第111話-こんにちは、皆殺しです
副長は隠密魔術のエキスパート。
そして、人殺しのエキスパート。
上位委員会の定例報告会は、予定より二十分早く終わった。
議題は多かった。
辺境宙域の神性存在兆候。
外部組織との共同戦線調整。
箱庭の娘たちの運用報告。
政治的衝突リスクのある星系への対応共有。
硝子玉の宇宙壁面の状態確認。
どれも軽い話ではない。
それでも、会議室を出たジェレミー・クリエットの表情はいつも通りだった。
冷たい。
静か。
無駄がない。
隣を歩く副長も、いつものように薄く笑っていた。
「珍しいですね、予定より早く終わるとは」
「老人たちも疲れていたんだろう」
「上位委員会を老人たちと呼ぶのは、あまり推奨されません」
「ここにはいない」
「そういう問題ではありませんね」
副長はそう言いながらも、止める気はなかった。
会議施設の外壁は、透明な星硝子でできている。
外には、静かな星々が見えた。
上位委員会の定例報告会場は、監理局本部ではない。
中立宙域に浮かぶ、政治用の巨大施設。
監理局の管轄ではあるが、完全な内側ではない。
だから本来なら、報告会が終わればすぐに帰還する。
だが、その日は少しだけ違った。
ジェレミーが、廊下の分岐で足を止めた。
「副長」
「はい」
「少し飲んでいく」
副長は一瞬だけ目を細めた。
「局長から寄り道の提案ですか」
「不満か」
「いえ。記録に残したい程度には珍しいと思っただけです」
「残すな」
「残しません」
二人は、会議施設の上層にあるラウンジへ向かった。
そこは静かな場所だった。
名前は、星のラウンジ。
壁も天井も、深い群青の星硝子で覆われている。
室内照明はほとんどなく、遠い星の光がそのまま床に落ちる。
テーブルは黒い石でできていて、グラスの影だけが淡く光る。
客は少ない。
上位委員会関係者が二名。
外務班の連絡員らしき人物が一名。
離れた席に、灰色の外套を着た男が一人。
誰も声を張らない。
グラスが置かれる音さえ、静かに沈む。
ジェレミーと副長は、窓際の席に座った。
注文は短かった。
ジェレミーは蒸留酒。
副長は香草酒を薄く割ったもの。
グラスが届くまで、二人はしばらく黙っていた。
やがて、副長が言った。
「今日の委員会は、箱庭の娘たちへの関心がまた増えていましたね」
「害はない」
「今は、でしょう」
「警戒はしている」
「ええ。ですから私も黙っていました」
副長はグラスを持ち上げ、星明かりに透かした。
淡い金色の液体が、静かに揺れる。
「特にレトの外部評価は上がりすぎています。戦力として見られるのは当然ですが、可愛がりたい目線が混じると厄介です」
「職員にもいる」
「局内のそれは管理できます」
「できているか?」
「おおむね」
ジェレミーは小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、副長はそれを笑いに近いものとして受け取った。
「局長。今、私を疑いましたね」
「少しな」
「失礼ですね。私は常に職務に忠実です」
「秘密基地の件もか」
「福利厚生施設です」
「秘密基地と書いてあった」
「現場の士気に関わる名称です」
「そうか」
二人の間に、ほんのわずかな緩みが生まれた。
監理局の中では、こういう時間は多くない。
ジェレミーは局長であり続ける。
副長は副長であり続ける。
命令。
報告。
判断。
承認。
責任。
その連続の中で、二人がただ同じテーブルにつく時間は、ひどく少なかった。
だから、副長は珍しく黙った。
仕事の話を続けることもできた。
軽口を重ねることもできた。
だが、その沈黙は悪くなかった。
ジェレミーがグラスに口をつける。
その瞬間だった。
副長より先に、ジェレミーが動いた。
星硝子の窓が弾ける前に。
音が届く前に。
ラウンジの空気に、ごく細い殺意が差し込んだ瞬間、ジェレミーの右手は外套の内側へ沈んでいた。
銃を抜く。
椅子に座った姿勢のまま。
肩をほとんど動かさず。
グラスを持つ左手を落としながら。
右手だけが、異常な速度で軌道を描く。
ハンドガンの銃口が、窓ではなく、空中の一点を向いた。
副長の視界に、弾丸が見えた。
実際には、見えたというより、ジェレミーが狙ったことで位置が分かった。
飛来する弾丸。
星硝子を貫通するために、反射防止術式を食う特殊弾。
弾体の外側に、魔力反応を散らす薄膜が巻かれている。
通常の防御術式を無視し、着弾直前まで存在を薄くする作り。
狙撃手はやり手だった。
ラウンジ内の照明。
星硝子の屈折率。
ジェレミーの座席位置。
副長との会話の間。
グラスを持ち上げる瞬間の胸郭の開き。
すべて計算されていた。
だが、ジェレミーはそれより速かった。
銃声。
ラウンジにいた者たちは、狙撃音とジェレミーの銃声を区別できなかった。
二つの弾丸が、空中でぶつかった。
正確には、完全にはぶつからなかった。
ジェレミーの弾丸が、飛来弾の側面を削る。
星のような火花が散った。
特殊弾の術式膜が裂ける。
弾道がずれる。
本来ならジェレミーの心臓へ向かっていた弾丸が、わずかに角度を変える。
失敗。
ほんの少しだけ。
それでも、普通ならあり得ない迎撃だった。
弾丸を銃で撃つ。
それも、椅子に座ったまま、飲む直前の姿勢から、反射だけで。
だが、その少しの失敗が、結果を変えた。
弾丸は完全には逸れない。
ジェレミーの左脇腹に着弾した。
椅子の背が軋む。
グラスが割れる。
蒸留酒が黒い石のテーブルに広がる。
副長は立ち上がらなかった。
目だけが動いた。
ジェレミーの左脇腹。
外套の内側。
血。
次に、弾道。
星硝子の穿孔角。
ジェレミーの迎撃弾が削った跡。
反射防止術式の破れ方。
飛来弾の残留魔力。
発射位置。
遠距離狙撃ではない。
施設内。
ラウンジ外周の保守通路。
二重遮蔽の向こう側。
副長がそこまで理解するのに、一秒もかからなかった。
ラウンジの客が遅れて悲鳴を上げる。
警備術式が展開する。
上位委員会関係者が席を蹴って伏せる。
外務班の連絡員が通信端末に手を伸ばす。
ジェレミーは、倒れなかった。
椅子の背に片肘をつき、片手で傷口を押さえている。
表情は変わらない。
痛みはあるはずだった。
出血もある。
弾は貫通していない。
迎撃で軌道が逸れたとはいえ、着弾した事実は変わらない。
それでも、ジェレミーは平然としていた。
「私も鈍ったものだな」
そう言って、彼は自分の外套を裂いた。
内側に仕込んでいた応急止血材を取り出し、片手で傷口へ押し込む。
圧迫。
固定。
出血量の確認。
呼吸の調整。
副長はそれを一瞥した。
ほんの一瞥。
ジェレミーは生きている。
意識はある。
呼吸は乱れていない。
止血処置も自分でできる。
なら、次にすることは決まっていた。
「局長」
「行け」
ジェレミーは言った。
命令としてではなかった。
確認としてでもなかった。
当然の処理として。
副長は、薄く笑わなかった。
「承知しました」
次の瞬間、副長は消えた。
比喩ではない。
そこにいたはずの金髪の男が、視界から、気配から、魔力感知から、空間の圧から、記録術式の認識から、完全に抜け落ちた。
ラウンジの警備術式は、副長の退室を検知しなかった。
床に足音は残らない。
空気は揺れない。
誰も、彼がどちらへ向かったのか分からなかった。
ただ、ジェレミーだけが、傷口を押さえながら小さく言った。
「やりすぎるなよ」
その声は、誰にも届かなかった。
届いたとしても、副長は止まらなかった。
副長は、保守通路の天井裏にいた。
狙撃手はすでに動いている。
灰色の保守服。
顔面偽装。
魔力反応偽装。
武装は折り畳み式の短銃。
弾丸は反射防止術式を食う特注品。
さらに、撃った直後に銃身内部を焼き切る自壊機構つき。
相手は素人ではない。
上位委員会施設の内部構造を知っている。
保守通路の巡回間隔を知っている。
監理局局長が会議後に短時間だけ護衛を薄くする瞬間を知っている。
そして何より、ジェレミーが弾丸に反応する可能性まで想定していた。
弾体が二層構造だった。
中心弾を覆う外殻は、迎撃された時に砕けて軌道を乱すためのもの。
完全に止められなければ、内部弾だけが残って進む。
ジェレミーは、その内部弾の軌道まで逸らした。
だから脇腹で済んだ。
だが、敵もやり手だった。
局長を殺すために、局長が強いことを前提に設計していた。
それが、副長の怒りをさらに冷たくした。
狙撃手は無駄な動きをしなかった。
発射後、銃身を分解。
魔力残滓を中和。
弾殻を回収。
保守服の外装を反転。
通路奥の非常搬送リフトへ向かう。
副長は、その真横を歩いていた。
同じ通路。
同じ速度。
肩が触れそうな距離。
だが狙撃手は気づかない。
監視術式も気づかない。
熱感知も、生命反応検知も、魔力追跡も、空間圧の差異も、副長を捉えない。
怒りが、副長を冷静にしていた。
普段の副長の隠密魔術は、美しい。
薄く笑い、冗談を言い、余裕を残したまま、必要なだけ姿を隠す。
職員たちの前では、少し遊びを残すこともある。
敵の前でも、相手に「自分は見逃された」と思わせる隙を作ることがある。
だが、今は違った。
遊びがない。
余白がない。
副長の魔術は、刃物のように研ぎ澄まされていた。
彼はそこにいる。
だが、世界が彼を記録しない。
空間が、彼を通行人として認識しない。
床が、彼の重量を覚えない。
空気が、彼の呼吸を残さない。
魔力が、彼の輪郭を語らない。
それは、隠れるというより、存在の署名を一時的に畳む技術だった。
狙撃手がリフトに乗る。
副長も乗った。
狭い箱の中。
狙撃手は首元の通信具に触れた。
「失敗。対象は生存。だが命中した」
通信先から声が返る。
『迎撃されたか』
「された。予測通り。ただし外殻は機能した」
『追跡は?』
「ない」
副長は、狙撃手の背後で目を伏せた。
追跡はある。
お前の後ろにいる。
だが、まだ殺さない。
リフトが下層格納庫に着く。
狙撃手は整備員に紛れ、施設外周の小型連絡艇へ向かった。
その途中で、狙撃手が一度だけ足を止めた。
通路の角。
何もない空間。
狙撃手は、何かを感じ取ったらしい。
首の後ろに薄い金属板が浮き上がる。
対隠密用の感知器。
微弱な空間の歪みを拾う装置。
やはり、やり手だった。
副長は止まらなかった。
狙撃手の視線が背後へ向くより早く、副長は半歩だけ前へ出る。
感知器が拾おうとした空間の歪みを、自分ではなく狙撃手の足元へ流す。
警告灯が、狙撃手自身の真下で点滅した。
「誤作動か」
狙撃手が小さく舌打ちする。
副長は、彼のすぐ隣を通り過ぎた。
狙撃手は気づかない。
気づけない。
連絡艇は、上位委員会施設の正規船ではなかった。
船籍偽装。
外交貨物登録。
遮蔽術式搭載。
外装は民間輸送艇。
内部は逃走用に改造済み。
副長は、狙撃手のすぐ後ろから乗り込んだ。
扉が閉まる。
連絡艇が発進する。
船内には、狙撃手を含めて三名。
操縦士。
通信士。
狙撃手。
誰も副長に気づかない。
だが、船は副長を想定していた。
発進から四十秒後、船内に白い霧が流れた。
魔力反応を可視化する粒子。
空間歪曲を輪郭化する微細粉。
生体の呼吸に付着し、見えない者の形を浮かせるためのもの。
副長は、その霧を見た。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
敵は、追跡がないと報告しながらも、追跡がある可能性を捨てていない。
優秀だった。
副長の足が、床から離れる。
浮いたわけではない。
床に触れているという事実だけを、少し横へずらした。
霧は副長の身体に触れない。
彼の輪郭を描くはずだった粒子は、船内の空調に巻かれ、何もない壁際へ流れていく。
通信士がモニターを見る。
「反応なし」
操縦士が答える。
「念のため、二段階目」
天井から、青白い格子が降りた。
船内全域を薄く走査する魔術格子。
隠密魔術師の位置を焼き出すための網。
副長は笑わなかった。
ただ、上体をわずかに傾ける。
格子の線が、髪一本分の距離を通過する。
次の線が、首元を通る前に、彼は肩を開く。
三本目が胸を掠める直前、身体の軸を滑らせる。
踊っているようだった。
狭い船内。
天井は低い。
座席と機材が並び、逃げ場はほとんどない。
その中で副長は、一度も格子に触れない。
足音もなく。
衣擦れもなく。
呼吸も乱さず。
優雅に、正確に、死角から死角へ移っていく。
狙撃手が眉をひそめた。
「……本当にいないのか?」
通信士が言う。
「反応なし」
「ならいい」
狙撃手はそう言ったが、完全には安心していなかった。
副長はその警戒心を評価した。
だから、まだ殺さない。
船が施設から離れる。
星のラウンジが遠ざかる。
ジェレミーが撃たれた場所が、小さな光になる。
副長は窓の外を見なかった。
見れば、戻ってしまうかもしれなかったからだ。
局長の傷を確認するために。
医療班への引き渡しを見るために。
あの人が本当に平然としているのか、自分の目で確かめるために。
だが、それは副長の仕事ではなかった。
今の仕事は、追跡。
敵の根までたどること。
証拠を押さえること。
逃げ道を数えること。
指揮系統を特定すること。
そして。
殺すこと。
「局長を撃った」
副長は声に出さず、ただ唇の内側で言葉を作った。
「局長を撃った」
その事実だけが、頭の中で冷たく反復された。
怒鳴りたいわけではない。
泣きたいわけでもない。
震えるわけでもない。
副長の怒りは、熱ではなかった。
青白く冷えた、硬い殺意だった。
連絡艇は、三度の短距離跳躍を挟んだ。
一度目は民間航路。
二度目は廃棄衛星帯。
三度目は、登録されていない暗礁宙域。
副長はすべて記録した。
目で見たわけではない。
視界は必要ない。
船体の震動。
魔力炉の脈動。
跳躍座標の癖。
通信士の指の動き。
操縦士が確認した古い航路図。
狙撃手の呼吸の乱れ。
それだけで十分だった。
やがて、連絡艇は小惑星の影に入った。
そこに基地があった。
岩塊の内側をくり抜いた、隠蔽型の拠点。
外から見れば、ただの採掘跡。
内部には格納庫、通信室、武器庫、居住区、会議室、訓練場。
規模は中程度。
ただし、設備は新しい。
資金がある。
支援者がいる。
一度きりの暗殺部隊ではない。
敵性組織。
監理局を狙う意思を持つ、組織だった敵。
連絡艇が格納庫に着く。
副長は、最後に降りた。
誰にも見えないまま。
格納庫内には、武装した者が十二名。
整備員を装っているが、全員が訓練済みだった。
壁際に制圧具。
天井に偽装砲台。
床には薄い感圧結界。
空中には、肉眼では見えない警戒糸。
出入口は三つ。
それぞれに隔壁と手動遮断装置。
副長は殺せた。
その場にいる全員を、一呼吸で殺せた。
首筋。
心臓。
脳幹。
魔力炉制御。
呼吸中枢。
彼の微小魔力針なら、音もなく終わる。
だが、まだ殺さない。
本拠地で殺す。
証拠保全の後に殺す。
狙撃手は格納庫を抜け、奥の会議室へ向かった。
副長はついていく。
途中、彼は手を一度だけ振った。
見えない魔力針が、壁面端末に触れる。
破壊ではない。
干渉でもない。
端末の表面に残った操作履歴を、保全するための固定。
次に、通信室前を通る。
副長は足を止めない。
だが、魔力だけが部屋の中へ滑り込む。
送信記録。
暗号鍵。
支援元。
資金経路。
上位委員会施設の保守通路図。
ラウンジの席配置。
ジェレミーの会議後動線。
監理局内部の公開資料を改竄した痕跡。
すべて固定する。
消されないように。
改竄されないように。
後から監理局が正式に押収できるように。
副長は怒っていた。
だが、手順を飛ばさない。
怒っているからこそ、完璧だった。
会議室の扉が開いた。
中には五人いた。
狙撃手。
組織の現場指揮官。
通信担当の女。
資金管理役。
そして、中央の椅子に座る男。
黒い長衣。
白い手袋。
銀色の杖。
男は、狙撃手を見て眉を動かした。
「失敗か」
狙撃手は膝をついた。
「命中しました。ですが、対象は即死していません」
「ジェレミー・クリエットは化け物か」
資金管理役が吐き捨てる。
「監理局の局長だ。そう簡単には死なん」
中央の男は、指で机を叩いた。
「問題ない。負傷させたなら十分だ。監理局は混乱する。副長は局長の補佐に戻る。箱庭の娘たちは本部へ縛られる。第二班を動かせ」
副長の目が、わずかに細くなった。
第二班。
まだある。
中央の男は続けた。
「次は情報班の小さい記録係だ。頭上の端末を奪えば黙ると報告にあった」
副長の中で、何かが音もなく落ちた。
ロジー。
通信担当の女が端末を見る。
「レトについては?」
「単騎戦力としては危険すぎる。正面から潰すな。育ての親を失えば情緒が崩れる。そこを使う」
「エルは?」
中央の男は少しだけ笑った。
「外部向け資料では特殊な箱庭の娘だ。詳細は不明だが、接触制限があるなら弱点もある。人質、願望、混乱。監理局が隠すものほど、使い道がある」
副長は、そこで初めて息を吐いた。
非常に静かに。
誰にも聞こえない。
だが、空間だけがその息を覚えた。
証拠は足りた。
局長暗殺未遂。
監理局中枢への継続攻撃計画。
箱庭の娘たちへの攻撃計画。
上位委員会施設情報の不正取得。
武装拠点。
指揮系統。
資金経路。
第二班の存在。
十分だ。
だからこそ、副長はすぐには殺さなかった。
暗殺なら、この瞬間で終わっていた。
狙撃手の喉。
中央の男の脳幹。
通信担当の指先。
資金管理役の心臓。
現場指揮官の魔力循環。
同時に止められる。
誰にも姿を見せず、誰にも声を聞かせず、敵の中枢だけを沈黙させることはできる。
その方が速い。
その方が安全だ。
その方が、副長の得意分野でもある。
だが、それでは足りなかった。
敵は、隠れて撃った。
名乗らず、責任を持たず、証拠を消し、監理局の混乱を利用し、箱庭の娘たちの情緒を壊す計画を立てた。
同じ方法で殺せば、それはただの闇討ちになる。
監理局が、誰を、何の権限で、何の理由で処理したのかが、敵の認識に残らない。
生き残る者がいても、そこに残るのは恐怖だけだ。
恐怖は使い道がある。
だが、監理局の仕事は恐怖を撒くことではない。
監理局は正義の組織ではない。
だが、責任を持つ組織である。
殺すなら、監理局として殺す。
処理対象に、越えた線を理解させる。
証言者に、監理局が何を理由に介入したのかを残す。
敵が最後に切る札を表に出させ、隠し武装、隠し術式、第二班への命令経路、自爆手段、すべてを記録に固定する。
姿を見せるのは、怒りの演出ではない。
通告だった。
処理権限の提示だった。
そして、最後の監査だった。
副長は、会議室の中央に立った。
隠密魔術を解除する。
空間が、彼を思い出した。
最初に気づいたのは狙撃手だった。
目を見開く。
声を上げようとした。
だが、声は出なかった。
副長の微小魔力針が、喉のすぐ横に浮いていた。
刺してはいない。
まだ。
中央の男が椅子から立ち上がる。
「誰だ」
副長は答えなかった。
一歩、前へ出る。
金髪。
細身の長身。
整った顔立ち。
いつもなら薄い笑みを浮かべている男。
だが今、その顔に笑みはなかった。
上品さは残っている。
姿勢も美しい。
声も荒れていない。
だからこそ、異様だった。
副長は静かに言った。
「惑星監理局、監理班副長」
会議室の空気が凍った。
通信担当の女が即座に端末へ手を伸ばす。
その指が止まる。
手首のすぐ上に、透明な針が一本浮いていた。
あと一ミリ動けば貫く。
資金管理役が腰の短杖に触れようとする。
その短杖が、机の上で粉々に割れた。
副長は続けた。
「証拠保全は完了しました」
中央の男の顔色が変わる。
「何を」
「あなた方の発言。通信記録。資金経路。施設構造。第二班の計画。上位委員会施設から盗んだ情報。すべてです」
「貴様、いつから」
「局長が撃たれた直後から」
狙撃手が震えた。
「そんなはずはない。追跡は」
「ありました」
副長は言った。
「あなたの後ろに、ずっと」
誰も動けなかった。
副長の魔力が、会議室の中に満ちていく。
派手な光はない。
炎もない。
轟音もない。
ただ、空気の中に無数の細い針がある。
透明で、微細で、冷たい。
触れれば終わる。
避けようとしても、どこにあるか分からない。
中央の男は杖を握りしめた。
「我々を殺せば、監理局は」
副長が一歩近づいた。
「勘違いしないでください」
声は、穏やかだった。
「私は今、交渉に来たのではありません」
「なら、なぜ姿を見せた」
中央の男は、絞り出すように言った。
「殺せるなら、隠れたまま殺せばいいだろう」
副長は、そこで初めて男を真正面から見た。
「ええ。できます」
静かな肯定だった。
「ですが、それではあなた方が、自分たちを何に殺されたのか理解しない」
会議室の空気が、さらに冷えた。
「あなた方は局長を撃った。監理局の中枢を破壊しようとした。ロジーのデバイスを奪い、レトの情緒を壊し、エルを利用する計画を立てた」
一つずつ、逃げ道を塞ぐように言う。
「これは私怨ではありません。報復でもありません。監理局としての処理です」
副長の周囲に浮かぶ針が、わずかに光を拾った。
「ですから、名乗りました」
誰も返せない。
「あなた方は、誰に殺されるのかを知る必要がある」
副長は、静かに告げた。
「そして、生き残る証言者は、それを正確に証言する必要がある」
その言葉で、通信担当の女の顔が青ざめた。
自分が殺されない可能性を悟ったからではない。
生かされる理由を理解したからだ。
副長は視線を外さない。
「暗殺なら、あなた方は私を見ないまま死んでいました」
天井の砲台が展開しかける。
すべての砲身が、根元から切断された。
壁の隠し術式が起動しかける。
術式核だけが正確に潰された。
廊下の武装兵が異常を察知して走り出す。
扉の向こうで、十二人分の気配が止まった。
倒れる音がした。
一つ。
二つ。
三つ。
声はない。
銃声もない。
副長は視線すら向けなかった。
「今回は暗殺ではない」
会議室の照明が、わずかに揺れた。
「監理局による、敵性組織中枢の排除です」
一拍。
それから、副長は薄く笑った。
笑みと呼べるほど温度のあるものではなかった。
「あなた方の言葉で言うなら、虐殺でしょう」
現場指揮官が動く。
副長が言い終えるより早く、彼は机を蹴って横へ跳んでいた。
同時に、会議室の床が反転する。
黒い板状の防御結界が、五枚。
副長と中央の男の間へ重なる。
通信担当の女が端末ではなく、袖口の針を折る。
会議室の壁面に、対隠密用の光が走る。
狙撃手は喉元の針を避けるため、あえて自分の肩を撃った。
衝撃で身体を後ろへ飛ばし、針の間合いから抜ける。
資金管理役は短杖を失った瞬間、椅子の下の小型術式盤を踏んだ。
会議室全体に、拘束術式が広がる。
やり手だった。
ただ殺されるだけの連中ではなかった。
副長は、そこで初めて薄く笑った。
「よろしい」
次の瞬間、会議室が戦場になった。
狙撃手の二発目が来る。
今度はジェレミーを狙った弾とは違う。
近距離用の散開弾。
撃った瞬間に十二の細片へ分裂し、それぞれが違う角度から対象の関節を狙う。
副長は前へ出た。
後ろではない。
逃げるのではなく、弾丸の散開前の中心へ踏み込む。
右手を軽く振る。
透明な針が三本、空中で弾丸の外殻を叩いた。
散開のタイミングが半拍ずれる。
十二の細片は、副長の身体を避けるように左右へ流れ、背後の壁へ突き刺さる。
副長はそのまま、机の上へ片足を乗せた。
現場指揮官が接近する。
短い刃。
魔術で強化した身体。
速い。
踏み込みが鋭い。
刃筋が低い。
副長の喉ではなく、膝裏を狙っている。
隠密魔術師は機動を潰せば弱る。
そう判断している。
正しい。
副長は刃を避けなかった。
踵で机を軽く叩く。
机の表面に固定していた記録保全の魔力が、一瞬だけ跳ねる。
それを足場にして、副長の身体が真横へ滑った。
まるで床が水になったように。
現場指揮官の刃が空を切る。
副長はすれ違いざま、彼の肩に指先を添えた。
刺さる。
微小魔力針が一本。
致命傷ではない。
だが、右腕の魔力循環だけが落ちる。
現場指揮官は即座に左手へ刃を持ち替えた。
判断が早い。
副長は、さらに一歩引く。
通信担当の女が壁面の術式を起動した。
対隠密の光が、格子状に走る。
部屋の中にある見えないものを焼き出す光。
副長の隠密魔術を無力化するためのもの。
光が走った瞬間、副長の輪郭が薄く浮いた。
敵の全員が、そこを狙う。
狙撃手の銃。
現場指揮官の刃。
資金管理役の拘束術式。
中央の男の杖。
四方向から同時。
副長は消えなかった。
消えられない。
対隠密の格子が、彼を世界に縫い止めていた。
ならば、消えずに戦うだけだった。
副長は外套を翻した。
外套の内側から、細い銀糸のような魔力線が広がる。
それは防御ではない。
針の軌道だった。
無数の微小魔力針が、銀糸の上を滑るように走る。
狙撃手の弾丸を、横から叩く。
現場指揮官の刃を、刃元でずらす。
拘束術式の輪を、閉じる前に切る。
中央の男の杖先に集まった魔力を、薄く削る。
一つ一つは小さい。
だが、すべてが正確だった。
敵の攻撃は崩れない。
副長も崩れない。
会議室の机が砕ける。
椅子が跳ねる。
壁に細い裂け目が走る。
天井の照明が瞬く。
副長は、その破片の間を歩く。
走らない。
跳ばない。
ただ、歩いているように見える。
しかし一歩ごとに、位置が変わる。
右にいると思えば、左にいる。
前に踏み込んだと思えば、相手の背後にいる。
下がったと思えば、杖の内側に入り込んでいる。
完全な隠密ではない。
見えている。
見えているのに、追いつけない。
現場指揮官が叫ぶ。
「床を落とせ!」
資金管理役が術式盤を踏み抜いた。
会議室の床が割れる。
下は訓練区画へ続く吹き抜け。
敵は落下戦を想定していた。
床を失えば、隠密魔術師の足場は消える。
針の配置も崩れる。
上下から撃てる。
副長は落ちた。
敵も落ちた。
砕けた床板と机の破片が、暗い吹き抜けを降っていく。
その中で、戦闘が続いた。
狙撃手は落下しながら身体を回転させ、銃を撃つ。
副長は破片を蹴る。
足場にもならない小さな石片を、正確に踏む。
一歩。
銃弾を避ける。
二歩。
落下する椅子の脚を蹴って進路を変える。
三歩。
狙撃手の銃口の真上に出る。
狙撃手は銃を捨てた。
即座に袖から短刃を出す。
接近戦もできる。
副長はその短刃を、指二本で受け流した。
刃が副長の頬をかすめる。
薄く血が滲む。
初めて、副長に傷がついた。
狙撃手の目が光る。
「見えた」
副長は答えた。
「ええ」
次の瞬間、狙撃手の視界から副長が消えた。
完全な隠密ではない。
狙撃手の瞬きの裏へ入っただけ。
人間の視線が切り替わる、そのわずかな遅れ。
副長はそこへ滑り込んだ。
狙撃手の背後に出る。
首筋に針。
今度は止めない。
狙撃手は、落下の途中で力を失った。
副長はその身体を蹴り、軌道だけを変えた。
証拠として回収できる場所へ落とすために。
現場指揮官が下から来る。
壁を蹴り、身体強化で跳ね上がってくる。
左手の刃。
膝蹴り。
肩からの体当たり。
副長は外套を片手で払う。
布が刃を包む。
普通なら切られる。
だが外套の内側には、微小針が縫い込まれるように走っていた。
刃の軌道が止まる。
現場指揮官は刃を捨てた。
拳に切り替える。
重い。
副長の胸元を狙う一撃。
副長は半身で避ける。
完全には避けきれない。
拳が肩をかすめ、外套が裂ける。
その瞬間、副長の膝が現場指揮官の腹部に入った。
軽く見えた。
だが、打点は正確だった。
呼吸が止まる。
魔力循環が乱れる。
身体強化が一瞬だけ落ちる。
その一瞬で十分だった。
副長の針が、現場指揮官の両肩、両膝、首元へ浮く。
「優秀でした」
副長は言った。
「ですが、ここまでです」
針が沈む。
現場指揮官は、声もなく落ちた。
通信担当の女はまだ生きていた。
彼女は落下しながら端末を抱え、救難信号ではなく、証拠消去の命令を打っていた。
副長は、指を鳴らす。
音は小さい。
だが、空中に固定していた魔力針が一斉に向きを変える。
通信担当の端末の周囲に、透明な檻ができる。
女の指が端末に届かない。
副長はその横を落ちながら通過し、端末だけを抜き取った。
女は叫んだ。
「返せ!」
「証拠品です」
「化け物!」
副長は答えなかった。
彼女は殺さない。
証言者にする。
代わりに、意識だけを落とした。
落下の終わりが近づく。
下層の訓練区画。
副長は空中で身体を反転させた。
床まで十メートル。
五メートル。
二メートル。
針が床に刺さる。
細い魔力線が張る。
副長の身体が、その線に沿って減速した。
靴底が、音もなく床に触れる。
外套が遅れてふわりと落ちた。
その直後。
中央の男が落ちてきた。
銀色の杖を振り、落下衝撃を防御結界に変えている。
無様ではない。
彼もまた、戦場慣れしていた。
床に降りた瞬間、男は杖を突いた。
訓練区画の壁が開く。
格納されていた自動砲台が六基。
拘束鎖が八本。
天井から対人術式の黒い輪。
副長は、それを見て言った。
「準備がいい」
「貴様のような手合いが来ることは想定していた」
中央の男は荒い息を吐きながら笑った。
「監理局の副長。局長の影。隠密魔術師。暗殺者。貴様を殺せば、監理局は片腕を失う」
副長は首を傾げた。
「私は片腕ではありません」
「何?」
「副長です」
その言葉と同時に、砲台が撃った。
六方向。
副長は前へ出る。
砲撃の間を抜ける。
一発目を肩の傾きで避ける。
二発目を外套で軌道だけ逸らす。
三発目は床を蹴って跳ぶ。
四発目は微小針で起爆点を潰す。
五発目は、落ちていた机の天板を蹴り上げて盾にする。
六発目は、あえて頬の横を通す。
熱が髪を揺らした。
副長の金髪が、数本だけ焼ける。
それでも彼は止まらない。
拘束鎖が来る。
副長の足首へ。
手首へ。
首へ。
彼は身体を沈めた。
鎖が空を切る。
一本を掴む。
そのまま引く。
鎖の根元にあった射出機が、壁から引き剥がされる。
副長はそれを回転させ、砲台の一基へ叩きつけた。
砲台が爆ぜる。
残り五基。
男が杖を掲げる。
黒い輪が降りる。
精神干渉ではない。
肉体拘束でもない。
魔力の流れそのものを鈍らせる輪。
隠密魔術師には効く。
副長の足が、一瞬だけ重くなった。
男が笑う。
「止まったな」
「少しだけです」
副長は右手を上げた。
訓練区画に散っていた破片が、同時に浮いた。
会議室の机。
椅子の脚。
砕けた床材。
折れた刃。
狙撃手の銃の残骸。
砲台の破片。
それら一つ一つに、副長の微小針が刺さっていた。
ただの破片ではない。
すべてが、配置済みの刃だった。
副長が指を下ろす。
破片が舞った。
それは嵐ではない。
乱雑な投擲でもない。
舞踏のような軌道だった。
砲台の照準器を砕く。
拘束鎖の根元を切る。
黒い輪の支点を断つ。
男の杖の周囲を削る。
逃げ道を塞ぐ。
敵は強い。
準備もしている。
対策もある。
連携もできる。
だが、副長はその上を行った。
隠れて殺すだけの男ではない。
見えていても、なお届かない。
男は杖を両手で握った。
最後の術式。
爆破。
訓練区画ごと吹き飛ばす自爆術式。
証拠も、死体も、侵入者も、自分自身も消すつもりだった。
だが、発動しない。
杖の中心に、副長の針が刺さっていた。
術式核だけを貫き、出力経路を殺している。
男の顔が歪む。
「いつ」
「最初に名乗った時です」
副長は近づく。
砲台は沈黙している。
鎖は落ちている。
黒い輪は砕けている。
部下たちは倒れている。
中央の男だけが残った。
「待て」
男の声が裏返る。
「情報を出す。支援者も話す。上位委員会内の協力者も」
「結構です。もう記録しました」
「取引を」
「ありません」
「監理局は正義ではないのか」
副長の表情が、わずかに動いた。
それは怒りではなかった。
侮蔑でもなかった。
ただ、ひどく冷めた顔だった。
「ええ」
副長は言った。
「監理局は正義の組織ではありません」
針が浮く。
透明な一点が、男の額の前に止まる。
「だから、必要なら殺します」
男は杖を捨て、素手で副長へ掴みかかった。
最後まで抵抗した。
それだけは認められる。
副長は半歩だけ横へずれた。
男の腕を取り、体勢を崩す。
足を払う。
床へ落とす。
首元に膝を置く。
華麗で、無駄がなく、冷たかった。
「終わりです」
針が沈んだ。
男は動かなくなった。
訓練区画は、静かになった。
副長は立ち上がる。
外套は裂れている。
頬には浅い傷。
肩にも打撲がある。
髪も少し焼けている。
だが、姿勢は崩れない。
彼は周囲を見渡した。
死んだ者。
戦闘不能の者。
証言用に生かされた者。
副長は無差別には殺していない。
だが、敵性戦力として武器を持ち、監理局中枢と箱庭の娘たちを攻撃対象に含めていた者は、ほとんどが残らなかった。
それを副長は、虐殺と呼んだ。
正確な作戦名ではない。
報告書に書く言葉でもない。
ただ、副長自身が、自分の中でそう呼んだ。
暗殺ではない。
制圧でもない。
報復でもない。
手順を守った殺害。
証拠を残した殲滅。
監理局の副長として、怒りを職務に変換した結果。
副長は通信室へ向かった。
生き残らせた通信士が、壁際で震えていた。
副長はその前にしゃがむ。
「第二班の停止命令を出しなさい」
通信士は何度も頷いた。
「出します。出しますから」
「嘘を混ぜれば分かります」
「混ぜません」
「よろしい」
通信士の手は震えていた。
だが、副長は急かさなかった。
急がせて誤入力されると面倒だからだ。
送信が終わる。
監理局本部から、数秒遅れて返信が入った。
第二班、監理局戦闘班により確保。
外部協力者、拘束開始。
上位委員会施設、内部調査へ移行。
ジェレミー局長、医療班処置中。意識あり。生命危機なし。
副長は、その最後の一行を見た。
意識あり。
生命危機なし。
そこで初めて、指先が少しだけ動いた。
震えではない。
緩んだだけだった。
副長は通信士に背を向ける。
「あなたは証言者です。生きてください」
通信士は床に座り込んだ。
副長は格納庫へ向かった。
監理局の強襲艇が、すでに到着しつつあった。
さすがに早い。
戦闘班、情報班、外務班、監理班。
それぞれの対応部隊が、黒い船体を連ねて小惑星拠点を包囲する。
副長は、それを見ながら外套の袖を整えた。
乱れてはいる。
汚れてもいる。
頬には血がある。
だが、笑みだけが戻らなかった。
最初に格納庫へ入ってきた戦闘班長が、副長を見て足を止めた。
「副長」
「証拠保全済みです。通信室、会議室、武器庫、資金管理室を優先してください。生存者は三名。証言価値あり。抵抗者はもういません」
戦闘班長は、周囲を見た。
そして、余計なことを聞かなかった。
「了解」
情報班主任も来た。
端末を開き、保全済み記録へ接続する。
「……完璧ですね」
「当然です」
「ロジーが見たら騒ぎますよ」
その名前が出た瞬間、副長の目が少しだけ細くなった。
情報班主任は口を閉じた。
副長は静かに言った。
「ロジーには見せないでください。少なくとも、全記録は」
「承知しました」
「レトにも」
「当然です」
「エルにも、必要範囲だけ」
「はい」
副長は頷いた。
彼は殺した。
だが、箱庭の娘たちにそのまま見せる必要はない。
レトに、局長を撃たれた瞬間を見せる必要はない。
ロジーに、デバイスを奪う計画を読ませる必要はない。
エルに、人間が自分を利用する言葉を聞かせる必要はない。
大人が処理するべきものがある。
そのために、監理局の大人たちはいる。
副長は強襲艇に乗った。
帰還先は、監理局本部ではない。
医療船だった。
ジェレミーは、処置室のベッドに座っていた。
横になっていない。
医療班主任が明らかに不満そうな顔をしている。
「局長、せめて背もたれを使ってください」
「不要だ」
「必要です」
「報告を聞いてからだ」
「報告は寝ても聞けます」
「副長が戻る」
医療班主任は深く息を吐いた。
「だから座って待つ、という理屈が分かりません」
その時、処置室の扉が開いた。
副長が入る。
医療班主任が振り向き、表情を少しだけ強張らせた。
副長の外套は裂れている。
頬に傷がある。
肩の布地も焦げている。
だが、彼はいつものように背筋を伸ばしていた。
ジェレミーは副長を見た。
「終わったか」
「はい」
「証拠は」
「保全済みです。支援経路、内部協力者、第二班、すべて監理局へ引き渡しました」
「殺したか」
「はい」
「どれだけ」
副長は一拍置いた。
「必要なだけ」
ジェレミーは、副長の顔を見た。
長い沈黙。
医療班主任は口を挟まなかった。
副長も視線を逸らさなかった。
ジェレミーが言った。
「怒ったな」
副長は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
その返答は短かった。
言い訳もない。
正当化もない。
冗談もない。
ジェレミーは傷口に手を置いた。
包帯の下から、まだ痛みはあるはずだった。
それでも声は平然としていた。
「私は死んでいない」
「はい」
「この程度で死ぬ気もない」
「存じています」
「なら、戻れ」
副長の眉がわずかに動いた。
「戻る、とは」
「副長に戻れ」
処置室が静かになる。
ジェレミーは続けた。
「今のお前は、まだ殺しにいる」
副長は何も言わなかった。
「処理は終わった。敵は死んだ。証拠は残った。第二班も止まった。監理局は動いている」
「はい」
「なら、戻れ」
副長は、ゆっくり息を吸った。
そして、吐いた。
表情に、ほんの少しだけ人間の疲れが戻る。
薄い笑みはまだ戻らない。
だが、冷えきった殺意は、少しだけほどけた。
「……承知しました、局長」
ジェレミーは頷いた。
「医療班主任」
「はい」
「副長も検査しろ」
副長が顔を上げる。
「私は軽傷です」
医療班主任は即答した。
「身体と精神負荷、両方です」
「不要です」
「必要です」
副長はジェレミーを見た。
ジェレミーは平然と言った。
「命令だ」
副長は数秒沈黙した。
そして、ようやく、ほんの少しだけ笑った。
いつもの薄い笑みには遠い。
だが、それは確かに副長の表情だった。
「局長は撃たれた直後でも、人使いが荒いですね」
「いつも通りだ」
「ええ」
副長は椅子に座った。
医療班主任が検査端末を起動する。
ジェレミーはそれを横目で見ながら、短く言った。
「副長」
「はい」
「よくやった」
副長の手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
それから彼は、いつものように姿勢を正した。
「当然のことをしたまでです」
「そうか」
「はい」
処置室の外では、監理局が動いていた。
証拠の分類。
敵性組織の残党捜索。
上位委員会施設の内部調査。
第二班の拘束。
箱庭の娘たちへの説明範囲の調整。
レトはまだ知らない。
ロジーも、エルも、詳しいことは知らない。
ただ、ジェレミーが怪我をしたことだけは、いずれ伝えられる。
レトは泣くだろう。
ロジーは記録を求めながら、途中で黙るだろう。
エルは、治したいと言うかもしれない。
その時、大人たちは線を引く。
必要なだけ話し、不要な傷は見せず、彼女たちが安心できる形まで整える。
それもまた、監理局の仕事だった。
副長は検査端末の光を見ながら、静かに目を閉じた。
局長は生きている。
敵は殺した。
証拠は残した。
証言者も残した。
帰る場所は守った。
ならば、次にするべきことは一つ。
副長に戻ること。
薄い笑みを戻し、書類を処理し、職員たちを動かし、レトの暴走を止め、ロジーの記録範囲を絞り、エルの魔法アイテムを規定に回す。
いつもの監理局へ戻る。
副長は目を開けた。
「局長」
「何だ」
「ラウンジの代金ですが」
ジェレミーは一瞬だけ沈黙した。
副長は、ようやくいつもの調子に近い声で言った。
「グラスを割ったのは局長です」
医療班主任が信じられないものを見る目をした。
ジェレミーは傷口を押さえたまま答える。
「撃たれたからだ」
「理由は理解していますが、会計上は破損です」
「監理局経費で落とせ」
「名目は」
「暗殺未遂対応費」
副長は少しだけ笑った。
「承知しました」
その笑みは、まだ薄かった。
けれど、確かに戻っていた。
処置室の外で、監理局の夜が動き続けている。
星のラウンジで割れたグラスの破片は、すでに証拠品として回収された。
狙撃に使われた弾丸も。
ジェレミーの迎撃弾も。
敵の通信記録も。
本拠地の座標も。
死んだ者たちの名前も。
生き残った者たちの証言も。
すべて記録される。
すべて分類される。
すべて、監理局の責任として処理される。
そして副長は、何事もなかったように明日の朝、監理班の席に座る。
薄く笑って、書類を読み、職員に指示を出す。
たぶん、誰かが言う。
「副長、顔色悪くないですか」
彼はきっと答える。
「気のせいです」
そして、レトが廊下の向こうから走ってきたら、静かに注意する。
「レト。廊下は走らない」
ロジーが余計な記録を取ろうとしたら、淡々と止める。
「ロジー。公開範囲を確認してください」
エルが何か妙な魔法アイテムを持ってきたら、規定通りに回収する。
「エル。それは検査後に返却します」
いつもの副長。
いつもの監理局。
けれど、その奥に一つだけ、冷たい線が刻まれた。
局長を撃つな。
箱庭の娘たちに手を伸ばすな。
監理局を壊そうとするな。
その線を越えた者に、副長はもう笑わない。
暗殺ではない。
交渉でもない。
証拠を残して、責任を持って、殺す。
それが、惑星監理局副長の怒りだった。




