずっと見える場所」に置かれていた。
その理由を、エルが考えようとしていた。
次の日の記録は、そこから続いていた。
見開きいっぱいに描かれていたのは、複数の人間だった。
大きな人影。
大きな人影。
また大きな人影。
その中央に、低い視点。
あたしの目線だ、とすぐに分かる構図だった。
つぎの日。
人間は、ほかの人間をつれてきた。
あたしは、人間に囲まれた。
「……見せに来たのか」
誰かが小さく言った。
机の上に置かれた硝子玉。
それを見た人間が、他の人間を連れてきた。
おそらく善意だ。
きっと、「すごいものを見た」という気持ちだったのだろう。
けれど、エルの視点から見れば、状況はまるで違っていた。
次の絵には、輪になるように立つ人間たちの足元が描かれていた。
靴。
制服の裾。
少し前に出た膝。
覗き込むような姿勢。
中心には、何も描かれていない空白がある。
その空白こそが、エルのいる位置なのだと分かる。
人間は、でかい。
あたしは、人間の檻に入ったみたい。
そこで、職員たちは思わず息を止めた。
人間の檻。
言葉としてはあまりに率直だった。
けれど、構図を見れば、その表現が誇張ではないことも分かる。
小さな身体。
周囲を取り囲む複数の大人。
逃げ道の見えない円。
興味のつもりでも、歓迎のつもりでも、囲まれる側にとっては圧迫になる。
「……これは言うな」
生活班の職員が、低く呟いた。
「今なら接触距離規定で止めますね」
「ええ。完全に」
「善意の見学会、みたいになってたんでしょうけど」
「囲まれる側は、たまったものじゃない」
保全担当は何も挟まず、先を読んだ。
そう言ったら、みんな黙った。
そして、笑った。
「また笑いか」
「でも、今度はかなり違う場面ですね」
誰かの声に、別の誰かが小さく頷く。
前のページでは、まっすぐな質問が面白がられて笑われた。
けれど今は、状況そのものを言い当てたことに対する反応に見える。
人間の檻。
その言い方で、自分たちがやっていることが急に外から見えたのだろう。
次の文章は、その時の空気を細かく拾っていた。
黙ったのは、ちょっとだけ。
人間は、顔を見合わせた。
それから、声を出した。
大きい笑い。
でも、冷たくない。
こわい笑いでもない。
びっくりして、わかった時の笑い?
「“わかった時の笑い”か」
若い職員が、その分類を口の中で繰り返した。
たしかに、そういう笑いはある。
自分たちがやっていることを、思いがけない言葉で突きつけられて、
ああたしかにそう見えるのか、と理解して、
気まずさとおかしさが一緒に来て、笑う。
エルはそれを、また新しい種類の笑いとして記録している。
次の絵には、人間たちが少し距離を取ったあとの様子が描かれていた。
輪が崩れている。
一歩下がった足。
横にずれた人影。
中心の空白が、さっきより広くなっていた。
人間は、少し離れた。
檻じゃなくなった。
よかった。
その「よかった」が、小さく、しかしはっきり書かれていた。
囲まれるのは嫌だった。
でも、人間たちはそれを笑いのあとで理解して、ちゃんと距離を取った。
それが、エルには「よかった」だった。
職員たちは、しばらくその三文字を見ていた。
「……ちゃんと直したんですね、その人たち」
「ええ。少なくとも、すぐに」
「笑って終わりじゃなくて」
「そこは大事です」
もし笑うだけで距離を変えなかったなら、それは別の記録になっていただろう。
だが、ノートには「檻じゃなくなった」とある。
人間は、言われたことを受け取って、行動を変えた。
それがエルには分かったのだ。
次のページには、机の上の硝子玉が描かれていた。
その周りに、人間の手。
指差す手。
そっと持ち上げる手。
覗き込む顔。
文章が続く。
人間は、硝子玉を見ていた。
きれいと言う人間。
すごいと言う人間。
どうなってると言う人間。
触ってもいいか聞く人間もいた。
聞く。
人間も、聞く。
「ここ、また重要ですね」
保全担当が静かに言った。
「人間も確認する、という記録です」
「勝手に触らなかったんだ」
「少なくとも、全員ではないですね。聞いた人間がいた」
エルはずっと、「人間のことは人間に聞けばいい」と教わってきた。
そして自分でも、聞くことを覚えた。
その今度は、人間の側が、エルの作ったものに触る前に聞いている。
それを見て、エルは何を思ったのか。
次の行が、そのまま答えていた。
人間には、魔法を使わなくても喜ぶ?
食堂の卓を囲んだ職員たちが、静かに視線を上げた。
その問いは、単純で、けれど大きかった。
今までのエルは、人間を幸せにするには何かをしてあげなければならないと考えがちだった。
消す。
作る。
変える。
戻す。
そういう力の行使。
だがこの場面では、もっと別のものが起きている。
許可を取って、作って、見せた。
人間たちは自分で覗き込み、自分で「きれい」と言い、自分で笑っている。
そこでエルは初めて考える。
魔法そのものが喜びなのではなく、見たり話したりすることの中に、喜びがあるのではないかと。
次の文章は、さらに踏み込んでいた。
きれいなものを見て、人間はうれしそうだった。
あたしが幸せにした?
でも、うれしそうな顔を作ったのは、人間。
笑ったのも、人間。
きれいと言ったのも、人間。
人間には、自分で自分を幸せにすることができる?
誰かが、ゆっくり息を吐いた。
人間は自分で自分を幸せにすることができる。
それは、監理局の研修資料ならずいぶん後ろのほうに書かれていそうな内容だった。
だが、この古いノートの中では、硝子玉ひとつから辿り着いた問いになっている。
「エルさんにとっては、かなり大きい発見ですね」
生活班の職員が言った。
「幸せを“与えるもの”だと思っていたのが、少し変わってる」
「きっかけは作れても、幸せそのものは相手の中で起きる、みたいな」
「そう読めますね」
保全担当が頷いた。
次のページには、人間たちの顔がいくつも並んでいた。
笑っている顔。
驚いている顔。
真剣に硝子玉を見ている顔。
少し困ったように笑っている顔。
どれも違う。
同じ「喜んでいる」にも、形がいろいろある。
人間は、みんな違う顔で見てた。
同じ硝子玉なのに。
同じものを見てる。
でも、違う顔になる。
人間は、前からそう。
でも、きょうは、違うのに少し同じだった。
たのしい感じ。
「違うのに少し同じ、か」
食堂班の職員が、前のページを思い出すように言った。
最初の頃のエルは、「同じ建物にいるのに隣の人間と違うことを考える」と書いていた。
その違いは、不思議で、少し不安なものとして描かれていた。
だが、ここでは違う。
違っている。
でも、少し同じ。
たのしい感じ、という共通の温度がある。
それはエルにとって、かなり新しい理解だったはずだ。
次の文章には、また驚くほど直線的な言葉があった。
人間は、みんな魔法が使える。
何人かが、思わずその一行を目で追い直した。
保全担当も、少し間を置いてから先を読む。
硝子玉を見ただけで、顔が変わる。
声が変わる。
空気が変わる。
あたしは、硝子玉を作った。
でも、たのしい感じを作ったのは、人間。
ひとりが言う。
ほかの人間も言う。
ひとりが笑う。
ほかの人間も笑う。
それで、みんなの中が変わる。
変える。
人間も、変える。
「……人間の感情の連鎖を、魔法として見てるんだ」
若い職員が言った。
「たぶん、そうですね」
「魔術でも魔法でもないけど、変化を起こしてるから」
「エルさんの定義では、十分“魔法に似てる”んでしょう」
たしかにそうだった。
エルにとって大事なのは、術式かどうかではない。
何かが何かを変えること。
言葉や視線や笑いで、場の空気や人の中身が変わること。
それができるなら、人間もまた“変える”存在なのだ。
次のページには、硝子玉を持ったまま、少し離れて話している人間たちの絵があった。
一人が何かを説明している。
別の一人が頷いている。
また別の一人が、笑いながら覗き込んでいる。
エルの視点は、それを少し外側から見ていた。
あたしが話してない時も、人間は人間を変える。
あたしが魔法を使ってない時も、人間は幸せそうになる。
じゃあ、あたしは、ぜんぶをしなくていい?
ぜんぶ、あたしが幸せにしなくていい?
そのあたりで、職員たちの沈黙が少し重くなった。
それは救いのある問いでもあり、同時に切実でもあったからだ。
本当の幸せ、という名前を持つ存在。
その名に引っ張られるように、人間を幸せにしなければと考えてきた存在。
そのエルが、ここで初めて、
ぜんぶ、あたしが幸せにしなくていい?
と書いている。
「これ……大きいな」
誰かが呟いた。
「ええ。責任の形が変わってきてる」
「人間の側にも、幸せになる力があるって見始めてる」
「それなら、エルさんが“してあげる”だけじゃなくていい」
保全担当は、視線を落としたまま小さく頷いた。
次の行には、少しだけ安心したような字で、こうあった。
だとしたら、あたしは少しうれしい。
少し軽い。
あたしは、きっかけだけでもいい?
きれいなものを作る。
話す。
聞く。
見る。
それで、人間が自分で幸せになるなら、いい。
その文章に、誰もすぐには何も言えなかった。
ノートの初期には、人間の幸せを探すことが、ほとんど義務のように書かれていた。
名前がなくなるかもしれない、という恐れさえあった。
だが今は違う。
きっかけだけでもいいかもしれない。
人間が自分で幸せになるなら、それでいい。
それは、エル自身にとっても救いだったのだろう。
次のページの下部には、いつもの箇条書きが並んでいた。
きょう、わかったこと
一、人間は、たくさんで来ることがある。
二、たくさん来ると、檻みたいになることがある。
三、言うと、人間は気づいて離れることがある。
四、人間は、魔法を使わなくても喜ぶことがある。
五、人間は、自分で自分を幸せにすることができるかもしれない。
六、人間は、ほかの人間を変えることができる。
七、人間は、みんな魔法が使える。
そして、その最後に、小さくもう一行。
八、あたしは、ぜんぶしなくていいのかもしれない。
職員たちは、その八つ目をしばらく見ていた。
ノートの紙は古い。
けれど、そこに残ったその一文は、今の職員たちにも静かに重かった。
保全担当が、そっと次のページの端に指をかける。
薄い紙の向こうには、今度は窓と夜のような暗い面積が透けて見えていた。
どうやら、次はまた別の時間帯の記録らしい。
誰も席を立たなかった。
まだ、ノートは続いていた。




