第14話-『神性存在』
惑星ミルネアの朝は、穏やかだった。
東の海から吹く風が、市場に並ぶ布屋根をゆっくりと揺らしている。
焼きたてのパンを棚へ並べる店員。
学校へ向かって走る子供たち。
停留所で通勤車両を待つ人々。
広場の噴水では、整備職員が水量を調節していた。
大きな事件も、災害もない。
今日も昨日と同じように始まり、明日も同じように続く。
誰もが、そう思っていた。
広場の端にある小さな飲食店で、一人の老人が孫と向かい合って座っていた。
老人の手には、色褪せた写真がある。
現在では再開発され、もう残っていない街並み。
狭い道。
低い家々。
軒先に商品を並べた、小さな食料品店。
写真の隅には、若い頃の老人と、すでに亡くなった家族が写っていた。
老人は写真の中の一軒を指さす。
「ここが、わしの生まれた家だ」
孫が身を乗り出した。
「ちっちゃい」
「昔は、これで十分だったんだ」
「今のおうちより好き?」
老人は困ったように笑う。
現在の住まいに不満があるわけではない。
家族もいる。
穏やかな生活もある。
けれど、写真の中には、もう会えない人々がいた。
「そうだな」
老人は、皺の刻まれた指で写真を撫でた。
「あの頃はよかった」
孫が顔を上げる。
「おじいちゃん。あれ、なに?」
青空の中に、小さな光の輪が浮かんでいた。
銀色に近い、淡い光。
太陽の反射ではない。
何にも支えられていない環が、空中で静かに回転している。
市場にいた人々も足を止めた。
一つ。
二つ。
三つ。
光の輪は少しずつ増えていった。
どれも遠い空にあるように見える。
それなのに、手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明だった。
やがて、最初の異変が起きた。
広場の噴水から漏れていた水が、床の上を逆向きに流れ始める。
排水溝へ向かっていた水が噴水へ戻る。
濡れていた石床が乾き、噴水の縁にあった欠けが滑らかに塞がった。
整備職員が目を見開いて触れる。
「直ってる……?」
市場の端では、前日の強風で破れた布屋根が、ひとりでに元の形へ戻っていく。
裂けた布が繋がる。
ほつれた糸が縫い目へ戻る。
曲がっていた支柱が、音もなくまっすぐになる。
数年前に伐採された街路樹の切り株から、太い幹が伸びた。
成長したのではない。
失われた部分が、以前そこにあった姿へ戻っている。
枝が現れ、緑の葉が広がった。
人々の間から歓声が上がる。
惑星中で、同じことが起きていた。
壊れていた窓が元へ戻る。
修復できずに閉鎖されていた古い橋が、崩落前の姿を取り戻す。
失くした品物が、以前置かれていた場所へ現れる。
病院では、長く歩けなかった患者がベッドから立ち上がった。
傷痕が消えた。
欠けていた歯が戻った。
事故で失った指が、かつての形を取り戻した。
広場にいた老人は、自分の両手を見た。
深かった皺が薄くなっている。
節々を蝕んでいた痛みが消えていく。
「おじいちゃん?」
白かった髪が、根元から灰色へ変わっていた。
曲がっていた背筋が伸びる。
老人は立ち上がった。
長年使っていた杖を手放しても、脚に痛みはない。
「若くなってる!」
誰かが叫んだ。
驚きは、やがて喜びに変わった。
奇跡だ。
救済だ。
人生をやり直せるのではないか。
失ったものを、もう一度取り戻せるのではないか。
人々は空を見上げた。
その時にはすでに、無数の光環が惑星ミルネアを取り囲んでいた。
◇
三時間後。
高層建築の外壁が消え始めた。
完成した表面が、塗装前の下地へ戻る。
仕上げ材が取り外された状態へ変わり、鉄骨が露出する。
さらに接合部が外れ、建物全体が建設途中の姿へ戻っていく。
内部にいた人々が避難するより先に、階段がまだ設置されていなかった状態へ戻った。
床を失った者たちが落下する。
救助車両が現場へ急行した。
だが、車両も走行中に変化した。
最新式の外装が旧型へ戻る。
交換されていた部品が故障時の状態へ戻る。
修理済みの推進器が停止し、後続車両が次々と衝突した。
惑星政府は非常事態を宣言した。
環状魔力の正体は不明。
人々には建物から離れ、開けた場所へ移動するよう指示が出された。
直後、その指示も変更された。
道路が消え始めたからだ。
舗装が剥がれるのではない。
道路そのものが、建設される以前の地面へ戻っている。
地下の配管が消え、水道が止まる。
電力設備が設置前へ戻り、都市の一部が暗闇に沈んだ。
最初に修復された古い橋は、壊れる前の姿を通り越し、建設途中へ戻った。
完成前の骨組みが崩れ、川へ落ちる。
老人は孫の手を引き、自宅へ向かっていた。
身体はすでに四十代ほどまで若返っている。
白髪はほとんど黒くなり、歩みも速い。
けれど、その顔に喜びはなかった。
孫の身体にも変化が起きていた。
袖が長くなっている。
違う。
服が大きくなったのではない。
孫の腕が短くなっている。
足取りが不安定になる。
「おじいちゃん……」
声が、ほんの少し幼くなっていた。
老人は孫を抱き上げた。
その腕には、若い頃の力が戻っている。
それでも、孫を安心させることはできなかった。
「大丈夫だ」
老人は言った。
「おじいちゃんがいる」
自分でも信じていない言葉だった。
身体が若返っても、記憶は何一つ失われていない。
妻を亡くした日のこと。
娘が生まれた日のこと。
初めて孫を抱いた時のこと。
そのすべてを覚えている。
孫も同じだった。
小さくなっていく自分の手を見つめ、何が起きているのか理解していた。
「ぼく、消えるの?」
老人は答えられなかった。
◇
都市の反対側。
避難所として指定された競技場へ、一人の母親が娘を連れて走っていた。
娘は七歳だった。
少し前までは、母親の手を引くほど元気に走っていた。
今は身体が六歳ほどまで縮み、歩幅が狭くなっている。
母親は娘の手を握ったまま、何度も振り返った。
「もう少しよ」
できるだけ平静な声を作った。
「競技場にお医者さんがいるから。そこまで行けば大丈夫」
「お母さん」
娘が息を切らしている。
「靴が、変」
足が小さくなり、靴の中で滑っていた。
母親は足を止めた。
しゃがみ込み、靴紐をきつく結び直す。
指が震えていた。
「これで歩けるでしょう」
「うん」
「急ごう」
娘を立たせる。
数歩進んだところで、片方の靴が脱げた。
足がさらに小さくなっていた。
母親の顔から血の気が引く。
「大丈夫」
娘よりも自分へ言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫だから」
娘を抱き上げる。
その身体は軽くなっていた。
七年間、何度も抱いてきた。
眠ってしまった夜。
熱を出した日。
泣いて帰ってきた日。
つい先日まで、もう重くて長くは抱けないと笑っていた。
それが今は、腕の中へ簡単に収まってしまう。
「お母さん」
娘の声が、少し高くなった。
「わたし、ちっちゃくなってる」
「見なくていいの」
母親は早足で進む。
「お医者さんが戻してくれるから」
「戻るの?」
「戻るわ」
「本当に?」
「本当よ」
答えるたび、声が硬くなる。
娘に嘘だと気づかれないように。
自分が嘘だと理解しないように。
競技場の入口には、多くの人が押し寄せていた。
負傷者。
子供の身体へ戻された成人。
縮んだ身体を抱える家族。
言葉を失いかけた幼児の姿で、職員証を掲げる人間。
警備員が声を張り上げている。
「押さないでください!」
「医療処置の手段は現在確認中です!」
「環の近くへ行かないでください!」
母親は人々を掻き分けた。
「通してください!」
娘の身体が、また少し軽くなる。
母親は腕の中を見る。
五歳ほどだった姿が、四歳ほどまで戻っていた。
顔立ちが幼くなる。
腕が短くなる。
母親の上着を掴んでいた手が、小さくなっている。
「お母さん」
娘は自分の手を見ていた。
「止まらないよ」
「止まる」
母親は即座に答えた。
「絶対に止まるから」
「でも、ずっとちっちゃくなってる」
「見ないで!」
思わず強い声が出た。
娘が怯えた。
母親はすぐに後悔した。
「ごめんね」
娘の頬へ自分の頬を寄せる。
「怒ってない。お母さん、怒ってないから」
「わたし、悪いことした?」
「してない!」
母親の声が裏返った。
「あなたは何もしてない。何も悪くないの」
近くを通った医療職員の腕を掴む。
「この子を診てください!」
職員が振り向く。
その職員自身も、制服の袖が余るほど若い身体へ戻り始めていた。
「現在、原因も停止方法も――」
「見てください!」
母親は娘を突き出すように抱き直した。
「七歳なんです。この子、七歳なのに、もうこんなに小さくなってるんです」
「同様の症状が惑星全域で発生しています」
「症状じゃない!」
母親の声が大きくなる。
「この子が消えてるの!」
「落ち着いてください」
「落ち着いてる!」
落ち着いていなかった。
自分でも分かっていた。
だが、落ち着けと言われた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
「早くしてください!」
職員の胸を掴む。
「薬でも魔術でも何でもいい! 戻してください!」
「現時点で物理履歴の逆行を――」
「難しい言葉を使わないで!」
母親は叫んだ。
「止められるの!? 止められないの!?」
職員は答えられなかった。
その沈黙を見て、母親は首を振る。
「違う」
「そんな顔しないで」
「助けられないみたいな顔をしないで!」
娘の身体は、さらに幼くなっていた。
三歳ほど。
着ていた服が身体から外れ始める。
衣服そのものも、縫製前の布へ戻りつつあった。
母親は自分の上着を脱ぎ、娘を包んだ。
「お母さん」
発音が拙くなっている。
「わたし、わたしだよ」
「分かってる」
母親は娘の顔を両手で包んだ。
「あなたはあなたよ」
「学校も覚えてる」
「うん」
「お友達も」
「うん」
「昨日、お母さんとけんかしたのも」
「覚えてる」
母親の目から涙が溢れた。
「ごめんね。昨日は怒りすぎた。ごめんね」
「わたしも、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「お母さん」
娘の声がさらに幼くなる。
「怖い」
母親の呼吸が止まった。
「怖いよ」
「大丈夫」
母親は娘を抱き締める。
「お母さんがいる」
まだ、声を保てていた。
「絶対に離さないから」
「消えたくない」
その一言で、母親の中に残っていた冷静さが崩れた。
「消えない」
強く言い切った。
「消えるわけないでしょう」
娘の背中を何度も撫でる。
「お母さんの子なんだから。絶対に消えない」
娘の身体は二歳ほどまで戻っていた。
首を支える力が弱くなる。
脚が動かなくなる。
腕も自分の意思どおりに持ち上げられない。
それでも、瞳には七年間を生きた娘の理解が残っている。
「ねえ!」
母親は医療職員へ振り返った。
「何してるの!? 早くして!」
「現在、現象の切断を――」
「今やって!」
「ここには設備が――」
「だったら連れてきて!」
母親は声を荒らげた。
「惑星政府でも監理局でも、誰でも呼んで!」
「救難要請は送られています」
「いつ来るの!?」
返事はない。
「この子が消えてから来るの!?」
母親は娘を抱いたまま、群衆へ向かって叫んだ。
「誰か助けて!」
「お願い、この子を助けて!」
「誰か何かできるでしょう!」
人々は振り返る。
しかし、誰も助けられない。
その中にも、同じように小さくなる家族を抱いた者がいる。
自分の身体が過去へ進みながら、他人を救おうとしている職員もいる。
母親には、そんなことは見えなくなっていた。
世界には、娘しかいなかった。
「わたしはどうなってもいいから!」
空へ向かって叫ぶ。
「この子だけ止めて!」
環へ向かって。
政府へ向かって。
まだ見ぬ救助者へ向かって。
「わたしの時間を使って!」
「わたしの身体を持っていって!」
「この子の代わりにわたしを戻して!」
娘の声が言葉を作れなくなっていく。
「お、かあ……」
幼い喉から、崩れた音が漏れる。
「ここにいる!」
母親は泣きながら、必死に笑った。
「お母さん、ここにいるよ!」
「見て、ほら、ここ!」
娘の顔を自分の方へ向ける。
「お母さんを見て!」
娘の瞳が母親を捉える。
その瞳だけは、七歳の娘のものだった。
状況を理解している。
助けてほしい。
消えたくない。
母親を置いていきたくない。
そのすべてが伝わった。
「嫌」
母親の声が震えた。
娘の身体は乳児ほどまで戻っていた。
自分で頭を支えられない。
小さな指が、母親の服を掴もうとする。
力が入らない。
母親はその手を両手で包み、何度も口づけた。
「大丈夫」
「大丈夫だから」
「お母さんが何とかするから」
何もできない。
それでも、言葉を止められなかった。
娘の瞳から涙が流れる。
乳児の反射ではない。
自分の終わりを理解した子供の涙だった。
「泣かないで」
母親も泣いていた。
「お願い、そんな顔しないで」
娘の身体が、さらに小さくなる。
重さが減る。
抱いている感触が薄くなる。
「待って」
母親の声が上ずった。
娘を強く抱き締める。
「待って、待って」
力を込めれば留められると思った。
腕の中へ閉じ込めれば、どこにも行かないと思った。
「お母さんが抱いてるから」
「ここにいるから」
「だから消えないで」
娘の指先が薄くなる。
母親はその指を掴もうとする。
指の間を光がすり抜けた。
「やめて」
娘の腕が消え始める。
「やめて!」
母親は周囲を見回した。
「誰か!」
絶叫に近い声だった。
「早く! この子が消える!」
医療職員へ娘を差し出す。
「何でもいいからやって!」
「お願いだから!」
職員が手を伸ばす。
だが、触れる前に娘の身体がさらに薄くなった。
母親は娘を引き戻す。
「触って!」
「捕まえて!」
「一緒に持っていて!」
「この子をここに縛って!」
自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
「環を壊して!」
「空を壊して!」
「星を止めて!」
「何でもできるでしょう!」
娘の身体が光の中へ溶けていく。
「お願い!」
母親は地面へ膝をついた。
「お願いします!」
娘を抱きながら、何度も頭を下げる。
「わたしの子なんです!」
「この子は何も悪くないんです!」
「七年しか生きてないんです!」
「これからだったんです!」
娘の顔が薄くなる。
「いや」
母親の声が変わった。
懇願ではない。
獣のような叫びだった。
「いやあああああっ!」
娘の名前を叫ぶ。
何度も。
何度も。
喉が裂けるほど。
「お母さんを見て!」
「目を閉じないで!」
「ここにいて!」
「お願いだから、ここにいて!」
娘の口が動いた。
声は出ない。
それでも、母親には自分を呼んだように見えた。
「いるよ!」
母親は狂ったように頷く。
「いる! お母さんいるよ!」
「ずっといる!」
「どこにも行かない!」
「あなたも行かないで!」
娘の顔が消えていく。
最後まで残った瞳が、母親を見ていた。
母親はその瞳へ顔を近づける。
「大好き」
何度も繰り返した。
「大好きだから」
「世界で一番大好きだから」
「お願い」
「消えないで」
「お母さんを一人にしないで」
娘の瞳が消えた。
腕の中から、重さがなくなる。
娘の身体は、完全に失われた。
衣服だった布だけが、母親の膝へ落ちた。
母親の両腕は、何もない空間を抱いていた。
数秒間。
母親は動かなかった。
呼吸も忘れたように、空の腕の中を見つめている。
「……あれ」
布を持ち上げる。
その下を見る。
「どこ?」
地面を探す。
自分の後ろを振り返る。
「どこに行ったの?」
立ち上がり、周囲を見回した。
「ねえ」
群衆の中へ娘の姿を探す。
「お母さん、ここだよ」
「隠れなくていいよ」
声が震え始める。
「もう出てきて」
競技場の入口へ走る。
他人の肩を掴む。
「この子を見ませんでした?」
誰も答えられない。
「小さい女の子です」
娘が着ていた布を見せる。
「さっきまでここにいたんです」
「わたしが抱いてたんです」
「いなくなるわけないんです」
母親は笑おうとした。
顔が引きつる。
「ねえ、どこに隠したの?」
医療職員へ詰め寄る。
「返してください」
「わたしの子を返してください」
職員が何か言おうとする。
母親はその胸を叩いた。
「返して!」
一度。
二度。
何度も。
「返してよ!」
「さっきまでいたの!」
「喋ってたの!」
「怖いって言ってたの!」
「わたしを見てたの!」
声が潰れていく。
「全部覚えてたのに!」
「どうしてなかったことにするの!?」
母親は職員の服を掴み、地面へ崩れ落ちた。
「お願い」
「お願いだから」
「返して」
娘の布を胸へ抱く。
「何でもするから」
「わたしの命をあげるから」
「この星も、家も、何もいらないから」
額を地面へつけた。
「娘だけ返してください」
「一回だけでいいから」
「もう一回、抱かせてください」
「もう怒らないから」
「何でも言うことを聞くから」
懇願は次第に言葉を失った。
泣き声と叫びが混ざる。
地面を掻きむしる。
指先から血が出ても止めない。
「返して」
「返して」
「返して!」
空へ向かって叫ぶ。
「わたしの子なの!」
「わたしが産んだの!」
「七年間、毎日一緒にいたの!」
「勝手に消さないで!」
「返せえええええっ!」
その時。
母親の両手が小さくなった。
指が細くなる。
血のついていた爪が、傷つく前の状態へ戻る。
腕が短くなる。
衣服が緩み始めた。
母親は、自分の手を見つめた。
娘を失った狂乱の中へ、遅れて自分自身の恐怖が入り込んだ。
「いや」
立ち上がろうとする。
脚が短くなり、身体の均衡が崩れた。
地面へ倒れる。
「いや……」
後退しようと手をつく。
小さくなった腕では、身体をうまく支えられない。
「助けて」
周囲を見る。
先ほどまで娘のために叫んでいた声が、今度は自分のために漏れた。
「誰か、助けて」
娘と同じように、身体が過去へ進んでいる。
髪が若い頃の長さへ戻る。
手足が少女のものへ変わる。
視線が低くなる。
胸郭が縮む。
声が高くなる。
意識は、母親のままだった。
娘を産んだ日のこと。
初めて名前を呼んだ時のこと。
初めて歩いた日。
泣きながら学校へ行った朝。
昨日の喧嘩。
今朝、笑っていた顔。
腕の中で消えた最後の瞳。
何も失われない。
「怖い」
少女の声で呟いた。
「怖いよ……」
自分も消える。
娘と同じように。
身体を失いながら、その過程を最後まで理解する。
母親は泣いた。
しかし、先ほどまでのように叫ぶ力はもう残っていなかった。
娘を失った悲しみが、恐怖さえ押し潰し始める。
やがて母親は、地面へ座り込んだまま動かなくなった。
周囲では人々が逃げている。
誰かが絶叫している。
建物が過去へ崩れている。
それらはもう、母親の目には映っていなかった。
娘が残した布を抱いている。
その布も少しずつ繊維へ戻り始めていた。
「どこにいるの」
幼い声。
「寒くない?」
返事はない。
「暗くない?」
身体がさらに小さくなる。
髪が短くなる。
腕の中の布がほどけ、糸へ戻っていく。
母親はそれを必死に掴もうとした。
だが、小さくなった指では握れない。
糸が消える。
娘の残した最後のものまでなくなった。
母親は空の両手を見つめた。
「何もなくなっちゃった」
涙だけが流れた。
「お母さん、何も持ってない」
身体は幼児へ近づいていく。
言葉を作ることが難しくなる。
それでも、娘の名前だけを呼び続けた。
「待ってて」
発音が崩れる。
「お母さんも、行くから」
どこへ行くのかは分からない。
娘がどこにもいないことも、本当は理解している。
それでも、そう思わなければ消えることさえできなかった。
「一人にしないから」
母親の身体が乳児へ戻っていく。
自分で座っていられなくなり、地面へ横たわる。
瞳は空を見ていない。
娘と過ごした日々だけを見ていた。
小さな手。
眠る横顔。
笑い声。
自分を呼ぶ声。
最後まで、自分を見ていた瞳。
声を失った口が、娘の名前を作ろうと動く。
身体の輪郭が薄れる。
母親は茫然としたまま、我が子のことだけを思っていた。
やがて、その身体も光の中から失われた。
◇
六時間後。
変化は加速していた。
数年分の過去が、一秒ごとに消費される。
最新の建物が消える。
その下から古い街並みが現れる。
古い街並みもすぐに更地へ戻る。
人々の身体は若返り、幼くなり、誕生以前へ戻されて消えていく。
身体の歴史が短い子供たちは、成人よりも早く終点へ到達した。
親たちは、我が子が先に消える光景を、正常な意識で見届けた。
その後、自分たちも同じように過去へ進められた。
宇宙港では避難船の発進準備が進められていた。
一隻目が離陸する。
高度数百メートルで、改修済みの推進器が旧式へ戻った。
出力が落ちる。
外装が製造途中へ戻り、接合を失った装甲板が剥離する。
避難船は空中で分解した。
二隻目は発進できなかった。
燃料が精製前の物質へ戻り、配管の中で凝固した。
三隻目は格納庫ごと消えた。
宇宙港そのものが建設前へ戻ったためだった。
惑星政府は、外部へ最後の救難信号を送った。
通信室に残った職員は、すでに十歳ほどの身体へ戻っていた。
成人としての記憶はすべて残っている。
家族もいた。
仕事もあった。
自分の名も、生きてきた年月も覚えている。
だが、小さくなった指では端末の操作が難しい。
隣にいた職員は、幼児ほどの身体だった。
言葉を作れない。
それでも瞳には大人の理解が残っている。
自分たちが消えようとしていることを知っている。
通信職員は、震える指で送信を続けた。
「惑星ミルネアより……救難信号……」
声帯がさらに幼くなる。
「環が……惑星を……戻している……」
背後で壁が消えた。
通信室が建設される以前へ戻り、床の一部が土へ変わる。
端末の外装も消え始めた。
「意識は……正常……」
職員は小さくなっていく自分の腕を見た。
「覚えている……全部……」
涙が頬を流れた。
幼い身体に宿っているのは、消滅を理解した人間の恐怖だった。
「助けて……」
通信はそこで途絶えた。
惑星を囲む環との接続は、さらに深くなった。
文明の数百年が、数秒で失われる。
都市が消える。
農地が森へ戻る。
改良された作物が野生種へ戻る。
家畜が品種改良以前の姿へ戻る。
やがて人間だけでなく、動植物の歴史も逆行した。
森林が過去の植生へ変わる。
動物が祖先種へ戻り、さらに生命の系統そのものが消えていく。
海中から生命が失われる。
大気の組成が変わる。
海岸線が移動する。
山脈が低くなる。
海が現在とは異なる形へ戻っていく。
惑星ミルネアは、原始の海と岩石に覆われた、生命の存在しない星となった。
巨大な環が、ゆっくり収縮する。
惑星を取り囲んでいた無数の光環が、一つの場所へ集まり始めた。
大小の環が重なり合い、巨大な輪郭を作る。
人にも見える。
天体にも見える。
無数の門が重なった構造体にも見える。
環の内側には、古い家や、家族の食卓や、笑う子供たちが映っていた。
それはミルネアの記憶ではない。
もっと多くの人間が、帰りたいと願った無数の過去。
神性存在は、原初へ戻った惑星を振り返らなかった。
身体を構成する環を回収し、次の星へ向けて移動を始めた。
◇
惑星監理局の中央指令室に、最後の救難通信が流れていた。
幼くなった声。
途切れた発音。
それでも明確に残る恐怖。
『意識は……正常……』
通信が終わる。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
中央画面には、生命の消えた惑星ミルネアが映されている。
都市はない。
人工衛星もない。
原始の海と岩石だけの星。
ロジーは頭上のデバイスへ、受信記録を保存していた。
いつもの大きな声はない。
表情も動かない。
送信時刻を整合させ、欠落部分を分離し、発信元を確認する。
最後の通信が、確かに惑星ミルネアから送られたものだと記録する。
ジェレミーは中央画面を見たまま尋ねた。
「魔力反応は」
情報班主任が答える。
「惑星圏を離脱。恒星間空間を移動中です」
「進路」
星図へ一本の線が表示された。
魔力反応の進行方向には、別の惑星がある。
「惑星ハルヴァ」
人口、約十二億。
複数の大都市と、高密度の交通網を持つ文明惑星。
到達予測は五時間四十二分後。
全住民を避難させる時間はない。
調査班主任が、ミルネアに残された観測記録を表示する。
「確認できている事実は五点です」
惑星の周囲に多数の環状魔力が存在していた。
環が惑星を囲んだ後、物質と環境が過去の状態へ戻された。
変化は時間の経過とともに加速した。
精神、記憶、認識には直接影響しなかった。
同一の魔力反応が惑星ハルヴァへ向かっている。
それ以上は分からない。
なぜミルネアが選ばれたのか。
環は権能の術式なのか、存在の一部なのか。
どこまで過去へ戻せるのか。
どのような条件で停止するのか。
調査班主任が、残留魔力の分析を拡大する。
「魔力構造は、過去を反芻した際に発生する環状微細魔力と類似しています」
昔の美しい想い出。
失われた日々へ戻りたいという願い。
あの時、別の選択をしていればよかったという後悔。
すべてをやり直したいという祈り。
一人分では現実へ影響を与えない、ごく小さな魔力。
それが散らずに記憶の周囲を巡り続け、無数に集積した。
人間の感情から生まれた。
しかし、人間の願いに従うものではない。
固有の権能を持つ、独立した存在。
上位委員会から通知が届く。
神性存在と認定。
暫定登録名《帰環》。
停止不能の場合、討伐を許可。
レトは、原初へ戻された星を見上げていた。
淡緑色の長い髪。
左側で結ばれたワンサイドテール。
青い二つのキューブと黒いリボン。
いつもの明るい表情はない。
「最初の星は、もう助けられないの?」
ジェレミーは答えた。
「戻す手段は確認されていない」
「人も?」
「戻らない」
レトは両手を握った。
ロジーが小さく言った。
「次の星には、まだいる」
惑星ハルヴァでは、惑星政府と監理班が避難計画を調整している。
だが、すべての住民を逃がすことはできない。
住民だけが脱出できても、惑星そのものが原初へ戻れば、その文明と故郷は失われる。
エルは、《帰環》の映像を見つめていた。
白い髪の毛先が、淡いピンクに染まっている。
「あれ、いっぱい」
副長が尋ねる。
「願いが聞こえますか」
「いまの願いじゃない」
エルは環の内側に浮かぶ古い景色を見る。
「昔のが、ずっと回ってる」
「意思疎通は可能でしょうか」
「聞いてるかもしれない」
エルは小さく首を傾けた。
「でも、帰したいだけ」
ジェレミーが指示を出す。
「遠距離観測と無人攻撃で権能を確認する」
「進行を阻止する」
「停止も封鎖もできないなら、討伐する」
指令室の各所で職員たちが動き始めた。
戦闘班。
情報班。
技術班。
調査班。
医療班。
監理班。
戦闘班員は防護装備を確認する。
通常装甲。
魔術固定弾。
牽引索。
緊急密閉覆い。
肉体の一部へ異常が発生した際、影響範囲を封鎖する隔離具。
医療班は、ミルネアの記録から想定される肉体変化へ対応する準備を始めた。
過去へ戻された身体を、現在の状態へ進め直せる保証はない。
それでも処置の可能性を一つずつ検討する。
レトは戦闘班とともに出撃する。
ロジーは情報班の中央処理区画。
エルは指令室で待機するよう命じられた。
未知の権能へ、最初から接触させるわけにはいかない。
エルは返事をした。
「分かった」
ただ、《帰環》から目を離さなかった。
◇
神性存在《帰環》は、惑星ハルヴァの外縁へ到達した。
無数の環が立体的に組み合わさり、巨大な身体を形成している。
一つ一つの輪は、異なる方向へゆっくり回転していた。
環の隙間に、過去の光景が浮かぶ。
誰かが幼い頃に住んでいた家。
古い食卓。
笑う家族。
雨の降る街。
失われた場所。
美しい光景だった。
ミルネアの最期を知る者には、それが何より恐ろしく見えた。
惑星監理局から通信が送信される。
活動停止要求。
惑星ハルヴァへの接近中止。
意思疎通の試み。
《帰環》は言葉を返さない。
身体から一つの大きな環を分離させた。
環はゆっくり拡大しながら、惑星ハルヴァへ向かう。
ジェレミーが命じる。
「無人攻撃開始」
複数の無人砲台から、実体弾が発射された。
異なる方向から《帰環》へ迫る。
《帰環》の身体から、小さな環が次々と分離した。
環は弾丸の進路へ移動する。
弾丸を受け止めるのではない。
その周囲を囲む。
環が閉じた瞬間、弾丸が停止した。
次の瞬間。
弾丸は、今まで通ってきた軌道を逆向きに進み始めた。
速度は失われていない。
発射した無人砲台の銃口へ戻り、砲身と機関部を内側から破壊する。
別方向から高出力光線が照射される。
巨大な環が射線を囲んだ。
伸びていた光が、発射装置へ向かって縮んでいく。
光線が照射経路を逆行し、無人機の内部を焼き切った。
魔術弾も同じだった。
完成した現象が術式へ戻り、制御設備の内部で魔力へ崩れる。
一部は魔力を保持したまま逆流し、発射設備を爆発させた。
技術班員が記録を追う。
「反射ではありません」
情報班が複数の映像を重ねる。
ロジーのデバイスが、弾丸の座標と時刻を一つずつ表示する。
「全部、通った場所を逆に辿ってる」
「空間転送では?」
「転送なら途中が消える。でも、これは全部戻ってる」
弾丸は発射された軌道を逆順に通過している。
光線も、魔術も、成立の過程を逆行していた。
調査班主任が言う。
「攻撃を、発生前の状態へ戻している可能性があります」
その時、《帰環》が大量の環を身体から分離させた。
防御のためではない。
環は監理局の戦闘班へ向けて飛び始めた。
「迎撃!」
前方展開していた第一分隊が散開する。
環は直線では飛ばない。
隊員の移動先を先回りする。
一つが頭上。
一つが足元。
二つが左右へ回り込む。
四つの環が、一人の隊員を立体的に囲もうと閉じていく。
隊員が射撃する。
弾丸は環へ向かう。
別の小型環が弾丸を囲み、発射者へ返す。
隊員は身体を捻った。
戻った弾丸が肩の装甲を掠める。
別の隊員が異なる角度から射撃する。
一つの環が砕けた。
だが、砕けた光は消えなかった。
二つの細い環へ分かれ、再び標的を囲もうとする。
第一分隊長が牽引索を射出した。
閉じかけた環の内側から、隊員を引き抜く。
上半身は抜けた。
左腕だけが、環の内側に残る。
環が閉じた。
防護服の外装が変化する。
最新型の装甲が旧式へ戻る。
補修されていた傷が再び現れる。
通信機が一世代前の形へ変わり、さらに部品へ分解される。
腕の筋肉が細くなる。
骨格が縮む。
手が少年のものへ変わり始めた。
「環を撃て!」
隊員は、自分の腕を見ながら叫んだ。
「腕じゃない! 環を撃て!」
副長が映像を確認する。
「固定弾を使用」
別の戦闘班員が、環へ魔術固定弾を撃ち込む。
固定弾は、対象を現在の座標へ一時的に縫い止める。
一発目。
環の回転が鈍る。
二発目。
細い亀裂が走る。
三発目。
環が砕けた。
隊員が引き抜かれる。
左腕は、肘から先だけが少年期の状態へ戻っていた。
本人は小さくなった指を動かした。
「意識状態は」
医療班が通信で尋ねる。
「正常。記憶欠損なし」
「直ちに後退してください」
「まだ撃てる」
「命令です」
隊員は一度だけ《帰環》を見た。
それから後退した。
精神に影響はない。
被害者は、自分の身体に何が起きているのかを、最後まで理解する。
ジェレミーの声が全隊へ流れる。
「完全包囲を許すな。接触した場合、環の切断を優先」
戦闘班が隊形を変更する。
一人を孤立させない。
互いの死角を補い、環が閉じる前に固定弾を撃つ。
レトが戦闘班の前方へ出た。
「前に壁を作る!」
「突出するな」
戦闘班長が制止する。
「隊列から離れない!」
「了解!」
レトの周囲へ、硝子の短剣が展開する。
青白い光を内側へ閉じ込めた刃が円を描き、その間に透明な硝子の防壁が生まれた。
飛来した環が壁を囲む。
防壁の表面が揺らぐ。
完成した硝子が造形途中へ戻る。
滑らかな壁が光へ崩れ、消えた。
レトはすぐに二枚目を作る。
二枚目も囲まれる。
消える。
三枚目。
四枚目。
同じ形ではない。
厚さを変える。
湾曲させる。
内部の熱を変える。
短剣を組み込む。
環は一枚ずつ、異なる対象として処理しなければならない。
戦闘班は、防壁が消えるまでの僅かな時間を使って前進する。
「防壁、三秒維持!」
技術班が計測する。
「次は二・七秒!」
「短くなってる!」
「接触時間に比例して処理速度が上昇している可能性があります」
《帰環》は、さらに別の攻撃を始めた。
複数の環が身体から分離し、互いに重なる。
環は圧縮され、小さな光の塊となった。
技術班の警報が鳴る。
「高密度魔力反応!」
光の塊が射出された。
標的は第一分隊の一人。
隊員が散開する。
魔術弾は直進しない。
標的を追って急旋回する。
レトが硝子壁を展開する。
魔術弾が壁へ触れる。
防壁は砕けない。
造形前へ戻されて消える。
弾は止まらない。
二枚目。
三枚目。
すべて消す。
標的の隊員が瞬間移動した。
魔術弾は一度、元の位置を通過する。
次の瞬間、軌道を折り曲げた。
隊員が移動する前にいた位置を通り、そこから新たな現在位置へ向けて追跡を再開する。
「移動履歴を追ってる!」
ロジーが言った。
魔術弾は現在位置だけを狙っていない。
対象が辿った経路を読み、標的へ戻ろうとしている。
副長が命じる。
「無人区域へ誘導」
戦闘班員が高速移動する。
魔術弾は追う。
瞬間移動。
急停止。
方向転換。
弾は履歴を辿り続ける。
レトが標的と弾の間へ、湾曲した硝子壁を何層も作った。
一枚目が消える。
二枚目も過去へ戻る。
三枚目は、弾道に対して斜めに置かれていた。
魔術弾の進路が僅かにずれる。
レトは次の壁を置く。
一枚ごとに、ほんの少しずつ角度を変える。
弾は壁を消しながら進む。
だが軌道は徐々に無人区域へ逸れていく。
戦闘班が三方向から固定弾を撃ち込む。
一発目が外周環を固定する。
二発目が誘導軌道を止める。
三発目が、魔術弾を現在の座標へ縫い止める。
レトの硝子短剣が中心を貫いた。
圧縮されていた環が砕ける。
情報班員が暫定名称を記録する。
帰着弾。
標的を帰着先として指定し、対象の移動履歴を辿る高誘導攻撃。
《帰環》の大型環が動いた。
惑星ハルヴァへ向けていた環の一部が、戦場全体へ広がる。
レト。
戦闘班。
無人攻撃艇。
すべてが環の内側に入った。
「大型環、閉鎖!」
戦闘班員たちの身体が後方へ引かれる。
吹き飛ばされたのではない。
戦場へ進入してきた経路を逆向きに戻されている。
前進した一歩が取り消される。
移動艇が発進地点へ逆走する。
射出した固定具が、収納状態へ戻る。
レトが瞬間移動する。
《帰環》へ近づく。
次の瞬間、移動前の座標へ叩き戻された。
「進めない!」
技術班が環の内外を解析する。
「内側の移動履歴を逆行させています!」
戦闘班長が判断する。
「固定点を残しながら進む」
射出式の固定杭が放たれる。
杭は空間へ打ち込まれた直後、発射前へ戻され、装置へ収まった。
「射出装備は使えません!」
レトが手を上げる。
その場で硝子の杭を造形する。
過去の収納状態も、発射地点もない。
生まれたばかりの杭を、現在の空間へ直接固定する。
戦闘班員が牽引索を繋ぐ。
大型環が移動を戻す。
隊員たちの身体が後方へ引かれる。
硝子杭が軋む。
環が杭を造形前へ戻し始める。
光へ崩れる前に、レトが二本目を作る。
一つ目が消える前に二つ目。
二つ目が消える前に三つ目。
戦闘班は索を繋ぎ替えながら、一歩ずつ前進する。
「右側、帰着弾!」
新たな魔術弾が飛来する。
レトが防壁を展開する。
戦闘班が固定弾を構える。
その時、戦場の残骸が動いた。
破壊された無人砲台。
砕けた攻撃艇。
切断された装甲板。
それらが、破壊前の配置へ戻ろうと集まり始める。
部品が高速で移動する。
巨大な装甲板が、戦闘班の左右から迫った。
過去の船体形状へ戻るために、その間にいる人間を押し潰そうとしている。
「残骸が復位します!」
戦闘班が散開する。
だが、大型環が移動を取り消す。
前へ逃げても、元の位置へ引き戻される。
レトが短剣を飛ばす。
接近する装甲板を切断する。
切断面が現れた直後、装甲板が切断前へ戻る。
硝子の短剣が金属の内部へ挟み込まれた。
レトは短剣を解除し、別の刃を作る。
戦闘班員が装甲板の間へ固定弾を撃ち込み、現在の位置へ留める。
一人。
二人。
三人。
隊員たちが隙間を抜ける。
後方で固定弾が過去へ戻され、装甲板が再び動き始める。
最後尾の隊員へ迫る。
副長の微細な魔力針が飛んだ。
金属ではない。
装甲板を囲む環の回転軸へ、複数の針が突き刺さる。
環の向きが僅かにずれた。
最後尾の隊員が抜ける。
装甲板が衝突し、無人艇の破片を押し潰した。
ロジーは、戦場に分離した環を追い続けていた。
弾丸を戻す環。
人間を囲む環。
帰着弾を構成する環。
移動履歴を逆行させる大型環。
残骸を過去の配置へ戻す環。
「環ごとに、囲んだものを戻してる」
情報班員が処理時間を比較する。
同じ規格の弾丸は、複数発でも少数の環で処理されていた。
構造も由来も異なる攻撃には、別の環が向かっている。
技術班は、小型無人機を一機だけ環の内側へ残した。
最初は、数秒前の位置へ戻る。
次に、戦闘前に施された修理が消えた。
補修前の傷が現れる。
さらに改修以前の構造へ変化する。
変化の間隔が短くなっていく。
「逆行速度、上昇」
技術班員の声が硬くなる。
「囲まれている時間が長いほど、過去へ進む速度が加速しています」
ミルネアでは、最初に壊れた物が直った。
その後、建設前へ。
文明以前へ。
生命以前へ。
惑星を囲む環が長時間切断されなかったため、接続が深まり続けた。
最後には、数十億年分の惑星史が短時間で消費された。
惑星ハルヴァへ向かう巨大環は、すでに惑星圏の両側へ回り込み始めている。
完全に閉じるまで、残り四十二分。
ジェレミーが命じる。
「討伐へ移行する」
◇
環は無数にある。
だが、無限ではない。
身体を構成する環を、防御と攻撃のたびに分離している。
一つの環が対象の履歴を処理している間、その環は別の対象へ使われない。
同じ規格、同じ履歴の攻撃は、まとめて処理される。
ならば、まとめられない過去を同時に与える。
レトが、生成するたびに異なる硝子を作る。
ロジーが、異なる時代と文明から、異なる履歴を持つ攻撃を具現化する。
その二つを同時に行えば、環の処理を分散できる。
情報班と技術班が、必要な負荷量を計算し始める。
調査班は《帰環》の中心部に残る環の動きを追う。
中央指令室の端で、エルは報告を聞いていた。
「履歴の複雑な対象ほど、処理に時間を要する可能性があります」
技術班員が言う。
「ただし、十分に長い履歴を持ち、接触後も消失しない対象を用意することは――」
エルの姿が消えた。
転移の予兆もない。
白い少女が立っていた場所には、何も残っていない。
指令室に警報が響く。
「エルの反応消失!」
「戦場側に出現!」
中央画面が切り替わった。
《帰環》と戦闘班の間。
宇宙空間に、エルが立っている。
ジェレミーの声が鋭くなる。
「エル、戻れ」
通信は繋がっていた。
エルは《帰環》を見つめたまま答える。
「聞いてる」
「戻れ。待機命令は解除していない」
「あたし、長いから」
「理由にならない。帰還しろ」
《帰環》の中核付近にあった環が、エルへ向き始める。
エルはその動きを見ていた。
「あたしは消せない。だからいる」
「エル」
ジェレミーの声も。
副長の制止も。
技術班から届く警告も。
すべて聞こえている。
それでも、エルは動かなかった。
こういう時、エルは引かない。
《帰環》から無数の環が分離し始める。
エルが小さく言った。
「あたしに来させる」
「何をだ」
「輪を」
エルは戦闘班を見る。
レトを見る。
遠く離れた情報班のロジーを、通信の向こうに感じている。
「みんなじゃなくて、あたしに来させる」
ジェレミーには、戦場へ出たエルを強制的に連れ戻す手段がない。
転移を重ねれば、その現象も《帰環》へ捕捉される。
エル自身が拒めば、監理局の術式で押し戻すこともできない。
止められない。
ならば、守らせるしかない。
「エル。私の声を聞け」
「聞いてる」
「監理局の通信も、各班の警告も、すべて聞け」
「聞いてるよ」
「身体の維持と、監理局への帰還。それ以外の魔法行使は許可していない」
エルは僅かに振り向く。
「帰環を消すのも?」
「絶対に禁止だ」
ジェレミーの声は低い。
「事前許可外の魔法は一切使うな」
「危なくなっても?」
「帰還しろ」
「帰れなかったら」
「身体の維持に限って使え。それ以上の結果を出すな」
短い沈黙。
エルは《帰環》へ向き直った。
「あたしは、いるだけ」
「それ以外はするな」
「分かった」
「返事だけで終わらせるな。従え」
エルは静かに頷いた。
「魔法は使わない」
《帰環》の環が迫る。
エルは逃げない。
「あたしに来させる」
ジェレミーが全班へ命じた。
「作戦を修正する」
「エルに集中した環を観測。処理占有を確認次第、レトとロジーの負荷投入を最大化する」
「エルの周辺へ攻撃を入れるな」
返答が一斉に上がる。
「了解!」
◇
ロジーの周囲に、無数の記録窓が開いた。
情報班が選別した攻撃記録。
異なる文明。
異なる年代。
異なる技術体系。
古い実体砲。
粒子光線。
圧縮魔力弾。
飛翔兵器。
空間を断つ刃。
衝撃波。
同じ由来を持つものは一つもない。
「似てるものは外して!」
ロジーが叫ぶ。
「同じ弾を一万発出しても、まとめて戻される!」
情報班員が履歴を分類する。
製造方法。
使用者。
使用時代。
修理記録。
発射形式。
魔力性質。
ロジーの記録模倣は、攻撃だけを形にするものではない。
攻撃が成立するまでに積み重ねられた情報を伴って具現化する。
一つの弾丸にも過去がある。
採掘。
加工。
組み立て。
保管。
修理。
使用。
履歴が異なるほど、《帰環》は別の対象として読み取らなければならない。
「第一情報群、展開!」
ロジーの周囲から、無数の攻撃が放たれた。
一斉射撃ではない。
形も色も速度も違う。
直進するもの。
曲線を描くもの。
途中で分裂するもの。
空間を飛び越えるもの。
《帰環》の環が大量に分離した。
一つずつ攻撃を囲む。
一部は発射地点へ戻る。
一部は具現化前の記録へ崩れる。
一部は処理が追いつかず、空中で停止する。
「処理差を記録!」
ロジーのデバイスへ、環ごとの処理時間が並ぶ。
情報班が負荷を分担する。
「全履歴を保持する必要はありません。差分だけこちらへ」
「全部見た方が早い!」
「あなたの処理が止まれば、展開も止まります」
ロジーの表情が一瞬固まる。
頭上のデバイスで思考を支えるロジーにとって、遅延は恐怖と直結している。
情報班主任は声を変えない。
「遅れる前に分けます。仕事です」
ロジーは息を吐いた。
「……分かった!」
不要な履歴を情報班へ預ける。
自分は攻撃の選択と具現化へ集中する。
デバイスの光が安定した。
「第二情報群!」
さらに異なる過去が、《帰環》へ押し寄せる。
◇
レトは戦闘班の前方で、防壁を作り続けていた。
帰着弾が降る。
人間を囲む環が来る。
戻された実体弾が味方へ襲いかかる。
過去へ復位する残骸が戦場を横切る。
レトの硝子は、何度も消えた。
平面。
曲面。
多層。
内部へ熱を閉じ込めた壁。
短剣を組み込んだ壁。
格子状の防壁。
同じものは一枚もない。
《帰環》は一つずつ造形前へ戻す。
レトは戻されるより速く、新しい硝子を作る。
「左側!」
環が三つ、隊列の側面へ回り込む。
レトの短剣が一つ目を貫く。
環が短剣を光へ戻す。
短剣が消える。
二本目が、同じ場所へ新たに生まれる。
環の処理が一瞬遅れる。
戦闘班の固定弾が命中し、環が砕けた。
残る二つが、隊員を上下から囲む。
レトが硝子板を環の内側へ差し込む。
環は、先に内側へ入った硝子を処理し始める。
その隙に隊員が抜けた。
「レト、魔力残量」
監理班員が尋ねる。
「まだいっぱい!」
「数値で答えろ」
「六十七!」
初期量の六十七パーセント。
戦闘はまだ終わらない。
惑星を囲む巨大環は、閉鎖を続けている。
帰着弾が正面から飛来する。
一発。
三発。
七発。
標的はそれぞれ異なる。
レトは一枚の大壁ではなく、小さな湾曲壁を弾ごとに展開した。
一枚目が消える。
二枚目。
三枚目。
弾道を少しずつ逸らす。
戦闘班が固定弾を連射する。
一発が発射者へ戻る。
別の隊員が防壁を差し込む。
防壁も過去へ戻り始める。
爆発直前、レトが壁を解除した。
固定弾が空中で炸裂する。
衝撃でレトの身体が後方へ飛ぶ。
戦闘班員が腕を掴んだ。
「状態は!」
「大丈夫!」
「確認しろ!」
レトは両手を動かす。
視界。
呼吸。
魔力。
「大丈夫!」
すぐに新しい防壁を作る。
硝子が消える。
また作る。
その繰り返しが、《帰環》の環を一つずつ戦場へ縛り付けていく。
本体の密度が、僅かに低下した。
◇
《帰環》は、目の前に現れたエルを囲んだ。
一つ。
十。
百。
無数の環が、小さな身体の周囲へ重なる。
エルは動かない。
逃げない。
環が閉じる。
権能が発動した。
衣服が以前の状態へ戻る。
白い髪の長さが僅かに変わる。
肉体が、監理局で現在の形を得る以前へ引かれていく。
身体の魔力構造が揺らぐ。
エルは自分の手を見た。
環はさらに過去へ進める。
この肉体が形成された直後。
肉体として成立する以前。
エルの姿が一瞬消えた。
中央指令室に緊張が走る。
次の瞬間。
同じ場所にエルがいる。
現在の肉体は過去へ戻された。
だが、エルという存在は終わっていない。
《帰環》はさらに過去を辿る。
数年。
数百年。
数千年。
星が生まれる以前。
この宇宙が成立する以前。
それより前。
それでも、エルはいる。
環の回転速度が上がる。
過去へ進める速度が加速する。
始まりへ到達できない。
エルは環の内側から《帰環》を見た。
「あたし、長いから」
《帰環》は答えない。
さらに多くの環を分離させる。
エルを囲む。
戻す。
肉体が消える。
再び現れる。
異なる時点の身体へ揺らぐ。
精神と記憶には何の変化もない。
「あたしは消せない」
エルは静かに言った。
「だからいる」
中核付近にあった環が、次々とエルへ向かう。
エルが望んだ通りに。
戦闘班ではなく。
惑星ではなく。
自分へ。
「あたしに来させる」
情報班が報告する。
「中核周辺の環、四割がエルへ移動!」
ジェレミーが通信を開く。
「エル、状態を報告」
「戻されてる」
「継続可能か」
「まだ、あたしの方が長い」
「魔法は使うな」
「使わない」
「身体の維持と帰還だけだ」
「聞いてる」
「限界を越える前に戻れ」
「みんなが届くまでいる」
ジェレミーは強く息を吐いた。
止められない。
エルはすべて理解している。
命令も。
警告も。
自分がどれほど危険な存在であるかも。
それでも、今は退かない。
「エル」
「なに」
「戻れと言ったら、戻れ」
短い間。
「……分かった」
従う保証のない返事だった。
それでも、エルは魔法を使わなかった。
《帰環》を消そうともしない。
ただ、そこに存在し続ける。
それだけで、《帰環》の膨大な処理能力を占有した。
◇
環の動きに遅れが生じた。
「実体弾、帰還遅延〇・三秒」
技術班が最初に検知した。
情報班も続く。
「第三情報群の一部が環を突破!」
レトの防壁が消えずに残る。
一秒。
二秒。
帰着弾の一部が軌道を失い、互いに衝突する。
人間を囲もうとしていた環が、閉じきらずに歪んだ。
「処理限界へ接近!」
情報班主任が、環の配置を再計算する。
外周では、ロジーの異なる攻撃履歴を処理している。
中層では、レトの新しい硝子を戻し続けている。
中核付近では、エルの終端のない過去を辿っている。
さらに、戦闘班を攻撃する環。
惑星ハルヴァを囲もうとする巨大環。
本体を形成する環の密度が大きく低下していた。
調査班が、薄くなった本体の中心部を拡大する。
無数の環の奥に、一度も身体から離れない小さな環があった。
処理を終えた環は、必ずその近くへ戻る。
新たに分離する環も、そこを起点に動き始める。
ミルネアに残っていた最古の魔力反応と照合する。
一致した。
「中心環が、個体の統合核と推定されます」
確定ではない。
だが、攻撃できる場所はそこしかなかった。
中核を守る大型環は三つ。
それらはまだ処理へ使われていない。
ジェレミーが命じる。
「戦闘班、最終突入」
「レト、経路を確保」
「ロジー、処理負荷を維持」
「エル、継続限界を越える前に帰還しろ」
返答が重なる。
「了解!」
「分かった!」
「うん」
◇
戦闘班が一斉に前進した。
レトが最前方へ巨大な硝子防壁を展開する。
帰着弾が降る。
一枚目の防壁が過去へ戻される。
消える前に二枚目。
二枚目の前へ三枚目。
戦闘班は、硝子が存在する数秒を繋いで進む。
右側から環。
左側から戻された実体弾。
上方から、過去の配置へ復位する戦闘艇の残骸。
副長が魔力針を放つ。
細い針が、迫る環の回転軸へ刺さる。
完全には止まらない。
環の向きが僅かにずれる。
戦闘班が隙間を通過した。
一人の隊員が固定弾を撃つ。
中核を守る第一の大型環へ命中。
大型環が激しく震える。
「第一環固定!」
第二の大型環が動いた。
戦闘班へ向けて巨大化する。
帰路の強制。
部隊全体が後方へ引かれる。
レトの硝子杭が一本ずつ消えていく。
一人の隊員が索を放した。
身体が突入開始地点へ戻されかける。
別の隊員が腕を掴む。
二人まとめて後方へ引かれる。
「固定点!」
レトが二人の足元へ硝子杭を作る。
杭が空間へ食い込む。
大型環が造形前へ戻し始める。
レトは同じ場所へ、異なる形の杭を重ねる。
一本。
二本。
三本。
処理が分散する。
戦闘班員が索を繋ぎ直し、前進を再開した。
第二の大型環へ固定弾を撃つ。
小型環が弾丸を囲む。
固定弾が発射者へ戻る。
副長が射線上へ魔力針を置いた。
戻った固定弾が針へ衝突し、爆発する。
衝撃で副長の身体が後方へ流れた。
戦闘班員が支える。
副長はすぐに姿勢を戻す。
「第二射」
別方向の隊員が固定弾を撃つ。
大型環へ命中。
「第二環固定!」
第三の大型環が、自発攻撃へ切り替わった。
環の一部が圧縮され、無数の帰着弾となる。
光の弾雨が戦闘班へ向けて放たれた。
一発ごとに標的が異なる。
回避しても追う。
瞬間移動しても履歴を辿る。
レトが小型防壁を同時に展開する。
十。
二十。
三十。
帰着弾が壁を消す。
レトは消失に合わせ、新しい壁を作る。
戦闘班は防壁の間を縫って進む。
一発が防壁を抜けた。
最後尾の隊員へ着弾する。
防護服の胸部が過去へ戻り始める。
装甲が薄くなる。
通信装置が旧型へ変わる。
さらに肉体へ接続が進む。
肩幅が狭くなる。
腕が細くなる。
顔立ちが若くなる。
意識は正常だった。
隊員は自分の手を見た。
「弾の環が残ってる!」
技術班が接続位置を送る。
胸部に食い込んだ小さな圧縮環。
仲間が固定弾を構える。
「動くな!」
「早くしろ!」
固定弾が残留環へ命中する。
帰環が停止した。
だが、別の環が側面から迫る。
負傷者を囲もうと広がる。
「置いていけ!」
「却下だ!」
前方の隊員が牽引索を投げる。
レトが、負傷者と環の間へ硝子板を差し込む。
環は先に硝子を囲んだ。
履歴を読み取るため、動きが一瞬止まる。
戦闘班員たちが仲間を引き抜く。
別の隊員が環へ固定弾を撃つ。
環が砕けた。
負傷者の身体は十代前半ほどまで戻っている。
記憶も判断力も失われていない。
「まだ動ける」
戦闘班長が命じる。
「後退しろ」
「固定弾を一発置く」
「命令だ」
負傷者は一瞬だけ中核を見た。
片手で武器を構える。
第三の大型環へ固定弾を撃つ。
帰着弾が衝突し、軌道を逸らす。
それでも弾は環の端へ命中した。
固定は不完全。
だが、環の回転が僅かに遅れる。
「いま行け!」
負傷者は後退した。
戦闘班が散開する。
異なる三方向から、第三環へ固定弾を撃つ。
一発目は発射者へ戻る。
レトの防壁が受ける。
防壁ごと爆発した。
衝撃でレトが吹き飛ぶ。
戦闘班員が腕を掴む。
二発目は環に囲まれ、発射装置へ戻る。
射手が武器を捨てた。
固定弾は捨てられた武器へ着弾し、爆発する。
三発目。
大型環が迎撃用の小型環を分離する。
その前へ、ロジーの攻撃群が割り込んだ。
古い砲弾。
異なる文明の光線。
一度だけ使用された魔術刃。
小型環は、異なる履歴を処理するため進路を変える。
固定弾が第三環へ届いた。
「第三環固定!」
三つの大型環が、現在の座標へ縫い止められる。
中核への道が開いた。
惑星ハルヴァへ向かう巨大環は、閉鎖を続けている。
残り九分。
ロジーのデバイスに遅延が生じた。
表示が一瞬止まる。
呼吸が乱れる。
「まだ出せる」
情報班主任が言う。
「第四情報群をこちらへ移します」
「それ、私が見た方が――」
「差異は抽出済みです。具現化へ集中してください」
ロジーは歯を食いしばった。
処理が遅れる。
考えられなくなる。
自分がまた壊れる。
恐怖が身体を固くする。
情報班主任の声が届く。
「ロジー」
「分かってる!」
ロジーは不要な記録を手放した。
情報班へ預ける。
自分が保持する情報を、必要なものだけへ絞る。
デバイスの遅延が僅かに回復した。
「最後の情報群!」
無数の異なる過去が、《帰環》へ浴びせられる。
本体へ戻ろうとしていた環が、攻撃を囲むために止まった。
エルを囲んでいた環の一部も、中核へ戻ろうとしている。
エルの身体が大きく揺らぐ。
一瞬、肉体が完全に消えた。
環が処理を終えたと判断しかける。
次の瞬間。
エルは同じ場所にいた。
存在が終わっていない。
環は再びエルを囲む。
「あたしは消せない」
エルが呟く。
「だから、まだいる」
ジェレミーが通信を開く。
「エル、帰還準備」
「まだいる」
「身体が維持できていない」
「みんな、もう少し」
「魔法は使うな」
「使ってない」
「帰還以外は禁止のままだ」
エルは、環の向こうから《帰環》の中核を見た。
「届くまで、あたしに来させる」
ジェレミーは戦況を確認した。
「三十秒」
「うん」
「三十秒後、必ず帰還しろ」
「聞いてる」
「従え」
エルは少しだけ間を置いた。
「……分かった」
◇
レトは残る魔力を一つへ集めた。
短剣ではない。
防壁でもない。
一本の巨大な硝子槍。
透明な槍の内部へ、青白い高熱が封じ込められている。
戦闘艇を上回る長さ。
細く。
鋭く。
中核だけを貫く形。
「魔力残量二十一パーセント」
監理班員が告げる。
「足りる!」
「維持と帰還分を残せ」
「足りるようにする!」
レトは両手を前へ向けた。
硝子槍が進む。
中核へ。
《帰環》の残った環が槍を囲む。
槍の先端が造形前へ戻り、光へ崩れる。
レトは消えた部分を作り直す。
別の環が中央を囲む。
槍が二つに分かれる。
レトはその場で繋ぎ直す。
戻される。
作る。
壊れる。
作り直す。
槍は消されながら、同時に生み直され続ける。
戦闘班が槍の周囲へ展開した。
固定された大型環が、現在の座標から抜け出そうと軋んでいる。
「固定限界、五秒!」
戦闘班長が命じる。
「集中射撃準備!」
帰着弾が最後の防衛として発射された。
硝子槍を狙うもの。
戦闘班員を狙うもの。
中核へ近づいた固定弾を狙うもの。
戦場が光の弾道で埋まる。
戦闘班が撃つ。
発射した弾丸が戻る。
別の隊員が防壁で受ける。
硝子が消える。
爆発。
衝撃。
固定された大型環へ亀裂が広がる。
「四秒!」
第一の大型環が固定を破ろうと動く。
副長の魔力針が、環の亀裂へ突き刺さる。
無数の細い針が、異なる箇所へ同時に食い込む。
環の処理が一瞬遅れる。
「三秒!」
エルを囲んでいた環が、中核へ戻ろうとする。
エルの指が僅かに動いた。
中央指令室の魔力観測値が跳ね上がる。
ジェレミーの声が飛ぶ。
「エル、魔法を使うな」
エルの指が止まった。
「……うん」
その前へ、ロジーの最後の攻撃群が殺到する。
何千年も前の兵器。
別の星系で使われた光線。
一度しか発動されなかった魔術。
すべて異なる履歴。
環はそれらを囲むために止まる。
「二秒!」
レトの硝子槍が、中核環の目前へ進む。
中核から直接、小さな環が分離した。
最後の一つ。
硝子槍の先端を囲む。
槍が急速に過去へ戻る。
先端。
中央。
柄。
すべてが光へ崩れていく。
レトの視界が揺れた。
魔力過多による朦朧。
それでも両手を下ろさない。
「まだ!」
消えた槍を、根元から作り直す。
一度作った槍を修復しているのではない。
連続して生まれる新しい硝子を、同じ軌道へ送り続けている。
中核環は、一つずつ異なる履歴を処理しなければならない。
遅れる。
「一秒!」
戦闘班長が叫ぶ。
「全弾、集中!」
戦闘班の魔術射撃が、中核周囲へ一斉に放たれる。
一部は戻される。
一部は環に囲まれる。
一部はロジーの攻撃と重なり、処理からこぼれる。
固定された大型環へ着弾。
一つ目が砕ける。
二つ目に亀裂が走る。
三つ目が大きく歪む。
副長の魔力針が、亀裂を押し広げる。
戦闘班員が最後の固定弾を撃ち込む。
中核を守る回転が停止した。
レトの硝子槍が、光を撒き散らしながら進む。
先端が中核環へ触れる。
《帰環》は槍を過去へ戻そうとする。
外周では、ロジーの異なる過去。
中層では、レトの無数の新しい硝子。
中心付近では、エルの終端のない履歴。
さらに、戦闘班の固定弾と集中射撃。
処理が追いつかない。
硝子槍が、小さな環を貫いた。
同時に、戦闘班の攻撃が周囲から中核へ突き刺さる。
《帰環》を構成する無数の環が、すべて一度だけ停止した。
環の内側へ、無数の光景が浮かぶ。
古い家。
子供の頃の部屋。
家族の食卓。
雨の街。
失われた恋人。
帰れなかった故郷。
やり直したかった選択。
誰かにとって、本当に美しい過去。
だから、人は帰りたいと願った。
けれど《帰環》は、誰一人としてその過去へ連れ帰らなかった。
現在を覚えたまま。
生きてきた時間を奪い。
最後には、願った者自身を存在以前へ戻した。
中核環に亀裂が走る。
一つ。
二つ。
無数。
戦闘班の攻撃が、亀裂の内側へ届く。
レトが最後の魔力を槍へ送る。
青白い光が中核を貫いた。
神性存在《帰環》の身体が、内側から崩壊する。
小さな輪。
大きな輪。
惑星ハルヴァを囲もうとしていた巨大環も、閉じる直前で光を失った。
無数の環が、記憶の断片を映したまま宇宙へ散る。
古い家が消える。
笑う人々が消える。
街が消える。
最後に、小さな光の輪が一つだけ残った。
輪の中には、誰もいない食卓が映っていた。
それも、静かに砕けた。
◇
惑星ハルヴァを囲みかけていた魔力反応は消失した。
住民の避難は、残留魔力の消失が確認されるまで継続された。
戦闘班の負傷者は医療班へ運ばれた。
過去へ戻された左腕。
若返った身体。
旧式化した装備。
精神と記憶に異常はない。
肉体が失った現在を取り戻せるかは、まだ分からない。
レトは戦闘艇の床へ座り込んでいた。
魔力を使いすぎて、視界が定まらない。
両手が小さく震えている。
「槍、届いた?」
近くの戦闘班員が答えた。
「届いた」
「みんなの弾も?」
「届いた」
レトは少しだけ笑った。
「よかった」
ロジーは情報班の席で、頭上のデバイスを最低出力へ落としていた。
処理遅延は収まっている。
ミルネアの最後の通信。
環ごとの処理時間。
レトの造形記録。
エルへ集中した権能。
戦闘班の固定弾。
副長の魔力針。
どの攻撃が、どの一秒を作ったのか。
記録を分け、順序を整え、保存する。
エルは監理局へ戻った後、新しい肉体を形成し直していた。
白い髪。
淡いピンクの毛先。
小さな身体。
いつものエル。
ジェレミーが尋ねる。
「異常は」
「ちょっと昔になった」
「現在は」
「戻った」
「記憶欠損」
「ないよ」
ジェレミーは、しばらくエルを見た。
「命令違反だ」
「うん」
「勝手に戦場へ出るな」
「うん」
「返事だけで終わらせるな」
エルは少し俯いた。
「あたし、人間じゃない」
「分かっている」
「あたしは消せない」
「それでもだ」
エルは黙った。
「お前が正しかったかどうかと、独断を許すかは別の話だ」
「間に合わないと思った」
「だからこそ呼べ」
「誰を?」
「私をだ」
エルは顔を上げた。
「でも、止めるでしょ」
「止める必要があれば止める」
「今日みたいなときも?」
「次は一人で決めるな」
エルはしばらくジェレミーを見た。
「……うん」
今度の返事は、少しだけ重かった。
中央画面には、惑星ミルネアが映っている。
原初へ戻された星。
《帰環》を討伐しても、失われた時間は戻らない。
文明も。
人々も。
我が子を腕の中で失った母親も。
最後の通信を送った職員も。
レトが、医療班員の付き添いを受けながら指令室へ戻ってくる。
惑星ミルネアを見上げた。
「最初の星は?」
ジェレミーは答える。
「救えなかった」
レトは黙った。
ロジーが、惑星ミルネアの最後の通信を正式記録へ収める。
第一被害惑星――生存者なし。
神性存在《帰環》による物理履歴逆行。
精神、記憶への直接作用なし。
被害者は、肉体および周辺環境が過去へ逆行する過程を、正常な認識下で経験したと推定される。
ロジーの指が一度止まる。
それでも、記録を削らなかった。
エルが小さく言う。
「あそこ、もう帰りたいって言ってない」
惑星ミルネアには、願う者が一人も残っていない。
誰も返事をしなかった。
上位委員会と惑星監理局の共同記録へ、新たな個体情報が登録される。
神性存在《帰環》
発生源推定――過去への郷愁、後悔、再試行願望に伴う環状微細魔力の長期集積。
固有権能――《帰環――物質限定の時間逆行》
被害惑星――一。
討伐済み。
惑星ハルヴァの空には、もう環はない。
街も、人々も、積み重ねられた時間も残っている。
遠く離れた場所では、原初へ戻された惑星ミルネアが、誰の想い出も生まれる以前の姿で、静かに恒星の周囲を回っていた。




