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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
長編-星の内側にある図書館

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108/135

第108話-それは小さな、誰も知らない朝

第103話-星の内側にある図書館

から続くコズミックホラー的なおはなしだよ。

観測室の画面は、黒いままだった。


対象恒星は、もう映されていない。


赤い終末期恒星も、黒化領域も、図書館状接続領域も、外縁魔力流も、危険域の抽象表示も、何もない。


あるのは、黒い画面だけ。


そこに情報班の端末光が鈍く反射している。


警告音は切られていた。

自動分類も停止していた。

命名候補生成も凍結されていた。

観測記録は封鎖系統の奥で継続されているが、人間の目に触れる表示はすべて落とされている。


前章の終わりから、監理局はまだその状態を維持していた。


対象恒星は消失した。


ただし、爆発ではない。

外層散布でもない。

崩壊でもない。

通常の恒星残骸の形成でもない。


赤い巨大恒星は、外へ何も返さなかった。


熱も。

光も。

重いものも。

魔力流も。

終わりへ向かう方向そのものも。


すべてを内側へ畳み込まれた。


そして、星系の中心に小さな光が残った。


正式記録には、まだ名前はない。


対象恒星消失後残留光源。

第九相関連疑い。

正式分類凍結。

観測制限継続。


それ以上は書かない。


小さな朝、とは書かない。

圧縮光、とも書かない。

生まれたもの、とも書かない。


書けば、形になる。


形になれば、向こうがそれに寄る。


ロジーは、黒い画面の前に座っていた。


椅子に深く腰掛けているのではない。

今にも立ち上がりそうな姿勢で、両手を端末の前に置いている。


彼女の頭上のデバイスは、いつもよりも淡く、細かく明滅していた。


疲れている。


誰が見ても分かった。


けれど、誰も「休んで」とは言わない。


ジェレミーは、言えばロジーが従うことを知っている。

ロジーも、ジェレミーが命じれば席を離れることを、自分で知っている。


だから今は、命じない。


ロジーがまだ必要だった。


そして、ロジーもそれを分かっていた。


「封鎖記録、終端監査だけ開く」


彼女が言うと、情報班主任が隣で頷いた。


「本文は表示しません。直接映像なし。分類なし。数値列なし。終端処理の状態だけ確認します」


「うん」


ロジーは短く返した。


画面は黒いまま。


その黒い画面の端に、小さな状態表示だけが出る。


封鎖記録A群:本文非表示。

観測対象直接描画なし。

終端監査のみ。


ロジーは息を吸った。


「終了処理、確認」


情報班主任が実行する。


表示が切り替わる。


記録時間:確定。

データ量:確定。

追記:なし。

分類:凍結。

映像:封鎖。

音声:なし。

本文:非表示。

終端処理:保留。


ロジーの指が止まった。


情報班主任も、少しだけ黙った。


「……保留?」


ロジーが低く言う。


「記録、終わってないの?」


技術班長が別系統から確認する。


「いえ。観測時間は終了しています。追加データもありません。ファイルサイズも確定。処理は完了しています」


「じゃあ、なんで終端処理が保留なの」


「不明です」


ロジーは画面を睨んだ。


「終わってるのに、終わってない」


その言葉は、観測室に重く落ちた。


前章までなら、それだけで恐怖だった。


記録が終われない。

処理が完了状態に入れない。

対象が終末形式を奪っている。


だが、ロジーはすぐに眉を寄せた。


「違う」


情報班主任が見る。


「違う?」


「これ、終われないだけじゃない」


彼女は表示を拡大しない。

数値を出さない。

ログ本文も開かない。

ただ、終端監査の状態遷移だけを見る。


保留。

保留。

保留。


終端処理が保留されている。


だが、保留の間に、極小の内部応答がある。


それはファイルへの追記ではない。

外部からの干渉でもない。

対象光源の直接表示でもない。


封鎖記録の終わり際にだけ、何かが反応している。


ロジーの顔色が変わった。


「終わりを吸ってるんじゃない」


技術班長が問う。


「では?」


ロジーは、言葉を選んだ。


「終わりのところで、何かが動いてる」


その時、共同分析室へ緊急接続が開かれた。


ジェレミー。

副長。

老解析官。

記録審査官。

選抜天文学者。

選抜魔術師。

調査班主任。

医療班主任。

倫理監査主任。


エルとレトも呼ばれた。


ロジーは黒い画面のまま報告する。


「対象恒星消失後残留光源に関する封鎖記録、本文非表示、映像非表示、分類凍結のまま終端監査だけ確認しました。記録時間、データ量、追記の有無はすべて確定。でも、終端処理だけが保留になっています」


副長が問う。


「第九相による終端異常ですか」


「それだけじゃないと思う」


ロジーは即答した。


「終われないだけなら、終端が止まる。でも今回は、終端に触れた瞬間だけ対象側の内部応答が出てる」


選抜魔術師が顔を上げる。


「内部応答?」


ロジーは頷いた。


「対象光源の中で、反応がある。観測そのものじゃなくて、記録の終わりに反応してる」


老解析官がゆっくりと息を吐いた。


「終わりに、反応している」


その言い方だけで、会議室の空気が変わった。


終わりが奪われる。


それは前章でも分かっていた。


だが、終わりに反応する。


それは、別の段階だった。


ジェレミーは、エルを見た。


「エル」


「うん」


「対象をどう感じる」


エルは、画面を見ていない。


そもそも画面は黒い。


それでも、彼女は少しだけ顔を上げた。


「いる」


その一言で、誰も動けなくなった。


ジェレミーは問う。


「対象は現象か」


エルは首を横に振った。


「違う」


「生命か」


「分からない」


「では、何だ」


エルは、少し考えた。


「いる」


同じ言葉だった。


だが、二度目のそれは、さらに重かった。


いる。


旧世代でも、神性存在でも、魔力生命体でも、天体残骸でも、現象でもない。

分類はできない。

名前もつけない。


だが、もうそこに「いる」。


レトは、両手を胸元で握った。


「生まれたの?」


誰も、すぐには答えなかった。


それは危険な言葉だった。


しかし、否定することもできなかった。


エルはレトを見た。


「あたしは、そう感じる」


レトの顔が強張る。


「外に?」


エルは首を横に振る。


「外じゃない」


「じゃあ、どこに?」


エルは、自分の胸のあたりに手を置いた。


「中」


その言葉は、あまりにも簡単だった。


中。


けれど、その中は、小さな光の内側だった。


恒星が畳まれた場所。

終わりが外へ行けなかった場所。

朝が外へ昇らなかった場所。


その内側に、生まれている。


老解析官が、静かに言った。


「生誕語は正式記録に入れません」


記録審査官が頷く。


「正式記録では、“内部自己維持反応疑い”までに留めます」


ロジーが強く言う。


「“生まれた”って書かないで」


「書きません」


「でも、考えないのは無理」


老解析官は目を伏せた。


「はい。考えないことは、もうできません」


その後、監理局は対象光源の直接表示を避けたまま、内部応答の分析を始めた。


表示は極限まで削られる。


映像なし。

波形なし。

数値列なし。

グラフなし。

ラベルなし。

命名候補なし。


代わりに、判定灯だけが使われた。


反応あり。

反応なし。

増加。

低下。

同期。

非同期。


それだけ。


それでも、ロジーはその表示を見ていたくなかった。


判定灯だけでも、意味になる。

意味になれば、向こうが滲む。


だが、何も見なければ、何も分からない。


監理局は今、理解の危険と無理解の危険の間に立っていた。


選抜天文学者が、限定データだけを確認する。


「対象は点光源として観測されています。外形半径は極小。通常の恒星残骸分類には該当しません」


技術班長が続ける。


「複数地点からの同時観測では、外形は点として一致します。ただし、内部応答の遅延幅が一致しません」


副長が問う。


「具体的には」


技術班長は少し迷い、表示を出さずに説明する。


「外側は一点です。ですが、内部反応は一点として振る舞っていません。観測角度によって、応答の深度が変わります。単純な距離では説明できません」


選抜天文学者が、静かに言う。


「外形は小さい。内部は、小さくない」


エルがぽつりと言った。


「中が、外より大きい」


誰も反論しなかった。


点光源。


だが、その内側には恒星規模の終末が畳まれている。


それは、小さな容器に大きなものが詰まっている、という単純な比喩では足りない。


内側と外側の関係が、もう違っている。


外から見れば一点。

内側では、恒星ひとつ分の終わりが、朝として広がっている。


第九の朝。


その語は、正式記録にはない。


だが、今だけは、誰もがその語を心の中で思った。


そして、その内側で何が起きているのかを、直接見ることはできなかった。


見てはいけなかった。


それでも、地の底のように、宇宙の皮膚の裏側のように、何かが知れてしまう。


小さな光の内側では、朝がまだ続いていた。


夜が明けたのではない。

昼になったのでもない。

時間の移行としての朝ではない。


そこには、恒星の終わりが畳まれている。


外へ散るはずだった光が、光になる前の柔らかさのまま腐らず残り、腐らないまま腐敗している。

冷えるはずだった熱が、冷え切る直前の息を止められ、温かさでも高温でもない、古びた白い湿りとして折り重なっている。

重いものは沈まず、散らず、次の星の材料にもならず、名づけられる前の骨のように、形だけを覚えたまま暗い内側を支えている。

暗胎腔は空ではない。

空でないものが満ちている。

何にもなっていないものが、何にもなっていないまま多すぎる。

逆殻膜は外へ割れない。

内側へ、さらに内側へ、割れるのではなく孵す。

裂け目は出口を作らず、出口という概念を内側へ折り返す。

朝は上がる。

だが空はない。

地平もない。

外もない。

それでも朝だけがある。

朝だけが、生まれたものの周囲に昇り続けている。


それは赤子ではない。


泣く口もない。

開く目もない。

伸ばす手もない。

皮膚もない。

胎もない。

卵とも呼べない。

名前にすれば、こちらがそれを完成させる。


だが、生後の反応をしている。


初めて外を知ったのではない。

外を、自分の内側に持って生まれた。

外へ出る必要がなかった。

宇宙に生まれたのではない。

宇宙の内側を、自分の内側に折り畳んで生まれた。

だから、小さい。

だから、恒星より広い。

だから、見えない。

だから、もういる。


そこでは、終わりが寝床にされていた。


恒星の死は死体にならなかった。

恒星の終末は宇宙へ返らなかった。

それは、古いものの生後を支える、明るくない朝になっていた。


監理局の誰も、その光景を見ていない。


見ていないはずだった。


だが、エルは薄く眉を寄せた。


「あれ、終わりを食べてない」


ジェレミーが問う。


「食べていない?」


「うん」


「では、何をしている」


エルは少し考えた。


「終わらない形にしてる」


老解析官がゆっくりと顔を上げる。


「消費ではなく、保持」


「うん」


エルは頷いた。


「食べたら、終わる。あれは、終わらせてない」


ロジーが嫌そうに呟いた。


「終わりを終わらせないで持ってる、ってこと?」


エルはまた頷いた。


「たぶん」


レトは震える声で言った。


「じゃあ、星の終わり、まだあるの?」


エルはレトを見た。


「ある」


レトは少しだけ息を吸った。


「でも、出られない?」


エルは答えなかった。


代わりに、ジェレミーが言った。


「まだ、そう決める段階ではない」


レトはジェレミーを見る。


「助けられる?」


「分からない」


「壊せば出る?」


「それも分からない」


エルが小さく言った。


「壊したら、ばらばらになるかも」


ジェレミーが問う。


「恒星の終わりがか」


「ううん」


エルは少し迷ってから、言った。


「朝が」


その一言で、会議室の空気が凍った。


朝がばらばらになる。


それは、恒星の終わりが解放されることではない。

第九の朝が破片になって広がる可能性だった。


つまり、破壊は解決ではない。


小さな光を壊せば、閉じ込められた終末が外へ返るかもしれない。

だが同時に、内側に生まれた朝が、欠片になって宇宙へ散るかもしれない。


終わりを奪う性質が、星系全域に散布されるかもしれない。


倫理監査主任が言った。


「破壊介入は、現段階で許可できません」


ジェレミーは頷いた。


「命じるつもりはない」


副長が確認する。


「隔離、観測制限、終端反応の追跡」


「ああ」


ジェレミーは画面のない黒い表示を見た。


「対象は災害ではない。まだ現象だ。現象であるうちに理解する」


老解析官が静かに言った。


「そして、現象ではない可能性も出ています」


ジェレミーは答えた。


「分かっている」


その後、監理局は小さな光そのものではなく、周辺の終端反応を観測する方針へ移った。


直接見ない。

直接名づけない。

直接分類しない。


対象に触れたものが、どこで終われなくなるのかを見る。


最初の試験対象は、無意味な処理だった。


内容を持たない演算。

値を出すだけの単純処理。

対象光源とは無関係の内部テスト。


それを、対象光源の封鎖記録と同じ系統で終了させる。


結果はすぐに出た。


処理は完了した。

結果も出た。

保存もされた。


だが、完了状態に入らない。


処理状態:終了中。


ロジーは唇を噛んだ。


「やっぱり」


技術班長が言う。


「処理は終わっています。完了判定だけが入らない」


「終わりの状態を取られてる」


「取られている、という表現は避けます」


「じゃあ、触られてる」


技術班長は黙った。


ロジーは続ける。


「終わる瞬間に反応してる。内容には興味がない。意味にも興味がない。終わり際だけ見てる」


副長が言った。


「見ている、という語は」


ロジーは顔をしかめた。


「分かってる。違う。でも、そう言いたくなる」


この異常は、そう言いたくなるものばかりだった。


呼吸。

見る。

眠る。

食べる。

泣く。

生まれる。


どれも正確ではない。

どれも危険。

だが、そう言わないと感覚が追いつかない。


それが嫌だった。


選抜魔術師は、対象光源近傍の微弱魔力残滓を確認した。


直接表示はしない。

反応あり、なし、の判定だけ。


「減衰しきる直前の魔力残滓に、選択的な内向反応があります」


副長が問う。


「すべての魔力を吸っているのですか」


「いいえ。強い反応には無関心です。安定した魔力流にも反応しません。終端に入った、消えかけの反応だけに引っかかります」


老解析官が言った。


「終端選択性」


記録審査官が即座に言う。


「仮語として封鎖記録に入れます。正式名称化はしません」


ロジーが頷いた。


「終端選択性、仮。表示は記号だけ」


選抜魔術師は続けた。


「これは摂取ではありません。対象は残滓を消費しているわけではない。終端状態に入る直前の反応を、保留させています」


エルが小さく言った。


「終わるところを、もらってる」


レトがエルを見る。


「もらってる?」


「うん」


「返してくれる?」


エルは少しだけ黙った。


「分からない」


レトはうつむいた。


「もらったら、ありがとうって返すものなのに」


誰も笑わなかった。


いつもの箱庭の娘たちらしい素朴な言葉だった。

だが、今はあまりにも痛かった。


終わるところを、もらう。


それは贈与ではない。

奪取とも違う。

食事とも違う。

保存とも違う。


終わりかけたものが、終わる直前で内側へ触れられる。


その触れられた終わりは、終わりになれない。


次の異常は、帰還処理に出た。


対象光源から十分に離れた外縁に、無人観測艇を一機だけ置いていた。

直接接近はしていない。

小さな光を映像として捉えない。

周辺の空間反応だけを取り、すぐに戻る。


観測艇は予定通り帰還命令を受けた。


距離は縮んでいる。

速度も正常。

航路も正常。

燃料消費も正常。

帰還軌道にも乗っている。


しかし、帰還処理が終わらない。


状態:帰還中。


格納庫側の受信点へ到達している。

通信も回復している。

回収処理も完了している。


だが、状態だけが帰還中のままだった。


技術班長が険しい顔で報告する。


「物理的には戻っています。格納位置にも入っています。ですが、航行ログの状態遷移が完了しません」


レトが顔を上げた。


「帰れてないの?」


ジェレミーが答える。


「物理的には帰っている」


「でも、帰還中?」


「そうだ」


レトは立ち上がりかけた。


「わたし、行く」


ジェレミーが見る。


「何をする」


「帰るところ、作る」


副長が言った。


「対象は無人艇です。危険を冒す必要は」


レトは首を振った。


「無人艇でも、帰ってきたのに帰れてないのは、やだ」


一瞬、空気が柔らかくなりかけた。


しかし、事態は柔らかくない。


ジェレミーは少し考えた。


「遠隔でできるか」


レトは頷く。


「近くなら。格納庫の中ならできる」


魔術制御部長が確認する。


「局所境界です。対象光源には接触しません。格納庫内の帰還処理だけを終端させる補助としてなら、リスクは限定的です」


副長が言う。


「それでも、レトさんの魔術を終端異常が参照する可能性があります」


レトは副長を見る。


「副長」


「はい」


「わたし、星ぜんぶは止めない。無人艇さんが帰るところだけ作る」


副長は少しだけ目を細めた。


「無人艇に“さん”は」


レトははっとした。


「つけない!」


その瞬間だけ、ロジーが小さく笑った。


すぐに笑いは消えたが、ほんの少しだけ、監理局らしい空気が戻った。


ジェレミーが言った。


「許可する。魔術制御部長、監督。ロジー、記録は終端だけ」


「了解」


レトは格納庫の遠隔映像を見ない。


無人艇の姿も見ない。

帰還ログも見ない。


魔術制御部長が、必要最低限の座標だけを渡す。


レトは両手を前に出した。


淡い硝子の光が、空中に短く走る。


小さな硝子片が、格納庫の中にいくつか浮かぶ。


それは刃ではなかった。


戦うための短剣ではない。


境界を示すための、青白い破片。


レトは、静かに言った。


「ここ、帰るところ」


硝子片が、格納庫内の帰還処理領域を囲む。


「ここで、帰ってきた」


青白い光が、ほんの一瞬だけ強くなる。


「もう、帰還中じゃない」


その瞬間、無人艇の航行ログが更新された。


状態:帰還完了。


観測室の何人かが、静かに息を吐いた。


レトは、少しだけ肩を落とした。


「できた」


ジェレミーが言う。


「ああ」


ロジーが通信越しに言った。


『えらい』


レトは小さく笑った。


「うん」


だが、すぐにその笑みは消える。


無人艇は帰れた。


でも、対象光源の内側に生まれたものが消えたわけではない。


ただ一つの終わりを、こちら側で守っただけだった。


それでも、意味はあった。


監理局は大きな宇宙異常を相手にしている。

けれど、誰かが帰ってきたことを完了にできる。

それを失わない。


その小ささが、この作品らしさだった。


次に、医療班から報告が来た。


対象光源を直接見た者はいない。

だが、第九相発生時に封鎖記録系を扱った職員の一部に、軽度の睡眠遷移異常が出ていた。


医療班主任が説明する。


「身体的疲労はあります。精神的負荷も当然高い。しかし症状は通常の不眠とは異なります」


ジェレミーが問う。


「どう異なる」


「眠気は来ます。入眠直前まで移行します。ですが、意識が落ちる最後の段階で戻される」


医療班主任は少し言葉を選んだ。


「本人たちは、“終わるところだけ戻される”と表現しています」


レトが目を伏せた。


ロジーも、画面の前で黙った。


眠りは小さな終わりだ。


一日の終わり。

意識の区切り。

明日へ渡るための閉鎖。


そこにまで、第九相の影が届いている。


エルが言った。


「あれ、眠らない」


医療班主任が問う。


「対象光源のことですか」


「うん」


「対象に睡眠という概念があるとは限りません」


エルは頷いた。


「ない。でも、眠らない」


老解析官が呟く。


「生後状態の継続……」


ロジーが嫌そうに言った。


「生まれた瞬間が終わってない」


その言葉は、誰も否定できなかった。


小さな光の内側では、朝が続いている。


朝が、朝のまま終わらない。

生まれた直後の状態が、直後のまま保たれている。


それは安定ではない。


終われない発生だった。


やがて、監理局は限定的な仮説を立てた。


正式名称ではない。

確定分類でもない。

安全な範囲での作業仮説。


対象光源内部において、恒星終末由来の内向圧縮構造が自己維持反応を開始。

当該反応は、終端状態にある情報・魔力・航行処理・意識遷移等へ選択的な干渉を示す。

生物学的生命、神性存在、旧世代由来実体、魔術的構造体のいずれとも断定不可。

ただし、単なる残留現象ではなく、内部成立体の存在を疑う。


その最後の一文を、記録審査官はしばらく見ていた。


内部成立体。


嫌な言葉だ。


生まれた、と書かずに、生まれたことを書いている。


ロジーは言った。


「もっと固くして」


記録審査官が問う。


「どの程度」


「意味が柔らかい。読んだ人が想像する」


老解析官が頷いた。


「では、“内部自己維持反応疑い”に戻しましょう。存在を断定しない」


エルが、静かに言った。


「いるけどね」


ロジーは苦い顔をした。


「分かってる。でも、書かない」


エルは頷いた。


「うん。書かない方がいい」


レトが聞いた。


「書かないと、いないことになる?」


ジェレミーが答えた。


「ならない」


「じゃあ、なんで書かないの?」


「こちらが形を決めないためだ」


レトは少し考えた。


「向こうが、自分で形を決めるの?」


老解析官が表情を変えた。


ロジーがすぐに言う。


「レト、それ以上言わない」


レトは口を押さえた。


「ごめん」


ジェレミーはレトを責めなかった。


「今の問いは重要だ。だが、続きは記録しない」


記録審査官が頷く。


「該当発言、記録から除外します。発言の存在のみ、非表示タグで残します」


ロジーが言った。


「それも残さないで」


「完全除外ですか」


「うん。今のは、危ない」


記録審査官は少し考え、ジェレミーを見る。


ジェレミーは頷いた。


「除外しろ」


その瞬間、また一つ、監理局は記録しないことを選んだ。


ロジーは、疲れた顔で椅子に座り直した。


「記録しないことばっかり増える」


副長が言う。


「あなたにとっては、かなり嫌でしょうね」


「嫌ですよ」


ロジーは即答した。


「でも、残したら、向こうが使う」


「そう判断できるのは、あなたの強みです」


ロジーは目を逸らした。


「褒められても、あんまり嬉しくないやつです」


レトが小さく言った。


「でも、ロジーすごいよ」


ロジーはレトを見る。


レトは真剣な顔だった。


「ロジー、書きたいのに、書かないんでしょ。すごい」


ロジーは、少しだけ黙った。


それから、ほんの少し笑った。


「……ありがと」


エルも言った。


「ロジー、閉じるの上手」


「それ、褒めてる?」


「うん」


ロジーは肩の力を少し抜いた。


監理局には、こういう瞬間がある。


宇宙規模の異常を相手にしていても。

恒星の終わりが奪われても。

内側に何かが生まれていても。


レトが真剣に褒める。

エルが少しずれた言葉で励ます。

ロジーが嫌そうにしながら、少しだけ救われる。


それが消えない。


むしろ、消してはいけない。


それが、この場所を監理局のままにしている。


その後、終端異常はさらに数件確認された。


対象光源の関連処理をした端末で、完了状態に入れないプロセス。

封鎖記録の末尾監査にだけ発生する保留。

無人艇の帰還状態異常。

睡眠遷移の失敗。


いずれも、内容ではなく終わりに反応していた。


しかし、全てが同じ強さではない。


対象に近いものほど強い。

直接記録に近いものほど強い。

意味づけされるほど強い。

命名候補を持つほど危険。


逆に、レトの局所境界や、ロジーの無意味終了符号は、一定の効果を示した。


ロジーは新しい記録様式を作り始めた。


「文章の最後に意味を置かない」


彼女は言った。


「最後の一文が意味を持つと、そこを持っていかれる。だから、本文の末尾を終わりにしない。終端だけ、別の無意味符号で管理する」


技術班長が問う。


「終了符号に意味を持たせないということですか」


「うん。人間が読めない形にする。かわいくもしない。かっこよくもしない。綺麗にも整えない。読みたくならないやつ」


副長が言う。


「あなたにしては美意識を捨てていますね」


ロジーは顔をしかめる。


「捨ててるんじゃないです。封じてるんです」


「なるほど」


ロジーは端末を操作しながら続ける。


「記録本文は途中で切る。終端は別系統で閉じる。最後に意味を置かない。句点も置かない。余白も揃えない。終了確認は人間が読まない」


情報班主任が頷く。


「採用します」


ロジーは小さく息を吐いた。


「記録を残すために、記録っぽさを殺す日が来るとは思わなかった」


ジェレミーが言った。


「必要な判断だ」


「はい」


ロジーは頷いた。


その声にはまだ悔しさがあったが、折れてはいなかった。


夕方に近い時刻。


監理局内の照明が、通常の夜間準備へと少しだけ落ち着き始めた。


対象光源の観測制限は継続。

直接表示禁止。

正式分類凍結。

終端異常の追跡。

観測班の交代。

医療班の睡眠監視。

情報班の記録様式変更。

技術班の終了符号検証。

魔術制御部の終端反応測定。

調査班の現地接近禁止。


やるべきことは多い。


だが、いったん会議を閉じる必要があった。


終わることを守るために。


副長が、会議の終了手順を読み上げる。


「本件会議は、これ以上の発言を行わず、定型終了処理に入ります。対象光源に関する新規命名、分類、比喩表現は禁止。各班は封鎖記録に基づき、終端監査つきで報告を分割提出。以上」


通常なら、ここで終わる。


だが、全員が少しだけ待った。


終わるかどうかを確認する。


沈黙。


誰も追加で話さない。


誰も「あと一つ」と言わない。


誰も「念のため」と言わない。


会議は、終わった。


ロジーの無意味終了符号が、非表示系統で打たれる。


判定灯が一つ点いた。


完了。


情報班主任が息を吐く。


「会議終了、正常」


その言葉に、全員がわずかに安堵した。


終われた。


それだけで、救いだった。


レトは、小さく笑った。


「終われたね」


エルが頷く。


「うん」


ロジーは少しだけ目元を緩めた。


「終われるって、すごいね」


普段なら、誰かが冗談にしたかもしれない。


でも今は、誰も笑わなかった。


終われること。


それが、どれほど大切かを知ってしまったから。


その直後、封鎖観測系から新しい通知が入った。


表示は、文字ではない。


警告灯が一つ。


内部応答あり。


誰も画面を開かない。


ロジーが確認する。


「終端反応?」


情報班主任が答える。


「いいえ。終端ではありません」


「じゃあ、何」


「内部反応です。対象光源内で、周期的圧相変動を検出」


ロジーの表情が強張る。


選抜魔術師が、表示なしでログを確認する。


「反復しています」


選抜天文学者も頷く。


「減衰ではありません。外部入力もありません」


老解析官が言う。


「自己維持反応」


記録審査官が、慎重に言い換える。


「内部自己維持反応疑い」


エルが、静かに言った。


「動いた」


レトが、喉を鳴らした。


「息?」


ロジーがすぐに言う。


「言わないで」


レトは口を押さえる。


「ごめん」


ロジーは首を振った。


「分かる。分かるけど、言わない」


エルは目を閉じる。


「息じゃない」


ジェレミーが問う。


「では」


「でも、息みたいに、内側が広がって戻った」


誰も、それ以上言葉にしなかった。


小さな光の内側で、何かが動いている。


外形は変わらない。

点光源のまま。

宇宙空間には何も出てこない。


だが内側で、恒星規模の朝が、わずかに身じろぎした。


生まれたものは、外へ出てこなかった。


出てこないことが、安全を意味しない。


出てこないことこそが、成立の証だった。


自分の内側に外を持って生まれたものは、外へ出る必要がない。


監理局は、ようやくその恐怖の入り口に立った。


ジェレミーは言った。


「観測制限は継続。内部自己維持反応疑いとして記録。比喩表現は禁止。次の会議までに、終端反応と内部反応の相関をまとめろ」


「承知しました」


副長が答える。


ロジーは黒い画面を見た。


そこには何も映っていない。


しかし、向こうには小さな光がある。


その内側には、何かがいる。


名前はない。

形もない。

分類もない。

だが、もう生まれている。


ロジーは、端末の前で小さく呟いた。


「絶対、勝手に名前にしない」


レトが聞いた。


「ロジー」


「なに」


「名前つけなかったら、どう呼ぶの?」


ロジーは困った顔をした。


「呼ばない」


「でも、話すとき困らない?」


「困る」


「じゃあ……」


「困るけど、呼ばない」


レトは少し考えて、頷いた。


「そっか。困るの、がんばる」


その言い方が、あまりにもレトらしかった。


ロジーは、少しだけ笑った。


「うん。困るの、がんばる」


エルも頷いた。


「あたしも、呼ばない」


レトはエルを見る。


「エルは、呼ばなくても分かる?」


「うん」


「じゃあ、ずるい」


「ずるくない」


「ちょっとずるい」


ロジーが小さく笑った。


副長はそのやり取りを聞きながら、何も言わなかった。

ジェレミーも止めなかった。


この小さな会話を、記録審査官は記録に残さない。


対象に関わる命名回避の会話であり、危険な意味を持つ可能性があるから。


だが、その場にいた職員たちは覚えている。


困るのを、がんばる。


それは監理局の態度として、奇妙なほど正しかった。


分からないものを分かったことにしない。

呼びたいものを呼ばない。

書きたいものを書かない。

終わらせたいものを、無理に終わらせたことにしない。


困る。


そして、困ったまま、進む。


その夜、監理局の観測室には、まだ黒い画面が並んでいた。


小さな光は映っていない。


だが、封鎖記録系は静かに反応を拾い続けている。


内部自己維持反応疑い。

終端選択性疑い。

観測依存性内部反応疑い。

正式分類凍結。

直接表示禁止。

命名禁止。

比喩表現禁止。


そのすべての奥で、誰にも見せられない小さな光が、星系の中心にある。


かつて恒星だったものの終わりを内側へ畳み、

外へ出ることなく、

外を自分の内側に持ち、

朝を昼へ進ませず、

生まれた瞬間を終わらせず、

古いものが、生まれたばかりのまま、そこにいる。


監理局は、その事実をまだ正式には認めていない。


記録にも書かない。

名前もつけない。

形も与えない。


それでも、エルは言った。


「いる」


その一言だけが、誰の記録にも残らず、監理局の中に残った。

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