第17話-ばかばかばかーー!!!
「エルのばか! ばかばかばか!!」
惑星監理局の休憩区画に、レトの叫び声が響いた。
淡緑色の長い髪を左側で結んだレトが、顔を真っ赤にして立っている。
怒っている。
ものすごく怒っている。
眠っていたせいで少し乱れたワンサイドテールを揺らし、両手をぎゅっと握りしめ、目の前のエルを睨んでいた。
エルは床に座ったまま、黒い油性ペンを持っている。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
いつもと変わらない、少し淡々とした顔。
「ばかじゃない。あたし、ばかじゃない」
「ばかだもん! ばかだからこんなことするの!!」
レトは自分の頬を指さした。
右の頬には、三本のひげ。
左の頬にも、三本のひげ。
鼻の先は黒く塗られ、額には大きな星。
まぶたの上には、目を閉じても目が開いているように見える丸い目が描かれている。
口元には、くるんと巻いた立派なひげまであった。
完全に落書きされていた。
しかも油性だった。
少し前まで、レトは休憩区画の長椅子で眠っていた。
戦闘訓練を終え、食事まで少し時間があったため、柔らかいクッションを抱いて横になったのである。
最初は眠るつもりなどなかった。
「ちょっとだけ、目を閉じるだけ」
そう言っていた。
けれど数分後には、すっかり眠っていた。
エルはその隣に座り、眠るレトの顔をしばらく見ていた。
それから、机の上に置かれていた油性ペンを手に取った。
頬に一本。
二本。
三本。
反対側にも三本。
鼻を黒く塗り、額に星を描き、最後に立派なひげを足した。
レトは途中で一度だけ、
「んぅ……」
と唸った。
エルは手を止めた。
レトが起きないことを確認すると、続きを描いた。
そして今。
目覚めたレトは、自分の顔に何かが描かれていることだけを、エルが持っている油性ペンから察していた。
まだ自分の顔がどうなっているのかは見ていない。
ただ、指で頬を擦った時に黒い色がついた。
それだけで十分だった。
「寝てる人の顔に勝手に描いちゃだめなの!」
「でも、レト、笑ってた」
「笑ってないよ! 寝てたもん!」
「前に、笑ってた」
「前!?」
レトがさらに怒ろうとした時、休憩区画の扉が開いた。
「レトー! エルー! 食堂行こー!」
ロジーだった。
ピンク色のツインおさげを揺らし、頭上のデバイスに昼食の献立を表示しながら入ってくる。
「今日ね、甘い卵焼きが――」
ロジーは、レトを見た。
止まった。
デバイスの表示も止まった。
レトは怒った顔のまま、ロジーを見る。
「ロジー」
「……」
「どうしたの?」
ロジーの口元が震えた。
「レ、レト……」
「なに?」
「その顔……」
ロジーは両手で口を押さえた。
一度、耐えた。
肩が震える。
二度、耐えた。
頬が膨らむ。
三度目で、限界を迎えた。
「ぶっ――!」
ロジーは吹き出した。
「なにそれぇっ!!」
その場にしゃがみ込む。
「顔! 目! 目が四つある! 寝ても起きてる! ひげ! 立派すぎる! あははははははっ!!」
「笑わないで!!」
「無理! 無理だよ! だって、レトがものすごく怒ってるのに顔が! 顔だけずっとふざけてる!!」
ロジーは床を叩いて笑った。
呼吸ができない。
涙が出る。
頭上のデバイスには、酸素不足を警告する表示まで出ていた。
「ひっ、ひぃ……! おなか痛い! レト、待って、今の顔で睨まないで! もっと面白い!」
レトの顔が、ますます赤くなる。
「ロジーもばかーーーーー!!!!」
「ご、ごめ……あははははっ!」
「もう知らない!!」
レトは踵を返した。
休憩区画を飛び出し、廊下を走っていく。
「あっ、レト!」
ロジーは追いかけようとした。
けれど立ち上がれなかった。
笑いすぎて力が入らない。
エルは、走り去るレトを見ていた。
「……怒った」
「そりゃ怒るよ!」
ロジーは涙を拭いながら答えた。
まだ少し笑っている。
「寝てる間に油性ペンで顔に落書きされたんだよ!?」
「でも、レト、あれ好きだった」
「なにが?」
エルは、少し考えてから答えた。
「お笑い番組」
数日前。
職員たちが休憩区画で、外部惑星のお笑い番組を見ていた。
眠っている芸人の顔へ落書きをする。
本人は気づかないまま撮影場所へ向かう。
周囲の出演者たちは、何も教えずに笑いを堪える。
最後に鏡を見せられ、自分の顔に気づいた芸人も大笑いする。
そういうドッキリだった。
その時、隣で見ていたレトは大爆笑していた。
お腹を抱え、クッションを叩き、
「顔すごい! 気づいてない! 見てエル、ひげ!」
と、ずっと笑っていた。
エルは、それを覚えていた。
「顔に描くと、みんな笑う」
エルは言った。
「描かれた人も、最後に笑った。レトも笑った。だから、レトにしたら、レトが幸せになると思った」
ロジーの笑いが、少しずつ止まった。
「ああ……」
理解した。
エルは、レトを困らせたかったわけではない。
からかったわけでもない。
驚かせて、笑わせて、楽しくしたかった。
番組の内容を、そのまま真似しただけだった。
ただし。
「それでも、勝手に描いちゃだめだよ」
「だめ?」
「だめ。番組の人たちは、たぶん後から許可を取ったり、そういうことをされる仕事だって分かってたりするの。レトは何も知らないで寝てたでしょ」
エルは油性ペンを見た。
「レト、幸せじゃなかった?」
「今は、怒ってる」
「……そっか」
エルは少しだけ俯いた。
◇
レトは廊下を早足で進んでいた。
走ってはいけないと職員に言われたため、途中からものすごく速い歩き方に変わっている。
怒っていた。
エルにも。
ロジーにも。
自分が寝ている間に、顔へ勝手に落書きをしたエル。
それを見て、息ができなくなるほど笑ったロジー。
二人ともばかだった。
本当にばかだった。
「もうっ……!」
レトは頬を擦った。
黒い色は少し指についたが、顔の落書きはほとんど消えない。
油性だからである。
「ぜったい変な顔になってる……」
廊下の角を曲がる。
壁際には、宇宙を眺めるための大きな窓があった。
硝子玉の宇宙の星々を映す、磨き上げられた硝子窓。
レトは、その前を通り過ぎようとした。
窓ガラスに、誰かが映った。
レトは足を止めた。
窓の中に、立派なひげを生やした少女がいる。
頬には猫のひげ。
鼻は黒い。
額には大きな星。
目を開いているのに、まぶたの上に描かれた目まであるため、視線がどこを向いているのかまったく分からない。
レトは黙った。
窓の中の少女も、黙った。
レトが右を向く。
窓の中の少女も、右を向く。
くるんと巻いたひげが、あまりにも立派だった。
「……」
レトの口元が、少しだけ震えた。
耐える。
怒っているのだから、笑ってはいけない。
これは勝手に描かれたものだ。
怒っていていい。
けれど、改めて見ると、想像していたよりずっとひどい。
特に額の星。
なぜこんなに大きいのか。
顔の半分くらいある。
「……ふっ」
小さな音が漏れた。
レトは慌てて口を押さえる。
窓の中の少女も口を押さえた。
描かれたひげが、指の横からはみ出している。
「ぶふっ」
もう一度、漏れた。
「なにこれ……!」
レトはとうとう吹き出した。
「変な顔! すっごく変!」
窓に映る自分を指さし、声を上げて笑う。
笑えば笑うほど、描かれた目とひげが動く。
それがさらにおかしい。
しばらく笑ったあと、レトは息を整えた。
少しだけ、怒りが小さくなっていた。
エルが何を真似したのかも、なんとなく分かった。
あの番組を見ていた時、レトは確かに笑っていた。
エルは、自分も笑わせようとしたのだろう。
でも。
「勝手に描いたのは、まだ怒ってるもん」
レトは窓に映る自分へ言った。
窓の中のレトも、真剣な顔で頷く。
ただし、ひげが立派すぎて真剣には見えなかった。
レトは少し考えた。
それから、にやりと笑った。
◇
休憩区画では、エルがまだ床に座っていた。
油性ペンは机の上に置かれている。
ロジーはようやく笑い終え、長椅子に座って呼吸を整えていた。
「笑いすぎた……。まだお腹痛い……」
「ロジー」
「なに?」
「レト、戻ってくる?」
「戻ってくるよ。たぶん」
「怒ってる」
「うん。ちゃんと謝ろう」
「うん」
エルは小さく頷いた。
その時、扉が開いた。
レトが立っていた。
顔は、まだ落書きまみれ。
ただし、さっきよりは落ち着いている。
エルは立ち上がった。
「レト」
「エル」
「ごめんなさい。勝手に描いたら、だめだった」
エルはレトを見上げる。
「あたし、レトが笑うと思った。でも、先に聞かなかった」
レトは少しだけ頬を膨らませた。
「うん。勝手にやったのは、だめ」
「うん」
「まだちょっと怒ってる」
「うん」
ロジーも立ち上がった。
「私もごめん。笑いすぎた」
「すっごく笑ってた」
「だって面白かったから……」
レトが睨む。
ロジーはすぐに両手で口を押さえた。
「もう笑わない!」
「ほんとに?」
「たぶん!」
「たぶんって言った!」
「だってレトの顔を見ると、どうしても……!」
ロジーの口元が再び震える。
レトは机の上へ手を伸ばした。
油性ペンを取る。
エルが首を傾げた。
「レト?」
「エル。そこ動かないで」
「うん」
レトは油性ペンの蓋を外した。
エルの頬へ、一本。
二本。
三本。
反対側にも三本。
鼻の先を黒く塗る。
額には、大きな渦巻き。
「できた!」
エルは瞬きをした。
「描いた?」
「描いた!」
「勝手に?」
「エルは動かないでって言ったら、うんって言ったもん!」
「そっか」
エルは近くにあった小さな鏡を見る。
頬にひげ。
黒い鼻。
額に大きな渦巻き。
しばらく、自分の顔を眺める。
「……おもしろい」
エルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
レトも笑う。
「でしょ!」
その隣で、ロジーが楽しそうに見ていた。
「よかったね! これで二人とも落書き仲間――」
レトが振り向く。
ロジーの笑顔が止まった。
「……レト?」
「ロジーも」
「私は描いてないよ!?」
「笑ったもん!」
「それだけで!?」
「他人事みたいに笑ってたもん!」
「待って! 話し合おう! 私は記録係として客観的な立場を――」
レトがロジーの肩を掴んだ。
「エル、押さえて!」
「うん」
エルが反対側からロジーの腕にくっつく。
「エル!? さっきまで反省してたよね!?」
「今は、三人でおもしろくなる」
「学習の方向が早い!」
「ロジー、動かないで!」
「待って待って! 私には肖像権が――ひゃあっ、冷たい!」
レトは容赦なく描いた。
右頬に大きな花。
左頬にぐるぐる模様。
鼻の下には、エルよりもレトよりも立派なひげ。
額には大きく、
記録
と書いた。
「完成!」
「額に直接、存在意義を書かれた!!」
ロジーは鏡を見る。
一秒。
二秒。
「……っ」
耐えようとした。
けれど、エルの渦巻き顔が鏡の横から覗く。
そのさらに横には、四つ目と立派なひげのレト。
「ぶはっ!」
ロジーがまた吹き出した。
レトも笑う。
エルも、二人を見て小さく笑った。
三人は鏡の前へ並んだ。
落書きまみれのレト。
渦巻き顔のエル。
額に「記録」と書かれたロジー。
「三人とも変な顔!」
レトが笑う。
「記録する!」
ロジーのデバイスが撮影を始める。
「これ、残すの!?」
「残す! 仲直り記念!」
エルが二人の間へ入った。
「あたしも、入る」
「もちろん!」
三人は顔を寄せた。
撮影音。
一枚。
ロジーが笑ってぶれたため、もう一枚。
レトがエルの渦巻きを指さして笑ったため、さらに一枚。
最後には三人とも笑いすぎて、まともな写真は一枚も撮れなかった。
それでもロジーは、全部保存した。
◇
その日の食堂。
昼食時間を迎え、多くの職員たちが席についていた。
戦闘班。
情報班。
生活班。
技術班。
監理班。
いつも通りの食堂。
いつも通りの話し声。
いつも通りの配膳音。
そこへ、三人が並んで入ってきた。
最初に気づいた職員が、箸を止めた。
隣の職員も振り返る。
その隣も。
食堂が、徐々に静かになっていく。
四つ目で立派なひげを生やしたレト。
頬にひげ、額に渦巻きを描かれたエル。
顔中ぐるぐる模様で、額に大きく「記録」と書かれたロジー。
三人は何事もなかったように配膳口へ向かう。
食堂班の職員が、トレーを持ったまま固まった。
「……何があったんですか」
レトが胸を張った。
「仲直り!」
ロジーも胸を張る。
「記念撮影済み!」
エルも小さく頷いた。
「三人とも、おもしろくなった」
職員は三人の顔を順番に見た。
何をどう仲直りすれば、この状態になるのか。
まったく分からなかった。
食堂の奥で、誰かが小さく吹き出した。
それをきっかけに、あちこちから笑い声が漏れ始める。
レトはすぐに振り向いた。
「笑った職員さんも描くよ!」
笑い声が一斉に止まった。
食堂は、かつてないほど静かになった。
ロジーの頭上デバイスに、新しい記録が表示される。
油性ペン一本による、食堂全域の制圧を確認。
エルはそれを見て、少し考えた。
「レト、強いね」
「うん!」
レトは得意げに頷いた。
顔には、立派なひげが生えたままだった。




