表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
113/135

第113話-上位存在を花束にする

――旧世代という格


惑星監理局の朝は、いつも通りだった。


食堂では、レトが朝食のトレイを両手で持ち、プリンの有無を真剣に確認していた。


「今日はプリン、ある?」


食堂班の職員が答える。


「今日の朝食にはありません」


レトは目に見えてしょんぼりした。


「朝も、がんばる日なのに……」


「昼食にはあります」


「ほんと?」


「本当です」


レトはぱっと顔を上げた。


「じゃあ、お昼までがんばる!」


その横で、ロジーは頭上のデバイスに朝食記録テンプレートを展開していた。


「記録。レト、朝プリンなしに一度しょんぼりするも、昼プリン情報により即時回復。精神状態、良好!」


「ロジー、それ書くの?」


「書くよ! こういうのが後世に効くんだよ!」


「こうせい?」


「あとで見返した時に、かわいいってなる人たち!」


「なるかな?」


「なる!」


レトは少し照れた。


その向かいで、エルは小さな皿に乗った飾り花を見ていた。


食堂班が、テーブルの中央に置いた朝用の花だった。


薄い青の花弁。


白い小花。


細い茎を束ねた、小さな花飾り。


エルはそれをじっと見て、指先で花びらに触れた。


「これ、かわいい」


「エル、食べちゃだめだよ」


レトが真剣に言った。


エルは首を傾げた。


「食べるものじゃない?」


「たぶん、見るもの」


ロジーが即座に補足する。


「装飾用! 食堂の雰囲気をよくするための花! たぶん生活班の人が置いた!」


「雰囲気」


エルは花を見た。


「これがあると、人間、うれしい?」


食堂班の職員が、少しだけ笑った。


「うれしい人もいますね」


「そっか」


エルは満足そうに頷いた。


「じゃあ、いいもの」


その瞬間、エルだけが、ほんの少し顔を上げた。


食堂の天井ではない。


監理局の天井でもない。


硝子玉の宇宙の、どこか。


この宇宙の内部に、何かが入ってきた。


外から来たもの。


大きく、強く、人間よりずっと上にあるもの。


けれど、エルは瞬きを一度しただけだった。


「あ」


ロジーが顔を上げる。


「なに?」


「何かいる」


レトが目を丸くした。


「どこ?」


「あたしの中」


ロジーのデバイスが小さく警告音を鳴らした。


「この宇宙の中…?」


「うん」


「え、待って。今の、かなり重大発言では?」


エルは、もう一度、花を見た。


「そう?」


「そうだよ! 何かいるって言ったよね!?」


「うん」


「この宇宙の中ってことで合ってるよね!?」


「うん」


「なのに花見てるの?」


「うん」


エルは不思議そうに首を傾げた。


「こっちのほうが、かわいい」


ロジーは一瞬、言葉を失った。


レトは不安そうに聞いた。


「エル、大丈夫なの?」


「うん」


エルは当然のように頷いた。


「大丈夫」


それは、状況全体を分析した上での安全判断ではなかった。


人間にとって危険かどうかを考えた末の答えでもない。


エルは、自分にとって大したものではないから、気にしていなかった。


自分には問題にならないものが、人間にはどれほど大きいか。


自分が見過ごせるものが、人間にはどれほど致命的か。


そういう比較そのものが、エルの日常の感覚にはあまり存在しない。


外宇宙から来て、硝子玉の宇宙内部へ入り込んだ存在。


人間から見れば、世界の終わりになり得るものでも。


だが、エルにとっては、食堂の花から視線を外し続けるほどの存在ではなかった。


その温度差を、レトもロジーもまだ正確には分かっていなかった。


食堂の照明が、一度だけ暗くなった。


瞬きほどの短い時間。


だが、監理局の職員たちは全員、それだけで異常を理解した。


普通の停電ではない。


警報の前兆だった。


次の瞬間、低い音が監理局全域に流れた。


重く、長く、身体の奥へ沈む音。


最大警戒の警報だった。


食堂班の職員が即座に動いた。


「全員、食堂待機。職員は配置確認」


ロジーのデバイスが赤い警告表示へ切り替わる。


「内部観測網、全系統緊急反応……え、外縁じゃない。内部? 内部にいるの?」


レトは立ち上がった。


「戦闘班?」


通信が入る。


『レト、戦闘班待機区画へ。単独出撃は禁止。繰り返す、単独出撃は禁止』


「了解!」


レトは返事をしたが、すぐエルの方を見た。


「エル、さっきの?」


エルは花を見ていた。


「たぶん」


「たぶん!?」


「うん」


ロジーが慌ててエルの袖を引いた。


「エル、今それどころじゃない! 警報! 最大警戒!」


エルは顔を上げた。


「そうなんだ」


「そうなんだ、じゃないよ!」


けれど、エルの声はいつもと変わらなかった。


慌てていない。


怖がっていない。


考え込んでもいない。


食堂の大人たちが一斉に走り出す中で、エルだけが、朝の花飾りの前にいる時間から動いていなかった。


監視室では、すでに怒号が飛び交っていた。


内部広域観測網。


硝子玉の宇宙内に発生する異常反応を監視するための観測機構。


そこから送られてくる映像が、全て同じ状態になっていた。


何も映らない。


いや、違う。


何も映らないのではない。


映像の全てが、見られていた。


観測画面の中央に、白い文字が浮かんでいる。


閉鎖宇宙、識別完了。


監視室の職員が息を呑んだ。


「こちらの文字体系に変換されています」


「翻訳か?」


「違います。表示層に直接書き込まれています」


「侵入されたのか」


「観測網ではありません。表示結果そのものが置換されています」


別の職員が叫ぶ。


「対象、内部領域に出現!」


星図が開く。


硝子玉の宇宙を示す巨大な立体図。


その内部。


本来なら何もないはずの宙域に、何かがいた。


形は定まらない。


観測機器によって違う。


ある系統では、巨大な輪。


ある系統では、無数の眼球。


ある系統では、星を折り畳む指。


ある系統では、文字の海。


ある系統では、空白そのもの。


だが、全ての解析値が同じ結論を返した。


文明階層、監理局基準を上回る。


魔術体系、非該当。


神性存在反応、非該当。


旧世代反応、非該当。


ただし法則層干渉あり。


監視室の空気が凍った。


職員の一人が、震える声で言う。


「旧世代ではありません」


「では何だ」


「外宇宙由来の……上位存在です」


その言葉は、軽くなかった。


上位存在。


伝承や神話の意味ではない。


監理局の分類上、人間文明より上の認識階層、干渉階層、存在階層にいるもの。


神性存在のように、人間の精神集合体から生まれたものではない。


魔術災害でもない。


旧世代でもない。


外の宇宙から来て、硝子玉の宇宙内部へ侵入した、別系統の上位存在。


それは、間違いなく本物だった。


さらに、解析画面に新しい文字が浮かんだ。


異物構造を確認。


監視室が一瞬、静まった。


次の文字が表示される。


自己領域内、未承認閉鎖構造。


その瞬間、対象周辺の空間が歪んだ。


硝子玉の宇宙全体が押されたのではない。


外側から叩かれたのでもない。


内部に入り込んだ上位存在が、この宇宙そのものを、そこにあるべきではない異物として認識した。


その存在は、硝子玉の宇宙を「別世界」とは見ていなかった。


自分が占有する領域の中に、説明不能な閉鎖構造がある。


そう認識していた。


生き物の巣ではない。


文明の世界ではない。


意思ある他者の住む場所でもない。


異物。


閉じた塊。


検査し、開き、不要なら取り除くもの。


「対象周辺、局所法則に歪み!」


「解体判定が入っています!」


「解体?」


「対象にとって、硝子玉の宇宙は施設ではなく、腫瘍か異物のように見えている可能性があります!」


監視室の責任者が叫ぶ。


「上位委員会へ即時転送!」


上位委員会へ即時通達が飛んだ。


監理局の全班が動いた。


監理班は緊急会議を設置。


精神保護室は全職員へ認識固定術式を配布。


医療班は精神損傷対応を準備。


情報班は過去記録を照合。


魔術制御部は干渉波を解析。


技術班は内部法則の保護を開始。


戦闘班は待機。


そして上位委員会は、即座に専門チームを組んだ。


外宇宙上位存在対応班。


啓示型言語対策班。


内部法則防護班。


認識圧測定班。


精神汚染解析班。


旧世代類似反応検証班。


全てが、同時に動いた。


対応は早かった。


正確だった。


だが、それでも足りなかった。


硝子玉の宇宙全域に、声ではないものが落ちた。


――閉じた系である。


音ではない。


通信でもない。


だが、全員が理解してしまう。


――自己領域内、異物構造を確認。

――遮蔽層、不要。

――開示せよ。

――内部構造を提示せよ。


監理局の各所で、職員たちが顔を歪めた。


意味が直接、頭の中に置かれる。


それは会話ではなかった。


呼びかけでもない。


通知だった。


上から下へ。


対象を確認し、処理するための、冷たい通知。


――内部知性群、活動継続を確認。

――恐怖反応を確認。

――不適切。静止せよ。

――異物構造、解体判定へ移行。


監視室で、一人の職員が膝をついた。


別の職員が椅子から崩れ落ちる。


「精神保護室!」


「認識圧、通常域を超過!」


「観測者を下げろ!」


「観測切断!」


「切断できません! 対象がこちらを観測しています!」


上位存在は、ただ見ているだけではなくなった。


自分の領域に現れた異物を確認し、構造を開き、不要なら解体する。


そのために動き始めていた。


敵意というより、排除処理だった。


相手にとっては、侵入者を駆逐するだけ。


自分のテリトリーに混じった異物を取り除くだけ。


しかし人間にとっては、それだけで世界の終わりだった。


秘密にしているものを、皮膚ごと剥がされるような感覚。


思考の奥にある扉へ、巨大な指をかけられる感覚。


世界そのものが、内側から検品されている感覚。


監理局の記録区画が震えた。


上位委員会の封印記録が警告を出した。


秘匿会議の記録層に、触れられた痕跡が残る。


それは突破ではない。


まだ浅い。


だが、触れられた。


それだけで、上位委員会の議員たちは表情を変えた。


合同緊急会議は、上位委員会の最上位通信室と、監理局第零会議室を繋いで行われた。


中央に、ジェレミー・クリエット。


隣に、副長。


魔術制御部長、精神保護室長、情報班主任、医療班主任、技術班長、戦闘班長。


通信画面には、上位委員会議員たち。


彼らは、いつものように厳格だった。


ただし、その顔には明らかな疲労があった。


議員の一人が言った。


「対象は本物の上位存在と見てよいか」


魔術制御部長が答える。


「人間基準では、そう判断せざるを得ません。こちらの魔術体系で説明できる反応ではありません。神性存在ではなく、旧世代でもない。ただし、法則層に触れています」


精神保護室長が続ける。


「発話だけで複数名に急性精神損傷。現時点で明確な殺意は確認できませんが、対象の認識行為そのものが致命的です」


情報班主任は端末を見つめたまま言った。


「対象は、硝子玉の宇宙を独立世界として認識していません。自己領域内の未承認閉鎖構造、あるいは異物として処理しています」


副長が静かに補足する。


「我々を交渉相手ではなく、異物内部の活動反応として扱っている」


会議室が静まり返った。


その時、扉が開いた。


職員が、エルを連れてきた。


いや、正確には、連れてこようとしていた。


エルは職員の隣を歩きながら、小さな花飾りを手に持っていた。


食堂にあった、あの花だった。


「エルさん、こちらへ」


職員の声は張り詰めている。


しかしエルは、会議室に入る直前で花を見た。


「これ、持ってきちゃった」


「今は構いません」


「返す?」


「後で大丈夫です」


「そっか」


エルは会議室へ入った。


その瞬間、会議室の全員がエルを見た。


上位委員会議員たちも。


監理局幹部たちも。


誰もが、答えを求めていた。


だが、エルだけは、会議室の温度に乗っていなかった。


彼女にとっては、朝食の途中で呼ばれた延長だった。


花を持ったまま、少しだけ首を傾げている。


ジェレミーが言った。


「エル」


「うん」


「対象を認識できるか」


エルは中央の観測映像を見た。


そこには、硝子玉の宇宙内部へ侵入した外宇宙上位存在が映っている。


映っている、というより、無数の解釈が重なっていた。


目。


輪。


手。


文字。


空白。


そして、その全ての奥にある、冷たい排除の意志。


エルはしばらく見ていた。


「これ」


議員が身を乗り出す。


「何か分かるのか」


「朝の」


会議室が一瞬止まった。


「朝の?」


「うん。食堂にいたとき、いた」


副長が静かに目を細める。


「その時点で認識していたのですか」


「うん」


「なぜ報告しなかったのです」


エルは、本当に不思議そうに言った。


「言ったよ」


会議室の空気が止まった。


ロジーとレトには言った。


何かいる、と。


だが、それは監理局の緊急報告として処理されるような言い方ではなかった。


エルにとって、それは食堂の花を見ながら口にした一言だった。


ジェレミーが問う。


「その時点で、対応が必要だとは思わなかったのか」


エルは少しだけ考えた。


「対応?」


「対象が、この宇宙へ及ぼす影響についてだ」


エルは観測映像を見た。


それから、倒れかけている職員たちではなく、まだ何も起きていなかった食堂の記憶を見ているように、ぽつりと言った。


「そのときは、何もしてなかった」


「だから気にしなかったのか」


「うん」


短い返事だった。


そこに、悪意はなかった。


怠慢もなかった。


ただ、尺度が違った。


エルにとって、それはまだ出来事ではなかった。


何かがいる。


それだけだった。


人間なら、その時点で警戒する。


だがエルは、自分にとって問題にならないものを、すぐ人間の危機へ換算しない。


自分にとって大したことがないものが、人間にとって何なのか。


自分なら気にせず流せるものが、人間にはどう作用するのか。


そういう換算を、常にしているわけではない。


だから、硝子玉の宇宙内に上位存在がいると気づいても、気に留めなかった。


エルにとっては、まだ何もしていないものだった。


自分には、何の問題にもならないものだった。


そして、花の方がかわいかった。


副長は短く息を吐いた。


責めるための息ではない。


理解したからこそ、重い息だった。


「質問を続けます」


議員が言った。


「対象は旧世代か」


「ちがう」


「では何か」


「上にいるもの」


「我々より?」


「うん」


「監理局の魔術体系より?」


「うん」


「神性存在より?」


エルは少し考えた。


「種類がちがう」


副長が問う。


「エル。あなたにとっては?」


エルは観測映像を見たまま言った。


「あんまり」


「あんまり?」


「うん」


エルは言葉を探した。


「大きいけど、遠い。強いけど、古くない。名前の奥がない」


その言葉を、会議室の全員が理解できたわけではない。


けれど、上位委員会議員たちは黙った。


その表現の意味を、資料の中だけで知っていたからだ。


旧世代。


名前そのものが存在であるもの。


エルは、相手を自分と同じ階層には見ていない。


ただし、それは相手を貶しているわけではない。


人間にとっては本物の上位存在。


だが、エルにとっては、花から意識を奪うほどではない存在。


その差だけが、そこにあった。


議員が続けようとした。


「では、エルさん。対象は交渉可能か。あるいは、君から見て――」


その言葉は、最後まで続かなかった。


外宇宙の上位存在が、エルを認識した。


会議室の照明が、音もなく落ちる。


観測映像が白く反転した。


全ての画面に、新しい文字が浮かぶ。


中枢個体を検出。


次に、声ではない意味が落ちた。


――未分類個体。

――閉鎖宇宙中枢と近似。

――形態、低位知性体。

――再分類。


会議室の空気が歪む。


エルへ向けられた視線の余波だけで、周囲の人間が圧される。


議員の一人が椅子にもたれ、胸を押さえた。


精神保護室長が叫ぶ。


「視線を落としてください! 対象の再分類処理に巻き込まれています!」


技術班長の端末が火花を散らす。


「内部法則への干渉、増大!」


情報班主任が歯を食いしばる。


「秘匿記録層、再接触!」


副長が通信を飛ばす。


「全職員、対象認識を遮断。エル以外は観測像を見るな」


ジェレミーはエルを見た。


「エル、まだ動くな。情報を――」


エルは、聞いていなかった。


花を持ったまま、観測映像を見ていた。


上位存在から、次の通知が落ちる。


――中枢個体、異物構造維持に関与。

――閉鎖宇宙、自己領域内に存在。

――未承認。

――解体処理を開始。

――内部知性群、保護対象外。

――抵抗反応、意味なし。


その瞬間、会議室にいた数名の職員が倒れた。


医療班主任が走る。


精神保護室長が支援術式を展開する。


上位委員会議員の一人も、額を押さえたまま呼吸を乱していた。


敵意はある。


ただし、人間同士の憎しみではない。


異物を排除する意志。


自分の領域に混じった、認めていない構造物を消す意志。


それだけで、人間は死にかけていた。


その瞬間、エルの視線が変わった。


外宇宙の上位存在ではなく、倒れた職員を見た。


胸を押さえる議員を見た。


歯を食いしばる情報班主任を見た。


精神保護室長の支援術式が、削られていくのを見た。


ここで初めて、エルは見た。


何かがいることではなく。


その何かが、人間を壊していることを。


エルは、ようやく花から手を離した。


小さな花飾りが、会議室の床に落ちる。


「だめ」


その声は、小さかった。


だが、会議室の全員が聞いた。


ジェレミーが言う。


「エル」


エルは、外宇宙の上位存在を見上げた。


「人間みんな死ぬ」


次の瞬間。


エルは魔法を使った。


術式はない。


詠唱もない。


魔力陣もない。


人間が理解できる準備動作は、何もなかった。


ただ、エルがそう認識した。


これは人間を壊している。


見られるだけで壊れる。


開かれるだけで死ぬ。


解体されれば、この宇宙にいる人間は終わる。


相手にとって硝子玉の宇宙が異物でも、人間にとっては世界だ。


ここには人間がいる。


ここには日常がある。


レトが昼のプリンを待っている。


ロジーが記録を残している。


職員さんたちが働いている。


ジェレミーがいる。


副長がいる。


花を置く人がいる。


ここは、ただの異物ではない。


だから、安全にする。


会議室の中央に映っていた観測像が、ふっと消えた。


同時に、内部法則への干渉も消えた。


認識圧が消える。


秘匿記録層への接触が止まる。


倒れた職員たちの呼吸が安定する。


解体判定が、途切れる。


そして。


会議室の中央に、かわいい花束が浮かんでいた。


白い花。


淡い青の花。


ほんの少し硝子のように透明な花びら。


青いリボン。


小さな星飾り。


そして、丸いカード。


カードには、エルの文字でこう書かれていた。


安全


誰も、すぐには言葉を出せなかった。


上位委員会議員たちは、硬直していた。


監理局職員たちは、倒れた同僚の生命反応と、中央に浮かぶ花束を交互に見ていた。


魔術制御部長は端末を見たまま、声を失っている。


精神保護室長は、数値の急降下を確認してから、ゆっくりとエルを見た。


副長ですら、数秒だけ沈黙した。


ジェレミーは、花束を見ていた。


さきほどまで、硝子玉の宇宙を自己領域内の異物として解体しようとしていた外宇宙上位存在。


本当に人間より上にいたもの。


それが今、花束になっている。


花束が、わずかに震えた。


――形態異常。


ちりん。


小さな音が鳴った。


花びらが触れ合うたびに、硝子鈴のような音がする。


それ以上、花束はほとんど話さなかった。


ただ、震えていた。


出力を失い、干渉を封じられ、視界を花弁の内側へ押し込められたまま、存在の輪郭だけを保っている。


会議室にいた者たちは、その音でようやく息をした。


笑う者はいなかった。


笑えるほど軽い出来事ではなかった。


だが、あまりにも異様だった。


本物の上位存在が、花束になって、ただ一度だけ状態異常を告げた。


エルは花束を見上げた。


「安全になった」


上位委員会議員の一人が、震える声で言った。


「エルさん……今のは、独断か」


「うん」


「なぜ、許可を待たなかった」


エルは首を傾げた。


本当に、分からないという顔だった。


「待ったら、死ぬ人いた」


会議室に、重い沈黙が落ちた。


誰も否定できなかった。


実際、医療班主任の端末には、職員たちの損傷予測が出ていた。


あと数十秒、干渉が続いていれば、不可逆的な精神破壊が起きていた可能性がある。


上位委員会議員の精神防護も、突破寸前だった。


監理局の秘匿記録も、開示処理に巻き込まれかけていた。


そして何より、硝子玉の宇宙そのものが解体判定に入っていた。


エルは、それが人間を壊しているところを見た。


だから動いた。


規定違反。


独断。


非承認魔法行使。


全ての言葉は当てはまる。


だが、それ以上に明白な事実があった。


人間は、生き残った。


エルは床に落ちた花飾りを拾った。


食堂から持ってきた、小さな花。


それを手に持ったまま、花束になった上位存在へ歩み寄る。


副長が静かに身構える。


「エル、接触は」


エルは止まらなかった。


花束に触れるほど近づくわけではない。


ただ、正面に立った。


そして、淡々と言った。


「あたしたちが作った人間のための宇宙、あなたのじゃない」


会議室の空気が、また変わった。


エルの声は大きくなかった。


怒鳴っていない。


感情を爆発させてもいない。


けれど、その言葉には線があった。


ここから先はだめ。


この宇宙を、異物として扱うな。


人間を、内部反応として扱うな。


エルは続けた。


「消えて」


その瞬間、花束の輪郭がふっと淡くなった。


燃えたのではない。


砕けたのでもない。


殺したのでもない。


硝子玉の宇宙から、外へ押し返された。


この宇宙に触れない場所へ。


二度と、内部へ入り込めないように。


花束は、ちりん、と一度だけ鳴った。


そして、消えた。


会議室の中央には、もう何も浮かんでいなかった。


ただ、エルが持ってきた小さな花飾りだけが、彼女の手の中に残っていた。


情報班主任が、端末を確認する。


「対象反応、消失」


技術班長が続ける。


「内部法則、安定化。解体判定、消失。追加干渉なし」


精神保護室長が静かに息を吐いた。


「認識圧、ゼロ。追加損傷なし」


副長が端末に記録する。


「上位委員会承認前の独断行使。ただし、緊急避難として追認」


上位委員会議員の一人が、疲れた声で言った。


「追認するしかあるまい」


別の議員も頷いた。


「我々が質疑を続けていたら、何名死んだか分からない」


「あるいは、この宇宙そのものが解体対象になっていた」


「エルさんの判断は、規定上は問題がある」


そこで言葉が止まる。


議員はエルを見た。


エルは、まだ食堂の花飾りを見ていた。


「でも、正しかった」


誰も反論しなかった。


できなかった。


会議室には、倒れた職員を運ぶ医療班の足音が響いていた。


通信の向こうでは、レトが安否確認を求め、ロジーが記録閲覧権限を求めて怒られている。


監理局はまだ、日常に戻っていない。


上位委員会も、対応を終えていない。


記録の封印。


職員の治療。


内部法則の再検査。


侵入経路の解析。


やるべきことは山ほどあった。


だが、その中心にいたエルだけが、やはり日常の延長にいた。


彼女は手の中の花を見て、ぽつりと言った。


「これ、返したほうがいい?」


ジェレミーは少しだけ目を伏せた。


「後でいい」


「そっか」


エルは頷いた。


「しおれる前に、返す」


その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。


レトが待機区画から戻ってきたのは、その少し後だった。


「エル!」


レトは会議室の入り口で止まり、それから一気に駆け寄った。


「だいじょうぶ!?」


「うん」


「ほんと?」


「ほんと」


レトはエルの周りをぐるっと見た。


怪我がないか確認しているつもりだった。


「よかった……」


ロジーも遅れて入ってきた。


頭上のデバイスはまだ警告色だが、本人は目を輝かせかけていた。


「エル、今の記録、閲覧権限が全然下りないんだけど!」


副長が即座に言った。


「当然です」


「ですよね!」


ロジーは叱られる前提の敬語で返事をした。


それでも、エルの手の中の花を見ると、少しだけ表情を緩めた。


「それ、まだ持ってたんだ」


「うん。返す」


「食堂に?」


「うん」


レトが頷いた。


「わたしも行く!」


ロジーも手を挙げる。


「私も! あと、食堂班に無事報告しないと!」


副長は一瞬、止めるかどうか考えた。


だが、ジェレミーが短く言った。


「行かせろ」


副長は頷いた。


「三名とも、食堂まで。寄り道は禁止です」


レトが元気よく返事をする。


「はい!」


ロジーも続く。


「了解!」


エルは少しだけ首を傾げた。


「寄り道、しない」


三人は会議室を出ていった。


白髪の小さな背中。


淡緑のワンサイドテール。


ピンク髪のツインおさげ。


三人の足音が、廊下の向こうへ消えていく。


その場に残ったのは、人間たちだけだった。


上位委員会。


監理局。


倒れた職員の医療記録。


封印すべき観測記録。


そして、まだ誰も完全には理解できていない現象の残骸。


三人が去ってから、技術班長の端末が遅れて警告を吐き出した。


最初は、内部法則の安定化報告だと思われた。


だが違った。


警告は、硝子玉の宇宙の内側。


つい先ほどまで、外宇宙上位存在が侵入し、観測像として顕現し、花束へ変換されていた領域。


その周辺空間からの警告だった。


「……待ってください」


技術班長の声が、かすれた。


副長が視線を向ける。


「何ですか」


「対象が顕現していた領域の法則値が、乱れています」


「内部法則ではなく?」


「内部法則です。ただし、全域ではありません。対象が存在していた地点、その周辺領域です」


会議室の空気が、再び変わった。


魔術制御部長が端末を覗き込む。


「範囲は」


「局所的です。ただし、密度が異常です。空間座標が花弁状に折れています。距離の測定値が観測ごとに変化しています。時間順序に微細な前後があります。重力に相当する値も、一部で通常法則から逸脱しています」


「硝子玉の宇宙の内部法則が?」


「はい」


技術班長は、信じられないものを見る顔で続けた。


「上位存在が硝子玉の宇宙内にいた、その顕現領域が、想像の魔法の出力に巻き込まれています」


会議室の誰もが、さっきまで花束が浮かんでいた場所を見た。


もう何もない。


かわいい花束は消えた。


白い花も、青いリボンも、安全と書かれたカードもない。


だが、その場所の周辺では、硝子玉の宇宙の法則がまだ揺れている。


空間が花弁のように折れ、距離が意味を失い、時間がわずかに並びを崩し、通常なら安定しているはずの局所法則が、観測のたびに違う顔を返している。


精神保護室長が、低く言った。


「……エルさんは、対象だけを安全化したわけではない」


魔術制御部長が答える。


「対象が“そこに在る”ために使っていた領域ごと、安全な結果に合わせて、法則を押し曲げた可能性があります」


「それは、どの程度の出力ですか」


誰もすぐには答えなかった。


魔術制御部長は、数値を見た。


見たが、意味を読み取るのに時間がかかった。


「少なくとも、我々の大規模魔術とは比較になりません。硝子玉の宇宙内の法則層が、局所的にですが、結果に合わせて変形しています」


議員の一人が、乾いた声で言った。


「我々の宇宙が、か」


「はい」


「上位存在が入り込んでいた場所を、花束という安全な結果に合わせて押し曲げた、ということか」


魔術制御部長は、すぐには頷けなかった。


言葉が軽すぎるからだ。


だが、他に言いようがなかった。


「……現象だけを述べるなら、そうなります」


沈黙。


それは、先ほどまでの安堵とは違う沈黙だった。


エルは、ただ花束にした。


人間にはそう見えた。


だが、実際には違った。


花束にする、という結果のために、上位存在そのものだけではなく、上位存在が硝子玉の宇宙へ侵入し、顕現していた領域まで、法則ごとねじ曲げられていた。


しかも、それはエルが詠唱し、準備し、全力を宣言して行ったものではない。


「だめ」


「人間みんな死ぬ」


それだけで起きた。


そして、その結果がこれだった。


副長が、静かに息を吐いた。


「エルが去った後で良かったですね」


誰も、すぐには問い返さなかった。


副長は淡々と続けた。


「本人の前でこのやりとりを見せれば、彼女はおそらく、しばらくの間しょんぼりしていたでしょう。そして、花束にしただけだと言い訳をする」


「実際、そうなのだろう」


ジェレミーが言った。


「エルにとってはな」


上位委員会議員の一人が、さっきまで花束があった場所を見つめる。


「……怒っていたのか」


会議室が静かになる。


エルは怒っているようには見えなかった。


声を荒げていない。


泣いてもいない。


睨んでもいない。


ただ、花束を見ていた。


ただ、線を引いた。


あたしたちが作った人間のための宇宙、あなたのじゃない。


消えて。


だが、硝子玉の宇宙内に残った法則の乱れが、答えだった。


エルは、かなり怒っていた。


人間を異物内部の活動反応として扱ったこと。


硝子玉の宇宙を未承認閉鎖構造として解体しようとしたこと。


レトが昼のプリンを待つ世界を、ロジーが記録を残す世界を、職員たちが働く世界を、ただの異物として消そうとしたこと。


その全てに対して。


エルの表情ではなく、魔法の結果が怒りを示していた。


かわいい花束。


安全のカード。


硝子鈴のような音。


その背後で、硝子玉の宇宙の内部領域が、局所的に法則ごと乱れている。


その落差が、会議室の人間たちを黙らせた。


魔術制御部長が端末を閉じた。


「これは、記録上どう扱うべきでしょうか」


情報班主任が答える。


「事実だけを書くしかありません」


「事実だけでは、意味が伝わりません」


「意味まで書こうとすると、こちらの理解を超えます」


その通りだった。


外宇宙上位存在を花束へ変換し、顕現領域の内部法則を乱し、硝子玉の宇宙から排出した。


人間の言葉で言えば、そうなる。


だが、それは現象の並びを記録しているだけで、何一つ理解したことにはならなかった。


上位委員会議員の一人が、低く呟いた。


「旧世代というものを……我々は、まだ理解しきれていないな」


副長は静かに答えた。


「今後も一切、理解できたとは言えないでしょう」


議員は否定しなかった。


ジェレミーも黙っていた。


その沈黙が、答えだった。


旧世代とは、危険分類ではない。


古い伝承でもない。


宇宙の外から来た本物の上位存在でさえ、知らない階層にいるもの。


その力は、敵を倒すとか、壁を壊すとか、世界を守るとか、そういう人間の言葉では足りない。


この宇宙の内部法則でさえ、旧世代の想像した結果に合わせて形を変える。


人間たちは、その恐ろしさを再認識した。


そして、その格を持つ少女が、監理局の食堂で花をかわいいと言いながら暮らしている。


その異常さを。


その幸運を。


その危うさを。


人間たちは、静かに再認識した。


会議室の扉の向こうから、遠く、レトの声が聞こえた。


「エル、ちゃんと返せた?」


エルの声も聞こえる。


「うん。しおれてなかった」


ロジーが明るく言う。


「記録! 非常事態後、食堂の花、無事帰還!」


食堂班の職員が何かを言い、レトが笑った。


その声は、いつもの日常だった。


会議室の中にいる大人たちは、誰も笑わなかった。


けれど、その日常が続いていることの重さを、誰もが理解していた。


人間のための宇宙。


旧世代がそう言った世界の中で、人間たちは今日も生きている。


その日常を壊そうとしたものに対して、旧世代の魔法がどれほど恐ろしい結果を返すのか。


そして、その旧世代自身は、それをただ、花束にしただけだと思っている。


その事実だけが、会議室に残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の活動場所です! 総合リンクです! TiktokやYouTube、lineスタンプなどの総合リンクになってます!! よかったらみに来てくださいね! 箱庭の娘たちのイラストや動画をAI生成していますっ(*´▽`*) おはなしが気に入ってくださったら、評価やリアクション、ブックマークなどしてくださると、とっても嬉しいです(≧∀≦*)
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ