第109話-内側で生きた者
第103話-星の内側にある図書館
から続くコズミックホラー的なおはなしだよ。
はじめに止まったのは、音ではなかった。
観測室には、そもそも音がほとんどなかった。
第九相発生以後、対象星系に関する警告音はすべて切られている。
自動分類も停止。
命名候補生成も凍結。
直接映像は遮断。
数値列の連続表示も禁止。
終端記録は、ロジーが作った無意味終了符号によって管理され、人間に読める文章の末尾を極力持たないようにされていた。
だから、観測室は静かだった。
端末は黒い。
表示されるのは、必要最低限の判定灯だけ。
反応あり。
反応なし。
同期。
非同期。
継続。
停止。
保留。
遮断。
それだけで、監理局は小さな光を見ていた。
正確には、見ていない。
見ていないまま、観測していた。
第九の朝が昇ったあと、対象恒星は消失した。
赤い終末期恒星だったものは、外へ何も返さず、内側へ折り畳まれた。
その中心に、小さな光が残った。
小さな光の内側には、恒星の終わりを畳み込んだ朝があり、そこに何かが生まれていた。
その何かを、監理局はまだ名前にしていない。
生命とは断定しない。
神性存在とは断定しない。
旧世代由来実体とも、魔力生命体とも、天体残骸とも断定しない。
正式記録上は、あくまで、
対象恒星消失後残留光源。
第九相関連疑い。
内部自己維持反応疑い。
正式分類凍結。
直接観測禁止。
それだけだった。
だが、エルは一度言った。
いる、と。
そして、監理局の人間たちは、言葉にしないままその重みを受け入れていた。
いる。
小さな光の内側に、何かがいる。
外へ出てこない。
見えない。
呼べない。
名づけられない。
けれど、ただの現象ではない。
少なくとも、そう扱わなければならない。
その日、観測室に最初の異常が出たのは、外部反応ではなく、内部監査だった。
情報班主任が、黒い画面を見つめたまま言った。
「内部自己維持反応、低下」
ロジーはすぐに顔を上げた。
「減衰?」
「確認中です」
技術班長が別系統を読む。
「反応強度の通常減衰ではありません。周期そのものが崩れています」
選抜魔術師が、封鎖された魔力反応の判定灯だけを確認する。
「終端選択性も低下。終わりかけの反応に対する引っかかりが弱くなっています」
ロジーの表情が変わった。
普段なら、終端選択性の低下は良い兆候だったはずだ。
記録が終われる。
処理が完了する。
帰還が帰還として閉じる。
眠りが眠りへ入れる。
だが、彼女はそう受け取らなかった。
「……終われない反応が消えてるんじゃない」
副長が通信席から問う。
「では?」
ロジーは、黒い画面を見つめた。
そこには何も映っていない。
小さな光も、対象星系も、第九の朝の内側も見えない。
だが、彼女の前には判定灯がある。
内部自己維持反応、低下。
周期崩壊。
終端選択性、消失傾向。
観測依存性内部反応、低下。
内部深度反応、浅化。
ロジーはゆっくりと言った。
「反応する相手が、いなくなってるんだと思う」
観測室が静まり返った。
ジェレミーは共同分析室から接続していた。
彼の横には副長がいる。
上位委員会からは老解析官と記録審査官、選抜天文学者、選抜魔術師、倫理監査主任が座っている。
医療班主任も、技術班長も、調査班主任も、情報班主任も接続席にいる。
レトはジェレミーの少し後ろにいた。
エルは椅子に座っている。
いつものように、少しだけ浮いたような静けさで、両手を膝の上に置いている。
ジェレミーは言った。
「詳細を」
選抜天文学者が答える。
「対象光源の外形反応に大きな変動はありません。点光源としての外形は維持。ただし、これまで内部深度として検出されていた遅延幅が消え始めています」
副長が問う。
「内部が縮小している?」
「そう記録するには危険があります。空間的な縮小ではありません。内側として振る舞っていた反応の奥行きが、奥行きとして扱えなくなっている」
老解析官が続けた。
「内部である意味が失われつつある、という表現の方が近いでしょう」
記録審査官が手を止めた。
「その表現を正式記録に入れますか」
老解析官は首を横に振る。
「まだ入れません。作業発言として保持」
ロジーが即座に言った。
「保持しないで。今の、言葉が柔らかい。使われる」
記録審査官はジェレミーを見る。
ジェレミーは短く頷いた。
「正式記録から除外。議事上の一時発言にも残すな」
「承知しました」
副長が静かに整理する。
「つまり、内部自己維持反応、終端選択性、観測依存性が同時に低下。内部深度反応も崩れている。対象内部の成立条件に変化が起きています」
選抜魔術師が頷く。
「終端反応への関心が消えた、とは言えます」
ロジーが顔をしかめた。
「関心って言わないで」
「失礼。終端反応への応答性が消失傾向にあります」
「それならいい」
医療班主任が発言する。
「対象に生命判定を下すわけではありませんが、医療班の観点では、反応停止と見る場合、これは休眠ではありません。刺激応答が低下しているのではなく、応答主体の継続性が途切れているように見えます」
倫理監査主任が表情を硬くした。
「生命可能性を持つ対象が死亡した、という解釈に近い?」
医療班主任は即答しない。
「死亡、という語を正式に使うことは避けます。ただ、対象内部の自己維持反応は、継続から停止へ向かっています。外部刺激への応答低下ではなく、内部連続性の断絶です」
副長はジェレミーを見た。
「局長」
ジェレミーは言った。
「続けろ」
副長は頷き、全体へ向き直る。
「仮説として整理します。小さな光の内側に成立していたものは、対象恒星由来終端反応を環境として存在していた。第九の朝は、その存在の生後状態、あるいは内部成立条件として機能していた。しかし、その成立体が停止した場合、内部構造は目的を失います」
老解析官が続ける。
「目的、という語は避けたいところですが、構造的役割と言えばよいでしょう。眩嚢、名未骨、暗胎腔、朽光腺、逆殻膜といった語群で示されていた内部構造は、何かを内側へ成立させるための関係でした。その中心が失われれば、内側は内側として保てない」
ロジーが小さく呟く。
「中にいるための中だった」
誰も、その言葉を記録しなかった。
ジェレミーは、エルを見た。
エルは、まだ黙っていた。
人間たちの考察を聞いていた。
先に答えなかった。
先に断定しなかった。
自分の感覚だけで場を動かさなかった。
選抜天文学者。
選抜魔術師。
医療班主任。
老解析官。
副長。
ロジー。
人間たちが、観測と記録と倫理の間から、結論へ近づいた。
そのうえで、ジェレミーは問う。
「エル」
「うん」
「今の考察と、お前の感覚は一致するか」
エルは少しだけ目を閉じた。
それから、頷いた。
「うん」
レトが息を呑む。
エルは静かに続けた。
「いなくなった」
観測室の空気が、ひどく冷えた。
その一言は、以前の「いる」と対になっていた。
いる。
そして、いなくなった。
レトが震える声で聞いた。
「死んだの?」
エルはすぐには答えなかった。
その沈黙が、優しかった。
分からないことを、分かったように言わない。
人間の死と同じものにしない。
生命と断定しない。
けれど、消えたとも言わない。
エルは言った。
「あの中では、たぶん」
「あの中では?」
「うん。あたしたちのここじゃなくて、あの中で」
レトは口を結んだ。
ロジーは黒い画面を見つめていた。
「生きてたの、私たち、何も分からなかった」
誰も答えなかった。
小さな光の内側には、恒星の終わりを畳み込んだ朝があった。
その中で、何かが生まれていた。
それは、監理局が関知しない場所で生を始めた。
監理局は、何かがいることを知った。
けれど、その生の内実は知らなかった。
どれほどの時間があったのか。
時間というものがあったのか。
何を経験したのか。
経験と呼べるものがあったのか。
苦しんだのか。
静かだったのか。
孤独だったのか。
そもそも孤独という感覚を持ち得たのか。
何も分からない。
外から見れば、小さな光の内部反応。
周期的圧相変動。
終端選択性。
観測依存性内部反応。
内部自己維持反応疑い。
だが、その内側では、一つの生があった。
人間ではない。
神性存在でもない。
旧世代でもない。
名づけられた生物でもない。
それでも、それにとっての生があった。
そして、それは終わった。
助けられなかった、という言い方すら正確ではなかった。
監理局は届いていない。
関与していない。
理解していない。
殺したのではない。
救えなかったのでもない。
見届けたのですらない。
関知しないところで、生を全うされていた。
副長が静かに言った。
「局長。これは、対象の沈静化ではありません」
ジェレミーは頷く。
「分かっている」
老解析官が続ける。
「内部成立体が失われた場合、内部構造は役割を失います。役割を失った構造が、構造として維持されるかどうか」
ロジーが言った。
「維持できない」
全員が彼女を見る。
ロジーは黒い画面を見たまま続ける。
「もう始まってる。内部深度が消えてる。終端反応が引っかからない。内側が内側じゃなくなってる。閉じてるんじゃなくて……ほどけてる」
記録審査官が思わず手を動かしかける。
ロジーが鋭く言った。
「書かないで」
記録審査官は止まる。
「失礼」
ロジーは、歯を食いしばった。
「言葉が追いつかない。追いつかないから、危ない」
その時だった。
封鎖観測系の判定灯が、一斉に白くなった。
赤ではない。
黄色でもない。
通常の警告色ではなかった。
白。
情報班主任が、息を止める。
「表示色、異常」
技術班長が叫ぶ。
「警告灯の色指定に白はありません!」
ロジーが立ち上がった。
「全部落として!」
「落としています! 判定灯系統のみです!」
「判定灯も!」
「判断不能になります!」
「もう判断出てる!」
ロジーは叫んだ。
「漏れる!」
その瞬間、黒い画面が明るくなったわけではない。
映像は出ていない。
対象星系も、小さな光も、第九相も表示されていない。
それなのに、観測室にいた全員が、何かが外へ出たことを知った。
音もない。
衝撃もない。
魔力圧の爆発もない。
空間震もない。
神性存在の降臨圧もない。
ただ、閉じていた内側が、内側でなくなった。
星系の中心にあった小さな光は、破裂しなかった。
爆ぜなかった。
砕けなかった。
中から何かが這い出すこともなかった。
死骸も、声も、影も、眼も、口も、腕も、翼もなかった。
生まれたものは、もういない。
外へ出てきたのは、それではない。
朝だった。
第九の朝だった。
星系の中心から、光ではない白みが漏れた。
それは、普通の光ではなかった。
輝度計は大きな上昇を示さない。
放射線量も爆発しない。
熱量も増えない。
星間物質が照らされるわけでもない。
それなのに、星系の暗さが変わった。
宇宙は、本来、夜ではない。
空がない。
地平がない。
朝を迎える生活がない。
太陽が昇る方角がない。
夜の終わりとしての白みなど、宇宙空間には存在しない。
けれど、第九の朝は、まずその前提を壊した。
宇宙の暗さが、夜だったことにされていく。
黒は黒のままだった。
暗闇は暗闇のままだった。
だが、その黒が、自分は夜であったと思い始める。
星系の中心から、色ではない白が広がる。
白と呼ぶしかない。
だが、白色光ではない。
明るさではない。
反射でもない。
温度でもない。
それは、古くなった始まりの色だった。
閉じた瞼の裏に長く滲んだ乳白。
腐らないまま古びた光の膜。
乾かない灰。
朝焼けになる前に失敗した、まだ名前のない白。
光になれなかった光が、光にならないまま、宇宙の暗さに自分の前兆だけを塗っていく。
星間塵は照らされなかった。
粒子は輝かない。
散乱光もない。
軌道も変わらない。
けれど、その輪郭だけが浮いた。
まだ生まれていない影を持つように、粒子の縁が薄く白む。
影は、光源と逆方向へ伸びなかった。
物体の後ろに落ちなかった。
星系の外縁にある無人標識の影は、中心からの光に押されるのではなく、標識自身の内側へ沈んでいった。
影が、物体の外へ出られない。
影までもが、内側へ戻される。
それは、照明ではなかった。
朝が外から来ているのではない。
物体の終わりの側から、朝が染み出している。
冷えゆく魔力残滓が、再燃することはなかった。
火がついたわけではない。
赤くもならない。
熱を持たない。
ただ、消え切ったはずの場所だけが、発生前の空白のように白む。
終わった場所が、始まる直前の顔をさせられている。
恒星風の残りは吹かなかった。
風ではない。
流れでもない。
だが、減衰線だけが、何かの吐息の始まりのように持ち上がる。
吸ってもいない。
吐いてもいない。
生きてもいない。
それなのに、始まりの反応だけがある。
星系の黒は、紙のようになっていった。
図書館はない。
もう白い床もない。
本もない。
書架もない。
閲覧机もない。
閉じた口の内側もない。
読まれない器官名もない。
だが、星と星の間の黒に、余白ができた。
空間が、何も書かれていないページのように扱われ始めた。
ページではない。
宇宙である。
真空であり、距離であり、魔力の薄い海であり、星間物質のまばらな広がりである。
それでも、第九の朝は、それを余白にした。
読まれる前の余白。
朝を迎えるために、夜であったことにされた余白。
終わったはずの恒星の外側に、始まりのための空白を広げる余白。
ロジーは、黒い画面の前で息を呑んだ。
見ていない。
直接映像は出ていない。
観測画面は遮断されている。
判定灯も落とされ始めている。
それでも、分かってしまう。
彼女は震える声で言った。
「空じゃない」
情報班主任が振り向く。
「ロジー」
「余白になってる」
言った瞬間、ロジーは自分の口を押さえた。
「今の、消して」
情報班主任は即座に答える。
「音声記録は取っていません」
「記憶にも残したくない」
誰も笑わなかった。
レトは、画面を見ていなかった。
けれど、星系の中心で何が起きているのか、彼女にも分かった。
「朝……?」
その言葉に、エルが首を横に振った。
「普通の朝じゃない」
ジェレミーが問う。
「どう違う」
エルは、少しだけ顔を伏せた。
「あれ、始まりじゃない」
そして、静かに続けた。
「終わりが、始まりのふりをしてる」
その言葉は、観測室の空気をさらに冷たくした。
始まりではない。
目覚めではない。
救いではない。
新しい命でもない。
朝の光でもない。
終わりが、始まりの顔をして漏れている。
それが第九の朝だった。
第九の朝は、星系の中心から静かに広がっていく。
速度を持っているのかさえ分からなかった。
光速でもない。
魔力流速でもない。
空間波でもない。
情報伝播でもない。
ただ、朝であるべきではない場所が、朝であることにされていく。
広がるという言葉すら正確ではない。
朝が届くのではない。
届いた先が、夜だったことにされる。
夜だったことにされれば、朝はそこにある。
それは、原因と結果の順序が逆だった。
朝が来るから夜が終わるのではない。
夜だったことにされるから、朝が来てしまう。
レトは両手を握った。
「お兄さん」
ジェレミーは静かに答えた。
「何だ」
「止めないと」
「ああ」
その時、上位委員会側の封鎖判定が白く点滅した。
記録審査官が叫ぶ。
「第九相朝性反応、対象星系境界へ到達予測。外縁封鎖帯に接触する前に、反応形式の読み替えが始まっています!」
副長が即座に命令を出す。
「外縁封鎖帯、物理遮断だけでは足りません。終端系統を閉じるな。閉じれば朝にされる可能性があります。封鎖状態を未完了で保持」
「未完了保持、実行!」
ロジーが叫ぶ。
「記録も閉じないで! 終わらせたら始まりにされる!」
情報班主任が指示する。
「対象星系関連全記録、未完了状態で凍結。終了符号を打たない。句点を置かない。最終行を生成しない」
技術班長が答える。
「実行!」
ジェレミーはエルを見た。
「エル」
エルはすでに立っていた。
白い髪の毛先のピンクが、淡く揺れている。
その目は、普段よりもずっと静かだった。
「うん」
「消せるか」
エルは、第九の朝を見ていない。
見ていないのに、向こうを向いている。
「やってみる」
その言葉に、レトが息を呑んだ。
ロジーは思わず言った。
「エル」
エルは振り返らない。
「大丈夫」
それは、安心させる言葉ではなかった。
大丈夫かどうか分からない。
できるかどうかも分からない。
それでも、やる。
第九の朝が硝子玉の宇宙へ触れる前に。
エルは、魔法を使った。
願いではない。
遊びではない。
誰かの小さな困りごとを直す魔法でもない。
お菓子を出す魔法でも、服を作る魔法でも、部屋を飾る魔法でもない。
旧世代、elkore_felico。
本当の幸せに繋がる名を持つ存在。
硝子玉の宇宙を作ったもの。
そのエルが、第九の朝を消そうとした。
朝を、消して。
その想像は、宇宙へ伸びた。
魔術式ではない。
プロセスではない。
術式の構築でもない。
結果だけを生む、旧世代の魔法。
消す。
第九の朝を、消す。
それは、発動した。
エルの魔法は、確かに宇宙へ届いた。
監理局の封鎖室が軋む。
魔術制御部の遮断具が一斉に白くなり、すぐに色を失う。
上位委員会の監査席で、旧世代由来未分類記録の管理官が顔を歪める。
硝子玉の宇宙そのものが、エルの想像を受けて、一瞬、息を止めたように沈む。
だが、第九の朝は消えなかった。
朝は、そこにあった。
白みは消えない。
宇宙の暗さは、まだ夜だったことにされている。
影は物体の内側へ沈み、余白は広がり続ける。
終わりが、始まりの顔をしたまま漏れている。
エルの表情が、ほんの少し変わった。
ロジーが青ざめる。
「消えない……?」
エルは、息を吸った。
もう一度、魔法を使う。
消して。
旧世代の魔法が、再び第九の朝へ触れる。
だが、第九の朝は消えない。
それは、エルが躊躇したからではなかった。
力を抜いたからではなかった。
危険だからやめたのではなかった。
倫理的に消さないと判断したのでもなかった。
できなかった。
第九の朝は、消す対象として成立しなかった。
物体ではない。
魔力現象ではない。
神性存在ではない。
旧世代の真名でもない。
記録だけでもない。
光でもない。
熱でもない。
単なる朝でもない。
それは、内側に生まれたものの生と死を経由し、恒星の終わりを始まりの形式へ変換した、出来事の残り方だった。
消すには、その生があったことを消さなければならない。
その死があったことを消さなければならない。
恒星が終われなかったことを消さなければならない。
第九の朝が内側で昇ったことを消さなければならない。
起きてしまったことの形式を、宇宙の外までなかったことにしなければならない。
エルでも、できなかった。
旧世代でさえ、第九の朝を消し去ることはできなかった。
エルは、初めてはっきりと言った。
「消えない」
ロジーの顔から血の気が引いた。
「エルでも?」
エルは頷いた。
「うん」
レトが震える。
「じゃあ、どうするの?」
エルは、しばらく黙った。
第九の朝は、広がっている。
硝子玉の宇宙の外縁へ、まだ届いてはいない。
だが、届く。
届けば、この宇宙の暗さも夜だったことにされる。
終わりが、始まりの顔をする。
監理局の終わり方も、箱庭の娘たちの終わり方も、この宇宙にあるすべての終わり方も、何かに触れられる。
消せない。
なら。
エルは、目を閉じた。
消えて、ではない。
消えないから。
なくなって、でもない。
なくせないから。
エルは、ただ思った。
どこかに行って。
その想像は、消滅ではなかった。
排除でもない。
破壊でもない。
封印でもない。
救済でもない。
ただ、ここではないどこかへ。
硝子玉の宇宙ではない場所へ。
第九の朝が、ほんの一瞬だけ止まった。
白みが消えたわけではない。
朝が終わったわけでもない。
ただ、朝が、こちらを宇宙として扱うのをやめた。
次の瞬間、星系の中心から漏れていた第九の朝が、硝子玉の宇宙から消えた。
光のように飛び去ったのではない。
穴が開いたのでもない。
空間が裂けたのでもない。
神性存在のように退去したのでもない。
ただ、そこに朝があるという関係が消えた。
宇宙の暗さは、暗さに戻る。
夜だったことにされていた黒が、夜ではなくなる。
星間塵の輪郭は沈む。
影は物体の内側から戻らない。
ただ、影として扱われる必要を失う。
余白になりかけていた星間空間は、ページではなく距離に戻る。
白みは消え、光量計は何も大きな変化を示さず、魔力流束は異常な読み替えを停止する。
対象星系は、暗かった。
もともと宇宙は暗い。
そこにはもう、恒星もない。
小さな光もない。
図書館もない。
第九の朝もない。
何もないように見えた。
しかし、誰も安心しなかった。
エルは、床を見ていた。
レトが一歩近づく。
「エル」
エルは小さく答える。
「うん」
「消えた?」
エルは首を横に振った。
「違う」
ロジーが、ほとんど聞きたくなさそうに問う。
「違うって、何」
エルは言った。
「消せなかった」
ジェレミーが、静かに問う。
「どこへやった」
エルは黙った。
長い沈黙だった。
監理局の誰も、彼女を急かさなかった。
やがて、エルは言った。
「分からない」
ロジーが顔を上げる。
「分からない?」
エルは頷いた。
「あたしの宇宙じゃないところ」
その言葉で、観測室が完全に静まった。
あたしの宇宙じゃないところ。
硝子玉の宇宙ではない場所。
この閉じた宇宙の外。
ジェレミーがかつて来た場所。
エルが硝子玉の宇宙を作る前からあった場所。
監理局が本来の意味では管理していない場所。
現実の宇宙。
第九の朝は、そこへ行った。
消えたのではない。
消せたのではない。
追放ですら、正しい言い方ではない。
エルの魔法は、硝子玉の宇宙から第九の朝を遠ざけた。
ただし、その行き先を決めていない。
どこか。
現実の宇宙のどこか。
そこには、まだ第九の朝がある。
ロジーは端末の前に座り直した。
手が震えている。
でも、記録しなければならない。
記録しすぎても危険。
記録しなければ、次に同じものが来た時、誰も分からない。
彼女は深く息を吸う。
「記録形式、未完了凍結。末尾なし。終了符号なし。本文は最小限。対象語は正式名だけ」
情報班主任が頷く。
「準備できています」
ジェレミーが言った。
「記録しろ」
ロジーは打ち込む。
第九相朝性反応、硝子玉の宇宙内より消失。
消滅確認不能。
転移先不明。
外部宇宙到達可能性あり。
対象星系、恒星消失後状態を維持。
内部成立体反応、消失。
第九相関連現象、硝子玉の宇宙内において現時点で再検出なし。
本件、硝子玉の宇宙内において終息扱い不可。
監視継続。
ロジーの指が止まる。
最後をどうするか。
終わりにできない。
第九の朝は、ここからいなくなっただけだ。
消えたわけではない。
終わったわけではない。
終端符号を打つことは、嘘になる。
ロジーは、最後の行を置かない。
記録を閉じない。
未完了状態で凍結する。
「……終わってないじゃん」
彼女は、ぽつりと言った。
誰も否定しなかった。
レトは、エルの横に立っていた。
「朝、誰かのところに行ったの?」
エルは答えない。
レトはもう一度聞く。
「戻ってくる?」
エルは首を横に振る。
「分からない」
「どこにいるの?」
「分からない」
「怖いね」
エルは頷いた。
「うん」
エルが怖いと言わなかった。
でも、怖いことを否定しなかった。
それだけで十分だった。
副長は、静かにジェレミーへ言う。
「局長。硝子玉の宇宙は守られました」
ジェレミーは答えた。
「ああ」
副長は続ける。
「ただし、解決ではありません」
「分かっている」
「外部宇宙への影響は、追跡不能です」
「ああ」
「我々にできることは」
ジェレミーは、黒い画面を見た。
そこにはもう、何も映っていない。
だが、その何もない黒の向こうに、今回のすべてがあった。
恒星の内側の図書館。
読まれない器官名。
私を恒星として閉じて。
恒星として終わりたかった星。
第九の朝。
小さな光。
内側に生まれたもの。
その生。
その死。
朝の漏出。
エルでも消せなかったもの。
どこかへ行った朝。
ジェレミーは言った。
「ここで終わったことにしない」
ロジーが顔を上げる。
ジェレミーは続けた。
「硝子玉の宇宙内では、現時点で脅威は消失。だが、消滅は確認できない。転移先不明。外部宇宙到達可能性あり。以上を前提に、封鎖記録を未完了状態で凍結。上位委員会へ同時送付。以後、本件は終息ではなく、未帰結監理案件として扱う」
副長が頷いた。
「承知しました」
レトが小さく言った。
「未帰結……」
ロジーが説明する。
「終わってないってこと」
レトは少しだけ俯いた。
「そっか」
エルは何も言わなかった。
彼女は、自分が消せなかったものがどこかへ行ったことを知っている。
それがどこかは分からない。
自分の宇宙ではない場所。
現実の宇宙のどこか。
そこに、第九の朝はある。
その事実は、エルの中で静かに重かった。
レトは、そっとエルの手を取った。
エルは、少しだけレトを見た。
ロジーも、椅子から立ち上がって二人の近くへ来た。
「エル」
「うん」
「消せなかったの、エルのせいじゃないからね」
エルは、しばらくロジーを見ていた。
それから、少しだけ頷いた。
「うん」
「ほんとにだよ。だって、旧世代でも消せなかったってことでしょ。じゃあ、エルが悪いとかじゃない」
レトも頷く。
「そうだよ。エル、ここから出してくれた。ここ、守った」
エルは二人を見ていた。
いつものように淡々としている。
泣きもしない。
崩れもしない。
でも、その目は少しだけ遠かった。
「でも、どこかに行った」
ロジーは答えられなかった。
レトも答えられなかった。
ジェレミーが、静かに言った。
「それも記録する」
エルが見る。
ジェレミーは続けた。
「消せなかったことも、どこかへ行ったことも、分からないことも、すべて記録する。分かったことにしない。終わったことにもしない」
エルは、小さく頷いた。
「うん」
それで、その場は少しだけ閉じた。
完全には閉じない。
閉じてはいけない。
この案件は、終わっていない。
だが、その日の会議は終わらなければならなかった。
ロジーは、会議の終了処理に手を伸ばし、途中で止めた。
「本件についての会議終了は、通常終了符号を使わない」
副長が頷く。
「未完了凍結型ですね」
「はい」
「会議が終わらないことになりませんか」
ロジーは苦い顔をした。
「会議は終わらせる。でも記録上の本件は閉じない。めんどくさいけど、そうしないと嘘になる」
副長は薄く笑った。
「監理局らしいですね」
ロジーは疲れた顔で言った。
「褒められてる気がしない」
「褒めています」
「なおさら嫌です」
そのやり取りに、レトが少しだけ笑った。
エルもほんの少しだけ目を細めた。
ジェレミーは、それを止めなかった。
この空気がまだある。
監理局は、まだここにある。
硝子玉の宇宙は、まだここにある。
箱庭の娘たちは、ここにいる。
それは、守られた。
ただし、すべてが守られたわけではない。
第九の朝は消えていない。
現実の宇宙のどこかで、まだある。
どこかの暗さが、夜だったことにされているかもしれない。
どこかの終わりが、始まりの顔をさせられているかもしれない。
どこかで、空ではないものが余白になり、光ではない白みが漏れているかもしれない。
監理局には、もう分からない。
その場所は、エルの宇宙ではない。
だから、最後の記録は、終わらないまま凍結された。
第九相朝性反応、硝子玉の宇宙内より消失。
消滅確認不能。
転移先不明。
外部宇宙到達可能性あり。
未帰結監理案件。
そこに句点は置かれなかった。
終端符号も打たれなかった。
ロジーは、最後に画面を閉じる。
黒い画面に、自分の顔が映った。
疲れた顔だった。
でも、目は逸らしていない。
レトが言う。
「ロジー」
「なに」
「終わってないの、やだね」
ロジーは少しだけ笑った。
「やだね」
エルが言う。
「でも、ここは朝じゃない」
レトが頷く。
「うん」
ロジーも頷いた。
「うん。ここは、朝じゃない」
その言葉は記録されなかった。
けれど、その場にいた者たちは覚えている。
硝子玉の宇宙は、夜だったことにされなかった。
終わりが始まりの顔をすることもなかった。
朝ではない暗さが、暗さのまま残った。
それは、小さな勝利だった。
けれど、宇宙の外側には、まだ分からない朝がある。
エルでも消せなかった朝がある。
旧世代でさえ消し去れなかった、第九の朝がある。
その朝は、どこかに行った。
どこかで、第九の朝が昇る。




