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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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115/135

第115話-今日もいてね

惑星監理局の夜は、静かに一日を閉じていく。


廊下を行き交う職員の数が減り、照明が夜間用の淡い明るさへ切り替わる。

食堂では最後の食器が片づけられ、情報班では保存を終えた記録端末が一つずつ眠りにつく。


「お疲れさまでした」


「また明日」


そんな声が、廊下のあちこちで交わされていた。


また明日。


人間たちは、その言葉をよく使う。


必ず明日も会えると知っているわけではない。

明日のことを決める力を持っているわけでもない。


それでも、また明日と言う。


エルは廊下の端に立ち、そのやり取りを眺めていた。


白い髪の毛先が、歩いていく職員たちの起こした風に揺れる。


「また明日、エルさん」


帰る途中の職員が、エルにもそう声をかけた。


エルは少しだけ顔を上げる。


「うん。また明日」


職員は笑って、廊下の角へ消えていった。


その背中が見えなくなってからも、エルはしばらく同じ場所に立っていた。


明日。


人間にとっては、今日のすぐ隣にあるもの。


けれど、必ず来るものではない。


そんなことは、ずっと前から知っている。


人間は死ぬ。


動かなくなる。

呼んでも返事をしなくなる。

昨日までいた場所に、いなくなる。


エルは、それを知らなかったことがある。


死んだ人間を戻そうとしたことがある。

戻せると思っていた。


壊れたものを直すように。

消えたものを、もう一度ここへ置くように。


けれど、それは違った。


人間の死は、勝手に戻してはいけない。


死んだことを、なかったことにしてはいけない。


悲しいからといって、悲しみまで消してはいけない。


エルはもう知っている。


人間がいなくなる前に残した言葉も。

声も。

顔も。

一緒にいた時間も。


それらを覚えていることが、ただ苦しいだけではないことも知っている。


自分の中に残しておける。


失ったあとにも、持っていられる。


だから、エルは昔のように死を否定しない。


戻したいと願っても、勝手に世界を変えない。


分かっている。


全部、分かっている。


それでも、その夜は寂しかった。


理由はなかった。


誰かが死んだわけではない。

警報も鳴っていない。

悲しい報告も届いていない。


レトは元気だった。


夕食のあと、食堂の職員に明日のデザートを聞いていた。

まだ決まっていないと言われて、明日までの重要任務だと張り切っていた。


ロジーも元気だった。


今日撮った写真を分類しながら、同じ構図に見える写真を一枚ずつ別の記録として保存していた。

全部ちょっとずつ違うのだと言っていた。


職員さんたちもいる。


ジェレミーもいる。


みんないる。


だからこそ、寂しかった。


今ここにいる人間たちも、いつかはいなくなる。


笑っている顔を知るほど。

声を覚えるほど。

好きになるほど。


いなくなったあとの空白は、大きくなる。


エルは胸元へ手を置いた。


痛くはない。


けれど、内側に冷たい空洞ができたようだった。


昔と同じ。


あの人間がいなくなったあと、何を見ても足りなかった時と同じ。


ただ、今のエルは知っている。


これは壊れているのではない。


直さなければならないものでもない。


寂しいだけ。


好きな人が、いつかいなくなるから。


「……知ってるのに」


エルは小さく呟いた。


知っている。


人間の時間は短い。


だから一緒にいられる時間を大切にする。


だから今日を使う。


だから、話す。


遊ぶ。


食べる。


名前を呼ぶ。


顔を見る。


触れてもいいか聞く。


嬉しい時には、嬉しいと言う。


寂しい時には、寂しいと言う。


分かっている。


分かっているのに、胸は軽くならなかった。


エルは一人で中庭へ向かった。


夜の中庭には誰もいなかった。


硝子越しの空に、星が浮かんでいる。


星は長く残る。


人間よりもずっと長く。


けれど、星を見ても寂しさは消えなかった。


昔のエルなら、ここへ何かを作ったかもしれない。


寂しくない景色。


誰かの声が聞こえる花。


触れれば温かくなる光。


人間がたくさんいるように感じる、賑やかな夜。


今のエルにも、それはできる。


けれど、しなかった。


偽物の声では足りない。


寂しさを魔法で包んでも、人間がここにいることにはならない。


エルが欲しいのは、寂しくなくなることではなかった。


今日、人間がいることだった。


エルは中庭を出た。


足音は小さい。


夜勤の職員と何度かすれ違った。


誰もがエルに気づき、軽く頭を下げたり、声をかけたりした。


「こんばんは、エルさん」


「眠れませんか?」


「何か必要ですか?」


エルはそのたびに立ち止まり、顔を見た。


この人もいる。


この人も。


名前を知っている人。

知らない人。

話したことがある人。

まだほとんど話したことがない人。


みんな、今日を生きていた。


エルは何かを言おうとして、やめた。


まだ、言葉にすると大きくなりすぎる気がした。


いなくならないで。


死なないで。


ずっとここにいて。


それは、願ってはいけない言葉ではない。


人間なら、そう願うこともある。


けれどエルの願いは、人間の願いとは違う。


エルが強く願えば、世界が応えてしまうかもしれない。


人間の時間を止めるかもしれない。


死なないように、人間ではないものへ変えてしまうかもしれない。


ずっとここにいられるように、どこへも行けなくしてしまうかもしれない。


だからエルは、願いを小さくする方法を知っている。


ずっとではなく、今日。


永遠ではなく、今。


昔、自分でそうした。


人間を失ったあと、もう二度と同じことが起きてほしくなくて。


それでも人間を縛りたくなくて。


エルは、あの言葉を作った。


ずっと使っていなかった、昔の挨拶。


忘れていたわけではない。


必要がなかったわけでもない。


ただ、言わなくても平気な日が増えていただけ。


でも今日は、言いたかった。



局長室の明かりは、まだ点いていた。


エルは扉の前で止まった。


いつもなら、そのまま入ることもある。


けれど今日は、扉を二度叩いた。


「入れ」


ジェレミーの声がした。


扉を開ける。


ジェレミーは執務机の向こうで、書類を読んでいた。


机の上には複数の報告画面。

端にはハンドガン。


いつもと同じ局長室。


いつもと同じジェレミー。


エルは部屋へ入り、扉を閉めた。


ジェレミーが顔を上げる。


「どうした」


「……来た」


「見れば分かる」


エルは机の前まで歩いた。


何も言わず、ジェレミーを見上げる。


ジェレミーも、すぐには問い直さなかった。


エルの顔を見ていた。


泣いてはいない。


怪我もしていない。


魔力反応にも異常はない。


それでも、普段とは違う。


ジェレミーは手にしていた資料を机へ置いた。


「座るか」


エルは首を横に振った。


「ここがいい」


そう言って、机の横へ回る。


ジェレミーの椅子のそばで立ち止まり、服の袖を指先で摘んだ。


ジェレミーは、その手を見た。


「何があった」


エルは少し黙った。


何も起きていない。


だから説明が難しかった。


「人間が、死ぬのを思い出した」


ジェレミーの表情は変わらなかった。


「そうか」


「忘れてなかった」


「ああ」


「知ってる」


「ああ」


「戻しちゃだめなのも、知ってる」


「知っているな」


「今日が大事なのも、知ってる」


「そうだな」


エルはジェレミーの袖を握ったまま、俯いた。


「でも、寂しくなった」


ジェレミーはしばらく何も言わなかった。


分かっているなら平気だとは言わない。


昔乗り越えたことだとも言わない。


思い出が残るから大丈夫だとも言わない。


どれも間違いではない。


けれど、今のエルが欲しい言葉ではない。


「寂しくなることはある」


ジェレミーはそう答えた。


「知っていても?」


「知っているからだろう」


エルはゆっくり顔を上げた。


ジェレミーはいつもと変わらない顔をしていた。


冷静で、静かで、嘘をつかない顔。


エルは、その顔をよく知っている。


ずっと昔から。


古い監理局の食堂で、どこへ座ればいいのか分からなかった頃から。


言葉をうまく使えなかった頃から。


死んだ人間を戻そうとした時も。


悲しくて、世界を変えかけた時も。


ジェレミーはいた。


けれど、この人も人間だ。


ほかの人間より長く生きている。


身体も強い。


それでも、いつかはいなくなる。


その事実は変わらない。


エルの指が、少し強く袖を握った。


「ジェレミー」


「何だ」


エルは口を開いた。


ずっといて。


一瞬だけ、その言葉が浮かんだ。


けれど言わなかった。


代わりに、昔の挨拶を口にした。


「今日もいてね」


とても小さな声だった。


何も知らなかった頃の言葉ではない。


死を知っている今のエルが、それでも口にする言葉。


永遠を求めないための言葉。


人間を縛らないための言葉。


それでも、一緒にいたいと伝えるための言葉。


ジェレミーは驚かなかった。


意味を尋ねることもしなかった。


その挨拶を知っていた。


昔、エルが人間を見るたびに使っていた頃を知っている。


「いる」


ジェレミーは答えた。


短く、確かに。


エルは袖を握ったまま、もう一度聞いた。


「仕事、まだする?」


「ああ」


「ここにいる?」


「いる」


「寝るまで?」


「お前がここで寝るつもりならな」


エルは少しだけ考えた。


それから、ジェレミーの椅子の横に座った。


床ではない。


いつの間にか、そこには小さなクッションが置かれていた。


魔法で作ったものではない。


以前、生活班の職員が持ってきたものだった。


エルはクッションへ身体を預け、ジェレミーの服から手を離した。


代わりに、椅子の脚へ少しだけ寄りかかる。


ジェレミーは資料を手に取った。


また仕事を始める。


紙をめくる音。


端末を操作する音。


ときどき通信へ短く答える声。


何も特別なことは起きない。


ただ、人間がそこにいる音がする。


エルは目を閉じた。


寂しさは消えていない。


消さなくていい。


いつかジェレミーがいなくなることも変わらない。


レトも。


ロジーも。


職員さんたちも。


人間は、エルを置いて死んでいく。


それでも、今日はいる。


今日は声が聞こえる。


手を伸ばせば触れられる。


名前を呼べば返事がある。


それでよかった。


しばらくして、ジェレミーが資料から目を上げた。


エルはクッションの上で眠っていた。


小さく丸まり、椅子の脚へ寄りかかっている。


ジェレミーは上着を脱ぎ、エルの身体へ掛けた。


エルは起きなかった。


ただ、眠ったまま小さく呟いた。


「……今日もいてね」


ジェレミーは再び椅子へ座った。


「いる」


返事は、眠っているエルにも届くほど静かだった。


夜はまだ終わらない。


今日もまだ、少しだけ残っていた。



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