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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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133/135

第133話-エル、いぬになる

惑星監理局の中庭。


やわらかな日差しの下で、エルが四つん這いになっていた。


白髪のボブが頬にかかり、淡いピンクの毛先が芝生に触れている。


両手を地面につき、膝をつき、少しだけ顔を上げる。


そして、淡々と言った。


「わん」


近くを通りかかった職員が足を止めた。


エルはもう一度、言った。


「わん」


声量は小さい。


鳴き方にも勢いはない。


犬というより、犬という概念を慎重に発音している。


職員はしばらく見ていたが、何も言わずに立ち去った。


見なかったことにしたわけではない。


エルが危険な魔法を使っている様子はない。


中庭に異常もない。


ただ四つん這いになって、犬の鳴き声を出しているだけである。


惑星監理局においては、緊急性のない事案だった。


エルはそのまま、中庭の芝生をゆっくり進んだ。


右手。


左手。


右膝。


左膝。


人間の身体で四足歩行をすると、少し動きにくい。


それでもエルは真剣だった。


「わん」


理由はあった。


エルは人間を知ろうとしている。


人間が何を楽しいと思うのか。


何を悲しいと思うのか。


どうして一緒に食事をするのか。


どうして名前を呼ぶのか。


どうして撫でるのか。


けれど、この宇宙に生きているのは人間だけではない。


犬。


猫。


鳥。


魚。


虫。


植物。


魔力生命体。


人間とは違う身体を持ち、人間とは違う方法で世界を感じるものたち。


そのことに、エルは気づいた。


人間以外の生き物も理解しなければ、本当の幸せが何なのか分からないかもしれない。


だから、まず犬になってみることにした。


犬がどう感じているかを知るには、犬と同じことをしてみればいい。


エルなりの、極めて真面目な観察だった。


「エル?」


中庭の入口から、レトの声がした。


エルは四つん這いのまま振り返る。


淡緑の長い髪を揺らし、レトが目を丸くしていた。


「なにしてるの?」


「いぬ」


エルは答えた。


「犬?」


「うん」


「エルが?」


「うん。あたし、いぬ」


エルは少しだけ胸を張った。


ただし四つん這いなので、ほとんど姿勢は変わらなかった。


「わん」


レトの目が輝いた。


疑問は一瞬で消えた。


「エル、犬なんだ!」


「うん」


「そっか!」


納得した。


犬になる理由も。


人間が犬になれるのかも。


旧世代が犬になった場合の分類も。


何一つ確認しなかった。


エルが犬だと言うなら、今のエルは犬なのである。


レトはエルの前にしゃがみ込んだ。


「犬はね、頭を撫でると喜ぶんだよ!」


「そうなの?」


「うん!」


レトはエルの頭へ両手を伸ばした。


なでなで。


「よーしよしよし!」


わしゃわしゃ。


「いい子だねー!」


わしゃわしゃわしゃわしゃ。


エルの白髪が、あっという間にぐしゃぐしゃになった。


エルは撫でられるまま、じっとしている。


「……これが、犬のうれしい?」


「そう!」


レトは自信満々だった。


「いま、エルはすごく喜んでる!」


「そうなんだ」


本人より先に判断された。


エルは少し考えた。


頭を撫でられる感覚は嫌ではない。


レトの手は温かい。


レトも楽しそう。


これは、たぶん喜んでいる状態に近い。


「わん」


「かわいいー!」


レトはさらにわしゃわしゃした。


頭。


頬。


首の後ろ。


肩。


撫で方は、だんだん犬というより、大きなぬいぐるみを全力で愛でる動きになっていた。


エルの身体が左右へ揺れる。


「エル、しっぽは?」


「ないよ」


「そっかあ」


レトはエルの腰の後ろを確認した。


本当にない。


「でも、犬は嬉しいとしっぽを振るんだよ」


「しっぽ、作る?」


エルが尋ねる。


「今日は犬の気持ちを知るんでしょ?」


「うん」


「だったら、自分でしっぽを作ったら、本物の犬の気持ちと違うかもしれないよ!」


エルは、はっとしたように目を丸くした。


「レト、かしこい」


「えへへ!」


褒められたレトは嬉しそうに胸を張った。


その判断が正しいかどうかは、誰にも分からなかった。


「じゃあね、しっぽの代わりに、お尻を振るといいよ!」


「おしり」


「うん!」


エルは四つん這いのまま、腰を左右へ動かした。


ゆら。


ゆら。


動きが遅い。


「もっと元気に!」


「こう?」


ふりふり。


「そう! エル、喜んでる!」


「わん」


ふりふり。


「かわいい!」


レトは大喜びだった。


エルも少し楽しくなってきた。


人間以外の生き物を理解するための観察だったはずだが、現在理解できているのは、レトが犬扱いをとても楽しんでいるという事実だけだった。


レトは、ふと思い出した。


「そうだ!」


「わん?」


「犬はね、お腹を撫でられたいとき、お腹を上にして、くねくね喜ぶんだよ!」


「お腹を、上」


「やってみて!」


エルはその場で横向きに倒れた。


ころん。


そのまま仰向けになる。


両手を胸の前で少し曲げ、両膝も軽く持ち上げた。


無表情に近い、いつもの淡々とした顔。


ただし姿勢だけは、完全にお腹を見せて寝転がる犬だった。


「こう?」


「そう!」


レトはエルの隣へ膝をついた。


「それで、くねくねするの!」


エルは仰向けのまま身体を左右へ揺らした。


くね。


くね。


「わん」


「もっと喜んで!」


くねくね。


「わん、わん」


「かわいいーっ!」


レトはエルのお腹へ両手を置いた。


そして、全力で撫で始めた。


なでなで。


わしゃわしゃ。


「よーしよしよし! エル犬、いい子だねー!」


「わん」


「かわいいねー!」


「わん」


「お腹なでなで、うれしい?」


エルは、くねくねしながら考えた。


お腹を撫でられている。


レトが笑っている。


芝生はやわらかい。


日差しは温かい。


たぶん、悪くない。


「うれしい、と思う」


「やっぱり!」


レトはさらに激しく撫でた。


「わしゃわしゃわしゃー!」


「わん、わん」


エルも少しだけ足をぱたぱたさせる。


「犬はね、足もこうなるんだよ!」


「こう?」


ぱたぱた。


「そう! それ!」


レトはすっかり犬の飼い主になっていた。


「エル犬、お手!」


エルは仰向けのまま片手を上げた。


「はい」


「お手できた!」


レトはその手を握った。


「えらい!」


「わん」


「おかわり!」


反対の手が上がる。


「はい」


「できたー!」


レトは両方の手を握って、ぶんぶん振った。


エルはされるがまま揺れている。


「次は、待て!」


「うん」


「待てだよ!」


「待ってる」


「まだだよ!」


「うん」


「よし!」


エルは起き上がった。


「何を待ってたの?」


「分かんない!」


二人は顔を見合わせた。


エルは少し考えた。


レトも少し考えた。


だが、どちらも問題だとは思わなかった。


「もう一回、お腹!」


「うん」


エルは再びころんと仰向けになる。


レトは再びお腹をわしゃわしゃする。


「よーしよしよし!」


「わん、わん」


「エル犬、かわいいー!」


「くねくね」


「自分で言ってる!」


中庭の入口。


植え込みの陰に、ロジーが立っていた。


いつからいたのかは分からない。


ピンク髪のツインおさげ。


厚い上着。


頭上に浮かぶデバイス。


ロジーは、一言も発していなかった。


目の前では、エルが仰向けになってくねくねしている。


レトがそのお腹を全力でわしゃわしゃしている。


「わん」


「いい子だねー!」


「わんわん」


「エル犬、足ぱたぱた!」


「ぱたぱた」


ロジーの頭上デバイスには、赤い撮影表示が浮かんでいた。


●REC


撮影倍率、調整。


手ぶれ補正、最大。


音声記録、最高品質。


予備保存領域、確保。


自動複製先、三箇所。


ロジーは無言だった。


いつものロジーなら、真っ先に飛び込んでいる。


「何してるの!?」


「私も撫でる!」


「犬エル記録!」


そう叫んで、全部を台無しにする勢いで参加している。


だが、今日は違った。


記録者としての本能が、騒ぎたい感情を完全に上回っていた。


これは声をかけてはいけない。


気づかれてはいけない。


自然な状態を保たなければならない。


あまりにも記録価値が高すぎた。


ロジーのデバイスが、静かに表示を追加する。


暫定記録名:犬類模倣行動を行う旧世代個体と、それを全力で犬扱いする戦闘班員


少し考える。


文字を消す。


新しく打ち込む。


記録名:バカ二人


保存。


重要記録指定。


永久保存候補。


その間にも、レトはエルのお腹をわしゃわしゃしていた。


「エル、犬はね、撫でるのをやめると、もっと撫でてってするんだよ!」


レトが手を止める。


エルはしばらく仰向けのまま待った。


そして、レトの腕へ自分の頭を押しつけた。


「もっと」


レトの顔が輝く。


「できてるーっ!」


わしゃわしゃわしゃわしゃ。


「わん」


エルの身体がくねくねする。


ロジーのデバイスが、無言で最大倍率へ切り替わった。


やがて、エルがふと顔を横へ向けた。


植え込みの陰。


桃色の髪。


浮かぶデバイス。


赤い撮影表示。


エルとロジーの目が合った。


沈黙。


レトはまだ気づかず、エルのお腹を撫で続けている。


エルは仰向けのまま、ロジーを見た。


「ロジー」


ロジーは動かない。


撮影も止めない。


「犬は、撮られると喜ぶ?」


ロジーは無言で、大きく頷いた。


デバイスへ文字が浮かぶ。


とても喜ぶ。続けて。


エルは納得した。


「わかった」


そして、先ほどより少しだけ元気よく身体をくねらせた。


「わん、わん」


「エル、すっごく犬になってきた!」


レトが喜ぶ。


ロジーは無言のまま撮影を続けた。


頭上のデバイスに、最後の一文が追加される。


記録価値:測定不能。



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