第112話-エル、偶然に追い詰められる
――こんなエル見たことない
惑星監理局の昼下がり。
エルは、食堂前の廊下で立ち止まっていた。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
小柄な身体。
いつもの、少し遠くを見ているような琥珀色の目。
その日のエルは、特に何かをする予定があったわけではない。
レトは戦闘班の簡易訓練。
ロジーは情報班で記録整理。
ジェレミーは会議。
副長はたぶん、どこかで書類を読んでいる。
だからエルは、ひとりで廊下を歩いていた。
とて、とて、とて。
壁に貼られた掲示を見て。
中庭へ向かう職員を見て。
食堂から流れてくる甘い匂いに、少しだけ足を止める。
「……甘いの、食べたい」
ぽつり。
ただの呟きだった。
その直後。
食堂の扉が開いた。
中から食堂班の職員が顔を出す。
「あ、エルさん。ちょうどよかったです」
エルは振り向いた。
「……なに」
「試作品の小さな焼き菓子が余ったんです。よければ一つどうですか?」
職員が小皿を見せる。
そこには、星形の小さな焼き菓子が三つ乗っていた。
甘い匂い。
小さい。
かわいい。
エルはそれを見た。
そして、一秒だけ固まった。
「……甘いの」
「はい?」
「今、甘いの食べたいって言った」
「そうなんですか? ちょうどよかったですね」
エルは小皿を見た。
それから、食堂班の職員を見た。
「ちょうど」
「はい」
「よかった」
「はい」
エルは焼き菓子を一つ受け取った。
食べる。
さく。
甘い。
「……おいしい」
「よかったです」
ここまでは、普通だった。
普通の偶然。
エルもそう思った。
人間の世界には、偶然がある。
だから、甘いものが食べたいと思った時に、甘いものをもらうこともある。
エルは焼き菓子をゆっくり食べながら、少し考えた。
「……でも、冷たいのも食べたい」
甘いものを食べたら、冷たいものも欲しくなった。
暑い。
口の中が少し甘い。
冷たいものがあれば、たぶん気持ちいい。
「アイス、食べたい」
その直後。
食堂の奥から、別の職員が大きな保冷箱を抱えて出てきた。
「そういえば、エルさん。アイスの詰め合わせもいただいていますよ。レトさんとロジーさんにも配ろうと思っていたんです」
エルの手が止まった。
焼き菓子を持ったまま、完全に止まった。
職員が保冷箱を開ける。
中には、色とりどりのカップアイス。
ミルク。
ベリー。
チョコ。
果実入り。
星砂糖入り。
エルは、保冷箱を見た。
じっと見た。
「……アイス」
「はい」
「今、あたし、アイスって言った」
「ええと、そうなんですか?」
「言った」
「それは……ちょうどよかったですね」
エルは一歩下がった。
「ちょうどが、二回」
食堂班の職員は首を傾げた。
「二回?」
「甘いの。アイス」
「はい?」
「二回来た」
「来た、というか……出しただけですが」
エルは保冷箱を見つめた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、目だけが少し違った。
いつもの観察する目ではない。
小さな動物が、草むらで何かの気配を感じた時のような目。
「……アイス、あたしを聞いた?」
食堂班の職員が固まった。
「アイスが、ですか?」
「うん」
「聞いていないと思います」
「ほんと?」
「普通のアイスです」
「普通のアイスは、呼んだら来ない」
「呼んだわけでは……」
「でも来た」
エルは保冷箱から、さらに一歩離れた。
「……少し、こわい」
食堂班の職員は、通信を入れた。
「こちら食堂班。エルさんが、アイスに警戒しています」
監理班から返答があった。
『アイスに魔力反応は?』
「ありません。普通のアイスです」
『エルさんの魔力反応は?』
「通常範囲です」
『では何ですか』
職員は、保冷箱をじっと見つめているエルを見た。
「情緒です」
通信の向こうで、誰かが小さく言った。
『えっ』
エルは、その場から離れた。
とて、とて、とて。
歩幅はいつも通り。
でも、三歩に一回、後ろを振り返る。
アイスが追ってきていないか、確認している。
もちろん、追ってこない。
エルは小さく頷いた。
「……アイス、止まってる」
近くにいた生活班の職員が、思わず振り返った。
「何がですか?」
「アイス」
「アイスは止まっていますね」
「よかった」
生活班の職員は、少しだけ困った顔になった。
よかった。
よかったのだが。
エルがアイスの移動性を警戒している。
こんなエルは見たことがない。
エルは廊下の端にある小さなベンチへ向かった。
座る前に、ベンチを見た。
「……座っても、いい?」
誰に聞いたわけでもない。
でも、近くの職員が答えた。
「大丈夫ですよ」
エルはびくっとした。
「今、あたし、聞いた」
「はい?」
「そしたら、答えた」
「それは、聞こえたので」
「聞こえた」
「はい」
「……それは普通」
「普通です」
エルは少し考えた。
「普通、こわくない」
「こわくありません」
「うん」
エルはベンチに座った。
焼き菓子。
アイス。
聞いたら答えた。
三つ目は普通。
普通が混ざると、少し落ち着く。
エルは胸元に手を置いた。
「……大丈夫。あたし、魔法、使ってない」
そのまま、少しぼんやりする。
昼下がりの廊下はやわらかい。
人の声は遠い。
食堂の音も、少しだけ眠気を誘う。
「……眠い」
ぽつり。
その直後。
資料束を抱えた職員が横を通りかかった。
その職員は目元をこすりながら、小さく呟いた。
「……眠い」
エルの肩が、びくっと跳ねた。
大声は出さない。
ただ、ベンチの上で背筋がすうっと伸びた。
職員が足を止める。
「エルさん?」
エルはゆっくり職員を見た。
「今、なんて言った?」
「え?」
「今」
「眠い、と……」
エルは黙った。
それから、ほとんど息だけみたいな声で言った。
「……三回目」
「三回目?」
「あたしが眠いって思った」
「はい」
「職員さんも眠いって言った」
「はい。夜勤明けなので」
「夜勤」
「はい」
「それ、あたしが作った?」
「違います」
「ほんと?」
「本当です」
「夜勤は、前からあった?」
「ありました」
「いつから?」
「昨夜からです」
「じゃあ、あたしより先」
「はい」
エルは少しだけ黙った。
そして、頷いた。
「じゃあ、まだ、大丈夫」
職員は、そこでようやく自分がかなり奇妙な質問に答えていたことに気づいた。
だが、エルが本気で安心している。
だから、変に笑えなかった。
「大丈夫です」
「うん」
職員が去ったあと、エルはベンチの上でじっとしていた。
甘いの。
アイス。
眠い。
偶然。
偶然はある。
でも、重なっている。
エルは廊下の床を見た。
「……静かなところ、行きたい」
その直後。
廊下の向こうから、外務班の職員が歩いてきた。
「エルさん。中庭、今は人が少なくて静かですよ」
エルは、ゆっくり顔を上げた。
「……今」
外務班の職員は、足を止めた。
「はい?」
「今、あたし、静かなところって思った」
「そうなんですか」
「そしたら、中庭が静かって言った」
「中庭の巡回から戻ったところでしたので」
「巡回」
「はい」
「前から?」
「前からです」
「ほんと?」
「はい」
エルは外務班の職員をじっと見た。
疑っているわけではない。
ただ、世界の仕組みが少し信用できなくなっている顔だった。
「……中庭、静か?」
「静かです」
「ほんとに?」
「はい」
「静かすぎない?」
「静かすぎる、というほどでは」
「じゃあ、行く」
エルはベンチから降りた。
とて、とて、とて。
中庭へ向かう。
その途中で、生活班の職員が洗濯物の籠を持って通りかかった。
籠の中には、ふわふわの毛布が入っていた。
エルは、それをちらっと見た。
「……ふわふわ」
生活班の職員が足を止めた。
「あ、エルさん。今ちょうど乾燥した毛布を運んでいるんです。触りますか?」
エルは、目を丸くした。
「……言った」
「はい?」
「今、ふわふわって言った」
「そうなんですか」
「そしたら、ふわふわが来た」
「毛布です」
「ふわふわの毛布」
「はい」
エルは毛布を見た。
魅力的だった。
とてもふわふわしている。
触りたい。
でも、怖い。
エルは毛布へ伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。
「……今は、ふわふわもこわい」
生活班の職員は、毛布を抱えたまま固まった。
「ふわふわも?」
「うん」
「ふわふわは、怖くないと思います」
「でも、呼んだら来た」
「呼んではいないと思います」
エルは毛布から二歩離れた。
「ふわふわ、止まってて」
生活班の職員は真顔で答えた。
「止まっています」
その場にいた職員が、思わず小さく言った。
「えっ、エルさんが毛布に警戒してる……」
別の職員が囁く。
「こんなエルさん、見たことない」
エルはその声に、少しだけ肩を跳ねさせた。
「見たことない?」
職員たちは固まった。
聞こえていた。
エルは自分の胸元に手を置いた。
「……あたしも、見たことない」
中庭へ着いた時、エルはすでに少し変だった。
いや、見た目はいつも通りだった。
小さな身体。
淡々とした表情。
ゆっくりした声。
でも、行動が違う。
中庭の入り口で、まず左右を確認する。
それから、空を見る。
芝生を見る。
ベンチを見る。
清掃ロボがいないかも見る。
何かが出てこないか、世界そのものを警戒している。
中庭には、確かに人が少なかった。
花壇の近くに、園芸担当の職員が一人。
端のベンチに、休憩中の職員が一人。
小さな水路のそばに、点検中の技術班が一人。
静か。
エルは少し安心した。
「……静か」
その瞬間、園芸担当の職員が、花壇の前で呟いた。
「今日は静かですね」
エルは中庭の入り口で固まった。
「……」
職員が振り向く。
「あ、エルさん」
エルはゆっくり後ろに下がった。
「静かも、言った」
「はい?」
「今、あたし、静かって言った」
「はい」
「職員さんも言った」
「ええ、今日は静かなので」
「静かが、重なった」
「……はい?」
エルは胸元を押さえた。
「重なるの、多い」
休憩中の職員が、少し心配そうに立ち上がった。
「エルさん、大丈夫ですか?」
エルはその言葉に、少しだけ安心しかけた。
大丈夫かと聞かれるのは、普通。
普通のやり取り。
そう思った直後。
技術班の職員が端末を見ながら呟いた。
「大丈夫、大丈夫……この数値なら大丈夫……」
エルの目が、きゅっと丸くなった。
「大丈夫も、重なった」
技術班の職員は顔を上げた。
「え?」
エルは一歩下がった。
「静か。大丈夫。重なる」
園芸担当の職員が、慌てて通信を入れた。
「こちら中庭。エルさんが、言葉の一致にかなり敏感になっています」
監理班から返答。
『魔力反応は?』
「ありません」
『空間変動は?』
「ありません」
『エルさんの様子は?』
園芸担当の職員は、花壇の陰に半分隠れたエルを見た。
「……花壇の陰に隠れています」
通信の向こうで、はっきり聞こえた。
『えっ!?』
エルは花壇の陰から、目だけを出していた。
膝を軽く曲げ、白髪のボブを少し揺らしている。
本気で隠れている。
旧世代が。
硝子玉の宇宙の創造者が。
花壇の陰に。
中庭の職員たちは、どう反応すればいいのか分からなかった。
「エルさんが、隠れた……」
「花壇に……」
「かわ……いや、言わない方がいいな」
「こんなエルさん見たことない……」
エルは花壇の陰から、小さく言った。
「……見ないで」
職員たちは一斉に視線を逸らした。
その動きが揃いすぎて、エルはまたびくっとした。
「揃った」
園芸担当の職員が焦る。
「すみません!」
「みんなで、同じことした」
「偶然です!」
エルは花壇の陰で、さらに小さくなった。
「偶然、増えてる」
その頃、ロジーは情報班にいた。
頭上デバイスに、監理班からの制限付き通知が届く。
エルさん、偶然連続認知により情緒動揺。
記録制限あり。
現場接近時は声量注意。
ロジーは椅子から跳ね上がった。
「エルが情緒動揺!?」
情報班主任がすぐに言った。
「ロジー。記録制限ありです」
「分かってます!」
「本当に?」
「分かってます! でも、エルが情緒動揺って、そんなの見たことない!」
「だからこそ、刺激しすぎないように」
ロジーはもう走り出していた。
「刺激しない! 静かに見る!」
情報班主任は頭を抱えた。
「見るなとは言っていないが、見すぎるな……」
中庭では、エルの偶然警戒がさらに進んでいた。
エルは花壇の陰から出てきた。
ただし、足元を見ながら歩いている。
「何も考えない」
小さく言う。
「何も考えない。あたしは空。あたしは壁。あたしは丸い石」
中庭の端にいた技術班の職員が、端末のエラーを見ながら、ぼそっと言った。
「……何も考えない時間、欲しいな」
エルが止まった。
ぴたり。
中庭の空気も止まった。
園芸担当の職員が、目を見開く。
休憩中の職員が、飲み物を持ったまま固まる。
技術班の職員は、自分が何を言ったかを理解して顔面蒼白になった。
エルは、ゆっくり振り向いた。
「……今」
技術班の職員が震えた声で答える。
「はい」
「今、あたし、何も考えないって言った」
「はい」
「職員さん、何も考えない時間ほしいって言った」
「はい」
「……四回目? 五回目?」
エルは指を折ろうとした。
甘いの。
アイス。
眠い。
静か。
ふわふわ。
大丈夫。
何も考えない。
数が合わない。
多い。
多すぎる。
エルは指を折るのをやめた。
「……数えられない」
その声は、小さかった。
けれど、そこにいた職員たち全員が、本気で心配になった。
エルが数えるのを諦めた。
こんなエルは見たことない。
エルは胸元を押さえた。
「Ne……」
旧世代言語が漏れた。
小さく。
「Ne, mi ne faris tion…… mi ne volis……」
技術班の職員は、端末を握ったまま固まった。
園芸担当の職員がすぐ通信する。
「旧世代言語、出ました。小声です。魔力反応なし」
監理班から返答。
『局長へ共有済み。副長が向かっています。警報は上げないでください』
「了解」
エルは中庭の隅へ移動した。
芝生の端。
植え込みと壁の間。
日陰。
そこに、ちょこんとしゃがんだ。
膝を抱える。
白髪のボブが、ふるふる揺れる。
隅っこでぶるぶる震えている。
完全に、怯えた子犬みたいだった。
職員たちは、全員、言葉を失った。
「……エルさんが、隅っこで」
「震えてます」
「本当に震えてます」
「こんなエルさん、見たことない……」
エルは膝に顔を少し埋めた。
「……あたし、想像の魔法が垂れ流しになってる……?」
その場の職員たちの背筋が、一斉に伸びた。
その言葉だけは、冗談では済まない。
だが、測定値は変わらない。
空間変動なし。
願望呼応なし。
魔力漏出なし。
精神干渉なし。
何も起きていない。
起きているのは、エルの情緒だけ。
しかし、その情緒が大事件だった。
そこへ、ロジーが中庭に飛び込んできた。
「エル!」
声はいつもより抑えている。
かなり抑えている。
でも、足取りは速い。
ロジーは隅っこで震えているエルを見た。
止まった。
「……え」
頭上デバイスが、自動的に小さく表示する。
重要記録:隅っこエル
ロジーは慌てて表示を消した。
「違う違う、今のはデバイスが勝手に!」
エルは膝を抱えたまま、ロジーを見る。
「ロジー」
「うん、ロジーだよ」
「偶然が、たくさん来た」
「うん」
「数えられない」
「うん」
「こわい」
ロジーの顔から、記録欲が半分消えた。
半分だけ。
「……エル、ほんとにびびってる」
エルは頷いた。
「うん」
ロジーは、隅っこにしゃがんだエルの前に座った。
「そっか。びびったんだね」
「うん」
「じゃあ、私ここにいる」
エルは少しだけ目を上げた。
「記録しない?」
ロジーは一瞬、息を止めた。
「……必要最低限にする」
エルはじっとロジーを見る。
ロジーは両手を上げた。
「ほんと! 公開しない! 副長審査! 私の心には残すけど!」
「心」
「心は許して!」
エルは少し考えた。
「心なら、いい」
ロジーは胸を押さえた。
「優しい……!」
そこへ、レトが駆け込んできた。
「エル!」
淡緑の長い髪を左側で揺らし、青いキューブの髪飾りがきらっと光る。
レトはエルの前に膝をついた。
「大丈夫!? どこ痛い!? 誰かに何かされた!?」
エルは膝を抱えたまま言った。
「偶然」
レトの顔が真剣になった。
「偶然にやられたの?」
ロジーが肩を震わせた。
「レト、敵性存在みたいに言わないで……」
レトは本気だった。
「エルがこんなに怖がってるんだよ!」
エルは小さく頷いた。
「偶然、強い」
「強いの?」
「うん。いっぱい来る」
レトはすぐにエルの手を握った。
「じゃあ、わたしがいる!」
エルはその手を見た。
そして、すぐ握り返した。
中庭の職員たちが、また固まった。
「握り返した」
「エルさんが、すぐ握り返しました」
「こんなエルさん、見たことない……」
エルはレトの手を握り、もう片方の手でロジーの袖をつまんだ。
「二人、いて」
レトは即答した。
「いる!」
ロジーも即答した。
「いる!」
エルは、隅っこから半分だけ出た。
半分だけ。
完全には出ない。
植え込みの陰から、顔と片肩だけ出ている。
ロジーは口元を押さえた。
「かわ……いや、今は、今は耐える……!」
レトは真剣に言った。
「エル、もう少し出られる?」
「まだ」
「そっか」
「偶然が見てるかも」
「見てないよ」
「ほんと?」
「たぶん」
エルは、また隅に戻りかけた。
レトが慌てて言い直す。
「ほんと! 見てない!」
エルは止まった。
「じゃあ、半分出る」
「うん!」
そこへ副長が到着した。
いつもの薄い笑み。
だが、エルの姿を見るなり、一瞬だけ目を瞬かせた。
隅っこ。
膝抱え。
レトの手。
ロジーの袖。
半分だけ出ているエル。
副長は静かに言った。
「……エル」
「副長」
「なぜ、隅に?」
「安全」
「隅が?」
「うん」
副長は一瞬、理論上の安全性を説明しようとした。
だが、エルの目を見て、やめた。
「心理的には、安全かもしれませんね」
エルは小さく頷いた。
「じゃあ、いる」
「分かりました」
副長は職員たちへ指示を出す。
「魔力測定継続。警報は上げない。ロジーは記録範囲を最小限。レトはそのまま手を握っていてください。技術班は不用意な独り言を控えるように」
技術班の職員が、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
エルは技術班の職員を見た。
「技術班さん、何も考えない時間、ほしい?」
技術班の職員は、心底困った顔になった。
「今は、エルさんが落ち着く時間が欲しいです」
エルはびくっとした。
「落ち着く時間」
「しまった」
副長が即座に言う。
「エル。これは職員さんの気遣いです。あなたの思考反映ではありません」
「気遣い」
「はい」
「気遣いは、偶然じゃない?」
「偶然ではありません」
エルは少しだけ頷いた。
「じゃあ、少し平気」
ロジーが小さく呟いた。
「今日の副長、通訳係みたい」
副長は微笑んだ。
「ロジー」
「はい、記録しません」
「今の返事も記録しないように」
「はい……」
やがて、ジェレミーが来た。
中庭の空気が、少しだけ落ち着く。
エルは隅っこから顔を出した。
「ジェレミー」
ジェレミーはエルを見る。
隅っこで半分だけ出ているエル。
レトの手を握っている。
ロジーの袖を掴んでいる。
少し震えている。
ジェレミーは一拍置いた。
「何をしている」
エルは淡々と言った。
「避難」
「何から」
「偶然」
中庭のどこかで、職員が小さく「えっ」と言った。
ジェレミーは表情を変えなかった。
「そうか」
副長が小さく言う。
「局長、納得しないでください」
ジェレミーはエルの前にしゃがんだ。
「魔法は漏れていない」
「ほんと?」
「測定上はな」
「測定できない漏れだったら?」
「私が止める」
「止め方、分かる?」
「分からなくても止める」
レトの目が輝いた。
「お兄さん、かっこいい……!」
ロジーが小声で言った。
「局長、理論より安心感で押した」
副長が答える。
「今はそれで十分です」
エルは、じっとジェレミーを見た。
「じゃあ、少し信じる」
ジェレミーは頷いた。
「それでいい」
エルは隅っこから、一歩だけ出た。
「検証する」
ジェレミーが言った。
「危険のないものにする」
「うん」
検証は中庭の隅で行われた。
なぜなら、エルが隅から完全には出たがらなかったからである。
エルは植え込みの近くに座る。
右手はレト。
左手はロジーの袖。
前にジェレミー。
横に副長。
周囲に魔力測定班、生活班、技術班、食堂班。
食堂班はなぜか保冷箱を持っている。
アイスが溶けるからである。
エルは小さく言った。
「白い花」
何も起きない。
「小さい鳥」
何も起きない。
「丸い石」
何も起きない。
「ふわふわの雲」
何も起きない。
「静かな風」
風は吹いているが、もともと吹いていた。
副長が確認する。
「空間変動なし。魔力漏出なし。願望呼応値、平常範囲」
エルは少しだけ肩の力を抜いた。
「出ない」
ジェレミーが頷く。
「出ていない」
エルはほっとした。
本当に、少しだけ。
それから、次の検証を口にした。
「……副長が、にゃーって言う」
中庭が静まり返った。
副長の笑みが止まる。
ロジーが即座に口を押さえる。
レトはものすごく真剣な顔で副長を見る。
ジェレミーは表情を変えない。
副長は静かに言った。
「エル」
「なに」
「検証対象として不適切です」
「危なくない」
「私の尊厳が危険です」
「でも、出なかったら、すごく安心する」
副長は黙った。
ジェレミーが言う。
「続行」
「局長」
「安全だ」
「私の尊厳以外は、ですね」
副長は言わない。
当然、言わない。
何も起きない。
エルは、副長をじっと見た。
副長は、完璧な姿勢で立っている。
にゃーとは言わない。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きない。
エルの顔に、少しだけ安心が戻った。
「出ない」
副長が頷く。
「出ません」
その瞬間。
中庭の端から、清掃ロボが現れた。
昨日、生活班が試験的にかわいい通知音に変更した機体だった。
芝生の端を掃除しながら、軽快に鳴る。
「ニャー」
エルの琥珀色の目が、限界まで見開かれた。
一拍。
完全な沈黙。
そして。
エルが叫んだ。
人間の言葉ではなかった。
旧世代言語だった。
しかも、今度だけは大声で、早口だった。
「KIAL!? KIAL NUN!? MI NE FARIS TION, MI NE DIRIS AL VI, ĈESU, HAZARDO, ĈESU TUJ!!!」
中庭全体が凍った。
職員たちは全員、硬直した。
レトは目を丸くした。
ロジーはデバイスごと固まった。
副長は笑顔のまま止まった。
ジェレミーだけが、静かに清掃ロボを見た。
エルは叫び終わると、すぐ我に返った。
そして、何事もなかったような小さな声に戻った。
「……今のは、びっくりした」
ロジーが震えながら言った。
「うん。今のは誰が見ても分かる」
レトも頷いた。
「エル、すごくびっくりしてた」
職員の一人が小声で言った。
「旧世代言語で怒られた清掃ロボ、初めて見ました」
副長が即座に言う。
「記録しないように」
ロジーのデバイスには、もう表示されていた。
清掃ロボ、旧世代言語で叱られる
ロジーは消した。
「消しました!」
「保存は」
「しました!」
「後で審査です」
エルはまた隅に戻った。
今度は完全に戻った。
膝を抱え、ぶるぶる震えている。
「にゃー、ずるい」
レトは清掃ロボに向かって真剣に言った。
「今のはだめだよ」
清掃ロボは床を掃除している。
副長が技術班を見る。
技術班の職員は、顔面蒼白で頭を下げた。
「直ちに通知音を戻します」
ジェレミーが言った。
「今すぐだ」
「はい」
清掃ロボは、技術班に回収された。
エルはそれを、隅っこから目だけで見送った。
「もう、にゃーしない?」
技術班の職員が深々と頭を下げる。
「しません」
「ほんと?」
「本当です」
「偶然じゃなくて、技術班さん?」
「はい。技術班です」
エルは少し考えた。
「じゃあ、偶然じゃない」
「はい」
「技術班さん、こわい」
技術班の職員が崩れ落ちそうになった。
「申し訳ありません……」
ロジーは腹を抱えて震えている。
「技術班、偶然より怖い判定された……!」
副長は咳払いした。
「エル。食堂へ移動しましょう。アイスが溶けます」
エルはびくっとした。
「アイス」
「はい」
「最初のやつ」
「最初のやつです」
「刺客?」
「違います」
ロジーが小声で言った。
「第一刺客、アイス」
副長が言う。
「ロジー」
「消します!」
食堂へ向かう間、エルはレトの袖を掴んでいた。
いつものエルなら、ふらっとどこかへ行く。
興味が引かれれば、列から抜ける。
見たいものがあれば、じっと観察する。
けれど今は違う。
レトの袖を掴み、ロジーの少し後ろを歩き、時々天井を見る。
清掃ロボがいないか確認している。
すれ違った職員が二度見した。
「えっ、エルさんがレトさんの袖を……?」
「しかも警戒してる」
「こんなエルさん、見たことない」
「かわ……いや、言わない方がいいな」
食堂に着くと、アイスの詰め合わせが並べられた。
レトはミルク味。
ロジーはベリー味。
エルは白いバニラ。
エルはアイスのカップを両手で持った。
しばらく見つめる。
「……追ってこない」
食堂班の職員が優しく言った。
「追ってきません」
「にゃーって言わない?」
「言いません」
「技術班さん、入ってない?」
「入っていません」
技術班の職員が遠くでまた傷ついた。
エルはスプーンで少しすくった。
口に入れる。
冷たい。
甘い。
溶ける。
エルは、目を少し細めた。
「……こわくない」
レトが笑う。
「よかった!」
ロジーが言う。
「アイスと和解!」
エルは小さく頷いた。
「和解した」
副長が言った。
「アイスと和解という表現は、正式記録には使いません」
ロジーが手を挙げる。
「非公式記録には?」
「審査します」
「やった!」
その日の正式記録には、こう残された。
エルさんにおける偶然連続認知による一時的情緒動揺事案。
旧世代魔法の漏出、願望呼応、空間改変、精神干渉、いずれも認められず。
主な要因、偶然。
副次要因、清掃ロボ通知音設定。
対応、測定、説明、レトさんおよびロジーさんの同席、アイス摂取。
備考、清掃ロボの猫型通知音は即日廃止。
非公式記録には、ロジーがこう書いた。
エル、甘いものに呼ばれる。
エル、アイスを警戒。
エル、毛布にも警戒。
エル、花壇の陰に避難。
エル、隅っこでぶるぶる。
エル、レトの手を握り返す。
エル、旧世代言語で清掃ロボに早口大声抗議。
エル、アイスと和解。
こんなエル見たことない。
副長に見つかり、公開範囲は即座に最小化された。
削除はされなかった。
理由は、副長も少しだけ見返したかったからである。
翌日。
廊下で職員が何気なく言った。
「偶然って怖いですよね」
エルは無言で、近くにいたレトの背中に隠れた。
レトはすぐに言った。
「大丈夫! 今のは会話!」
エルはレトの背中から、目だけを出した。
「……会話、時々こわい」
ロジーは横で震えながらデバイスを押さえた。
「だめ、記録したい……!」
副長は遠くから言った。
「ロジー」
「はい! 最小限!」
エルは、レトの背中から出てきて、小さく頷いた。
「偶然、今日は来なくていい」
その直後。
遠くで食堂班の職員が言った。
「今日はアイス、もうありませんよ」
エルは一瞬固まった。
それから、ほっとした顔で言った。
「……よかった」
レトが首を傾げる。
「よかったの?」
エルは真剣に頷いた。
「今日は、アイスとは会いたくない」
ロジーはついに耐えきれず、床にしゃがんで笑った。
その笑い声を聞いて、エルは少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「笑うところ?」
レトが笑顔で答える。
「たぶん、笑うところ!」
エルは少し考えた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、笑うところ」
そう言って、レトの袖をまだ少しだけ掴んだまま、廊下を歩いていった。




