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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第101話-魔法で全部を変えないように

その惑星には、空に鐘が浮いていた。


本物の鐘ではない。

観光都市の中央通りに、魔術で投影された巨大な飾りである。


半透明の青い鐘。

その周囲を、細い光の魚が泳ぐ。

通りの両側には硝子細工の店、香辛料を売る屋台、布飾りの露店、小さな喫茶店が並んでいる。


レトは、通りに足を踏み入れた瞬間、両手を握りしめた。


「すごい! 職員さん、見て! 鐘が浮いてる!」


外務班の職員が落ち着いた声で答える。


「見えています。走らないでください」


「走らない!」


返事だけは立派だった。


ただし足元は、今にも弾みそうだった。


淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしている。

服装は外出用。

戦闘班の装備も最低限身につけているが、表情は完全に観光のそれだった。


ロジーは頭上デバイスに、すでに観光記録テンプレートを開いていた。


「記録開始! 惑星名、現地通称リュクレア。都市名、鐘魚街区。同行者、レト、ロジー、エル、外務班二名、戦闘班護衛二名、医療班一名、調査班一名! 目的、神性存在災害兆候調査の待機時間を利用した、許可済み短時間観光!」


外務班職員がすぐに言った。


「ロジー、記録公開範囲」


「監理局内部、関係班、教育記録用抜粋のみ! 一般人の顔は自動ぼかし! 店舗内部は許可がある場合のみ!」


「よろしい」


ロジーは胸を張った。


「私、ちゃんとできる記録者!」


「余計なシステムアクセスは」


「しません!」


「よろしい」


エルは、少し後ろで空を見ていた。


白髪のボブの毛先が淡くピンクに揺れる。

目はいつものように静かで、でも興味はちゃんとそこにあった。


空の鐘。

光の魚。

屋台の湯気。

通りを歩く人間たち。

子供を肩車する大人。

果物を選ぶ老人。

喫茶店の前で笑っている若者。


エルはそれらを順番に見て、ぽつりと言った。


「ここ、人間が多い」


レトが振り向く。


「楽しい街だからだよ!」


「楽しいと、人間が集まる?」


「うん! たぶん!」


ロジーがすぐに補足した。


「観光資源、商業、信仰跡地、あと昔の鐘魚祭が有名なんだって! 神性存在の兆候が出てなかったら、もっと人が多かったみたい」


その言葉で、空気が少しだけ現実に戻った。


今回、惑星監理局がこの惑星に来た理由は観光ではない。


神性存在の災害兆候。


人間の集合感情から生まれる微弱な魔力が、長期間積み重なり、権能を持つ災害へ変化しかけている可能性があった。


ただし、到着後の観測では反応は落ち着いていた。


調査班の観測拠点からは、数時間前に報告が来ている。


権能反応、低下。

精神波形、安定。

街区への即時避難指示、不要。

監理局の介入準備、維持。

箱庭の娘たちの外出許可、限定的に承認。


つまり、危険が消えたわけではない。


だが、監理局は対策を打っていた。


街区全域には、目立たない形で避難誘導術式が敷かれている。

主要交差点には、防護結界の基礎杭が埋め込まれている。

高層建築には、崩落時の落下物を減速させる仮設術式が張られている。

現地当局にも、監理局職員が分散配置されていた。


だからこそ、短時間の観光が許可された。


ただし、エルには追加の制限が課されていた。


外務班職員は出発前にも、移動中にも、同じ確認をしている。


「エルさん。観光中の魔法行使範囲は、原則として自己周辺のみ。自分の身体、携行品、同行者の安全確保に必要な最小範囲。それ以上の環境改編は禁止です」


エルはその時も、今も、ちゃんと頷いていた。


「うん。街を変えない」


「はい。理由も確認します」


エルは少し考えてから答えた。


「あたしの魔法は、強すぎる」


外務班職員は頷いた。


「続けてください」


「細かくしようとしても、全部は細かくできない。人間を守ろうとして、別の人間に触るかもしれない。建物を直接止めようとして、街を変えすぎるかもしれない」


「その通りです」


エルは空の鐘を見上げる。


「戻せない形になるかもしれない」


「はい。環境が不可逆に変化する可能性があります。地面、建物、空間、魔力流、現地文明の生活基盤。エルさんが善意で触れても、現地の人々にとっては災害と変わらない結果になる場合があります」


エルは小さく頷いた。


「あたし、観光する。作らない。変えない」


だから、職員たちはエルを連れて歩けた。


エルを信じていないから制限しているのではない。

信じているからこそ、危険を言葉にして、範囲を決めている。


エル自身も、その意味をもう分かっていた。


レトは硝子細工の露店の前でぴたりと止まった。


「これ……!」


棚には、小さな鐘魚の硝子飾りが並んでいた。


空に泳いでいる光の魚を模した、この街の土産物だった。

透明な身体の中に淡い青い線が通っていて、傾けると尾びれの部分だけがきらりと光る。


レトは目を輝かせる。


「魚!」


ロジーが隣から覗き込む。


「空の鐘魚のミニチュアだね! 現地文化由来の観光土産! かわいい!」


「ロジー、これ、泳ぐ?」


「たぶん泳がない! 飾りだから!」


エルも覗いた。


「泳がない魚」


店主の老人が笑った。


「ええ。飾りですからね。窓辺に吊るすと、光を受けて泳いでいるように見えるんですよ」


エルは少し考えた。


「泳いでいるように見える魚」


「うん!」


レトは嬉しそうに言った。


「本当に泳がなくても、泳いでるみたいになるんだね!」


その言葉を聞いて、同行の戦闘班職員がわずかに目元を緩めた。


ロジーは即座に記録した。


「レト、泳がない魚が泳いで見える概念に感動」


「ロジー、それ書くの?」


「書く!」


「恥ずかしいよ!」


「かわいいから大丈夫!」


「大丈夫じゃない!」


そんなやり取りをしながら、三人は小さな露店の前で笑っていた。


その時だった。


空の鐘が、鳴った。


観光用の鐘ではない。


街区全体の魔術投影が、音を鳴らしたわけでもない。


空そのものの奥で、低い音が響いた。


ごん、と。


人々が顔を上げる。


外務班職員の表情が変わった。


通信が開く。


『全班へ。権能反応急上昇。発生源、上空。予兆波形なし。繰り返す、予兆波形なし』


ロジーのデバイスが警告色に変わる。


「急すぎる」


調査班職員が端末を見て、声を低くした。


「兆候が飛んだ。蓄積じゃない。落ち着いた反応の内側で、欠片が剥離した」


レトは空を見上げた。


「欠片?」


エルも見上げる。


空の鐘が、ひび割れていた。


正確には、鐘の投影そのものではない。

投影の背後、鐘の形に重なって見えていた空間に、薄いひびが入っている。


そこから、光の破片が降ってきた。


雪のように。

硝子片のように。

祈りの残骸のように。


美しかった。


だから、街の人々は一瞬、逃げ遅れた。


「きれい……」


誰かが呟いた。


次の瞬間、通り沿いの建物が軋んだ。


石造りの壁が膨らむ。

窓枠が歪む。

看板が捻れる。

街灯が節足動物の脚のように折れ曲がる。


無機物が、権能に触れて変貌していた。


ロジーが叫ぶ。


「無機物敵性変換! 生体反応なし! 人間じゃなくて建物に入ってる!」


外務班職員が即座に通信する。


「全員、民間人退避優先! 防護杭起動!」


街区の四方で、淡い光が立ち上がった。


監理局が事前に打ち込んでいた基礎杭が反応し、落下する権能の欠片を弾き、通行人の頭上に薄い防護膜を展開する。


完全ではない。


建物そのものまでは守りきれない。


だが、人間への直撃は防いだ。


通りのあちこちで職員たちが動く。


外務班は現地警備隊と連携し、避難路を開く。

医療班は転倒した老人を抱え、即席の治療結界を張る。

戦闘班職員は、変貌しかけた街灯を斬り落とし、通行人から引き剥がす。

調査班は権能波形を測定しながら、影響範囲を叫ぶ。


ロジーのデバイスが複数のホログラムを展開した。


表示されているのは、ロジー自身の視界、監理局が設置済みの観測杭、同行職員の共有情報だけだった。

店舗や都市管理システムには触れていない。


「右区画、崩落予測三十秒! 左の菓子店、柱が変性中! 中央塔、上層から剥離! 逃げ遅れ、十二、いや二十七人!」


レトの表情が変わった。


さっきまで観光をしていた顔ではない。


戦闘班の顔だった。


「職員さん、指示!」


戦闘班護衛が即答する。


「レト、民間人救助。交戦は許可が出るまで最小限」


「了解!」


レトの周囲に、青白い硝子の短剣が生まれた。


一本。

三本。

十本。


透明な刃の芯に、青白い高熱が灯る。


エルは、倒れかけた建物を見た。


古い時計塔だった。


上層部が権能に触れ、無機物の形を保てなくなっている。

壁面が内側から膨らみ、梁がねじれ、屋根が大きく傾いた。


その真下に、逃げ遅れた人々がいた。


子供。

親。

店員。

観光客。

足を怪我した老人。


レトが走ろうとした。


だが、距離がある。


間に合う。


たぶん、レトなら間に合う。


でも、全員を同時には運べない。


エルの足が、一歩前に出た。


外務班職員が叫ぶ。


「エルさん!」


エルは、もう分かっていた。


本来なら、観光中のエルは街へ魔法を広げてはいけない。


理由は単純で、そして重い。


エルの魔法は、術式で細かく出力を刻む魔術ではない。

想像が結果として現れる旧世代の魔法である。


だから、咄嗟に広範囲へ伸ばせば、加減しきれない。


建物を直接止めるつもりで、人間の身体や心まで止めてしまう可能性がある。

崩壊だけを保留するつもりで、街区全体の時間、構造、魔力流、重力、記憶、生活環境まで巻き込む可能性がある。

一度そうなれば、完全には戻せないかもしれない。


人々を守るための魔法が、人々を害するかもしれない。


だから制限されている。


けれど、今は、目の前で人が死ぬかもしれない。


エルは時計塔を見た。


崩れかけた石壁。

ねじれた梁。

落ちかけた屋根。

その真下にいる人々。


そして、その周囲に立ち上がり始めた、監理局の防護杭の光。


監理局が事前に打ち込んでいた崩落減速術式だった。

建物を修復するためのものではない。

崩壊を止めるためのものでもない。

落下物の速度を落とし、避難するための数秒を作る安全装置である。


ただし、今回は崩壊が速すぎた。


権能の欠片が建物の構造そのものを歪めている。

防護杭は起動しているが、出力が追いついていない。


エルは、建物へ手を伸ばさなかった。


人間にも触れなかった。


街にも触れなかった。


ただ、すでにそこにある監理局の防護術式を見た。


「届いて」


小さく言う。


「落ちるの、少しだけ遅くして」


その瞬間、通信にジェレミーの声が入った。


『エル、限定行使を許可する。対象は監理局設置済み防護杭の崩落減速術式のみ。建造物本体、人間、精神、記憶、街区環境への直接干渉は禁止』


エルは小さく頷いた。


「うん」


防護杭の光が、強くなった。


時計塔が止まったわけではない。


崩壊は続いている。


石は割れ、梁は軋み、屋根は傾き、塔は確かに壊れていく。


けれど、その速度だけが変わった。


落ちる石片が、空気の中で重くなる。

砕けた梁が、地面へ届くまでの時間を引き延ばされる。

屋根の崩落が、一瞬だけ遅れる。


ほんの数秒。


街を作り替えるほどではない。

建物を元に戻すほどでもない。

人間の恐怖を消すほどでもない。


けれど、人を助けるには足りる数秒だった。


エルの額に、小さな汗が浮いた。


魔法は簡単に見える。


でも、今のエルは簡単にしていなかった。


自分で世界を止めるのではなく、監理局の術式に乗せる。

範囲を防護杭の内側に限定する。

人間を対象にしない。

怖いという願いに反応しない。

街そのものを、都合よく安全な形へ変えない。


それは、エルが積み重ねてきた訓練の結果だった。


レトはその一瞬を逃さなかった。


「ありがとう、エル!」


青白い光が走る。


レトの足元で硝子の板が展開し、空間がずれた。


一歩目で距離を消す。

二歩目で人々の前へ出る。

三歩目で、短剣がばらけて光の足場になる。


「みんな、こっち!」


泣いている子供が固まっていた。


レトはその前にしゃがむ。


「大丈夫! わたし、監理局のレト! 助けに来たよ!」


子供は泣きながら頷いた。


レトはその子を抱え、空間をひとつずらす。


次の瞬間、子供は外務班職員の腕の中にいた。


「お願いします!」


「受け取りました!」


レトはすぐ戻る。


老人を硝子の担架で浮かせる。

親子をまとめて防護膜で包む。

倒れた露店の下から店員を引き出す。

泣き叫ぶ人に、短剣ではなく、小さな硝子の手すりを作って握らせる。


「ここ持って! 立てる? 無理なら運ぶ!」


「足が……!」


「じゃあ運ぶ!」


レトは迷わない。


守ると決めた時の判断が、速い。


ロジーは通りの中央で、職員たちへ情報を投げ続けていた。


「第二避難路、詰まり! 右の路地、権能片の残滓あり、通らないで! 医療班さん、そっちに三人転倒! 戦闘班、後ろ! 看板が動く!」


看板が、獣の頭のように開いた。


木と金属でできていたはずの装飾看板が、権能によって変貌し、通行人へ噛みつこうとした。


戦闘班職員が前に出る。


「制圧!」


斬撃術式が走り、看板の顎が落ちる。


だが落ちた顎が、地面で再び脚を生やした。


調査班職員が叫ぶ。


「核がない! 建材そのものが敵性存在化している!」


ロジーの目が鋭くなる。


「違う、核はある! 物体ごとの核じゃない! 権能の欠片が触れた“役割”が核になってる!」


「役割?」


「看板は呼び込むもの! 街灯は照らすもの! 扉は閉じるもの! 建物は囲うもの! 権能がそれを歪めてる!」


エルが、崩れ続ける時計塔を見ながら呟いた。


「建物は、人間を入れるもの」


ロジーが即座に叫ぶ。


「そう! だから閉じ込めようとしてる!」


その瞬間、時計塔の扉が巨大な口のように開いた。


崩壊速度を遅らせられた塔の中で、権能に変質した部分だけが別の動きを始める。


石壁が肉のように波打つ。

窓が無数の目になり、梁が骨のように伸びる。

塔そのものが、人々を中へ戻そうとした。


エルの魔法が補助しているのは、あくまで防護杭の崩落減速術式だった。


落下。

倒壊。

破片の飛散。

建物が重力に従って崩れていく流れ。


それを遅らせているだけで、建物そのものを支配しているわけではない。


権能によって敵性存在化した部分の活動は、別の現象だった。

そこまで止めようとすれば、建物本体に直接干渉することになる。

範囲を広げれば、街そのものへ魔法が食い込む。


だからエルは、そこまで触らない。


触ってはいけない。


レトは最後の避難者を外へ飛ばした直後、振り向いた。


巨大な時計塔が、彼女を見下ろしていた。


「レト、下がって!」


外務班職員が叫ぶ。


だがレトは下がらなかった。


短剣を構える。


「人を閉じ込めるなら、だめ」


青白い硝子の短剣が、彼女の周囲で円を描く。


レトの髪飾りが光った。


「エル、そのままお願い!」


「うん」


エルの声は静かだった。


「あたし、落ちるのだけ遅くする」


「ロジー、どこ斬ればいい!?」


ロジーのデバイスが高速で解析する。


「塔の鐘室! あそこが“集める役割”の中心! でも人間の避難完了確認!」


外務班職員が叫ぶ。


「時計塔下、民間人退避完了!」


戦闘班職員が続ける。


「周辺封鎖、完了!」


レトの瞳が、青白い光を映した。


「じゃあ、戦う!」


塔が吠えた。


鐘の音のような咆哮が、通りを震わせる。


石の腕が伸びる。

窓枠が刃になる。

歪んだ街灯が蔦のように絡みつく。

落ちかけた屋根が、巨大な翼のように広がる。


レトは真正面から突っ込まない。


空間をずらす。


右にいたはずのレトが、次の瞬間には左上にいる。

短剣が斜めに走り、窓枠の刃を切断する。

足場の硝子板が一瞬だけ生まれ、レトはそこを蹴って上へ跳ぶ。


塔の腕が追う。


レトは空中で身体をひねり、硝子短剣を三本投げる。


刺さった短剣が砕けた。


青白い熱が、石の継ぎ目を焼く。


ただの破壊ではない。

建物としての接合を断つ。

敵性存在として動くための歪んだ術式経路を、硝子の熱で焼き切る。


「一つ!」


ロジーが叫ぶ。


「左側弱った! でも右の鐘魚投影塔が連動してる!」


「わかった!」


別の建物から、投影装置の支柱が蛇のように伸びた。


レトの背中を狙う。


その瞬間、戦闘班職員の魔術弾が支柱を撃ち抜いた。


「レト、後方は持つ!」


「ありがとう、職員さん!」


医療班は負傷者を治療しながら、防護結界を拡張している。

外務班は現地当局とともに、群衆をさらに遠ざける。

調査班は権能片の落下位置を記録し、次の変貌地点を予測する。

技術班は遠隔で基礎杭の出力を調整し、街区の防護膜を再構成する。


監理局は、レトだけに任せていなかった。


ジェレミーの声が通信に入る。


『全班、第二封鎖線を維持。レト、鐘室の破壊を許可する。ただし周辺建築への延焼は禁止』


レトの顔がぱっと引き締まる。


「了解、お兄さん!」


その呼び方に、現地当局の兵士が一瞬だけ驚いた顔をした。


だが、誰も口を挟まなかった。


レトは空中で短剣を束ねた。


硝子の短剣が幾重にも重なり、ひとつの細い槍のようになる。


青白い高熱が、その芯に集まる。


塔が、最後の抵抗をした。


鐘室が開く。


中には鐘などない。


代わりに、人々の願いの残骸が渦を巻いていた。


守ってほしい。

壊れないでほしい。

ここにいたい。

帰りたくない。

閉じていたい。

外は怖い。


そんな感情が、神性存在の欠片に歪められ、建物へ宿っていた。


エルが、それを聞いた。


ほんの少しだけ、手が震える。


幸せにしてあげたい。


怖いなら、怖くないようにしてあげたい。

外が怖いなら、優しい内側を作ってあげたい。


けれど、エルは目を閉じなかった。


「違う」


小さく言う。


「閉じ込めるのは、幸せじゃない」


ジェレミーの通信が静かに入る。


『エル』


「うん」


『見ていろ。叶えるな。範囲を広げるな』


「見てる」


エルは、防護杭への補助だけを維持した。


その横を、レトが彗星のように駆け上がる。


「はあああっ!」


硝子の槍が、鐘室を貫いた。


青白い光が爆ぜる。


鐘の咆哮が割れた。


塔全体に走っていた歪んだ役割が、硝子のひびのように砕けていく。


看板が落ちる。

街灯が止まる。

扉がただの扉に戻る。

壁の目が消える。

屋根の翼が崩れる。


ロジーが叫んだ。


「敵性存在反応、低下! 権能片、構造維持できてない!」


調査班職員が続ける。


「封印容器、展開!」


通りの四隅から、監理局の封印容器が浮かび上がる。


権能の欠片が、光の粒となって吸い込まれていく。


エルはそこで、ゆっくり手を下ろした。


防護杭への補助が切れる。


遅らせられていた崩壊が、本来の速度へ戻った。


ただし、もう人間はいない。


監理局の防護結界が展開され、時計塔は内側へ潰れるように崩れた。


轟音。


砂埃。


砕けた石。


鐘魚街区の中央には、古い塔の瓦礫だけが残った。


しばらく、誰も声を出さなかった。


やがて、ロジーのデバイスが小さく鳴る。


「人的被害、死亡者なし。重傷者なし。軽傷者多数、医療班対応中。建造物被害、大。権能片、八割封印。残存反応、調査班が追跡中」


外務班職員が深く息を吐いた。


「建物は失いましたが、人は全員生きています」


レトは瓦礫の上に立っていた。


息が上がっている。


髪飾りが少し煤けている。


頬に小さな傷があり、膝にも擦り傷がある。


でも、立っていた。


戦闘班職員が近づく。


「レト、損耗報告」


レトは一瞬、いつもの癖で笑おうとした。


「だいじょ――」


途中で止まる。


監理局で教えられたことを思い出した。


守る対象には、自分も含まれる。


レトは少しだけ口を尖らせて、正直に言った。


「膝、痛い。魔力、ちょっと熱い。あと、怖かった。でも動ける」


戦闘班職員は頷いた。


「よろしい。医療班へ」


「今すぐ?」


「今すぐ」


「でも、まだ――」


通信からジェレミーの声がした。


『レト』


レトはぴしっと背筋を伸ばす。


「はい!」


『医療班へ行け』


「……はい、お兄さん」


ロジーがすかさず近づいた。


「レト、えらい! ちゃんと痛いって言えた!」


「むぅ……」


「記録しとく!」


「しなくていいよ!」


「重要記録だよ!」


エルは瓦礫の前に立っていた。


倒壊した時計塔を見ている。


その顔は、悲しそうというより、何かを確かめている顔だった。


外務班職員がそっと声をかける。


「エルさん、大丈夫ですか」


エルは少し考えた。


「建物、壊れた」


「はい」


「でも、人間はいる」


「はい」


「戻さないでいい?」


職員は一瞬だけ黙った。


その問いには、重さがあった。


建物を元通りにしたいと言えば、エルはできるかもしれない。


けれど、それは災害をなかったことに近づける行為でもある。

現地の人間が失ったもの、壊れたもの、そこから再建する時間を、外から塗り替える行為にもなり得る。


それに、戻す魔法は、防護杭を補助することよりも遥かに危険だった。


今回は、監理局の術式が先に範囲を決めていた。

エルはその術式に、ほんの数秒だけ力を足したにすぎない。


だが、建物を元通りにするとなれば違う。


石材、時間、街の構造、権能汚染の痕跡、そこにいた人々の認識まで、どこまで巻き込むか分からない。


完全な復元を願えば、街は綺麗になるかもしれない。


しかしその綺麗さは、現地の人々から災害の事実も、再建する権利も、壊れたものを抱えて続く時間も奪うかもしれない。


職員が答える前に、ジェレミーの通信が入った。


『戻さなくていい』


エルは通信機を見た。


「ジェレミー」


『この街の建物は、この街の人間が直す。監理局は支援する。君は、人間を守った。それでいい』


エルは瓦礫を見た。


人々は泣いていた。


抱き合っていた。

怪我人の手を握っていた。

壊れた店の前で座り込んでいた。

それでも、誰かが誰かの名前を呼び、返事を聞いて泣き笑いしていた。


エルは小さく頷いた。


「うん」


レトが医療班職員に連れていかれながら、エルへ手を振った。


「エル! さっき、すごかった! 助けてくれてありがとう!」


エルはレトを見る。


「あたし、防護杭に足しただけ」


「それがすごいんだよ!」


ロジーも隣で両手を上げる。


「そう! エル、ちゃんと直接やりすぎなかった! 叶えすぎなかった! 範囲も広げなかった! めちゃくちゃえらい!」


エルは少しだけ瞬きした。


「えらい?」


「えらい!」


レトも頷く。


「えらい!」


エルは瓦礫から二人へ視線を移した。


そして、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


「じゃあ、よかった」


その後、監理局の面々は一気に動いた。


調査班は権能片の残存波形を追跡し、神性存在本体の兆候がなぜ落ち着いたまま欠片だけを落としたのか解析を始めた。


ロジーは、記録を分類した。


災害記録。

救助記録。

権能変性記録。

レト戦闘記録。

エル魔法行使記録。

職員初動記録。

現地支援記録。


ただし、一般人の恐怖や泣き顔は、公開記録から除外した。


「これは、見せ物じゃないから」


ロジーは小さくそう言った。


情報班主任が隣で頷いた。


「その判断でいい」


ロジーは少しだけ誇らしそうにした。


外務班は現地当局と話し合い、復旧支援の範囲を定めた。


技術班は崩壊した時計塔の瓦礫から権能汚染部分を分離し、通常建材を現地へ返却した。


医療班は軽傷者を治療し、精神保護室は災害を見た子供たちへの対応を現地医療機関へ引き継いだ。


戦闘班は残った敵性存在を処理し、街区の安全確認を終えた。


夕方。


観光都市の空には、もう鐘は浮いていなかった。


投影装置が壊れたからだ。


光の魚も泳いでいない。


中央通りには瓦礫があり、結界杭が立ち、監理局の封印容器が並んでいる。


それでも、通りの端で、露店の老人が小さな包みを抱えてレトのところへ来た。


「お嬢さん」


レトは医療班に膝を処置されながら顔を上げた。


「はい?」


老人は、さっきの鐘魚の硝子飾りを差し出した。


「店は壊れましたが、これは残りました。あなたに」


レトは目を丸くする。


「でも、お店のものだよ」


「あなたが人を助けた。これは礼です」


レトは困ったように外務班職員を見た。


外務班職員は少し考え、現地規定と贈与記録を確認してから頷いた。


「受領可能です。後で正式に記録します」


レトはそっと鐘魚の飾りを受け取った。


泳がない魚。


さっきまで、それをかわいいと言っていた。


今は、少し違って見えた。


「ありがとう」


老人は頷いた。


「街は直します」


エルがその言葉に反応した。


「直す?」


老人はエルを見た。


この小さな少女が、防護杭に力を足していたことを、彼は知らない。

ただ、監理局の子だということだけは分かっていた。


「ええ。時間はかかりますが、直します。壊れたなら、また建てればいい」


エルは老人を見た。


「同じにする?」


老人は少し笑った。


「同じにはならないでしょうな。でも、また鐘は浮かべます。魚も泳がせます。前より少し丈夫にしてね」


エルは、その言葉をしばらく考えた。


同じにはならない。


でも、また作る。


前より少し丈夫にする。


エルは小さく頷いた。


「それ、いいね」


老人は不思議そうに笑った。


「そうでしょう」


夜、監理局の臨時拠点。


レトは膝に包帯を巻かれ、もらった鐘魚の飾りを眺めていた。


ロジーは記録を整理しながら、たまに欠伸をしている。


エルは窓際で、外の街を見ていた。


遠くで、壊れた投影装置の代わりに、小さな手持ち灯がいくつも揺れている。


避難所へ向かう人。

瓦礫を片付ける人。

誰かを探す人。

誰かを見つけて抱きしめる人。


レトがぽつりと言った。


「観光、途中で終わっちゃったね」


ロジーが顔を上げる。


「でも、記録はいっぱいになったよ」


「楽しい記録じゃなかった」


「うん」


ロジーは少しだけ静かに言った。


「でも、残す記録だった」


エルは窓の外を見たまま言った。


「あの街、また鐘を浮かべるって」


レトの目が少し明るくなる。


「じゃあ、また来られる?」


ロジーが即座にデバイスを開く。


「復旧後再訪問希望記録、作成する?」


外務班職員が隣から言った。


「まず報告書が先です」


ロジーはしゅんとした。


「はい」


レトも鐘魚の飾りを抱えながら頷いた。


「報告書、書く」


エルも小さく言った。


「あたしも書く」


職員が少し驚く。


「エルさんもですか」


「うん」


エルは窓の外を見た。


「足しただけのこと。戻さなかったこと。街の人が、また作るって言ったこと」


少しだけ間を置いて、続ける。


「忘れないように」


ロジーはデバイスを止めた。


そして、珍しく茶化さずに頷いた。


「うん。忘れないように書こう」


レトは鐘魚の飾りを胸に抱いた。


「次に来たら、鐘、見たいね」


エルは頷く。


「うん」


ロジーも笑った。


「次は最後まで観光記録する!」


外務班職員は疲れた顔で言った。


「次があるなら、もう少し穏やかな観光でお願いします」


レトは元気よく手を挙げた。


「はい! 次は、建物が動かない観光がいいです!」


ロジーも手を挙げる。


「権能片が降らない観光希望!」


エルも少し遅れて手を挙げた。


「あたし、魚が泳ぐ鐘、見たい」


職員は、三人を見た。


災害があった。

建物は壊れた。

街は傷ついた。

監理局は動き、人を守り、欠片を封じた。


それでも三人は、また見たいと言った。


壊れた街の続きを。


戻された過去ではなく、これから直っていく街を。


職員は小さく息を吐き、少しだけ笑った。


「では、そのためにも報告書です」


三人は同時に言った。


「はーい!」


その声は、臨時拠点の白い壁に明るく響いた。


外の街では、壊れた投影塔の代わりに、人間たちが手持ち灯を掲げていた。


空に鐘はない。


けれど、小さな光がいくつも揺れている。


それは、監理局が守ったものだった。


壊れなかったものではない。


壊れても、続いていくものだった。



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