第118話-レトには権利がない惑星
最初に異常を知らせたのは、右手の震えだった。
レトは、惑星軌道上に浮かぶ敵性魔力生命体へ向けて、最後の硝子短剣を放った。
透明な刃の内部に、青白い高熱が走る。
空間を折る。
正面から放った短剣の軌道を、敵の背後へ移す。
金属と岩石を取り込んで膨れ上がった敵性個体が、レトへ砲身を向けた瞬間、硝子の刃はその中核へ滑り込んだ。
一拍。
巨大な身体の内側から、青白い光が漏れる。
亀裂が走った。
次の瞬間、敵性個体は無数の硝子片と金属片を撒き散らしながら、音もなく崩壊した。
宇宙空間を漂っていた残存個体の魔力反応も、一つずつ消えていく。
レトは周囲を見回した。
「……おしまい?」
通信機には、帰還船からの指示が表示されていた。
敵性反応消失を確認。
戦闘班単騎遊撃員レト、帰還座標へ移動せよ。
「はーい!」
レトは元気よく答えた。
だが、返した声が正常に届いたかは分からなかった。
通信回線には、戦闘による強い雑音が混じっている。
任務中、レトは何度も空間を折っていた。
短距離転移。
位置ずらし。
硝子短剣群の軌道変更。
敵の砲撃座標の引き延ばし。
どれも一つずつなら、レトにとって難しい魔術ではない。
しかし、それを短時間に何百回も繰り返した。
身体の中を巡る魔力が熱を持ちすぎている。
視界の端には、透明な亀裂のようなものが見えていた。
実際に空間が割れているわけではない。
魔力を使いすぎた時に起きる、距離感覚の乱れだった。
近いものが遠く見える。
遠いものが突然、目の前にあるように感じる。
右と左が、一瞬だけ入れ替わる。
レトは右手を握った。
震えている。
「だいじょうぶ」
自分へ言い聞かせる。
帰還船までは、それほど遠くない。
空間転移を使わなくても、通常の飛行で戻れる。
レトは背中へ青白い魔力光を展開した。
だが、その直後。
破壊した敵性個体の残骸が、わずかに動いた。
レトが振り返る。
金属片の奥で、消滅したと思われていた中核の一部が再点灯している。
砲口が、帰還船へ向いた。
「まだいた!」
レトは反射的に空間魔術を展開した。
残骸と帰還船の間へ入り込むための、短距離転移。
本来なら、考える必要もない距離だった。
けれど。
指定した座標が定まらなかった。
帰還船の位置が、一瞬だけ二つに見える。
片方は正しい。
もう片方は、近くの惑星の重力圏に引かれた空間認識が作り出した偽座標。
レトは術式を止めようとした。
間に合わなかった。
身体が硝子の光に包まれる。
世界が裏返る。
「――あ」
転移が成立した。
ただし、レトが指定した場所ではなかった。
帰還船の外側でもない。
戦場の中央でもない。
レトは、惑星の上空へ放り出された。
眼下いっぱいに、大陸が広がっている。
「えっ」
身体が落ち始める。
「ええええええっ!?」
惑星の重力が、小さな身体を一気に引き込んだ。
通信機が警告を発する。
座標異常。
重力圏突入。
大気圏到達まで四十二秒。
レトは空間魔術を使おうとした。
帰還船の座標を思い出す。
そこへ戻る。
それだけでいい。
術式を組み始める。
けれど、目の前に浮かんだ空間座標は歪んでいた。
帰還船。
惑星表面。
宇宙空間。
自分の現在地。
すべてが重なって見える。
このまま転移すれば、どこへ出るか分からない。
帰還船の内部ではなく、船体装甲の中へ身体の一部だけが出るかもしれない。
惑星の地中へ埋まるかもしれない。
転移中に魔力が尽きれば、身体が空間の境界へ取り残される可能性もある。
監理局で、何度も教えられていた。
空間認識に異常がある時は、転移してはいけない。
魔力消耗時に長距離転移を強行してはいけない。
帰還を急いで、生還率を下げてはいけない。
レトは術式を握り潰した。
「使っちゃ、だめ」
帰りたい。
すぐに帰りたい。
お兄さんのところへ行きたい。
けれど、それは今、してはいけない。
「わたし、ちゃんと帰るの」
無理に空間を越えることは、帰ることではない。
生きて見つけてもらうことが、帰ることだ。
レトは両腕を広げた。
「まず、落ちる!」
大気圏が迫る。
身体の周囲へ、何重もの硝子の殻を作る。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
青白い高熱を硝子の内部へ閉じ込め、外側だけを耐熱層として固定する。
レトの身体が大気へ突入した。
激しい光。
轟音。
硝子の表面が赤熱する。
「わああああああっ!」
殻の外側が砕ける。
新しい硝子を重ねる。
砕ける。
また重ねる。
完全な空間転移はできない。
だが、地表までの距離をわずかに引き延ばし、落下速度の一部を横方向へ逃がす程度なら、まだ制御できる。
レトは慎重に、ほんの少しずつ術式を使った。
それでも、魔力の消耗は激しい。
視界が白くなる。
右手だけでなく、両足も震え始める。
「もう、ちょっと……!」
眼下に、森が見えた。
遠くには銀色の都市。
その外側を囲む高い壁。
レトは最後の硝子殻を閉じた。
身体を丸める。
次の瞬間。
森の一角へ、青白い彗星が落ちた。
地面が大きく揺れる。
土砂が跳ね上がる。
木々が倒れる。
巨大な硝子の塊が地面を削りながら滑り、岩山の裾へ衝突した。
硝子殻の表面へ、無数の亀裂が走る。
そして。
静かになった。
◇
どれくらい気を失っていたのか、レトには分からなかった。
目を開けた時、硝子殻の外は暗くなり始めていた。
「……ん」
身体が重い。
頭が痛い。
胸の奥に熱が溜まっている。
排熱が追いついていない。
レトは殻の内側へ手をついた。
力を入れる。
硝子が、ぱきぱきと割れた。
できた隙間から這い出す。
淡緑の長い髪は土と煤に汚れ、左側のワンサイドテールも崩れかけていた。
青いキューブの髪飾りは二つとも残っている。
レトは最初に、それを触った。
「よかった」
次に身体を調べる。
右腕。
動く。
左腕。
動く。
足。
痛いが、立てる。
制服は破れている。
膝と肘には擦り傷。
脇腹には、衝突の際にできた大きな痣があった。
けれど、重大な欠損はない。
「無事」
レトは小さく頷いた。
「わたし、無事です」
誰も聞いていない森の中で、報告する。
通信機を取り出した。
画面には大きなひびが入っている。
側面の操作部を押す。
何度か明滅したあと、赤い表示が浮かんだ。
長距離通信――停止。
通常通信――圏外。
緊急信号――低出力送信中。
位置情報――断続送信。
緊急信号は生きている。
弱い。
だが、完全に壊れてはいない。
「えらい」
レトは通信機を撫でた。
「ちゃんと頑張ってるね」
空を見上げる。
帰還船は見えない。
当然だった。
この惑星のどこへ落ちたかも分からない。
監理局側から見れば、軌道上でレトの反応が消え、惑星の重力圏へ落下したことまでは追えるはずだ。
大気圏突入時に剥がれた硝子質の魔力。
墜落時の高熱。
断続的な緊急信号。
それらを辿れば、必ず見つけてもらえる。
「二日」
レトは指を二本立てた。
「どんなに遅くても、二日あれば見つけてくれる」
お兄さんなら、もっと早いかもしれない。
副長もいる。
情報班もいる。
調査班もいる。
戦闘班の職員たちも、絶対に探してくれる。
誰もレトを置いていかない。
それは知っている。
だから、問題は帰ることではない。
見つけてもらうまで、安全に待つこと。
レトはもう一度、空間魔術を試そうとした。
術式を発動するのではなく、自分の周囲の座標だけを確認する。
一歩先。
十歩先。
森の外。
遠くの都市。
距離を順番に測る。
しかし、十歩先の座標を見た瞬間、空間が斜めに傾いた。
レトは慌てて術式を切った。
吐き気が込み上げる。
膝をつく。
「うぅ……」
やはり、空間認識が回復していない。
短距離転移ですら危険だった。
移動先を間違えるだけならまだいい。
疲労と魔力不足の状態では、転移中に術式が途切れる可能性がある。
身体の一部だけを置き去りにする。
あるいは、空間の狭間から戻れなくなる。
魔術制御部長が、何度も言っていた。
空間魔術は便利だからこそ、使えない時に使わない判断が最も重要です。
レトは額の汗を拭った。
「使わない」
帰りたくても使わない。
怖くても使わない。
自分で歩ける場所だけを歩く。
「わたし、ちゃんと判断できた」
誰かに褒めてほしかった。
だが、今はいない。
レトは自分で自分の頭を撫でた。
「えらい」
少しだけ寂しかった。
◇
通信機の内部記録には、任務前に共有された惑星情報が残っていた。
惑星名、アルデニア。
星間航行技術を持たない、魔術文明圏。
複数国家が存在し、そのうちレトが落下した大陸では、魔力生命体に法的人格が認められていなかった。
資源。
敵。
道具。
奴隷。
消耗品。
見せ物。
動物。
人間以下。
権利を持たないもの。
その認識が、社会制度として定着している。
所有者のいる魔力生命体は財産。
所有者のいない魔力生命体は、無主資源。
人間の言葉を話すかどうかは、判断基準にならない。
痛みを訴えるかどうかも関係ない。
高度な思考ができても、それは価値の高い機能として評価されるだけだった。
レトは画面を見つめた。
「わたし、人間じゃない」
それは知っている。
人間になりたいわけでもない。
レトはレトだ。
硝子の彗星から生まれた箱庭の娘。
惑星監理局の戦闘班員。
お兄さんに育ててもらった。
職員たちと一緒に暮らしている。
人間と同じでなくても、大切にされている。
けれど、この惑星では、その説明は通じないかもしれない。
レトは暗くなり始めた森を見回した。
このまま森で夜を越すこともできる。
だが、気温が下がり始めている。
基礎体温の高いレトでも、魔力を使いすぎたあとの急激な冷却は危険だ。
水もいる。
食べ物も欲しい。
何より、今は一人で眠るには身体の状態が悪い。
安全な屋根。
それだけ借りる。
事情を話せば、一晩くらいは泊めてくれる人がいるかもしれない。
「うん」
レトは立ち上がった。
「今日は、寝る場所を探す任務」
目標を決めると、少し元気が出た。
◇
都市の外壁へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
巨大な石壁。
魔術灯。
荷車の列。
門の前には、商人や旅人、兵士たちが集まっている。
レトは人の列へ近づいた。
その途中で、金属製の檻が目に入った。
荷車の上に、大きな檻が固定されている。
中には、青い毛を持つ四足の魔力生命体が三匹入れられていた。
犬にも似ている。
だが、身体の輪郭が時々薄くなり、青い霧へ溶けかけている。
首には太い輪。
脇腹には管理番号。
一匹の前脚が不自然な方向へ曲がっていた。
それでも、誰も治療しない。
檻を引く商人が、棒で鉄格子を叩いた。
「静かにしろ」
四足の個体が低く鳴く。
「明日には魔力炉の燃料だ。今さら騒いでも変わらん」
レトの足が止まった。
檻の中の一匹と目が合った。
濁った金色の瞳。
その目が、レトの緑の瞳を見つめる。
助けてと言ったのか。
怖いと言ったのか。
ただ、こちらを見ただけなのか。
レトには分からなかった。
商人がレトの視線に気づいた。
「何だ、お前」
「その子、足が折れてる」
「だから何だ」
「痛いよ」
商人は一瞬、意味が分からないような顔をした。
「商品が痛がるかどうかを気にしてどうする」
「商品じゃないよ」
周囲の人々が振り返った。
商人の視線が、レトの破れた制服へ移る。
汚れた淡緑の髪。
青白い硝子質の魔力残滓。
人間とほとんど同じ姿。
だが、よく見れば人間とは違う魔力循環。
「お前も魔力体か?」
門番が近づいてきた。
「誰の所有物だ」
レトは背筋を伸ばす。
「わたしは惑星監理局の戦闘班所属、単騎遊撃担当のレトです。任務中の事故でこの惑星に不時着しました」
門番は黙った。
「惑星監理局?」
「この宇宙の秩序維持機関です」
「どこの国の組織だ」
「国じゃないよ。宇宙の――」
「所有者の名称を聞いている」
「いないよ」
門番の表情が険しくなった。
「所有者不明か」
「違う。わたしは誰かの物じゃないの」
周囲で、小さな笑いが起きた。
「喋る型だ」
「人型の愛玩個体か?」
「戦闘用じゃないか。服を見ろ」
「所有者を失って混乱しているのかもしれない」
レトは唇を結んだ。
「混乱してないよ」
「所有証を出せ」
「ない」
「登録札は」
「ないよ。でも、これ」
レトは非常用通貨片を取り出した。
表面には、惑星監理局の識別紋と救難用の照会符号が刻まれている。
「監理局のものだよ。これを見せれば、連絡してもらえるって教わったの」
門番は通貨片を受け取った。
表裏を眺める。
刻印の意味を理解している様子はない。
隣の門番へ渡した。
「見たことがあるか」
「ない」
通貨片はレトへ返されなかった。
「これも回収する」
「返して」
「所有者不明個体の所持品だ」
「わたしのだよ」
「無主個体として収容する」
門番が腰から金属の輪を取り出した。
内側には、魔力循環を乱すための細い棘が並んでいる。
首輪。
レトの肩が震えた。
「それ、なに」
「制御具だ」
「つけない」
「お前の許可は必要ない」
門番が近づく。
レトは一歩下がった。
空間転移で逃げる。
その考えが、一瞬だけ浮かぶ。
けれど、空間認識はまだ戻っていない。
人が密集している場所で転移に失敗すれば、自分だけでは済まない。
周囲の人間を巻き込むかもしれない。
だから使えない。
硝子の短剣を作れば、門番たちを止められる。
だが、殺さないように加減できる状態ではない。
魔力循環が乱れている。
短剣一つに、普段の何倍もの熱が入る可能性がある。
それも使えない。
レトは両手を上げた。
「戦わないよ」
「なら従え」
「でも、それはつけない」
「命令に従え」
門番が手を伸ばした。
レトはその手を掴んだ。
強く握ったつもりはなかった。
しかし、門番の顔が歪む。
「痛っ――」
レトは慌てて手を離した。
「ごめんなさい!」
その隙に、別の門番が捕獲網を投げた。
魔力阻害用の金属糸。
レトは反射的に横へ飛ぶ。
網を避ける。
着地した瞬間、視界が揺れた。
膝の力が抜ける。
地面へ手をつく。
「今だ!」
三人の門番が一斉に近づいた。
レトは歯を食いしばった。
走る。
空間魔術は使わない。
短剣も出さない。
人の間を縫うように抜ける。
荷車へ飛び乗り、屋根へ跳び、壁の装飾へ指をかける。
本来なら、都市の外壁程度は一瞬で越えられる。
だが今は、身体が重い。
魔力を使わない単純な跳躍だけで移動する。
警鐘が鳴った。
未登録魔力生命体、逃走。
人型。淡緑色。
戦闘能力保有の可能性あり。
レトは壁の上から都市の内側へ飛び降りた。
◇
都市の中には、宿がいくつもあった。
明るい窓。
食事の匂い。
笑い声。
レトのお腹が鳴った。
最初の宿の裏口を叩く。
しばらくして、年配の女性が扉を開けた。
レトを見る。
破れた服。
汚れた顔。
疲労で震える手。
女性の表情が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
「どうしたの」
「今日、寝る場所を貸してください」
「お金は」
「門の人に取られちゃった。でも、明日か明後日には惑星監理局の人が迎えに来るよ。来たら、ちゃんと払ってもらうから」
女性は周囲を見回した。
「あなた……魔力体?」
「うん。でも、危ないことはしないよ」
「所有者は?」
「いない」
女性は困った顔をした。
その奥から、男性の声が飛んでくる。
「誰だ」
「旅の子みたい」
「門で警鐘が鳴ってる。魔力体が逃げたって」
女性の肩が強張った。
「……ごめんなさい」
「床でいいよ」
「そういう問題ではないの」
「静かにする。何も触らない」
「泊めたことが知られたら、宿の営業権を失うの」
レトは服の裾を握りしめた。
女性は苦しそうに言った。
「ごめんなさい」
扉が閉じた。
レトはしばらく、その前に立っていた。
今の女性は、レトを嫌っていたわけではない。
それが分かるから、余計に悲しかった。
二軒目の宿では、扉を開けてもらえなかった。
三軒目では、若い店主がレトをじろじろと眺めた。
「硝子型か。珍しいな」
「一晩泊めてください」
「魔力核を見せろ」
「見せないよ」
「品質を確認しないと値段が決められない」
「わたしを買う話じゃないよ」
「無主個体なら拾得者に取得権がある」
店の奥から、大柄な男が二人出てきた。
レトは後ろへ下がった。
「帰ります」
「待て」
男が腕を掴もうとする。
レトは触れられる前に身をかわした。
走る。
四軒目では、水をかけられた。
冷たい水が髪と制服へ染み込む。
普段なら、レトは雨が好きだった。
高い体温に触れる冷たい水は気持ちいい。
けれど、その水は違った。
五軒目の前では、幼い子供がレトを見つけた。
「お母さん。あの子、髪がきれい」
母親が子供の手を引く。
「近づいてはいけません」
「どうして?」
「人間ではないからよ」
「でも、泣いてる」
母親は答えず、子供を連れていった。
レトは自分の頬へ触れた。
濡れている。
水なのか。
涙なのか。
よく分からなかった。
◇
広場には、見世物小屋があった。
透明な箱の中で、小さな魔力生命体が踊っている。
人間の子供に似た形。
光でできた身体。
足には細い鎖。
床の術式が光るたび、同じ動きを繰り返す。
笑う。
回る。
転ぶ。
観客が笑う。
立ち上がる。
また笑う。
箱の横には説明板が立っていた。
感情を持つように見えますが、すべて高度な反応模倣です。
レトは箱の前で立ち止まった。
小さな個体が転ぶ。
膝から光が漏れる。
それでも、笑顔を作る。
「痛い?」
レトが尋ねる。
小さな個体の目が、レトへ向いた。
笑顔のまま。
口だけが動く。
声は聞こえない。
床の術式が光った。
個体はまた踊り始めた。
「痛いよね」
その時、背後から腕を掴まれた。
「見つけたぞ」
作業着の男。
門でレトを見た商人だった。
別の男が、魔力阻害用の袋を広げている。
「放して」
「無主個体の捕獲報奨金は高いんだ」
「わたしは無主じゃない」
「所有証がないなら同じだ」
「違う!」
レトは腕を振り払った。
男の身体が数メートル飛んだ。
露店の布壁へ突っ込み、地面を転がる。
レトは青ざめた。
「ごめんなさい!」
男は呻いている。
重大な怪我ではない。
それでも、痛そうだった。
周囲の人々が悲鳴を上げる。
「軍用個体だ!」
「兵士を呼べ!」
「逃げろ!」
レトの周囲へ、硝子片が浮かびかけた。
防衛反応。
レトは両手を強く握る。
硝子片を消す。
「戦わない」
兵士たちの足音が近づく。
空間転移を使えば、すぐに逃げられるかもしれない。
けれど、使えない。
使ってはいけない。
レトは走った。
ただの足で。
疲れた身体で。
◇
都市の外れ。
古い輸送路の下に、崩れかけた排水設備があった。
半地下の石造り。
入口の半分は土砂で塞がれている。
中は暗い。
湿った土と苔の匂い。
レトは入口に立ち、中を覗いた。
「ここなら……」
人は来なさそうだった。
屋根はある。
風も防げる。
今夜だけなら、十分だ。
中へ入る。
壁際には、古い鎖と首輪が積まれていた。
ここも昔、捕獲した魔力生命体を保管する場所だったのかもしれない。
レトは首輪を見ないようにして、床へ手を触れた。
少量の硝子質の魔力を出す。
透明な薄板を作り、冷たい石床の上へ敷く。
壁の割れ目も、小さな硝子片で塞ぐ。
入口には何も作らなかった。
空間や魔力の異常を残せば、現地の兵士に発見される可能性が高い。
監理局には見つけてほしい。
現地の人間には見つかりたくない。
両方を満たすことは難しかった。
レトは壊れた通信機を取り出した。
赤い表示が、時々点滅している。
緊急信号送信中。
「職員さん」
通信機へ話しかける。
「わたし、無事です」
返事はない。
「ちゃんと空間魔術、使わなかったよ」
レトは少し胸を張った。
「使えば帰れたかもしれないけど、失敗したら危ないから、使わなかった」
誰も褒めてくれない。
「魔術制御部長に、えらいって言っておいてね」
通信機は点滅するだけだった。
レトは制服の上着を脱ぎ、丸めて枕にした。
横になる。
硬い。
寒い。
監理局のベッドとは違う。
生活班の職員が毛布をかけてくれない。
廊下の足音もない。
ロジーの声もない。
エルがふわふわした寝床を作ってくれることもない。
お兄さんもいない。
レトは通信機を胸へ抱いた。
「二日だから」
指を二本立てる。
暗闇の中で、それを見る者はいない。
「二日なら、わたし、一人で待てるもん」
声が震える。
「今日、寝る場所も見つけた」
崩れかけた天井を見上げる。
「ちゃんと屋根、あるよ」
唇を噛む。
「だから、心配しなくていいよ」
涙が一粒、頬を伝った。
硝子の床へ落ちる。
触れた場所に、小さな青白い結晶ができた。
レトはそれを摘まんだ。
温かい。
短剣にはならないほど小さい。
ただの小さな硝子片。
通信機の上へ置く。
「目印」
監理局の観測機なら、レトの硝子質の魔力を識別できる。
これだけ小さくても、近くまで来れば分かるはずだ。
「おやすみ、お兄さん」
目を閉じる。
「ちゃんと見つけてね」
◇
眠りは浅かった。
何度も目を覚ました。
外で何かが動く音。
遠くの警鐘。
兵士の声。
夢の中では、空間転移を使っていた。
監理局へ帰ろうとする。
けれど、出口が何度もずれる。
局長室の扉を開けたら宇宙だった。
食堂へ出ようとしたら地中だった。
お兄さんの声がするのに、距離が縮まらない。
レトは目を開けた。
「……やだ」
胸が苦しい。
身体を起こす。
夜明け前だった。
外から、かすかな鳴き声が聞こえる。
低い。
苦しそうな声。
レトは立ち上がった。
排水設備の外へ出る。
斜面の下に、一匹の魔力生命体が倒れていた。
門の檻に入れられていた、青い四足の個体。
首輪はついたまま。
鎖の一部が切れている。
逃げてきたらしい。
折れた前脚を引きずり、息を荒くしている。
レトが近づくと、個体は牙を見せた。
「大丈夫」
レトは立ち止まる。
「触らないよ」
個体は唸る。
身体が青い霧へ崩れかけている。
魔力循環が弱っていた。
このまま放置すれば、朝まで持たないかもしれない。
レトは自分の手を見た。
治療魔術は得意ではない。
生体内部へ直接魔術を使うこともできない。
できるのは、折れた脚を外側から固定すること。
周囲を温めること。
魔力が散らないよう、外殻を支えること。
ただし、それにも魔力を使う。
自分の残量は多くない。
「……ちょっとだけね」
レトは透明な硝子を細く造形した。
脚へ直接触れないよう、外側から添え木を作る。
熱を完全に抜いた硝子。
紐の代わりに、細い硝子糸で固定する。
次に、周囲へ青白い硝子片を置く。
内部の熱を、ごく弱く解放する。
小さな暖炉のように。
四足の個体は、まだ唸っていた。
けれど、逃げなかった。
レトは少し離れて座る。
「わたしもね、捕まえられそうになったよ」
個体の耳が動く。
「首輪、つけられそうになった」
レトは自分の首へ触れた。
「いやだよね」
四足の個体は答えない。
「わたしは、明日か明後日には迎えが来るんだ」
少し間を置く。
「たぶん、今日かも」
個体は丸くなる。
レトも壁へ背を預けた。
「一緒に待つ?」
目を閉じる。
今度は、少しだけ眠れた。
◇
朝。
街道から複数の足音が聞こえた。
レトはすぐに目を覚ました。
兵士たち。
十人以上。
魔力探知具を持っている。
逃げた四足個体の追跡だ。
レトは立ち上がった。
青い個体はまだ動けない。
置いて逃げることもできた。
だが、そうすれば捕まる。
「ごめんね」
レトは四足個体を抱き上げた。
身体は軽い。
霧のように輪郭が揺れている。
「走るよ」
排水設備の奥から、別の出口を探す。
崩れた水路。
細い穴。
人間の兵士は通れない。
レトなら通れる。
空間魔術は使わない。
四つん這いになり、狭い水路を進む。
背後で声がする。
「反応はこの中だ!」
「逃走個体と人型個体が一緒にいる可能性がある!」
「生け捕りを優先しろ!」
「人型は高値がつく!」
レトの顔が強張る。
水路の先に、わずかな光が見える。
出口。
レトは四足個体を抱いたまま、外へ這い出した。
森の斜面。
その先には開けた草地。
隠れる場所が少ない。
兵士たちが背後から出てくる。
「止まれ!」
捕獲網が飛ぶ。
レトは横へ跳ぶ。
網を避ける。
四足個体を落とさないよう、胸へ抱きしめる。
二枚目の網。
避ける。
三枚目。
足へ絡む。
レトは転倒した。
四足個体を庇い、背中から地面へ落ちる。
「いたっ」
兵士たちが囲む。
魔力阻害の杭を地面へ突き立てる。
周囲の魔力が重くなる。
レトは硝子短剣を出そうとした。
一本だけ。
兵士の武器を壊すだけ。
けれど、形成された短剣の内部へ、想定以上の高熱が流れ込んだ。
青白い光が激しくなる。
このまま投げれば、武器だけでは済まない。
レトは短剣を握り潰した。
熱が手のひらを焼く。
「抵抗を止めろ!」
「戦わない!」
「なら個体を置いて伏せろ!」
「この子、怪我してる!」
「それは回収対象だ」
「治療して!」
「燃料用個体に治療は不要だ」
レトの目が大きく開いた。
「燃料じゃない!」
「黙れ」
兵士が首輪を持って近づく。
レトは後ずさる。
背後には、四足個体。
逃げられない。
空間転移。
再び、その考えが浮かぶ。
自分一人なら、危険を承知で使ったかもしれない。
だが、今はこの子を抱いている。
転移に失敗すれば、この個体まで巻き込む。
使えない。
「お兄さん」
小さく声が漏れた。
首輪が近づく。
「お兄さん……」
兵士の手が伸びる。
その瞬間。
空が、鳴った。
雷ではない。
大気そのものを切り裂くような、低く重い音。
全員が空を見上げる。
雲の上から、巨大な黒い船体が降下してくる。
惑星監理局の捜索艦。
船体下部には、監理局の紋章。
現地文明には存在しない規模の航行船。
兵士たちが動きを止めた。
捜索艦は草地の上空で静止した。
強風が広がる。
木々が揺れる。
兵士たちの外套が激しくはためく。
艦底から、拡声通信が発せられた。
『惑星監理局捜索艦より、アルデニア地上部隊へ通告する』
現地の指揮官が顔を上げる。
一般兵の多くは、惑星監理局という名称に馴染みがない。
しかし指揮官は、その名と紋章を知っていた。
アルデニア中央政府が、宇宙規模の危機対応機関として正式に認知している組織。
外交文書や軍上層部の緊急対応資料にのみ記される名称。
『当方所属員一名の生命反応を確認した。対象は負傷し、魔力循環に異常を生じている。現場の全員は攻撃行動を停止されたい』
指揮官は周囲を確認した。
倒れた淡緑髪の人型魔力生命体。
監理局のものと思われる制服。
兵士の手にある首輪。
「全員、待て!」
指揮官の命令で、兵士たちが動きを止めた。
首輪を持っていた兵士も手を引く。
「武器を下げろ。捕獲具も使うな」
「ですが、隊長」
「命令だ」
捕獲網はレトの足へ絡んだままだった。
だが、新たに手を出す者はいなくなった。
捜索艦の扉が開く。
最初に降りたのは、戦闘班の職員たちだった。
武器は下げている。
現地兵を包囲するのではなく、レトまでの進路を確保するように並ぶ。
続いて医療班。
調査班。
最後に、ジェレミー・クリエットが降りた。
黒い服。
腰にはハンドガンが一丁。
ジェレミーの視線は、現地兵ではなくレトへ向いていた。
「お兄さん」
レトの声が震える。
ジェレミーは現地指揮官へ短く告げた。
「惑星監理局局長、ジェレミー・クリエットだ。所属員の救命を優先する。事情と責任については、保護後に正式に協議する」
現地指揮官は頷いた。
「了解した。攻撃は停止させる」
ジェレミーは戦闘班へ視線を向ける。
「網を外せ」
「はい」
職員が捕獲網を切断する。
別の職員が阻害杭を一本ずつ抜く。
現地兵の武器には触れない。
必要な範囲だけを解除する。
医療班がレトへ近づく。
だが、その前に。
ジェレミーがレトの前へ膝をついた。
「レト」
「お兄さん」
「意識は明瞭か」
「うん」
「歩けるか」
レトは立ち上がろうとした。
足へ力を入れた瞬間、膝が崩れる。
ジェレミーが受け止めた。
「歩けない」
「分かった」
「わたし、ちゃんと待ってた」
「ああ」
「空間魔術、使わなかった」
「その話はあとで聞く」
冷たい言い方ではなかった。
今は、長く話す時ではない。
ジェレミーはレトを抱き上げた。
小さな身体が、異常なほど熱い。
呼吸も浅い。
手のひらには、握り潰した硝子短剣の熱傷。
ジェレミーの表情が、僅かに硬くなる。
「医療班」
「すぐに処置します」
レトは青い四足個体を抱いたまま離そうとしなかった。
「お兄さん、この子も」
ジェレミーが四足個体を見る。
脚へ即席の硝子添え木。
崩れかけた輪郭。
首には現地の登録札が付いた制御具。
ジェレミーには、その個体の法的な扱いも、ここへ来た経緯も分からない。
勝手に連れ去る判断はできない。
現地指揮官へ問う。
「この個体への緊急医療は可能か」
指揮官は一瞬迷った。
「登録個体です。現場の権限で所有権を移すことはできない」
「所有権の話ではない。生命維持処置だ」
指揮官は四足個体を見る。
輪郭は今にも崩れそうだった。
「この場での応急処置は認める。移送については上層部の許可が必要だ」
「それでいい」
ジェレミーは医療班へ命じる。
「一名残れ。ここで安定化処置を行え」
「了解しました」
レトが不安そうに顔を上げる。
「一緒に行けないの?」
「今は許可がない」
「でも」
「治療はする」
ジェレミーはレトの目を見る。
「置き去りにはしない。正式な許可を取る」
レトは唇を結んだ。
それから、四足個体へ言う。
「職員さん、優しいからね。大丈夫だよ」
医療班職員が四足個体を受け取った。
個体は弱く唸ったが、暴れる力も残っていない。
レトの腕が空になる。
その瞬間、全身から力が抜けた。
「お兄さん」
「ああ」
「遅い」
「すまない」
「昨日がよかった」
「そうだな」
「一日でも長かった」
ジェレミーはレトを抱いたまま立ち上がった。
「帰るぞ」
「うん」
責任の話はしない。
都市へ入った理由も。
負傷者の有無も。
捕獲された経緯も。
今は聞かない。
レトを医療室へ運ぶ。
それが最優先だった。
◇
捜索艦、医療室。
レトはベッドへ寝かされた。
濡れて汚れた服を脱がされ、治療着へ着替えさせられる。
水分補給。
魔力循環の冷却。
熱傷の処置。
擦り傷と痣の確認。
空間認識異常の検査。
医療班職員の指示が飛び交う。
「深部体温上昇」
「排熱循環が不安定です」
「鎮静は最小限。先に水分を」
「空間認識検査は後回し。今は術式使用禁止だけ伝えてください」
レトはぼんやりと天井を見ていた。
ジェレミーはベッドの横に立っている。
医療班主任が言った。
「局長、診療の邪魔です」
「ここにいる」
「反対側へ移動してください」
ジェレミーは素直に位置を変えた。
レトが少しだけ笑う。
「お兄さん、怒られた」
「そうだな」
「わたしも、あとで怒られる?」
「今は診療中だ」
「あとでは?」
「聞き取りはする」
レトの顔が少し曇る。
ジェレミーは続けた。
「何が正しく、何が危険だったかを確認する。全部を怒るわけではない」
「うん」
医療班主任が、レトの瞳孔反応を確認する。
「空間魔術は使いましたか」
「不時着してからは、使ってない」
「試そうとはしましたか」
「座標を見るだけ。でも、斜めになったからすぐやめた」
「長距離転移は」
「してない」
主任が記録する。
「正しい判断です」
レトの目が少し輝く。
「えらい?」
「えらいです。ただし、今後最低三日は空間魔術禁止」
「三日も?」
「今の返事で一日増やしましょうか」
「はい。三日です」
ジェレミーが問う。
「生命に危険は」
「現時点ではありません。ただし、発見がもう半日遅れていれば、魔力循環の停止が起きた可能性があります」
ジェレミーは何も答えなかった。
レトは、その横顔を見た。
「お兄さん」
「何だ」
「心配した?」
「した」
「いっぱい?」
「かなり」
レトは少し嬉しそうにしてから、すぐに申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんなさい」
「事故だ」
「でも、森壊した」
「それは調査する」
「人も飛ばしちゃった」
ジェレミーの視線がレトへ戻る。
これは、監理局側がまだ把握していなかった情報だった。
「誰を」
「街の人。わたしを捕まえようとして、腕を掴んだから、放したら飛んじゃった」
「怪我の程度は」
「分からない。動いてた。痛そうだった」
「他には」
「門の人の手も、ちょっと痛くした」
「分かった」
ジェレミーは責めなかった。
同時に、大丈夫だとも言わなかった。
「詳しいことは、体調が戻ってから聞く」
「うん」
「今は休め」
レトは毛布の端を握る。
「わたし、ちゃんと名前も言ったよ」
「ああ」
「惑星監理局の戦闘班、レトですって」
ジェレミーは、その事実をこの時初めて聞いた。
「そうか」
「でも、信じてもらえなかった」
「それも後で確認する」
「わたしの言い方、悪かったのかな」
ジェレミーはすぐに否定しなかった。
まだ記録を見ていない。
その場にいなかった。
確認前に、レトの説明が完全だったと断言することはできない。
代わりに、確実に言えることを言った。
「負傷した状態で、自分の名前と所属を伝えようとした。それは正しい」
レトの目から、涙が落ちた。
「うん」
「相手がどう受け取ったかは、記録を調べる」
「うん」
「レトだけの話で決めるのでも、現地側だけの話で決めるのでもない」
「うん」
「だから今は休め」
レトは両腕を伸ばした。
「抱っこ」
医療班主任が言う。
「診療が終わるまで待ってください」
「あと何分?」
「十分ほどです」
「長い……」
「一晩に比べれば短いです」
レトはしょんぼりしながらも、大人しく待った。
◇
医療室でレトの処置が続く間。
捜索艦の通信室では、副長がアルデニア中央政府との緊急回線を開いていた。
画面には、アルデニア中央外務庁の長官が映っている。
上層部は、惑星監理局の存在を正確に認知していた。
紋章も。
組織の役割も。
正式な緊急連絡窓口も。
『惑星監理局副長殿。まず、貴組織所属員の救助については妨害しない。地上部隊にも攻撃停止を命じた』
「ご協力に感謝します」
副長は穏やかに頭を下げた。
「当方所属員が事故により、許可なく貴国領域へ侵入した件については、監理局の責任として正式に報告いたします」
『墜落地点の森林被害も確認されている』
「調査班を派遣し、被害範囲を算定します。必要な補償についても協議いたします」
『都市内では市民と警備兵に負傷者が出ている』
「所属員本人からも、その可能性について申告がありました。診療後に事情聴取を行い、確認できた損害について責任を負います」
監理局は、レトが負傷していることを理由に、現地側の被害を無視しなかった。
同時に、まだ事実が揃っていない段階で相手を責めることもしなかった。
副長は続ける。
「現在、地上に重傷の登録魔力生命体が一体おります。現地指揮官より、その場での応急処置は許可されています」
『報告を受けている』
「生命維持設備を備えた当艦への一時移送を申請します。所有権、登録状態、治療後の扱いについては変更を求めません。医療保全のみです」
長官は周囲の官僚と短く協議した。
『一時移送を認める。治療経過を共有されたい』
「承知しました」
これでようやく、青い四足個体を艦内へ運ぶことができる。
副長は医療班へ許可を伝えた。
それから外務庁長官へ言う。
「所属員に関する事実関係については、本人の診療と記録保全を優先した後、改めて協議をお願いします」
『こちらも同意する。城門、都市警備、追跡部隊の記録を保全する』
「ありがとうございます」
糾弾は、まだしない。
何が起きたのか。
誰が何を知っていたのか。
レトが何を伝えたのか。
現場から上層へ、どの情報が上がったのか。
それを確認してからだった。
◇
レトの診療が一段落した。
ジェレミーは約束通り、レトを抱き上げた。
測定線が外れないよう、医療班職員が位置を調整する。
レトはジェレミーの胸へ頬をつけた。
「わたしね」
「ああ」
「二日なら大丈夫って思った」
「ああ」
「でも、一日でも長かった」
「そうか」
「お兄さん、絶対来るって分かってたけど、来るまでいないのは、いないんだよ」
ジェレミーの腕が、少しだけ強くなる。
「その通りだ」
「一人で寝るの、やだった」
「そうか」
「でも、屋根あったよ」
「ああ」
「硬かったけど」
「ああ」
「通信機にも、ちゃんと話した」
「回収した。技術班が調べている」
レトが少し顔を上げる。
「聞かれる?」
「記録が残っていればな」
「恥ずかしい」
「なぜだ」
「いっぱい、お兄さん呼んだから」
「構わない」
レトはまた胸へ顔を埋めた。
「今は、いて」
「いる」
「寝ても?」
「いる」
「起きるまで?」
「いる」
「約束?」
「約束する」
レトの身体から、ようやく力が抜けた。
数分もしないうちに、静かな寝息が聞こえ始める。
ジェレミーは動かなかった。
医療班主任が小声で言う。
「ベッドへ戻しても大丈夫ですよ」
「このままでいい」
「局長、現地政府との協議は」
「副長が処理している」
通信端末から、副長の声が入る。
『救命段階の協議は完了しました。負傷個体の移送許可も取得しています』
「そうか」
『正式な責任協議は、レトの聞き取りと双方の記録が揃ってから行います』
「それでいい」
『局長は、そちらにいてください』
通信が切れる。
ジェレミーは眠るレトの髪を撫でた。
崩れかけた左側のワンサイドテール。
煤と土。
それでも残った、二つの青いキューブ。
「見つけたぞ」
眠っているレトへ、小さく言う。
レトは目を覚まさなかった。
ただ、ジェレミーの服を握る指だけが、ほんの少し強くなった。
◇
監理局へ帰還したあと。
レトは三日間、医療区画から出してもらえなかった。
最初の一日は、ほとんど眠っていた。
その間に、調査は進められた。
破損した通信機から、断片的な行動記録が復元された。
墜落時刻。
緊急信号。
空間魔術の使用履歴。
硝子造形の回数。
魔力残量の推移。
音声記録は完全ではなかったが、レトが通信機へ話しかけた声も、一部残っていた。
城門側の記録も、アルデニア中央政府から提出された。
門前には監視用の記録術式があった。
映像。
音声。
門番の報告書。
回収された非常用通貨片。
レトは、確かに名乗っていた。
惑星監理局の戦闘班所属。
単騎遊撃担当のレト。
任務中の事故による不時着。
そして、監理局の照会符号が刻まれた非常用通貨片も提示していた。
門番たちは、その紋章を知らなかった。
そのこと自体は、末端警備員の知識不足として説明できた。
問題は、その後だった。
城門警備隊は、レトの申告を都市警備本部へ報告していた。
報告には、惑星監理局の名称も。
非常用通貨片の刻印も。
人型個体が所属員を名乗ったことも記載されていた。
情報は、第三地区行政管理官まで届いていた。
その管理官は、惑星監理局を知っていた。
中央政府に監理局との緊急連絡窓口があることも知っていた。
それでも、照会を行わなかった。
判断記録には、こう残されていた。
魔力生命体による外部組織への所属申告は、所有回避のために学習された虚偽である可能性が高い。照会不要。通常の未登録個体として処理する。
届かなかったのではない。
知らなかったのでもない。
取り合わなかった。
申告者が魔力生命体だったという理由で。
その言葉を、確認する価値のないものとして捨てた。
◇
レトの体調が安定した二日目。
正式な聞き取りが行われた。
医療区画の小さな面談室。
ジェレミー。
副長。
医療班主任。
魔術制御部長。
記録担当。
そして、毛布を膝へ掛けたレト。
副長が言った。
「これは叱るためだけの聞き取りではありません」
「うん」
「何が起きたのかを、一つずつ確認します」
「はい」
「分からないことは、分からないと答えてください」
「はい」
「記憶が曖昧な部分は、無理に埋めないでください」
「分かった」
聞き取りは、戦闘終了直後から始まった。
最後の敵性個体。
転移座標の乱れ。
惑星への落下。
空間魔術を使わなかった理由。
墜落後の身体状態。
都市へ向かった判断。
城門での会話。
宿。
見世物小屋。
商人を振り払ったこと。
排水設備。
青い四足個体。
追跡部隊。
レトは、できる限り正直に話した。
「街の人を飛ばした時、どれくらい力を入れましたか」
副長が問う。
「振り払っただけのつもりだった」
「攻撃する意思は」
「なかった。でも、怒ってた」
「怒りによって力加減が変わった可能性は」
レトは少し考える。
「あるかも」
「分かりました」
副長は責めない。
記録する。
魔術制御部長が問う。
「兵士に囲まれた時、短剣を形成しましたね」
「一本だけ」
「なぜ使用しなかったのですか」
「熱がいっぱい入りすぎたから。武器だけ壊せないって分かった」
「その判断は適切です」
レトは少しだけ嬉しそうにする。
ジェレミーが問う。
「都市へ入る危険性は理解していたか」
「魔力生命体に厳しい星だって知ってた」
「それでも入った理由は」
「寒くなってた。身体も変だった。屋根がほしかった」
「森で待つ選択肢は」
「あった。でも、一人で朝までいたら、もっと具合悪くなると思った」
「誰かへ保護を求めれば、収容される可能性は考えたか」
「ちょっと。でも、惑星監理局って言えば、連絡してくれると思った」
レトは俯いた。
「それ、間違いだった?」
ジェレミーは答える。
「所属を伝え、照会を求めたことは間違いではない」
「都市へ行ったことは?」
「危険な判断だった」
レトの肩が下がる。
「ただし、その時点の体調と気温を考えれば、理解できない判断ではない。監理局側も、近隣惑星の詳細な緊急行動基準を持たせていなかった」
ジェレミーは続ける。
「レトだけの責任ではない」
「でも、わたしも考えないとだめ?」
「ああ」
「うん」
「次に同じことが起きた場合、都市へ直接入る前に、目立つ場所で救難標識を作る。住民と接触するなら、距離を取ったまま照会を要求する。捕獲の可能性がある場所へ単独で進まない」
「覚える」
「そのための新しい手順も、こちらで作る」
監理局も変わる。
レトだけへ学ばせて終わらない。
任務計画。
通信機器。
緊急信号。
近隣惑星の制度。
空間魔術使用不能時の行動基準。
全てが見直し対象になる。
聞き取りの最後。
レトが小さく尋ねた。
「わたし、ちゃんと名乗れてた?」
副長が記録画面を開く。
城門の映像。
煤だらけのレトが、震える足で立っている。
それでも背筋を伸ばし、自分の名前と所属を言っている。
「ええ」
副長は答えた。
「必要なことは伝えています」
「言い方、変じゃなかった?」
「少し説明が長くなりかけていますが、照会に必要な情報は十分でした」
「そっか」
レトの目が潤む。
「じゃあ、わたしが下手だったからじゃない?」
「違います」
副長の声は穏やかだった。
「相手は、確認する前にあなたの言葉を捨てました」
レトは毛布を握った。
「わたし、人間じゃないから?」
「その判断記録には、そう読み取れる内容が残っています」
レトはしばらく黙った。
ジェレミーが言う。
「だから、その部分については監理局が正式に追及する」
「わたしが落ちたのは、監理局が悪い?」
「事故侵入と損害については、こちらの責任だ」
「じゃあ、怒れないんじゃないの?」
「別の問題だ」
ジェレミーは短く答える。
「こちらに責任があることと、相手の責任を問わないことは同じではない」
レトは少し考える。
「わたしが人を飛ばしたことは、謝る」
「ああ」
「でも、わたしを物にしていいことにはならない?」
「ああ」
「両方?」
「両方だ」
レトはゆっくり頷いた。
「分かった」
◇
その日の午後。
惑星監理局とアルデニア中央政府による正式協議が開かれた。
監理局側は、最初に自分たちの責任を提出した。
レトの戦闘記録。
転移事故の原因。
無許可での大気圏侵入。
森林の損壊範囲。
都市への無許可侵入。
現地人二名への負傷。
追跡中の建造物損傷。
救助のため、捜索艦が許可前に領空へ進入したこと。
隠さなかった。
レトが疲労していたことも。
悪意がなかったことも。
情緒が幼いことも。
責任を消す理由にはしなかった。
ジェレミーが言う。
「墜落地点の環境被害について、監理局が復旧費用を負担する。負傷者についても、治療費および休業に伴う損害を補償する」
アルデニア中央外務庁長官が頷く。
『受諾する。救助時の領空侵入については、緊急性を考慮し、正式な事故報告をもって処理する』
監理局側の責任が整理された。
その後で。
ジェレミーは、城門の記録を表示した。
「次に、アルデニア側の対応について説明を求める」
画面には、レトが名乗る姿。
非常用通貨片。
門番の報告。
都市警備本部の受領記録。
第三地区行政管理官の判断文。
『内容は確認している』
外務庁長官の声は重かった。
「門番が惑星監理局を知らなかったこと自体を、私は問題の中心とは考えていない」
『では何を』
「情報は上へ届いた」
ジェレミーは、行政管理官の判断記録を示す。
「この管理官は、惑星監理局を知っていた。緊急照会窓口も知っていた。それでも照会を行わなかった」
『魔力生命体の自己申告には、アルデニア法上の身分証明能力がない』
「身分証明として認めろとは言っていない」
ジェレミーは即座に返す。
「真偽を確認しろと言っている」
長官は黙った。
「レトを自由に通行させる義務があったとも言わない。安全上、一時的な拘束が必要だった可能性も否定しない」
現地側の制度や危険認識を、一方的に無意味とはしない。
「だが、貴国が正式に認知する外部組織の名称が申告され、照会符号付きの物品まで回収されている。それを確認せず、申告者が魔力生命体であるという理由だけで虚偽と決めつけた」
ジェレミーの声は静かだった。
「その結果、惑星監理局の所属員を無主個体として扱い、所有物化を前提とする制御具を使用しようとした」
『現場は、現行法に従った』
「行政管理官は、照会しないという判断をした」
『それも、魔力生命体の申告を証言として扱わない現行制度に基づく』
「制度に基づいた判断であれば、対外的な責任が消えるのか」
長官は答えなかった。
ジェレミーは続ける。
「貴国が魔力生命体をどのように分類するか。その制度全体を、この協議で裁くつもりはない」
監理局は正義の組織ではない。
他惑星の価値観を、自分たちのものへ強制的に置き換えるために存在しているわけでもない。
「しかし、その制度を理由に、既知の外部組織との関係確認まで放棄した。これは貴国の国内倫理だけの問題ではない。外交と安全保障上の不履行だ」
外務庁長官が資料へ目を落とす。
『要求を述べられたい』
「第一に、今回の判断経路に関する全記録の継続保全」
『受諾する』
「第二に、外部組織への所属を名乗る存在が現れた場合、種別にかかわらず、真偽を照会する手順の制定」
『それは、魔力生命体へ身分申告権を認める要求か』
「違う」
ジェレミーは明確に否定する。
「人間であるか、魔力生命体であるか、人工生命であるかにかかわらず、既知の外部組織との関係を主張する対象が現れた場合、その組織へ確認する。貴国自身の安全のために必要な手順だ」
長官はしばらく考えた。
『受諾する』
「第三に、照会を不要と判断した責任者に対する、貴国側の調査結果の共有」
『処分内容へ介入する権限は認めない』
「求めていない。貴国の制度に従って調査し、結果を共有してもらう」
『受諾する』
監理局が求めたのは、アルデニア社会全体の即時変革ではなかった。
自分たちの存在を知りながら。
所属員の申告を確認せず。
魔力生命体であるという理由だけで、物として処理した。
その判断への責任だった。
外務庁長官が問う。
『青霧獣の件はどうする』
治療中の青い四足個体。
アルデニアでの種別名は、青霧獣。
登録上は商業組合の所有物である。
副長が答えた。
「治療経過は共有します。回復後の返還を求められる場合、現行の登録状態に従って協議します」
レトの願いだけを理由に、勝手に奪うことはしない。
同時に、治療した個体をそのまま燃料炉へ戻すことも望んでいなかった。
監理局は、正式な譲渡交渉を申し入れた。
数日後。
商業組合への補償。
治療費。
登録解除費用。
中央政府の承認。
複数の手続きを経て、青霧獣の所有登録は解除された。
監理局が新たな所有者として登録したのではない。
登録そのものを終了させた。
回復後は、個体意思と生態を調査したうえで、監理局の保護区画に留まるか、安全な生息域へ移るかを決めることになった。
アルデニアの制度が変わったわけではない。
魔力生命体が、一夜で人間と同じ権利を得たわけでもない。
見世物小屋も。
燃料利用も。
所有制度も。
すぐには消えない。
監理局も、力ずくで消さなかった。
ただし。
次に誰かが、惑星監理局の所属だと名乗った時。
人間ではないからという理由だけで、その言葉が捨てられることはなくなった。
◇
二日目の夕方。
ロジーが医療室へ飛び込んできた。
「レトぉぉぉぉぉ!!」
「ロジー!」
「負傷者へ勢いよく飛びつかないでください」
医療班職員が先に止める。
ロジーは急停止した。
「じゃあ、静かに抱きつく!」
「測定線に触れないように」
「はい!」
ロジーは慎重にベッドへ近づき、そっとレトへ抱きついた。
「無事でよかったぁ……!」
「ロジー、静かにって言ったのに声大きい」
「声は別!」
ロジーの頭上デバイスには、膨大な記録項目が表示されていた。
不時着。
単独生存。
救難信号。
空間魔術使用抑制。
所属照会不履行。
現地政府との協議。
しかし、ロジーはそれを閉じた。
今は記録より、レトの顔を見る。
「レト、ちゃんと名乗ったんだって?」
「うん」
「記録も見た」
「変じゃなかった?」
「大丈夫。所属、氏名、事故内容、全部言えてた」
「ほんと?」
「ほんと! 照会符号も出してた! レトの説明不足じゃない!」
レトは少し目を伏せた。
「もっと上手なら、信じてもらえたのかなって思ってた」
「思わなくていい」
ロジーは強く言った。
「信じるかどうかを決める前に、確認する方法があったの。向こうはそれを使わなかった。そこはレトのせいじゃない」
レトはロジーの袖を握った。
「うん」
エルも、少し遅れて医療室へ入ってきた。
手には、大きな丸いクッションを持っている。
「レト」
「エル!」
「一人で寝るの、いやだった?」
レトは少し驚いた。
「うん」
エルはクッションをベッドへ置く。
「これは、一人で寝ても、一人じゃない感じがするクッション」
医療班職員の表情が変わった。
「検査済みですか」
「まだ」
「回収します」
「うん」
エルは素直にクッションを渡した。
「検査したら、レトにあげる」
レトは笑った。
「ありがとう」
エルはレトの手のひらを見る。
治療された熱傷。
「痛かった?」
「ちょっと」
「首輪、いやだった?」
「すごく」
エルはしばらく、レトの首元を見ていた。
それから、ぽつりと言う。
「ついてなくて、よかった」
「うん」
「レトは、レトだから」
レトの目から、また少しだけ涙が出た。
「うん。わたし、レトだよ」
◇
青霧獣の治療も順調に進んだ。
首輪は外されている。
折れた脚には、監理局製の固定具。
青い霧のように揺れていた身体も、少しずつ輪郭を取り戻していた。
レトが保護区画へ面会に行くと、青霧獣は最初、職員の奥へ隠れた。
レトは近づかなかった。
床へ座り、少し離れた位置から話しかける。
「こんにちは」
青霧獣の耳が動く。
「覚えてる?」
返事はない。
「わたし、レト」
青霧獣は、ゆっくり顔を出す。
金色の瞳。
もう濁ってはいない。
レトは笑った。
「迎え、来たよ」
青霧獣が一歩だけ前へ出る。
固定具のついた脚を庇いながら。
レトの近くまで来て、匂いを嗅ぐ。
それから、淡緑の髪へ鼻先を触れた。
「わ」
レトは動かなかった。
青霧獣は、レトの隣へ伏せた。
「一緒に待ってくれたもんね」
レトはそっと、その背中へ手を置いた。
青い霧は、もう逃げなかった。
◇
四日目。
空間認識検査に合格したレトは、医療班職員の監督下で、ごく短い空間魔術を使う許可を得た。
目標地点は、ベッドの横。
距離、一メートル。
レトは慎重に術式を組む。
現在地。
移動先。
周囲の物質。
除外対象。
空間の境界。
一つずつ確認する。
「行きます」
身体が淡い硝子光に包まれる。
次の瞬間。
レトは、ベッドの横へ立っていた。
正しい位置。
欠損なし。
異常なし。
医療班職員が記録する。
「成功です」
レトは自分の手足を確認した。
「帰ってこられた」
「一メートルですけどね」
「でも、ちゃんと帰ってこられたよ」
医療班職員は少し笑った。
「ええ」
レトは医療室の扉を見る。
その向こうには、監理局の廊下がある。
食堂。
訓練室。
中庭。
ロジー。
エル。
職員たち。
そして、お兄さん。
レトは転移しなかった。
今度は、自分の足で扉まで歩く。
扉を開く。
廊下の先に、ジェレミーが立っていた。
迎えに来ていた。
レトの顔が輝く。
「お兄さん!」
走り出す。
今度は、誰にも止められなかった。
ジェレミーのところまで、自分の足で真っ直ぐ走る。
そして、勢いよく抱きついた。
「ただいま!」
ジェレミーはレトを受け止めた。
「おかえり」
レトは笑った。
もう、座標はずれていなかった。




