表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち  作者: 硝子玉の宇宙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/25

第14話-神性存在

 上位委員会から惑星監理局へ提示された内部記録は、分類上は協力要請ではなかった。


 警告。


 それも、監理局が動かなければ宇宙規模の秩序崩壊に発展しうる、最上位に近い警告だった。


 上位委員会とは、硝子玉の宇宙に存在する複数の星域と文明圏の均衡を、政治的・倫理的な側面から監視するために置かれた機関である。惑星監理局が現場で秩序を維持する組織なら、上位委員会はその秩序がどこまで許容され、どこから逸脱と見なされるかを判断する場所だった。


 その委員会が、非公式に監理局へ記録を渡した。


 ある辺境星域の地下研究施設。


 認可されていない神性存在研究。


 研究対象は、祈願、救済、選別、排除に類する感情から凝集した、未成熟の神性存在。


『神性存在』

人間の感情が長い時間をかけて一つの方向へ集まり、微弱な魔力の集合として形を得たものだ。信仰、恐怖、怒り、飢餓、願望。多くの人間が同じ感情を繰り返し抱き続ければ、その残響はやがて権能を持つ。


 それは神と呼ばれることもある。


 だが監理局の分類では、神性存在は人格の有無ではなく、発生源と影響範囲によって扱われる。人間の感情から生まれ、人間の願いを燃料にし、人間の現実へ干渉する巨大な現象。恩恵にもなる。厄災にもなる。どちらに転ぶかは、発生した感情と、干渉する人間の手つきによって変わる。


 制御できるなら、資源だ。


 制御できないなら、災害だ。


 そして今回の研究施設は、制御できると信じていた。


 監理局の会議室に投影された記録映像には、白い研究服を着た者たちが映っていた。彼らは拘束された狂人ではない。邪悪な笑みを浮かべる悪人でもない。疲れた目をして、膨大な資料を抱え、誰かを救うために眠る時間を削っている人間たちだった。


 主任研究者は、記録の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。


『この権能が安定すれば、飢餓地域への物資転送、感染症地域の即時隔離、戦争難民の保護区移送が可能になる。犠牲者を出さずに済む。神性存在を恐れて封じるだけでは、人類は前に進めない』


 理屈としては、正しい部分があった。


 だからこそ危険だった。


 善意で組まれた術式は、自分が善意であることを疑わない。救済を目的にした権能は、救済が必要だと判定した瞬間、止まらない。望んだ方向に進んでも止まらず、望まない方向に進んでも修正する術がない。


 制御不能な権能は、災害と同じだ。


 洪水が作物を育てる水でも、堤を越えれば街を呑む。火が暖を取るものでも、燃え広がれば森を殺す。神性存在の権能も同じだった。ただしそれは、水や火よりもずっと人間に近い。願いを聞く。怒りを拾う。恐怖を増幅する。正しさに反応する。


 それを人間の手で安全に運用できると信じるには、あまりにも危うかった。


 会議室の奥で、ジェレミー・クリエットは記録を見終えるまで一度も表情を変えなかった。


 副長も、同じだった。


 ただ、二人とも結論は早かった。


「レトを出す」


 ジェレミーが言った。


 戦闘班の数名が、わずかに視線を動かした。


 今回の施設は、対軍用の防衛設備を備えている。魔術障壁、転送阻害、侵入者識別、精神干渉、対神性存在用の封鎖陣。部隊で制圧すれば、研究者が緊急手順を走らせる可能性が高い。説得に時間をかければ、主任が神性存在の権能を稼働させる可能性が高い。


 必要なのは、大規模部隊ではない。


 高速で侵入し、権能稼働の中心へ到達し、術式核と接続装置を破壊できる単騎戦力。


そして、万が一にも神性存在が目覚め、権能を振りかざしたとき。

以上の条件によって、単騎での神性存在撃破を成し遂げた記録のあるレトが適任だった。


 レトは、硝子の彗星から生まれた箱庭の娘だ。人間の感情集合から生まれた存在ではない。肉体は少女に近く、心も幼い。だが魔力の性質は硝子質で、空間に干渉する術に長けている。短時間の単騎突破、狭所での多方向戦闘、浮遊短剣による精密破壊。それらは、戦闘班の中でも特異な適性だった。


 なにより、レトはエルを知っていた。


 人間の領域を越えた力が、善意だけで扱えるものではないことを、理屈ではなく日常として知っていた。


エルは、旧世代だ。

名前が意味する力を無制限に振るうことができる存在。

『elkore_felico』意味は本当の幸せ

エルが願えば、魔法が顕現する。術式も技術もなく、結果だけが生まれる。

過程は後からついてくる、だから、不可逆の事態が起きても人間たちにはどうすることもできない。

人間には制御できない力。

神性存在も同じだ。

だから監理局は、エルを武器として扱わない。道具として扱わない。彼女の魔法アイテム一つでさえ、回収し、審査し、安全性を確認してから返す。


 それはエルを疑っているからではない。


 エルも世界も大切にしているからなった、秩序の破壊に巻き込ませないためだった。


 レトはそれを見てきた。


 難しい言葉は、全部は分からない。


 けれど分かることもある。


 人間の領域を越えた力は、かわいいから、優しいから、正しいからという理由では安全にならない。制御できない力は、どんなに綺麗な願いから始まっても、秩序を破壊する。


 それは、止めなければならない。


       ◆


 出撃前、レトは格納区画の床にしゃがみ込んで、自分の手のひらを見つめていた。


 淡緑の長い髪が、左側頭部のワンサイドテールから肩へこぼれている。青い硝子の髪飾りが、照明を受けて小さく光った。


 指先に、青白い熱が灯る。


 硝子質の魔力が、細い短剣の形を取った。


「レト」


 ジェレミーの声がした。


 レトは振り向いた瞬間、ぱっと表情を明るくした。


「お兄さん!」


 走り寄ろうとして、途中で止まる。


 今日は任務前だった。


 抱きつきたい。撫でてほしい。だけど、今はそういう時間ではない。レトは胸の前で両手を握って、少しだけ背筋を伸ばした。


「わたし、行くね」


「ああ」


 ジェレミーは短く答えた。


 彼の腰には、いつものハンドガンがある。だが今回は出ない。局長が動けば、上位委員会も、研究施設側も、事態を政治問題として扱う口実を得る。現場を最短で収束させるには、監理局の遊撃戦力を投入するのが最善だった。


 ジェレミーはレトの前に立ち、視線を合わせた。


「主任は悪人ではない。研究者たちも、自分たちが正しいと信じている」


「うん」


「だから、話せば分かる相手ではない」


「……うん」


 レトは少しだけ眉を寄せた。


 悪い人なら、分かりやすい。


 怒ればいい。止めればいい。叩き伏せればいい。


 でも、正しいことをしているつもりの人は難しい。泣いている誰かを助けたい人を、止めるのは難しい。レトは難しい話が得意ではない。けれど、ジェレミーが言っていることは分かった。


「わたし、理屈で勝てないかも」


「勝たなくていい」


 ジェレミーは言った。


「君の任務は、説得ではない。稼働前に止めることだ」


 レトはこくりとうなずいた。


 その瞳の奥で、青白い熱が揺れた。


「わたし、止める。だって、あれは危ない。エルがなんでもできるからって、なんでもさせたらだめなのと同じだよね」


「そうだ」


「できることと、していいことは違うんだよね」


「ああ」


 レトは息を吸った。


 子供のような丸い頬に、戦闘班の遊撃手としての鋭さが宿る。


「じゃあ、わたしが行く」


       ◇


 研究施設は、死んだ鉱山都市の地下にあった。


 地表には放棄された採掘塔が並び、赤茶けた風が鉄骨の隙間を鳴らしていた。人の暮らしはもうない。都市は数十年前に閉鎖され、記録上は無人区域になっている。


 だが地下深くには、まだ灯りがあった。


 レトは転送座標の外側に出現した。


 空間が小さく割れ、硝子のひびのような光が走る。そこから少女が一人、音もなく降り立つ。


 直後、施設の外壁に埋め込まれた侵入者識別術式が反応した。


 警告音。


 赤い光。


 自動迎撃砲台が天井から展開する。


「わ」


 レトは小さく声を上げた。


 次の瞬間、彼女の周囲に十六本の硝子短剣が咲いた。


 硝子質の魔力で造形された刃は、実体と魔力の中間にある。青白い熱を帯び、空間をすべるように浮遊する。レトが指を動かすより早く、短剣群は迎撃砲台へ殺到した。


 砲口が光る。


 弾丸が吐き出される。


 レトの姿が消えた。


 瞬間移動ではない。空間の表面を薄く硝子化し、そのひずみを蹴っただけだ。彼女は射線の外側へ滑り、宙で一回転しながら、短剣の軌道を変えた。


 砲台の関節部が切断される。


 魔力供給管が砕ける。


 天井から落ちる金属塊を、レトは見上げもしなかった。


 床に足が触れる前に、次の通路へ飛び込む。


 施設内の防衛術式は、部隊侵入を想定していた。複数の生命反応を分断し、通信を遮断し、精神干渉で錯乱させ、捕縛する。その設計は高度だったが、レトの速度には合っていなかった。


 レトは一人だった。


 通信が切れても迷わない。


 分断されても困らない。


 精神干渉が触れた瞬間、硝子質の魔力が薄い膜になって弾いた。人間の恐怖や救済願望を拾い上げる術式は、硝子の彗星から生まれたレトの根へ深く届かない。


 それでも、痛みはあった。


 通路の奥で、白い光が爆ぜた。


 レトの右肩を、圧縮魔力弾がかすめる。肉が裂け、青白い熱と赤い血が飛んだ。


「いっ……!」


 レトの顔が歪む。


 だが止まらない。


 短剣を四本、先行させる。二本が盾型の障壁を割り、一本が術式盤を貫き、最後の一本が防衛兵装の脚部を切り落とした。


 倒れた装甲兵装の向こうに、研究員がいた。


 若い男だった。防護服の胸に、研究補助員の識別標がある。彼は恐怖で顔を引きつらせながらも、端末を抱えて叫んだ。


「やめろ! 今止めたら、安定化が崩れる!」


 レトは着地した。


 肩から血が落ちる。


「崩れる前に止める!」


「分かっていない! これは救済のための研究だ! この星域では毎年、救えたはずの命が失われている! 君たち監理局は封じるだけだ、未来を作ろうとしない!」


 言葉は速かった。


 難しかった。


 でも、レトは逃げなかった。


「わたし、ぜんぶは分かんない」


 研究員の手が止まった。


 レトは短剣を浮かべたまま、まっすぐに彼を見た。


「でも、分かることあるよ。すごい力を、かわいそうだからって、正しいからって、勝手に使ったらだめ。止められないなら、だめ」


「止められるようにするための研究だ!」


「止められてないのに使うつもりなんでしょ!」


 レトの声が、通路に響いた。


 研究員が息を呑む。


 レトも息を荒くしていた。肩が痛い。頭も熱い。魔力が多く流れすぎて、視界の端が白くにじむ。


 それでも、声は折れなかった。


「止められない力を、先に動かしちゃだめ!」


 研究員が端末へ手を伸ばした。


 レトの短剣が走った。


 端末だけを切り裂く。


 指一本、傷つけなかった。


 研究員は腰を抜かして座り込んだ。


 レトは彼を越えて、さらに深部へ進んだ。


       ◆


 中心区画は、祈りの墓場のようだった。


 巨大な円形ホール。


 壁一面に組まれた術式架。


 天井から吊られたケーブル。


 中央には透明な封鎖槽があり、その中に、形の定まらない光が浮いていた。


 人の顔にも見える。


 赤子にも見える。


 燃える都市にも、救いを求めて伸ばされた無数の手にも見える。


 神性存在。


 まだ名前を持たず、信仰として固定されていない未成熟体。だが未成熟だから安全ということではない。むしろ逆だった。方向性が定まっていない権能は、外部から与えられる感情に過剰に反応する。


 救いたい。


 守りたい。


 許せない。


 排除したい。


 それらが混ざれば、神性存在はどれを実行すべきか選べない。すべてを拾い、すべてを叶えようとする。


 その結果が、災害になる。


 ホールの中央で、主任研究者が待っていた。


 年老いた女性だった。背筋は伸びているが、目の下には濃い疲労がある。逃げる気はない。怯えてもいない。


「監理局の箱庭の娘ですね」


 主任は静かに言った。


「レト」


「知っています。資料で拝見したことがあります。単騎遊撃、空間干渉、硝子質の魔力。あなたが来ることも、ある程度は予測していました、しかし、戦力の想定を上回っていました。」


 レトは短剣を構えた。


 肩の傷から血が流れている。腕が少し震えていた。


「止めに来たよ」


「でしょうね」


 主任は頷いた。


「あなたにこの研究の価値は判断できません。これは感情論ではありません。統計と再現性、術式安定係数、権能出力の段階的制限、すべてを積み上げた結果です」


「むずかしいこと言われても、わたし分かんない」


「なら退きなさい。分からない者が止めていいものではない」


 その言葉に、レトの眉がぴくりと動いた。


 怒ったのではない。


 悲しかった。


 分からないなら黙っていろと言われるのは、たぶん正しいこともある。レトは局長ではない。副長のように言葉で相手を詰めることもできない。ロジーのように記録を並べて反論することもできない。エルのように世界の仕組みを上から見ることもできない。


 でも。


 それでも、見てきたものがある。


「わたし、エルを見てる、たぶんあなたは知ってるよね?」


 主任の目がわずかに細くなった。


 エルの名は、外部には正式に出ない。だが上位委員会と繋がる研究者なら、断片的な情報を持っていても不思議ではなかった。


「エルはすごいよ。なんでもできる。たぶん、あなたたちが助けたい人も、助けられるかもしれない」


 レトの周囲で、短剣がゆっくり回る。


「でも、監理局はエルになんでもさせない。エルが作ったものも、ちゃんと調べる。危なかったら止める。エルが悪い子だからじゃないよ。誰にもエルを止められないから、エルにもエルを止められないから、何かをする前に、止まるようにお願いしてるの。」


 主任は黙っていた。


「すごい力は、優しいだけじゃだめ。正しいだけじゃだめ。止められないなら、だめ」


「止めるために、進めているのです」


「動かしたら止まらないかもしれないんでしょ」


「その可能性は、どの技術にもあります」


「これは技術じゃない!」


 レトの声が、また強くなった。


 神性存在の封鎖槽が、淡く脈打つ。


 主任の背後の術式架が稼働を始めた。議論は時間稼ぎだったのだ。レトにも、それくらいは分かった。


 主任は悲しそうに目を伏せた。


「あなたは良い子ですね」


 レトの表情が険しくなる。


「でも、良い子だからこそ、世界の痛みを知らない」


 封鎖槽の中で、光が膨れ上がる。


 ホール全体に、誰かの泣き声のような魔力波が満ちた。助けて、という声に似ていた。痛い、という感情に似ていた。許せない、という熱に似ていた。


 研究者たちの善意が、神性存在へ流れ込んでいく。


 救済の権能が、起動しようとしていた。


 レトは歯を食いしばった。


「知ってるよ」


 青白い熱が、足元から噴き上がる。


「痛いの、知ってるよ!」


 レトの周囲に、硝子の短剣がさらに増えた。


 三十二本。


 四十八本。


 六十四本。


 淡い硝子の刃が、祈りのホールを星空のように埋めていく。


「お兄さんが撃たれたとき、怖かった! エルが人間のこと分からないって悩んでたとき、悲しかった! ロジーが泣いてたとき、どうしたらいいか分かんなかった! わたしだって痛いの知ってる!」


 主任の目が見開かれる。


 レトは泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、必死だった。


「でも、こんな力にぜんぶお願いしちゃだめなんだよ!」


 封鎖槽が割れた。


 神性存在の光があふれる。


 ホールの空間が歪み、壁が遠ざかり、床が消える。研究施設の地下にあったはずの場所が、別のどこかへ接続されかけていた。


 救済対象の選別。


 保護区への強制転送。


 危険因子の排除。


 主任たちが作った術式は、すでに神性存在の判断へ飲まれていた。


 望んだ方向に進んでも止まらない。


 望まない方向に進んでも修正できない。


 レトは床を蹴った。


 空間が硝子化する。


 彼女の足元から透明な亀裂が走り、歪んだホールを強引に固定した。神性存在の権能が空間を広げようとする。レトの魔術が、その広がりを薄い硝子の壁にして押し止める。


 重い。


 星を片手で押しているみたいだった。


「っ、ぐ……!」


 レトの右腕が軋んだ。


 硝子の短剣群が一斉に飛ぶ。


 狙いは神性存在ではない。


 周囲の術式架。供給ケーブル。感情増幅器。祈願記録の蓄積装置。研究者たちが作り上げた、権能を人間の目的へ向けるための補助機構。


 短剣が刺さる。


 砕く。


 焼き切る。


 だが防衛術式が再起動した。


 神性存在を守るためではない。研究成果を守るために、主任たちが組み込んだ最後の安全装置だった。


 安全装置が、侵入者を排除する。


 床から魔力針が無数に生える。


 レトは跳んだ。


 一本が左脚を貫いた。


「――っ!」


 声にならない悲鳴が喉で弾けた。


 それでも、レトは落ちなかった。


 空間を蹴る。


 硝子の足場を生む。


 血を散らしながら、ホール中央へ突っ込む。


 主任が叫んだ。


「やめなさい! その距離ではあなたも巻き込まれる!」


「巻き込まれる前に、斬る!」


 レトの手の中に、一本の短剣が生まれた。


 いつもの浮遊短剣ではない。


 両手で握るための、大きな硝子の刃。青白い高熱が内側から燃え、刃の中に星屑のような亀裂が走っている。


 神性存在の光が、レトへ触れた。


 感情が流れ込む。


 助けたい。


 助けて。


 救わなければ。


 邪魔するものを排除しなければ。


 優しいはずの願いが、命令に変わる。命令が圧力に変わる。圧力が現実を書き換えようとする。

神性存在の、救済感情を含んだ権能は、周囲の物質を救うために法則をねじ曲げようとした。

床に花が咲く、火器は白い灰となり、一瞬で広がりを持ちはじめた権能に触れてしまった研究員の右腕が色とりどりの蝶となり空中に散りはじめる。


 レトの視界が白く染まった。


 その中で、彼女はジェレミーの声を思い出した。


 君の任務は、説得ではない。


 稼働前に止めることだ。


「わたしは」


 レトは歯を食いしばった。


「監理局、戦闘班……箱庭の娘、レト!」


 刃を振り下ろす。


 神性存在を斬ったのではない。


 神性存在と術式核を繋ぐ、空間そのものを斬った。


 硝子が割れるような音がした。


 ホール全体に走っていた権能の導線が、一本ずつ砕けていく。術式架が爆ぜ、増幅器が沈黙し、封鎖槽の残骸が床へ落ちた。


 神性存在の光が揺らぐ。


 暴走寸前だった権能は、行き場を失って収束した。完全消滅ではない。未成熟体そのものは、監理局の封鎖班が後で処理する。レトが斬ったのは、人間がそれを利用するために作った接続だった。


 任務達成。


 その直後、反動が来た。


 空間固定に使っていた硝子の膜が砕け、圧縮された魔力がレトの身体を叩きつけた。


 小さな身体が吹き飛ぶ。


 壁に衝突する。


 肩の傷が開き、左脚から血が広がった。右脇腹の皮膚が裂け、硝子質の魔力が漏れるように青白く燃えた。

権能に触れてしまったレトの傷口。

権能は、救うという解釈のために傷そのものを消そうとした、傷口とその周りの血肉を消した。

傷という概念を、傷口の周囲の身体を消滅させるという形で無くそうとした、やはり、神性存在は制御できる力ではなかった。

結果、傷はさらに大きな傷になっただけ。

神性存在の権能が持続すれば、傷ついた人間は傷が拡大する痛みを感じながら瞬く間に消滅する結果となっただろう。


 レトは床に倒れたまま、しばらく動けなかった。

 不規則に小さな呼吸を繰り返している。


 主任が、呆然と立ち尽くしていた。


 研究者たちも同じだった。


 自分たちが悪を行っていたとは、まだ認められないだろう。きっと、この後も何度も反論する、議論しようとする。記録を出し、理論を出し、正当性を主張する。救えた命の数を語る。


 けれど今、彼らは見てしまった。


 自分たちが制御できると信じた権能が、たった一度の起動で、研究目的も安全装置、人間さえも飲み込みかけた瞬間を。


 レトは震える手で、床を押した。


 立とうとして、失敗する。


「……う」


 痛い。


 すごく痛い。


 でも、通信は回復していた。


 耳元の通信術式から、副長の声が入る。


『術式核の停止を確認。封鎖班、医療班、突入開始。レトさん、応答できますか』


 レトは息を吸った。


「できる……たぶん」


『たぶんでは困りますね』


「任務、できた?」


『成功です』


 その言葉を聞いた瞬間、レトの身体から力が抜けた。


「よかったー……」


 声は、痛みを耐えて掠れている。


 レトの、幼くて、素直で、少し泣きそうな声。


『よくやりました。そこで動かず待機してください』


「うん……動けないから、待機じょうずになってる……」


 副長が通信の向こうで、ほんの少し黙った。


『……大変よろしい』


 笑う場面ではないから、必死に唇を噛み締めている声だと、レトは思った。


 けれど、今は確かめる元気がなかった。


       ◆


 レトが目を覚ましたとき、天井は白かった。


 監理局の医療区画。


 病室。


 身体のあちこちが包帯で固定されている。左脚は治癒槽から出されたばかりで、まだ感覚が鈍い。肩も脇腹も痛い、傷が深い。魔力の使いすぎで頭がぼんやりしていた。


 けれど、レトにとって死ぬ怪我ではなかった。


 箱庭の娘たちは、人間に近い身体を持つ。血も流れる。痛みもある。骨も折れるし、肉も裂ける。だがその本質は、通常の人間とは少し違う。魔力生命体としての性質を持つ彼女たちは、時間をかけて魔力を整えれば、深い損傷からでも回復できることがある。


 それは傷つかないという意味ではない。


 痛くないという意味でもない。


 ただ、戻ってこられる可能性が高いというだけだった。


 だからこそ、監理局は彼女たちを戦場に出すとき、いつも慎重になる。


 戻れるから使うのではない。


 戻ってきてほしいから、使い方を選ぶ。


「起きたか」


 声がした。


 レトは目だけを動かした。


 ベッドの横に、ジェレミーが座っていた。


 いつからいたのか分からない。書類端末も持たず、ただ椅子に座っていた。局長室にいるときと同じ静かな顔で、けれど少しだけ目元が柔らかい。


「お兄さん……」


「無理に動くな」


「うん」


 レトは素直に返事をした。


 数秒後、我慢できなくなって小さく笑った。


「任務、できた?」


「できた」


「わたし、かっこよかった?」


 ジェレミーはわずかに目を細めた。


「ああ。かっこよかった」


 レトの頬がゆるんだ。


 痛みで涙がにじんでいたのに、嬉しさのほうが勝ってしまう。胸がぽかぽかした。魔力の熱とは違う、もっと柔らかい熱だった。


「えへへ……」


 ジェレミーの手が、レトの頭に触れた。


 淡緑の髪を、ゆっくり撫でる。


 レトは目を閉じた。


 病室には、機械の小さな作動音だけがある。外では封鎖班や監査担当が、研究施設の後処理に追われているはずだった。主任研究者たちは拘束され、神性存在の未成熟体は監理局の管理下に移された。上位委員会への報告も、これから山ほど必要になる。


 でも今、この病室には二人だけだった。


「お兄さん」


「なんだ」


「わたし、難しいこと、やっぱり分かんない」


「ああ」


「でも、止めなきゃいけないのは分かったよ」


「それでいい」


 ジェレミーは撫でる手を止めなかった。


「全部を理解してからでなければ動けないなら、現場の誰も間に合わない。君は君に分かるものを見て、正しく動いた」


 レトは薄く目を開けた。


「わたし、正しかった?」


「正しかった」


 即答だった。


 それだけで、レトの表情がほどける。


「じゃあ、いっぱい撫でて」


「怪我人は安静にするものだ」


「撫でられながらでも安静にできるよ」


「そうか」


「うん。すごくできる」


 ジェレミーは少しだけ息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


 レトには、それだけで十分だった。


 彼の手がまた髪を撫でる。


 硝子の彗星から生まれた娘は、青白い熱を帯びたまま、安心したように目を細めた。


 「おかえり」


 ジェレミーが言う、その声は深く、低く、だけど全部が優しさで出来ていた


 「…ただいま、お兄さん!」


 救済を名乗る権能は止めた。


 秩序は守った。


 痛いところはたくさんある。


 けれど、お兄さんが隣にいる。


 だからレトは、少しだけ得意げに笑って、もう一度小さく言った。


「わたし、がんばった」


「ああ」


 ジェレミーの声は静かだった。


「よく頑張った、レト」


 その言葉を抱きしめるように、レトは眠りに落ちた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ