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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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130/135

第130話-旧世代感覚器官

女子会空間の床には、三人分のクッションがあった。


正確には、最初は三人分だった。


今では全部が中央へ集められ、巨大な柔らかい山になっている。


レトは一番大きな丸いクッションへうつ伏せになり、淡緑の長い髪を広げていた。左側のワンサイドテールから下がる青い髪飾りが、足をぱたぱた動かすたびに小さく揺れる。


ロジーは白い絨毯の上に仰向けで寝転がり、頭だけをクッションの山へ預けていた。


頭上のデバイスには、溶けた顔の絵と、


本日の業務意欲:女子会空間外に置いてきました


という表示が浮かんでいる。


エルはソファとクッションの隙間に挟まっていた。


事故ではない。


自分で入り込んだ。


白髪のボブの毛先だけが、隙間から淡いピンク色に覗いている。


小さな机の上には、空になった菓子皿。


飲みかけのカップ。


途中で飽きたカード。


レトが硝子で作った、短剣型のつまようじ。


ロジーが撮影した三人の寝転がり写真。


エルが作った、撫でる場所によって感触が変わる四角い何か。


三人は、何もしていなかった。


女子会は行われている。


ただし、議題も活動もない。


一緒に集まり、寝転がり、気が向いた時だけ喋る。


それだけだった。


レトがクッションへ頬を押しつけたまま言った。


「ひまー」


ロジーが天井を見ながら答える。


「ひまじゃないよ。現在、女子会空間内における完全休息状態を記録中」


「それ、ひまってことじゃない?」


「違う。私は今、何もしないことをしてるの」


「わたしもしてる」


ソファとクッションの隙間から、エルの声がした。


「あたしも、何もしてない」


「じゃあ三人ともいっしょだね」


レトは満足そうに目を閉じた。


しばらく、何も起きなかった。


女子会空間の天井では、淡い星明かりがゆっくり流れている。


それをぼんやり眺めていたロジーが、突然口を開いた。


「ねー、エル」


「うん」


「エルのほんとの身体って、人間と全然違うの?」


レトの足が止まった。


「ほんとの身体?」


ロジーは寝転がったまま、エルのいる隙間へ顔を向ける。


「今の身体って、人間を見るための身体でしょ?」


「うん」


「じゃあさ。人間の身体になって、できなくなったことってあるー?」


隙間の中で、エルが黙った。


レトが顔を上げる。


「エル?」


「言葉、探してる」


「いっぱいある?」


「いっぱいある」


ロジーのデバイスから、溶けた顔の絵が消えた。


記録画面が即座に展開される。


「記録開始!」


レトが目を丸くした。


「何もしないことは?」


「終了! 旧世代本体構造聞き取り調査を開始します!」


エルが隙間からゆっくり這い出てきた。


白い髪に、クッションの毛が少しついている。


そのまま床へ座り、自分の両手を見た。


「人間の身体には、目がある」


「あるね!」


レトが自分の目元を指差す。


「耳もある!」


「鼻もあるよ!」


ロジーも起き上がった。


エルは頷く。


「見るところ。聞くところ。匂うところ。触るところ。だいたい分かれてる」


「旧世代は違うの?」


「違う」


エルは少し考え、自分の目の下へ指先を置いた。


「本体には、目に近いものがあった。でも、見るだけじゃなかった」


「器官?」


ロジーが尋ねる。


「うん。器官でいいと思う」


「名前は?」


エルは口を開きかけ、止まった。


「人間の言葉にない」


「旧世代の言葉なら?」


「ある」


ロジーの目が輝く。


「言って!」


エルは少しだけ姿勢を正した。


普段の、ぽつりぽつりとした人間語とは違う音が、その小さな口から流れた。


「Sael-ithra ven ol.」


声そのものは静かだった。


だが、女子会空間の星明かりが、一瞬だけ遠くなった。


音を聞いたはずなのに、レトには、何かが自分の背後を通り過ぎたように感じられた。


ロジーのデバイスが激しく明滅する。


複数の文字列が開き、消え、再構成された。


ロジーは目を細めて表示を読む。


「えっと……直訳できない」


「できないの?」


レトが尋ねる。


「単語一個に入ってる意味が多すぎる。でも、近い表現なら……」


ロジーは画面を指で送った。


「自分の位置を基準にせず、存在しているものの現実への沈み方を受け取る器官」


沈黙。


レトが床を見た。


「現実への、沈み方?」


エルが頷く。


「人間は、ものを見ると形が分かるでしょ」


「うん」


「あたしは、それがどれくらい強く現実にいるか分かった」


ロジーがすぐに尋ねる。


「存在強度?」


「少し違う」


「実在性?」


「近い。でも違う」


エルは床へ手を置いた。


「この床は、ここにいる。でも、この床のことをずっと覚えてる人がいたら、その人の中にもいる」


レトも床へ手を置く。


「床が二人いるの?」


「同じ床が、違う深さにいる」


「分かんない!」


「うん」


エルは平然としていた。


ロジーがデバイスへ向かって言う。


「再翻訳! 概念分解して!」


デバイスの表示が更新される。


Sael-ithra ven ol


器官分類:外在受容構造


感覚分類:実在深度知覚


補足:物質的存在、精神的存在、記憶上の存在、可能性上の存在を同一感覚上で区別する。


ロジーが読み上げた。


「器官名は、サエル・イスラ・ヴェン・オル。短くするなら、サエル器官。感覚の方は、実在深度知覚……でいいかな」


エルは少し首を傾げた。


「たぶん」


「たぶんなの!?」


「人間の言葉にすると、少し違うものになるから」


レトは自分の胸元を触った。


「サエル器官、どこにあったの?」


エルはレトの右肩より少し外側を指差した。


「このあたり」


レトが振り返る。


何もない。


「身体の外?」


「本体では、そこも身体だった」


「身体って、皮膚までじゃないの?」


「人間はそう」


ロジーが記録しながら尋ねる。


「本体の輪郭は固定されてなかった?」


「輪郭はあった」


「どこに?」


「その時、あたしじゃないものが始まるところ」


「それを輪郭って言うんじゃない?」


「でも、場所は動く」


「動くんだ……」


ロジーのデバイスが、処理負荷を示す細い音を鳴らした。


エルはさらに続ける。


「あと、まだ起きてないものを感じる器官があった」


ロジーの指が止まる。


「未来予知?」


「違う」


「可能性視?」


「違う」


「因果観測?」


「それも少し違う」


エルは人間語で説明しようとして、何度か口を開いた。


「まだ起きてないものが……」


止まる。


「来る前に……」


また止まる。


「ないまま……触ってくる」


レトが自分の腕を抱いた。


「ないのに触ってくるの?」


「うん」


「こわい!」


「怖くはなかった」


「器官の名前は?」


ロジーが期待に満ちた顔で尋ねる。


エルは、今度は少し長く旧世代語を発した。


「Naura-fel esh khalem, tor il va.」


女子会空間の空気が、ほんの僅かに前後へ揺れた。


カップの中の飲み物には何の波も立っていない。


それなのにレトは、一瞬だけ、まだ倒れていないカップが倒れる気配を感じた。


ロジーのデバイスが複数回点滅する。


「翻訳中……分解……概念照合……うわ、これ文じゃなくて器官名なの!?」


「うん」


「長い!」


「人間が短く分けすぎる」


エルは悪びれずに答えた。


ロジーが翻訳結果を読み上げる。


「近似翻訳。発生していない事象が、発生し得る状態のまま現在へ与える圧力を受ける器官」


レトが目をぱちぱちさせる。


「もう一回!」


「まだ起きてないことが、起きる前から押してくるのを感じるところ!」


「未来予知じゃないの?」


「起きるって決まってないから、予知じゃない」


エルが答えた。


「いっぱい押してくる。その中から、一つだけ起きることもある。どれも起きないこともある」


ロジーは記録欄へ入力する。


「器官名、ナウラ・フェル・エシュ・カレム・トル・イル・ヴァ。長すぎるから、ナウラ器官」


エルが小さく頷いた。


「感覚名は?」


「旧世代語だと同じ」


「器官と感覚の名前が同じなの?」


「分ける必要がなかったから」


ロジーが天井を仰いだ。


「生物分類の常識が全然通じない!」


レトは隣で嬉しそうだった。


「でも、エルのこといっぱい分かってきた!」


「私は分からないことが増えてる!」


エルは二人を交互に見た。


「他にもあるよ」


ロジーが即座に姿勢を戻す。


「全部言って!」


「ロジー、何もしないことしてたんじゃないの?」


レトが聞く。


「今は全部知ることをしてる!」


エルは自分の胸元へ手を当てた。


「自分じゃないものを感じる器官」


ロジーは少しだけ表情を変えた。


「他者認識?」


「人間の他者認識とは違う」


「どう違うの?」


「人間は、最初から身体が分かれてる。皮膚がある。中が見えない。考えてることも、言わないと分からない」


「うん」


レトはエルの顔を覗き込む。


「でも旧世代は、考えると現実になる」


エルは言った。


「想像と身体と外側が、あまり分かれてない」


ロジーのデバイスが静かに記録を続ける。


「あたしが考えたこと。誰かが考えたこと。世界がそうなったこと。そのままだと、同じところに入る」


レトが首を傾げた。


「同じになっちゃうの?」


「うん。だから、違うものが来た時に、へこむところがあった」


「へこむ?」


「そこに他者が入る」


エルは、人間語で説明を続けようとした。


「内側でもなくて、外側でもなくて……」


口が止まる。


「自分が終わるところに……」


また止まる。


やがて、エルは旧世代語へ切り替えた。


「Shel-kora ain el, mira nof tesh.」


その音が響いた瞬間、レトはエルの手が自分のものではないことを、ひどく鮮明に感じた。


当たり前のことだった。


けれど今まで意識したことのないほど、はっきりと違う。


別の手。


別の体温。


別の存在。


その違いが、怖いのではなく、嬉しかった。


ロジーのデバイスが翻訳を表示する。


ロジーは、先ほどまでより静かな声で読み上げた。


「自己の連続性を損なわず、自己ではない存在を内側へ迎えるための空洞器官」


レトがエルの手を見た。


「他の人を入れるところ?」


「うん」


「身体の中に?」


「内側と外側の間」


「また人間にない場所だ」


「うん」


ロジーが翻訳結果を整理する。


「シェル・コラ。近似分類は他者受容腔。感覚名は……個体差異感覚、かな」


「少し違う」


「だよね!」


ロジーは頭を抱えた。


「でも人間語だとこれ以上無理!」


「ロジー、上手」


「褒められた!」


ロジーの顔がすぐに明るくなる。


レトはエルの手を握った。


「今のエルには、シェル・コラないの?」


「ない」


「じゃあ、わたしがわたしだって分からない?」


「今の身体だと、もっと簡単に分かる」


エルは握られた手を見た。


「レトの手は、あたしの手じゃない」


「うん!」


「ロジーの声は、あたしの考えじゃない」


「そうだよ!」


「聞かないと、何を考えてるか分からない」


レトが少し得意げに胸を張る。


「わたし、今ね、エルの手あったかいって考えてる!」


「言ったから分かった」


「えへへ」


ロジーが身を乗り出した。


「じゃあ、人間の身体になって一番困ったことは?」


「一つの場所にしかいられない」


「それは困りそう!」


「後ろが見えない」


「急に普通!」


「目を閉じると見えない」


「すごく普通!」


「遠い人が、何をしてるか分からない」


「普通だよ!」


「時間が一つずつ来る」


ロジーの声が止まった。


レトもエルを見た。


「本体だと違ったの?」


「前と後ろが、あまり分かれてなかった」


エルは自分の膝を抱えた。


「昔のことも、まだ起きてないことも、今と違う場所にあるだけだった」


ロジーが慎重に聞く。


「時間を空間みたいに感じてた?」


「少し近い」


「その感覚にも名前がある?」


「ある」


「聞きたい!」


エルは天井の星を見た。


「Orthe-lim va seran.」


今度の言葉は短かった。


けれど響いた瞬間、星明かりの流れが一度だけ止まったように見えた。


ロジーのデバイスが翻訳する。


「近似翻訳……出来事を過去と未来へ分断せず、存在する順序の違いとして触れる感覚」


ロジーは少し考えた。


「オルテ・リム。連続時触覚」


「人間の言葉だと、それが近い」


「今はないの?」


「ない」


「嫌だった?」


レトが尋ねた。


エルは少し黙った。


「最初は、不便だった」


「今は?」


「少し好き」


「どうして?」


エルは、握られたままの右手を見た。


「待てるから」


「待つ?」


「次に何が来るか、今は分からない」


机の上には、食べ終わったお菓子の皿がある。


途中で飽きたカード。


飲みかけのカップ。


少し前まで、三人は何もしていなかった。


その途中でロジーが質問した。


エルが答えた。


レトが手を握った。


旧世代の本体なら、こうなる可能性が押してくることを、最初から感じていたのかもしれない。


だが今のエルには、次に起きることが分からない。


「待ってると、ロジーが急に喋る」


「私!?」


「レトが急に抱きつく」


「抱きつくよ!」


「職員さんが、お菓子持ってくることもある」


ロジーが大きく頷く。


「それは待つ価値がある!」


エルはほんの少し笑った。


「分からないの、楽しい時がある」


ロジーは記録画面を見た。


旧世代語。


器官名。


感覚名。


人間語では正確に表せない、大量の翻訳候補。


どれも貴重だった。


どれも、ロジーがずっと残したいと思う記録だった。


それでもロジーは、デバイスの記録を一度止めた。


そして、エルの左側へ移動した。


肩が触れるほど近くへ座る。


「じゃあ、今の身体にしかない感覚は?」


エルは右を見る。


レトが手を握っている。


左を見る。


ロジーが肩を寄せている。


「右にレトがいる」


「いる!」


「左にロジーがいる」


「いるよ!」


「重さが違う」


ロジーが胸を張った。


「私の方が軽いからね!」


「ロジーの方が、いっぱい動く」


「それもある!」


エルは二人に挟まれたまま、クッションへ背中を預けた。


「本体には、右と左がなかった」


レトがさらに近づく。


「じゃあ今は、ちゃんと分かるね!」


「うん」


ロジーも反対側から抱きついた。


「現在位置記録! エルの右にレト! 左にロジー! 三人密着状態!」


「重い」


エルが言った。


二人が同時に止まる。


レトが不安そうに尋ねた。


「いや?」


エルは、二人の間へ少しだけ身体を沈めた。


右側から伝わるレトの体温。


左側から伝わるロジーの動き。


二つの腕。


二つの呼吸。


自分とは違う二人が、自分のすぐそばにいる。


「ううん」


エルは目を閉じた。


「あたしが、ここにいるって分かる重さ」


ロジーのデバイスが静かに光った。


記録を再開する。


旧世代の器官でもない。


失われた本体の感覚でもない。


翻訳に困ることもない。


ロジーは最後の一行を、人間の言葉で入力した。


人間の身体で得た感覚。


右と左に、大好きな他者がいる。


表示を見たロジーが笑う。


「これは翻訳できる!」


レトもエルへ頬を寄せた。


「わたしも分かる!」


エルは二人の間で、ゆっくり頷いた。


「うん」


女子会空間は、また何もしない時間へ戻った。


ただし今度は、三人とも同じクッションの上にいた。



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