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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第116話-エル、elkore_felico

旧採掘惑星D-184。


地表の採掘施設が放棄されてから、既に長い時間が経過している。


風化した搬送塔。

崩れた資材倉庫。

赤茶けた地面へ半ば埋もれた輸送軌道。


鉱脈は枯れ、居住者も企業も去った。


それでも、地下最深部から未知の反応が検出された。


魔術ではない。


神性存在の権能でもない。


現存するどの文明の技術とも一致しない。


わずかに残された反応の形が、旧世代由来の痕跡と似ていた。


その確認のため、惑星監理局から調査隊が派遣された。


調査班。


護衛を担当する戦闘班。


異常発生時の観測を担当する魔術制御班。


そして、エル。


エルは戦闘要員として呼ばれたわけではない。


古いものを見るためだった。


人間の観測装置では判別できないものを、旧世代であるエルがどう感じるのか。


それだけを確認する任務だった。


地下へ降りる前、調査班の職員がエルへ小型の浮遊灯を渡した。


「持てますか」


「うん」


エルは灯りを両手で受け取った。


白髪の毛先が淡いピンクに揺れる。


灯りを顔の近くまで持ち上げ、少し眩しそうに目を細めた。


「これ、あたしが持つ必要ある?」


「ありません」


職員は即答した。


「必要はありませんが、持っていただけると助かります」


「同じ?」


「少し違います」


エルは浮遊灯を見た。


「必要じゃないけど、助かる」


「はい」


「人間、そういうの多いね」


「多いかもしれません」


エルは小さく頷いた。


「じゃあ、持つ」


職員はエルの歩幅に合わせて、少しだけ速度を落とした。


地下施設へ向かう昇降路は、途中から機能を失っていた。


一行は非常用通路を使い、徒歩で最深部を目指す。


調査班の職員は、エルの少し前を歩いていた。


浮遊灯を渡した職員だった。


名前を教えられている。


何度か同じ任務にも出ている。


けれどエルは、名前より先にその人間の癖を覚えていた。


考える時、指先で端末の角を二度叩く。


狭い道では、自分より後ろを先に通す。


食堂では、温かい飲み物を少しずつ飲む。


説明する時は、エルが理解しているか途中で確かめる。


その職員は、地下へ降りながら言った。


「戻ったら、今日の記録を整理します」


「今日、終わったら?」


「おそらく明日になります」


「明日の食堂?」


「食堂で作業していると思います」


エルは少し考えた。


「見てもいい?」


「記録をですか」


「うん。古いものが、どう書かれるか見る」


「構いません」


職員は振り返った。


「ただ、機密部分は見せられません」


「そこは隠す?」


「隠します」


「剝擗がいたら、剥がすね」


「いないことを願います」


職員はそう言ってから、僅かに表情を変えた。


エルの前で不用意に願いという言葉を使ららりらりるったことに気づいたらしい。


エルはその顔を見た。


「今のは、叶えてほしい願いじゃない?」


「はい。ただの言い回しです」


「分かった」


エルはそれ以上、何もしなかった。


職員も、過剰に怯えなかった。


それが、今の監理局だった。


エルの前で感情を隠しきろうとはしない。


願いを口にしただけで即座に魔法が顕れるとも考えない。


ただ、それが何を意味する言葉なのかは、エルへ伝える。


エルも、すぐに幸せの形を作ろうとはしない。


聞く。


考える。


待つ。


そうして、人間たちの中で暮らしてきた。



地下深部へ到達すると、通路の様子が変わった。


人間が掘った坑道は、そこで途切れている。


その先には、白い空間があった。


石でもない。


金属でもない。


硝子でもない。


壁と床の境目が曖昧で、どこまでも滑らかだった。


採掘機械で削ろうとした跡が残っている。


だが、傷は一つもついていない。


調査班主任が立ち止まる。


「エルさん」


エルは浮遊灯を持ったまま、白い壁へ近づいた。


手は伸ばさない。


少し顔を寄せ、じっと見る。


「旧世代のものですか」


「作ったものじゃない」


エルは答えた。


「通ったあと」


「ここを、旧世代が通過した?」


「たぶん」


「誰か分かりますか」


エルはしばらく壁を見ていた。


「分からない」


「痕跡から名前を判別することは」


「できない」


エルは首を傾げた。


「人間は、足跡を見て誰か分かる?」


「特徴があれば」


「これは、特徴が残ってない」


職員が端末へ記録する。


二度、角を指で叩く。


エルはその動作を見ていた。


「今、考えてる?」


「はい」


「なにを?」


「旧世代が痕跡を残さず通過したのか、痕跡そのものが消えたのかを考えています」


「違うと思う」


「どう違いますか」


「通ったことだけ残した」


職員の指が止まった。


「意図的に?」


「それは分からない」


エルは白い壁の奥を見た。


「名前が通ると、そうなることもある」


それ以上の説明はできないらしかった。


調査班は観測を開始した。


壁面の材質。


空間の奥行き。


魔力分布。


周辺の時間差。


エルは邪魔にならない位置へ移動し、浮遊灯を抱えたまま座った。


何もせず、職員たちを見ている。


しばらくは、静かな任務だった。


異常が起きたのは、観測開始から二十分ほど後だった。


後方の通信中継器が停止した。


短い警告音。


続いて、坑道側に設置されていた灯りが一つずつ消える。


護衛班長が顔を上げた。


「後方確認」


戦闘班員二名が振り返る。


暗闇の奥。


何も見えない。


通信担当が端末を操作した。


「本部回線、遮断されています」


「設備故障か」


「外部からの干渉です」


その言葉と同時に、暗闇から魔術弾が飛来した。


護衛班の障壁へ衝突する。


青白い光が坑道を満たした。


二発目。


三発目。


障壁に亀裂が走る。


「敵襲!」


護衛班員が応射する。


暗闇の中で、人影が散開した。


放棄された採掘施設へ侵入していた武装集団。


何を目的としていたのかは分からない。


旧世代の痕跡か。


残された採掘技術か。


あるいは、監理局の調査隊そのものか。


敵は坑道の構造を把握していた。


後退経路を封鎖し、横道から挟み込むように射撃を加えてくる。


調査班主任が指示を出した。


「記録を放棄! エルさんを中央へ! 第二退避地点まで戻る!」


職員たちは即座に動いた。


エルは浮遊灯を持ったまま、護衛班の内側へ入る。


「エルさん、こちらです!」


「うん」


「頭を下げてください!」


エルは身を低くした。


頭上を魔術弾が通過する。


白い壁へ命中した弾は、爆発することなく消えた。


別の弾が護衛班員の肩を掠める。


血が散った。


エルはそちらを見た。


「痛い?」


「行動可能です!」


「そうじゃなくて、痛い?」


職員は一瞬だけ言葉を止めた。


「痛いです。ですが、今は動けます」


「分かった」


エルは手を伸ばさなかった。


痛みを消そうともしなかった。


護衛班員は自分の足で走り続けた。


周囲には、感情があった。


怖い。


帰りたい。


死にたくない。


仲間を失いたくない。


敵を止めたい。


エルは、それらを感じていた。


人間の言葉として聞こえているわけではない。


心を読んでいるわけでもない。


表情。


声。


身体の動き。


場に満ちた魔力。


その全体から、願いに近いものが伝わってくる。


エルの中に、それへ応えようとするものがある。


本当の幸せ。


名前そのもの。


怖くない場所。


痛くない身体。


誰も死なない結末。


人間が笑って帰れる景色。


それを想像すれば、世界はそうなる。


エルは知っていた。


だから、想像しなかった。


考えないようにするのではない。


幸せそうな結果へ、形を与えない。


心に浮かびかけた景色を、世界へ繋げない。


エルは胸元を押さえた。


「まだ、大丈夫」


誰に言ったわけでもなかった。


近くにいた魔術制御班員だけが、その声を聞いた。


「分かりました」


それだけを返した。


止めろとも。


我慢しろとも言わない。


ただ、聞いていると伝えた。


護衛班は、崩れた坑道へ入り込んだ。


退避経路まで、残り百メートル。


前方で爆発が起きる。


天井の一部が崩落した。


先頭の職員が障壁を展開し、岩塊を逸らす。


陣形が一瞬、乱れた。


その僅かな隙を、敵は見逃さなかった。


上方の整備通路から、一人の敵が降下する。


黒い外套。


手には、細長い魔術槍。


複数の術式を重ねた、対人殺傷用の武器だった。


狙われたのは、エルだった。


浮遊灯を渡した調査班員が、最初に気づいた。


エルの前へ飛び込む。


身体で射線を塞ぐ。


「伏せて!」


エルの視界を、職員の背中が覆った。


黒い槍が放たれる。


距離が近い。


障壁は間に合わない。


回避もできない。


槍は職員の背中から入り、胸を貫く。


そうなる軌道だった。


エルには分かった。


人間の身体のどこを通れば死ぬのか。


どれほどの損傷なら戻れないのか。


エルは、人間の死を知らないわけではない。


長い時間の中で、何度も見てきた。


戦場で死ぬ人間。


医務室で呼吸が止まる人間。


年老いて、静かにいなくなる人間。


昨日まで笑っていたのに、今日は返事をしない人間。


身体はそこにある。


けれど、その人間はもういない。


初めて親しくなった人間を失った時。


エルは、その身体を生きている形へ戻そうとした。


動くように。


話すように。


また明日も会えるように。


それが幸せだと思った。


ジェレミーに止められた。


死んだことを、勝手になかったことにしてはいけない。


人間が抱えている悲しみまで、幸せの形で塗り替えてはいけない。


エルは長い時間をかけて、それを覚えた。


今も覚えている。


目の前の職員が死んだあとなら。


エルは、戻さなかった。


戻したくても。


泣いても。


願っても。


その人の死を、自分の幸せで上書きはしなかった。


けれど、まだ死んでいない。


黒い槍は、まだ届いていない。


次の瞬間には死ぬ。


今なら、まだ明日がある。


エルの中に、景色が浮かんだ。


明日の食堂。


いつもの席。


端末を広げた職員。


温かい飲み物。


二度、端末の角を叩く指。


白い壁について書かれた記録。


機密部分は隠すと言って、少しだけ困った顔をする人間。


その向かいで、記録を覗き込んでいる自分。


それは、世界全体の幸福ではなかった。


すべての人間を救う景色でもなかった。


誰も痛まず。


誰も悲しまず。


すべてが満たされた理想でもなかった。


ただ、その人が明日の食堂にいる。


それだけだった。


エルは、初めてその景色を、自分のものとして願った。


死は幸せではないから、ではない。


人間は生きるべきだから、でもない。


あの人に、いてほしい。


明日も会いたい。


「……やだ」


声が落ちる。


「あたし、明日も会いたい」


世界が、その景色を受け取った。



槍を止めるものは、何も現れなかった。


障壁も。


光の盾も。


見えない力も。


黒い槍は、正しい軌道を進んだ。


職員の胸を貫くはずだった。


次の瞬間。


坑道に、朝があった。


地下の暗闇ではない。


監理局の食堂へ差し込む、柔らかな朝の光。


湯気の立つ飲み物。


食器の触れ合う小さな音。


焼かれたパンの匂い。


誰かが椅子を引く音。


明日の食堂が、一瞬だけそこに重なった。


職員は、エルの前にいなかった。


少し離れた場所。


崩落した岩陰の安全な空間へ、既に移動していた。


どうやって動いたのか。


いつ移動したのか。


誰にも分からない。


槍は職員のいなくなった空間を通過していない。


槍そのものが、もう存在していなかった。


敵の手には、細い銀色の匙が握られていた。


食堂で使われているものと同じ形。


敵はそれを見て、動きを止めた。


周囲でも、現実が変わっていた。


銃口から伸びていた攻撃術式は、細い飾り紐になっている。


刃物は、机の上へ置かれた食器へ変わっている。


爆発するはずだった魔術弾は、宙に浮かぶ小さな灯りになった。


砕けた岩の間からは、淡い色の花が咲いていた。


地下にあるはずのない花。


誰かを祝うために飾られたような、柔らかな花だった。


敵も。


監理局職員も。


全員が立っている。


負傷者はいる。


痛みも残っている。


恐怖も消えていない。


けれど、死へ繋がるものだけが、場からなくなっていた。


殺すために持ち込まれたものが、殺せない形へ置き換わっている。


白い壁の奥に、いくつもの扉が現れた。


扉の向こうには、それぞれ違う場所が見える。


監理局の帰還艇。


採掘施設の地表。


遠く離れた居住区。


武装集団が拠点にしていたらしい倉庫。


誰かが帰る場所。


誰かが、生きたまま辿り着ける場所。


その場にいた人間たちは、自分に繋がった扉の前へ立っていた。


戦闘班長が状況を見た。


一瞬だけ迷い。


即座に叫ぶ。


「監理局職員は帰還艇へ! 敵対者は位置を記録! 無理に扉へ干渉するな!」


職員たちが動き始める。


負傷者を支え、帰還艇へ続く扉へ入る。


敵対者たちも、次々と別の扉へ消えていく。


拘束はできない。


追跡も間に合わない。


任務としては明確な失敗だった。


だが、誰も死ななかった。


誰も殺せなくなっていた。


明日の食堂という小さな景色から始まった魔法は、その場にいる全員へ、生きて帰る結末を与えていた。


エルが望んだ範囲より、ずっと広く。


エルが考えた方法とは、まったく違う形で。


結果だけが、そこにあった。


エルは立ち尽くしていた。


手は動かしていない。


言葉も、一言しか口にしていない。


術式など、最初から存在しない。


ただ明日を想像した。


その結果を、世界が先に本物にした。


「……あたし」


エルは自分の胸元を押さえた。


周囲には、まだ食堂の朝の匂いが残っている。


淡い花が揺れている。


空中の灯りが、祝福のように輝いている。


美しい。


優しい。


誰も死んでいない。


幸せそうな結末だった。


だから、怖かった。


「今の」


声が震える。


「あたしが、した?」


魔術制御班員は、すぐには答えなかった。


エルへ近づき、しゃがんで目線を合わせる。


「まず帰りましょう」


「あたし、触ってない」


「はい」


「魔法、使おうって決めてない」


「分かっています」


「でも、明日の食堂を見た」


「はい」


「あの人がいた」


魔術制御班員は頷いた。


「その話は、戻ってから聞かせてください」


責める声ではなかった。


驚きを押し隠した声でもない。


何が起きたのかを、順番に確かめようとする職員の声だった。


エルは、岩陰へ目を向けた。


そこに、職員がいた。


生きている。


胸を貫かれていない。


呼吸をしている。


こちらを見ている。


「職員さん」


「はい」


「明日」


職員は、エルの言葉を待った。


「明日の食堂、いる?」


職員は僅かに息を詰まらせた。


それから、頷いた。


「医療班の許可が出れば」


「出なかったら?」


「医務室にいます」


「いる?」


「います」


エルは少しだけ安心したように目を伏せた。


けれど、胸元から手を離さなかった。



帰還後。


エルは医務室で身体検査を受けた。


異常はなかった。


肉体の損傷。


魔力の大幅な消耗。


意識の混濁。


外部からの精神干渉。


どれも確認されなかった。


検査が終わると、小さな会議室へ移された。


広い審問室ではない。


長机が一つ。


椅子が数脚。


壁際に観測記録を表示する画面。


室内にいるのは、ジェレミー。


副長。


魔術制御部長。


精神保護室長。


そして、エル。


エルは椅子へ座り、足を小さく揺らしていた。


ジェレミーが言った。


「最初から確認する」


「うん」


「敵の攻撃が始まった時、何を感じていた」


エルは少し考えた。


「みんな、帰りたかった」


「それを叶えようとしたか」


「してない」


「何をしていた」


「想像しないようにしてた」


魔術制御部長が尋ねる。


「何を想像しないようにしていましたか」


「痛くない場所。怖くないところ。戦わなくていいところ」


「他には」


「みんなが笑って帰るところ」


エルは自分の膝を見た。


「それを見たら、ほんとになるかもしれないから、見なかった」


「分かりました」


職員は淡々と記録した。


抑制できたか。


できなかったか。


そんな評価を口にはしない。


ただ、何がエルの中にあったのかを確認する。


ジェレミーが続けた。


「槍が放たれた時は」


エルの足が止まった。


「職員さんが死ぬと思った」


「それだけか」


「死んだあとも見えた」


精神保護室長が視線を上げる。


「どのように?」


「身体が倒れる。動かない。医務室に運ばれる。布をかける」


エルの声は静かだった。


「次の日、食堂にいない」


人間の死を初めて想像した者の言葉ではなかった。


何度も見て。


失って。


その後に残る空席まで知っている者の言葉だった。


ジェレミーは短く問う。


「そのあと、何が見えた」


「明日の食堂」


「詳しく言え」


「あの人がいた。飲み物を飲んでた。記録を書いてた」


エルは指先で、自分の膝を二度叩いた。


職員の癖を真似るように。


「端末を、こうしてた」


誰も言葉を挟まない。


「白い壁のこと、書いてた。あたしが見てた」


「それを、誰かに願われたか」


エルは首を横に振った。


「違う」


「死にかけた職員の願いを感じたか」


「感じた。死にたくないって」


「その願いに応えたと思うか」


エルは、しばらく黙った。


「それも、あったと思う」


小さく息を吸う。


「でも、最初はあたし」


ジェレミーは待った。


「あたしが、いてほしかった」


魔術制御部長が記録画面へ視線を向けた。


任務中の魔力変動。


周辺の感情波形。


エルの肉体反応。


魔法が顕れた瞬間。


複数の記録は既に解析されていた。


外部の願望がなかったわけではない。


死にたくない。


助かってほしい。


守りたい。


その場には、強い願いが満ちていた。


だが、魔法が顕れた瞬間と最も近く重なっていたのは、エル自身の情動だった。


魔術制御部長が言った。


「願望呼応反応で間違いありません」


エルが顔を上げる。


職員は、その言葉を一度だけ使った。


「ただし、最初に形を与えた願いは、周囲の人間から受け取ったものではありません」


「あたし?」


「はい」


それ以上、分類名を増やさなかった。


新しい現象であるかのようにも扱わない。


願望呼応反応とは、誰かの願いを聞き取る特殊能力の名前ではない。


願いに触れたエルの中で、本当の幸せという存在が、思考より先に世界へ結果を顕すこと。


今回は、その願いがエル自身の中にあった。


それだけだった。


けれど、その意味は小さくなかった。


エルは胸元へ手を置いた。


「あたしが願って、あたしが叶えた?」


副長が静かに答える。


「大きく分ければ、そうなります」


「でも、同じあたし」


「同じあなたです」


「中に、もう一人いるんじゃない?」


「いません」


副長の返答は明確だった。


「elkore_felicoは、あなたの中にいる別の存在ではありません。あなたの本当の名前であり、あなた自身です」


「じゃあ、どうして勝手にしたの」


ジェレミーが答えた。


「旧世代にとって、想像と現実の間に、人間ほど明確な境界がないからだ」


エルはジェレミーを見る。


「お前は明日の食堂を想像した」


「うん」


「その景色を、心の中だけに置いておくつもりだった」


「うん」


「だが、お前の名前にとっては、それが本当の幸せに必要な結果だった」


エルは少しだけ俯いた。


「だから、ほんとにした」


「そうだ」


「前も、あった?」


ジェレミーはすぐに否定しなかった。


「お前は以前から、人間の死に強く反応している」


エルの指が僅かに動く。


「あの人間の時も」


「ああ」


「戻そうとした」


「そうだ」


「でも、止められた」


「死んだ後だったからな」


エルは静かに頷いた。


その記憶は消えていない。


消す必要もない。


「今回も、戻そうとした?」


「違う」


ジェレミーは短く答えた。


「まだ死んでいなかった」


エルは顔を上げる。


「お前は死をなかったことにしようとしたのではない。死ぬ直前に、別の結果を想像した」


「明日の食堂」


「そうだ」


「それは、していい?」


ジェレミーは少しだけ間を置いた。


「結果だけを見れば、一人の命を救った」


「でも、敵も帰した」


「任務は失敗した」


「武器も変えた」


「想像した過程を制御できなかった」


「花も咲いた」


「お前の魔法らしい」


エルは少し困った顔をした。


「じゃあ、いいのか、だめなのか、分からない」


「一つにしなくていい」


ジェレミーは言った。


「人間が生きていることを願ったのは、悪くない」


「魔法が勝手に広がったのは?」


「対策が必要だ」


「任務を失敗させたのは?」


「事実だ」


「でも、死ななかった」


「それも事実だ」


エルはしばらく考えた。


人間は、同じ出来事を一つの言葉で決めない。


成功。


失敗。


正しい。


間違い。


幸せ。


不幸。


どれか一つだけではないことがある。


エルはそれを、何度も教えられてきた。


けれど、自分の魔法についてそう言われるのは、少し不思議だった。


精神保護室長が尋ねる。


「エルさん。願いが自分のものだったことについて、どう感じていますか」


エルは答えるまでに時間がかかった。


「怖い」


「何が怖いですか」


「あたしの中にも、願いがいっぱいある」


以前から、願いがなかったわけではない。


遊びたい。


見たい。


知りたい。


かわいくなりたい。


レトやロジーと一緒にいたい。


職員に褒められたい。


人間をもっと理解したい。


エルは、いくつもの願いを持っている。


けれど、それらは普段、世界を変えるほど真名へ深く届かなかった。


「あたしが強く願ったら、全部ほんとになる?」


「分からない」


ジェレミーは正直に答えた。


「今回と同じ条件が必要なのか。死の直前という状況が影響したのか。特定の人間への執着が関係したのか。まだ判断できない」


「人間らしくなったから?」


会議室が静かになった。


エルは続けた。


「あたし、前より、人間のこと分かる」


「そうだな」


「誰か一人がいなくなるの、前より嫌」


「そうだ」


「人間みたいに願ったから、名前が聞いた?」


ジェレミーは、ゆっくり頷いた。


「可能性は高い」


エルは、自分の手を見た。


「人間らしくならない方が、安全だった?」


誰も、軽く否定しなかった。


人間と距離を置く。


誰か一人を特別に思わない。


死を宇宙の一部としてだけ見る。


明日の食堂に誰がいるかなど、気にしない。


その方が、エルの個人的な願いが世界へ顕れる危険は少なかったかもしれない。


けれど。


それは、今のエルから多くを奪う。


ジェレミーが言った。


「安全だった可能性はある」


エルの肩が僅かに下がる。


「だが、それを理由に戻すつもりはない」


「どうして?」


「人間を好きになったお前から、その気持ちを取り上げる方が、私には危険に見える」


エルは目を瞬いた。


「魔法より?」


「ああ」


ジェレミーの返答に迷いはなかった。


副長が薄く笑う。


「規定と観測項目は増えるでしょうね」


「また増える?」


「残念ながら」


「いっぱいある」


「あなたが新しいことを覚えるたび、我々も新しいことを覚えています」


エルは副長を見る。


「迷惑?」


「仕事です」


「大変?」


「非常に」


「嫌?」


副長は僅かに目を細めた。


「いいえ」


エルはそれを聞いて、少しだけ力を抜いた。


ジェレミーが言う。


「今後、強い願いが浮かんだ時は、想像した景色を言葉にしろ」


「魔法になる前に?」


「できる限りな」


「できなかったら?」


「周囲が止める」


「間に合わなかったら?」


「その時は、その結果に責任を持って対処する」


「あたしも?」


「お前一人ではない」


エルは小さく頷いた。


「あたしの願いだから、あたしだけの責任かと思った」


「違う」


ジェレミーは即答した。


「お前を現場へ連れていく判断をしたのは監理局だ。お前の性質を知った上で運用している。責任を押しつけるつもりはない」


エルは、しばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言う。


「あの人に、明日もいてほしいって思った」


「ああ」


「それは、消さなくていい?」


「消す必要はない」


「でも、勝手にほんとにしない」


「そうだ」


「むずかしい」


「知っている」


エルは椅子の上で、膝を抱えた。


「人間は、いつもこれしてる?」


精神保護室長が尋ねる。


「何をですか」


「願う。でも、世界は変わらない」


職員は少しだけ笑った。


「ほとんどの場合は」


「願っても、ほんとにならない?」


「はい」


「苦しくない?」


「苦しいこともあります」


「それでも願う?」


「願います」


エルは不思議そうに職員を見た。


願いは、叶えるためだけにあるのではない。


叶わないと知っていても。


自分の中に持っていることがある。


その人に生きていてほしい。


明日も会いたい。


ずっと一緒にいたい。


そう願うことと、世界をその通りに作り替えることは違う。


人間には、最初から分かれていることだった。


エルは今、その間に境界を作ろうとしている。


旧世代にはなかった境界を。


自分の中に。



翌朝。


エルは、いつもより少し早く食堂へ来た。


まだ席はまばらだった。


食堂班の職員が朝食の準備をしている。


端末を開く職員。


眠そうに飲み物を運ぶ職員。


夜勤を終えた者。


これから任務へ向かう者。


人間たちの朝だった。


エルは、昨日想像した席を見た。


空いている。


少しだけ胸が重くなった。


けれど、魔法は顕れない。


席に人間を作ろうともしない。


朝の光を増やそうともしない。


エルは、ただ待った。


しばらくすると、食堂の入口が開いた。


昨日の職員が入ってきた。


胸に傷はない。


肩へ医療班の固定具をつけている。


片手には端末。


もう片方には、温かい飲み物。


職員はいつもの席へ座った。


端末を開く。


角を指先で二度叩いた。


エルは向かいの席から、それを見ていた。


職員が顔を上げる。


「おはようございます」


「おはよう」


「早いですね」


「確認してた」


「何をですか」


「職員さんがいるか」


職員は少しだけ黙った。


「いましたか」


エルは頷く。


「いた」


「よかったです」


「魔法じゃない?」


「私が歩いて来ました」


「自分で?」


「はい」


エルは、職員の足元を見た。


普通の靴。


普通の歩幅。


世界に作られた光の道はない。


扉もない。


花も咲いていない。


ただ、人間が自分で食堂まで歩いてきた。


エルは少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「記録、見る」


「機密部分は隠します」


「うん」


職員は端末へ、白い空間の観測記録を表示した。


途中まで書かれた文章。


壁面の図。


測定値。


旧世代が通ったあと、というエルの言葉。


昨日の続きが、そこにあった。


エルは画面を覗き込んだ。


「ここ、違う」


「どこですか」


「通過痕跡って書いてる」


「はい」


「痕跡じゃない。通ったこと」


職員は指先で端末の角を二度叩いた。


「表現を修正します」


「うん」


「他にもありますか」


エルは画面を見た。


職員も画面を見る。


食堂では、食器の音がしている。


朝食の匂いがする。


誰かが笑っている。


昨日、エルが想像した景色と少し似ている。


けれど、同じではない。


飲み物の種類が違う。


職員の肩には固定具がある。


画面の配置も違う。


エルの想像より、少し騒がしい。


少し不格好で。


人間たちが自分で作った朝だった。


エルは、その違いをじっと見た。


そして、小さく笑った。


「あたしが作ったのより、こっちの方が本物」


職員は、その言葉の意味をすぐには尋ねなかった。


ただ、隠すべき記録を隠し。


見せられる部分をエルへ見せる。


エルも、世界へ何も足さなかった。


ただ、その席に人間がいることを喜んだ。


願いは、まだ胸の中にある。


明日もいてほしい。


次の日も。


その次の日も。


けれど今は、叶えようとはしなかった。


今日ここにいる人間と、昨日の続きを見た。


それだけで。


エルは、少し幸せだった。



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