第17話-今日はいたずらしたい日
その日、エルは朝からちょっとだけ悪い顔をしていた。
悪い顔といっても、世界を終わらせるような顔ではない。
白い髪の毛先を揺らしながら、ひとりでこそこそ頷いているだけの、小さくてふわふわした悪い顔だ。
「……いたずら、したい」
局内の中庭に面した廊下の隅。
人通りの少ない場所にしゃがみこんだエルは、膝の上にいくつもの魔法アイテムを並べていた。
きらきら光るリボン。 ちいさな透明の鈴。 顔を映すと勝手にウインクしてくる手鏡。 座ると一瞬だけふわっと浮くクッション。 持ち上げると「ないしょ」「ないしょ」と囁くマグカップ。 触ると星型の紙吹雪をぱちっとひと粒だけ飛ばす書類留め。 踏むと足元に小さな花が三秒だけ咲く床シール。 帽子のつばに貼ると、本人の気分と関係なく一回だけ語尾がやわらかくなる飾り札。
どれも大惨事にはならない。
ほんのちょっぴり困る。
でも、ちょっとおもしろい。
そこが今日の重要ポイントだった。
「本気で怒られるのは、やだ……」
エルは真剣に考えていた。
いたずらをしたい気持ちはある。
でも、堂々とやったら絶対に怒られる。特にジェレミーに。
副長もたぶん笑いながら怒る。あれはちょっと怖い。
ロジーは面白がるだろうけれど、記録を取られるので後で証拠が増える。
レトはたぶん一緒にはしゃぐ。だから余計に怒られる。
つまり、こっそりやるしかなかった。
「ばれなきゃ、だいじょうぶ」
エルは自分に言い聞かせるように小さく頷くと、魔法アイテムを抱えて立ち上がった。
そしてその数分後、惑星監理局では、静かに、しかし確実に、おかしなことが起き始めた。
最初の被害者は監理班の職員だった。
廊下を早足で歩いていた男性職員が、会議資料を抱えたまま角を曲がる。
その足元に貼られていた何気ない透明シールを踏んだ瞬間、床から淡い光が弾けて、両足のまわりに小さな白い花がふわっと咲いた。
「うわっ!?」
花は三秒で消えた。
職員は足を止め、無言で床を見下ろした。
もう何もない。
周囲の職員が一斉に視線を向ける。
「……今の見ました?」 「見ました」 「足元に花が」 「咲いてましたね」 「疲れてるんでしょうか」 「二人同時に?」
その少し先では、生活班の女性職員が休憩室でマグカップを持ち上げていた。
『ないしょ』
「えっ」
『ないしょ』
「……えっ?」
マグカップは中身の紅茶には何もせず、ただ、秘密めいた小声でそう囁くだけだった。
女性職員はしばらく固まったあと、そっとカップを置いた。
「……私、何も隠してませんけど」
隣の同僚が吹き出す。
「心当たりある人の反応ですよ、それ」 「ないです」 『ないしょ』
「しゃべらないでください!」
同じ頃、情報班ではもっと直接的な笑いが起きていた。
ロジーの席の向かいで端末作業をしていた職員が、書類留めを指でつまんだ瞬間。
ぱちっ。
ほんのひと粒、星型の紙吹雪が飛んだ。
「あ」
ぱちっ。
もうひとつ触るとまた飛ぶ。
ぱちっ、ぱちっ、ぱちっ。
「何これ」 「なんですかそれ」 「かわいい」 「仕事の邪魔では?」 「邪魔というほどではないです」 「でもなんか腹立つくらいかわいいですね」 「わかる」
そして、廊下の反対側では技術班のひとりが椅子に座った瞬間、ふわっと三センチだけ浮き、本人がものすごく真顔のまま一度だけ天井を見た。
「……」 「……今、浮きました?」 「浮きました」 「不具合ですか?」 「椅子が?」 「私が?」
みんなが首をかしげる中、廊下の柱の陰からエルがそーっと顔を出していた。
「……ふふ」
うれしそうだった。
ものすごくうれしそうだった。
ばれていない。
しかも、みんなちゃんと反応している。
エルは口元を押さえながら、次の現場へ向かった。
二件目、三件目、四件目。
いたずらは順調に増えていった。
書記官の机に置かれた手鏡は、顔を映した人に一度だけ勝手にウインクを返してくる。
医療班のペンは、重要書類に使われる前に回収されたものの、試し書きのたびに「せいかい」と光りながら褒めてきた。
食堂前の廊下には、踏むと足元にだけ小さな拍手の音が鳴るマットが置かれており、通った職員たちがみんな妙に気まずそうな顔で歩調を早めていた。
「誰ですかこんなの置いたの」 「ちょっと嬉しいのが嫌ですね」 「地味にやる気が削がれる……いや、上がる……?」 「判断に困る」
監視室でも騒ぎになった。
監視カメラに映るあちこちの小さな異変。
床に咲く花、急に囁くカップ、ふわっと浮く椅子、ひと粒だけ飛ぶ星。
「またエルさんでは」 「でも本人は映っていません」 「映ってないだけで、たぶんいますよ」 「楽しそうですね」 「楽しそうじゃなくて探してください」
しかし、本気で逃げるエルは誰にも捕まえられなかった。
見つかったと思えば、次の瞬間には廊下の角の向こう。
追いかければ、吹き抜けの手すりの上をひょいと越え、ふわっと浮いて別の階へ。
気配を追えば、中庭側のガラス窓の外にちょこんと座ってこちらを見ている。
かと思えば、もう反対側の廊下で次のいたずらを仕込んでいる。
「速い!」 「待ってくださいエルさん!」 「待たない」 「やっぱり本人じゃないですか!」 「まだ、ばれてないつもりだったのに」
その返事を残して、エルはまた消えた。
騒ぎが少し大きくなったのは、副長が被害に遭ったときだった。
副長はいつもの笑顔で廊下を歩いていた。
何かに気づいている顔でもあり、面白がっている顔でもあった。
「ああ、今日はそういう日ですか」
足を止め、廊下の壁際に置かれた小さな箱を見る。
蓋にはかわいい星の絵が描いてある。
明らかに怪しい。
明らかに怪しいのに、副長は躊躇なく開けた。
ぽんっ。
箱の中から、小さな光の輪が飛び出して副長の頭上でくるくる回る。
そして、五秒だけ、きらきらした花冠の幻影が副長の頭にのった。
周囲の職員たちが息を呑む。
副長は数秒、無言だった。
それから、いつもの柔らかな笑みのまま言った。
「これはなかなか上品な嫌がらせですね」
監理班職員が必死に視線を逸らす。
笑ってはいけない。
でも副長の花冠は、あまりにも似合っていた。
柱の陰で見ていたエルは、肩を揺らしていた。
笑っている。完全に。
副長はそちらに目を向けた。
「エルさん、見えてますよ」 「わ」 「来なさい」 「やだ」 「まだ怒りませんよ」 「まだ、って言った」
そしてエルは逃げた。
副長は一歩も追わず、花冠が消えるまでその場に立っていた。
やがて小さく笑う。
「本格的に捕まえるなら局長を呼ぶしかありませんね」
「もう呼ばれています」 と、横から監理班職員が言った。
「早いですね」 「皆、ちょっと楽しくなってきているので……被害は軽微です」 「軽微ならなおさら、局長は怒りますよ。秩序の問題ですから」 「でも副長、笑ってますよね」 「ええ、とても」
一方その頃、エルは完全に調子に乗っていた。
「まだいける」
次に使ったのは、帽子のつばや髪飾りにふわっと触れるだけの、ちいさな飾り札だった。
これは一回だけ、つけた人の語尾をやわらかくする。
廊下の途中で偶然それをつけられてしまったのは、調査班の真面目な男性職員だった。
彼は報告のために通信機を開き、いつもの調子で低く言った。
「調査資料、第三保管庫に……あるよ」
数秒、沈黙。
本人が一番固まった。
通信の向こうでも沈黙が落ちたあと、恐る恐る声が返る。
『……了解、です』 「違う、今のは違う」 『はい』 「本当に違う」 『管理ログには残りました』 「消せ」 『難しいです』
少し離れた場所でエルが口を押さえてにやついていた。
おもしろすぎて床にしゃがみこんでいる。
そこへレトが現れた。
「えるー!」 「わっ」 「いたずらしてるでしょ!」 「してない」 「してる顔だよ!」
レトはきらきらした目でエルを見た。怒っているのではない。完全に混ざりたそうだった。
「なになに、なにしたの!?」 「ないしょ」 「えーっ、ずるい! わたしもやりたい!」 「だめ」 「なんで!?」 「レトとやると、ぜったい大きくなる」 「……あ」
レトはちょっとだけ納得した。
そこへロジーも来た。
頭上デバイスの表示を流しながら、妙に楽しそうな顔をしている。
「現在確認されている被害は十四件。精神的ダメージは軽微、業務妨害も軽微、でも被害者の記憶にはしっかり残るライン。絶妙だねえ、エル」 「そうでしょ」 「褒めてないよ」 「褒めた」 「半分だけね」
ロジーはそう言いながらも、明らかに感心していた。
「で、次は?」 「まだある」 「何個作ったの」 「いっぱい」 「最悪だ」
言葉のわりにロジーは笑っている。
レトはすでにそわそわしている。
だが、そのときだった。
少し先の廊下で、ぱたん、と軽い音がした。
三人がそちらを見る。
書記官の女性が、机に置かれていた“勝手にウインクする手鏡”に驚いて、抱えていた書類を取り落としてしまっていた。
紙は床一面に散らばっていく。
「あっ……!」
その一瞬で、エルの顔からいたずらっ子の色が消えた。
「……あ」
書記官は慌ててしゃがみこむ。
大事な順に分けていた書類だ。順番が崩れる。
周囲の職員もすぐに手伝いに入るが、少し困っているのは見てわかった。
ほんのちょっぴり。
でも、困らせた。
エルは数秒その場で固まったあと、逃げるのをやめた。
「エル?」 とレトが見る。
エルはぎゅっと口を結び、それから小さく言った。
「……いってくる」
そして次の瞬間には、逃げるためではなく、まっすぐ書記官のもとへ飛んでいった。
「ごめんね」
床にしゃがみこみ、散らばった書類を一緒に拾い集める。
書記官が目を丸くした。
「エルさん……」 「いたずら、した」 「やっぱり」 「ちょっとだけに、したつもりだった」 「はい」 「でも、こまらせた」 「……はい。でも大丈夫ですよ。少し驚いただけです」
エルはしゅんとした顔で紙を揃える。
さっきまでの得意気な顔はどこにもなかった。
「ほんと?」 「本当です」 「ほんのちょっぴり?」 「ほんのちょっぴりです」
その言葉にエルはほんの少しだけ安心したが、すぐまた真顔になった。
「でも、怒られる」 「それは、たぶん」
そこに、低い声が落ちた。
「たぶんじゃない。怒る」
振り向くと、ジェレミーが立っていた。
いつ来たのか分からない。
黒い制服姿のまま、静かに廊下を見渡している。
その背後には副長。さらに少し離れてロジーとレト。
いつの間にか見物人の職員たちまで揃っていた。
完全に包囲されていた。
エルはぴしっと固まった。
逃げようと思えば逃げられる。
たぶん今からでも誰にも捕まらない。
でも、逃げなかった。
エルはそろそろと立ち上がり、ジェレミーの前まで歩いていく。
そして自分から両手を差し出した。
「……つかまった」
ジェレミーは一瞬だけ目を細めた。
「自首か」 「うん」 「逃げられただろう」 「うん」 「なのに来たのか」 「めいわく、かけちゃったから」
ジェレミーはその答えを少しだけ見つめていた。
それから、エルの頭を軽く指でつつく。
「迷惑が“ちょっぴり”で済んでるうちに来たのは偉い」 「……うん」 「だが、いたずらしたことは別だ」 「う」 「説教コースだ」 「やっぱり」
副長が横で笑いを噛み殺しながら口を開く。
「本気で逃げると誰も捕まえられないのに、困らせたと思った瞬間に自分で来るんですね」 「エルだもん」 とレトが言う。 「そういうとこ、えらい!」 「評価対象!」 とロジーが続けた。 「いたずらアイテムの設計思想、かなり好き。回収前に一覧だけ取っていい?」 「だめだ」 ジェレミーが即答する。 「増える」 「増えますね」 副長も同意した。
エルはまだしょんぼりしていた。
その様子を見て、書記官がそっと笑う。
「本当に、ほんのちょっぴり困っただけですよ。びっくりしましたけど」 「ごめんね」 「はい。でも少しだけ、面白かったです」 「ほんと?」 「本当です」
周りの職員たちも口々に言った。
「床に花はちょっと好きでした」 「マグカップ、ちょっと欲しいです」 「椅子は業務中には困りますが、休憩室なら……」 「副長の花冠、似合ってました」 「言いましたね?」 と副長がにっこりしたので、その職員は即座に黙った。
ジェレミーは小さく息をついて、エルを見る。
「……アイテムは全部回収。技術班で確認」 「うん」 「今日中に被害……いや、いたずら内容の申告書を書け」 「かけない」 「口述でいい」 「うん」 「それから」 「それから?」
ジェレミーは少しだけ間を置いて言った。
「次にやるなら、事前に私か副長に見せろ」 「やっていいの?」 「許可するとは言ってない。危険性を先に確認する」 「そっか」 エルはちょっとだけ残念そうにした。 「でも、だめって言われる」 「内容による」 「ほんと?」 「ほんのちょっぴり困る程度で、誰も嫌な気持ちにならないなら、検討する」 「……けんとう」
その言葉の意味を、エルは真剣に考えた。
レトがすかさず口を挟む。
「じゃあ次はわたしも混ぜて!」 「だから大きくなる」 とエル。 「そこは同意です」 とロジー。 「レトさんが入ると確実に被害規模が拡大しますね」 と副長。
「なんでぇ!?」
廊下に笑いが広がる。
エルはその中で、少しだけほっとした顔になった。
本気で怒られると思っていた。
もちろん怒られはする。あとでしっかり説教もされる。
でも、それで終わりではなかった。
ほんのちょっぴり困らせただけ。
ほんのちょっぴり、みんなを笑わせもした。
だからジェレミーは、最後にひとつだけ付け加えた。
「次は“いたずら”じゃなくて、“遊び”の範囲に収めろ」 「……うん」 「できるか?」 エルは少し考えたあと、こくりと頷いた。
「たぶん」 「“たぶん”は禁止だ」 とジェレミーが言い、
「でも、エルなら途中でちゃんと戻ってきますよ」 と副長が笑い、
「戻ってくる前に記録したい」 とロジーが言い、
「わたしは最初から参加したい!」 とレトが元気よく言った。
結局その日の夕方、技術班には大量の魔法アイテムが持ち込まれ、検査待ちの棚がひどくにぎやかになった。
ラベルには副長の指示で、簡潔にこう書かれた。
軽微ないたずら用魔法アイテム群/作成者:エル/本人は反省中、ただし次回作の気配あり。




