第二章 無賃乗車の灯
朝の第七遅延区には、独特の時間が流れる。
夜のうちに届いた貨物の整理、乗客記録の照合、各番線の点検報告書の提出。普通の鉄道の朝と同じように見えるが、ここでは整理される荷物が違う。担当者たちは淡々と、選ばれなかった未来や届かなかった言葉の入った箱を、番号順に棚へ並べていく。
すずなは、そのすべてを終わらせてから七番線へ戻った。
貨物車両の扉は、昨夜のままだった。
かんぬきはずれていない。逃げた形跡もない。
すずなは一度だけ息をついてから、扉を開けた。
灯野ミオは、いた。
昨夜と同じ場所に、同じように膝を抱えて座っていた。ただ、眠っていた。壁に頭を預けて、小さく呼吸している。昨夜より輪郭の光は薄くなっていて、朝の明かりの中では、すっかり普通の少女のように見えた。
すずなはしばらくそのままにしておこうと思ったが、キップがすずなの肩で咳払いをした。
「起こせ」
「もう少し──」
「新人、業務時間は始まっている。主任への報告をいつまでも先延ばしにできると思うな」
すずなは小さくため息をついた。
「灯野さん」
呼びかけても動かない。もう一度、少し大きく呼んだ。
「灯野さん」
ミオがゆっくりと目を開けた。寝起きの目でぼんやりとすずなを見て、それから、はっとした顔になった。
「……逃げてない」
「ええ」
「ほんとに朝まで待ったんだ」
ミオが言った。驚いているような、不思議そうな声だった。
「言ったので」
ミオはのろのろと立ち上がり、壁に手をついた。足元がふらついている。すずなは思わず手を伸ばしかけて、途中で止めた。ミオはすずなの手を見て、それから自分で体勢を立て直した。
「大丈夫」
「……はい」
二人は貨物車両を出て、ホームへ移動した。朝の第七遅延区は、夜とは違う静けさがある。乗客の気配はなく、遠くの番線で駅員が荷物を運ぶ音だけが聞こえる。
「ここに座って下さい」
すずなはベンチを手で示した。
「わかった」
ミオは素直に座った。キップはすずなの肩から降りて、ベンチの背もたれの上に乗り、二人を見下ろした。補助車掌としての位置を確保しているのか、それとも単に高いところが好きなのかは、すずなにはいまだにわからない。
「名前は昨夜聞きました。灯野ミオさん。管理局のどのデータベースにも存在していません」
すずなはノートを開いた。
「いくつか確認させてください。いつ、どこからこの列車に乗ったか、覚えていますか?」
「覚えてない」
「どこへ向かおうとしていたか」
「どこにも」
「切符を持っていないのは、持てなかったからですか。それとも最初から持つつもりがなかったから?」
ミオはしばらく考えた。
「切符って、どこで買うの?」
すずなは手を止めた。
「管理局の窓口か、乗車駅のホームで購入できます」
「わたしが来たところには、窓口もホームもなかった」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味」
ミオは膝の上に手を乗せ、ホームの端を見た。
「気がついたら、列車の中にいた。それだけ」
キップが口を開いた。
「どの列車だ」
「暗い列車。貨物みたいな感じの。荷物がたくさん積まれてて、隙間から銀河が見えた」
「乗り継ぎの記憶は?」
「ない」
「乗る前の記憶は?」
ミオは少し間を置いた。
「……ない。あるはずなんだけど、うまく思い出せない。いくつか断片みたいなのはある。白い部屋。すごく静かな場所。何かが消えていくときの音」
キップの耳がぴんと立った。すずなはキップを見た。キップはすずなを見なかった。前を向いたまま、少しだけ毛を逆立てている。
「キップ、何か、わかりますか」
すずなは小声で尋ねた。
「今は何も言えない」
珍しい言い方だった。「規則ではこうだ」でもなく、「吾輩が判断する」でもない。
「管理局の記録照会をしたいが、新人の権限では見られない資料がある。今日中に動く」
「動くというのは」
「主任に報告するということだ」
すずなは黙った。そうなるとわかっていた。昨夜の時点で本来は報告するべきだった。一夜遅らせたことは、すでに規則から外れている。
「主任に話せば、灯野さんはどうなりますか?」
「規則通りなら、管理局の一時管理室へ移送される。身元確認が取れるまでそこにいる。だが、管理局の記録に存在しない乗客の身元確認は、通常の手順では困難だ。長期間、管理室に留め置かれる可能性がある」
「管理室というのは」
「拘束ではない。ただ、外へは出られない」
すずなはミオを見た。ミオはすずなたちの会話を聞きながら、特に動揺した様子がなかった。あきらめているのか、それとも感情を出さないようにしているのか。
「わかりました」
すずなは立ち上がった。
「主任に報告します。ただ、その前に──灯野さん、もう少し話を聞かせてもらえますか」
「何を?」
「何でも。自分のことで、覚えていることを」
ミオは少し考えてから、口を開いた。
「好きな食べ物とか?」
「……それでも」
「柔らかいものが好きだと思う。硬いものは、なんか、あんまりよくない気がする。あと、銀河の景色が好き。なぜか昔から見てた気がする」
「昔から、というのは?」
「わかんない。でも、初めて見た感じがしない」
すずなはそれを書いた。ノートに書いてから、少し変だと思った。これは職務上の記録ではない。ただの少女の好みだ。でも、消したくなかった。
「管理局に来たことはありますか。以前に」
「たぶん、ない。でも」
「でも?」
「管理局の建物の形を知ってた。来る前から。外から見て、ああ、こんな感じか、って思った」
すずなは手を止めた。
「建物の形を知っていた」
「うん。夢で見てたのかもしれない。よくわかんないんだけど」
キップがすずなの肩に戻ってきて、耳元で言った。
「報告の前に、吾輩に一つだけ確認する時間をくれ」
「何をですか」
「旧記録書庫へ行く。新人には入室権限がないが、補助車掌の権限で入れる。一時間もあれば足りる」
すずなはキップを見た。普段、規則の話をするときと、今の顔つきが違う。
「何を調べるんですか」
「分岐存在の記録だ」
その言葉を、ミオが聞いていた。
「分岐存在」
ミオの声が、少し変わった。
「それって、わたしのこと?」
「まだわからん」
キップはそう言ったが、すずなにはわかった。キップには、すでに見当がついている。
一時間、すずなはミオと駅員休憩室で待った。
正確には、ミオを連れ歩くわけにはいかないので、すずなが外で見張り、ミオを休憩室の中にいてもらう形だった。扉は閉めなかった。閉じ込めではなく、待機だということを、すずななりに気にかけた。
廊下から声をかけた。
「何か食べますか。管理局の食堂は朝食を出しています」
「いい」
「昨夜から何も食べていないでしょう」
「平気」
「……体調は」
「平気だって」
ミオの声は素っ気なかったが、怒っている感じではなかった。すずなはしばらく廊下に立っていて、結局、食堂から飲み物だけ二人分持ってきた。
扉の前に置いた。
「飲まなくてもいいですが、あります」
しばらくして、扉の向こうから、カップを手に取る音がした。
すずなは壁にもたれ、懐中時計を見た。針はまだ正確には動いていない。ミオが近くにいると、時計はいつもこうなる。逆でも正でもない、どこへ向かうかわからない動き方をする。
管理局に来て一ヶ月のあいだ、すずなは規則を一度も破らなかった。
それが自分の仕事の仕方だと思っていた。規則を守ること、記録をつけること、定刻を定刻として維持すること。感情で動かないこと。
昨夜、初めてそこから外れた。
後悔しているか、とキップに聞かれた。
いいえ、と答えた。
それは本当だった。ただ、本当だということが、すずなには少し不思議だった。
「ねえ」
扉の向こうからミオが言った。
「駅員さんって、いつからここで働いてるの?」
「……駅員見習いです。働き始めたのは一ヶ月前です」
「なんでここを選んだの?」
「能力があったからです。わたしには、定刻から外れた人が見えます。管理局はその能力が必要だと言いました」
「それだけ?」
すずなは少し考えた。
「ここなら、わたしが見ているものに、名前をつけてもらえると思いました」
「名前?」
「幼いころから、誰にも見えないものが見えていました。ホームで列車を待つ人。改札の前で立ち尽くす子ども。でも、普通の駅では誰もいないと言われる。だから、自分が見ているものが何なのか、ずっとわからなかった。ここへ来て、初めて、定刻から外れた人たち、という言葉をもらいました」
廊下に沈黙が落ちた。
「へえ。それで、すっきりした?」
「少し」
「少しだけ?」
「名前をもらっても、自分が何者なのかはまだわかっていませんから」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
「……そっか」
ミオが小さな声でそう言ったとき、廊下の向こうからキップが戻ってくるのが見えた。小さな体で精一杯急いでいる様子だったが、早足には限界がある。すずなは立ち上がり、キップを迎えに行った。
キップの顔を見て、すずなは何かを悟った。
「わかりましたか」
「ああ」
キップの声に普段の尊大さがなかった。
「新人、ミオを呼んでくれ。三人で話す必要がある」
休憩室の中で、三人が向かい合った。
キップはテーブルの上に乗り、書類の写しを一枚広げた。旧記録書庫から持ち出してきたものらしい。紙は古く、端が茶色くなっている。
「管理局は過去に、複数回の大規模時間修正を行っている。時間修正とは、世界の時刻表に重大な誤差が生じたとき、機構が強制的に経路を書き換えることだ。乗り物に例えるなら、本来の線路が廃止されて、別の路線が正規のルートになる、という話だ」
「それは知っています。研修で習いました」
「ではこちらは知らんだろう」
キップは書類を示した。
「時間修正が行われると、廃止された路線の上にあった未来は、原則として消滅する。だが、修正の際に──ごく稀に、消えるはずだった未来の残骸が、銀河鉄道の路線上に迷い込むことがある」
ミオが、黙ってキップを見ていた。
「残骸というのは、未来の情報だ。記憶、人格、存在の痕跡。それが、列車の中へ紛れ込む。管理局の記録では、これを──」
「分岐存在、と呼ぶ」
すずなが言った。
「そうだ」
ミオが、口を開いた。
「わたしが、それ?」
「おそらく」
キップは真っすぐにミオを見た。
「二十七年後の未来で生まれるはずだった人物に関連する記録が、旧書庫に一件だけある。名前の記述が断片的で読み取りにくいが、灯野、という字が含まれている」
ミオは動かなかった。
「その未来は、十二年前の大規模修正で消滅した。修正の対象になったのは、ある分岐点での選択が世界の時刻表に大きな誤差を生じさせたからだ。詳しい内容は機密指定になっていて、吾輩の権限では読めない」
「つまり、灯野さんは、本来は生まれるはずだったけれど、その未来が消されたから、正式には存在しない」
「正確には、まだ生まれてもいないまま、未来ごと消えた、ということになる」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ミオは膝の上を見ていた。手を軽く握って、開いて、また握った。
「そっか。死んでるわけじゃないんだ」
「死んでいるわけではない」
「じゃあ生きてる?」
「……それも、正確には判断が難しい」
「どっちでもない」
「強いて言えば、存在の有無が確定していない、という状態だ」
ミオはしばらく考えた。それから、少し笑った。力のない笑い方だった。
「なんか変な感じ。自分の話なのに、ぜんぜんピンとこない」
「当然だ。あなたには、それを理解するための経験がない。消えた未来から来たのだから」
「ねえ、わたし、このままだとどうなるの?」
キップは一瞬、間を置いた。
「管理局に知られれば、処理される」
「処理というのは」
「回収だ。存在を消す処理ではなく、分岐の痕跡として封じて、管理下に置く。ただし、その状態がどういうものかは……管理局の判断次第だ」
「消えるのと、変わらない感じがする」
ミオの声は感情的ではなかった。
すずなは、研修で一度だけ見た一時管理室の扉を思い出した。
白い扉だった。鍵は外側にあり、窓はなかった。
説明した職員は、拘束ではありません、と言った。
ただ、外へは出られません、とも言った。
その二つの言葉が、同じ意味ではないことを、すずなはそのとき深く考えなかった。
でも今は、その白い扉の向こうにミオがいるところを想像してしまった。
昨夜から、ずっと気になっていたことがある。ミオは怖がっていない。怒ってもいない。ただ、何かをはじめからあきらめているような、そういう静けさがある。
「灯野さん、昨夜、列車に乗る前の記憶がないと言いましたね」
「うん」
「その前も?」
「ある。でも、断片みたいな感じで、つながってない。白い部屋。銀河の景色。誰かの声。それくらい」
「顔は?」
「見えない」
「怖いですか?」
ミオはすずなを見た。
「何が?」
「記憶がないことも、自分の存在が確定していないことも、管理局に処理されることも」
ミオは少し考えた。
「怖いかどうか、よくわかんない。怖い、って感じるためには、失うものがないといけない気がして。わたし、失うものが何もないから」
すずなは黙っていた。
「ねえ、駅員さん、わたしを隠してくれるの? 今日も」
すずなは答えなかった。
キップを見た。キップはすずなを見ていた。止めるつもりなら、今が言い時だ。昨夜のように黙っていれば、それはキップなりの合図になる。
キップは何も言わなかった。
「主任への報告は、もう少し待ちます」
「少しというのは、どれくらいだ」
キップが尋ねた。
「灯野さんのことをもう少し把握するまで。状況を理解しないまま引き渡すのは、適切な対応とは言えません」
「規則の解釈が都合よくなってきているな、新人」
「第二条第三項です。異常を発見した場合は、速やかに現地確認を行うこと。まだ確認が終わっていません」
キップはしばらくすずなを見ていた。それから、ふんと鼻を鳴らした。
「書庫の資料は返却してくる。新人は引き続き七番線の観察記録をつけろ。ミオ」
「何」
「管理局の制服を着た人間に近づくな。廊下はすずなの案内なしに歩くな。質問はすずなを通せ。いいな」
ミオはキップを見て、少し目を細めた。
「ちび車掌が守ってくれるの?」
「うるさい」
「かわいい」
「吾輩は補助車掌だ。吾輩が守るのは規則であって……」
キップは途中で言葉に詰まった。
「とにかく、余計なことをするな。以上だ」
キップは書類を口にくわえて、休憩室を出ていった。すずなとミオは、しばらく二人で残された。
ミオがすずなを見た。
「駅員さん、変だよね」
「何がですか」
「わたし、なんのために助けてもらえてるのかわからない」
「わたしも、まだわかっていません」
「は?」
「感情で動くのが苦手なので。理由を整理するのに、時間がかかります」
ミオはしばらくすずなを見て、それから笑った。
「正直なんだ」
「嘘をつくのも苦手なので」
「駅員さん、わたしのこと、かわいそうだと思ってる?」
すずなは考えた。本当に考えた。かわいそう、という感情が自分の中にあるかどうかを確認した。
「いいえ」
「ほんとに?」
「かわいそうという感情は、相手の状況を外側から見たときに出てくると思います。わたしはまだ、あなたの状況を外側から見られていません。近すぎて」
ミオが、少しだけ目を丸くした。
「近すぎて?」
「昨夜から、懐中時計が止まっています。あなたが近くにいる限り、わたしの時計は正確な時刻を刻みません」
すずなは胸元の時計に触れた。
「管理局に来て一ヶ月、一度もなかったことです。かわいそう、より先に、わからない、があります」
ミオはすずなを見ていた。何か言いかけて、やめた。
代わりに、窓の外を見た。
七番線のホームが見える。昨夜ミオがいた貨物車両が、ひっそりと停まっている。銀河の縁の朝は、どこか白みがかった光をしていた。
「ねえ、駅員さん」
ミオが窓の外を見たまま言った。
「わたし、たぶん長くここにはいられない。管理局に見つかったら終わりだし、見つからなくても、分岐存在っていうのは、時間が経つと薄れていくんでしょ。昨夜より今朝のほうが、自分でも光が弱くなってるの、わかるから」
「……そうですか」
「だから、そんなに頑張らなくていいよ。駅員さんが規則を破ってまで、わたしを守る必要はないから」
すずなはミオを見た。
ミオは窓の外を見たまま、穏やかな顔をしていた。
すずなは何も言わなかった。
代わりに、ノートを開いた。提出用の報告書に写す前の、現場記録だった。今日の記録の続きを書いた。七番線の観察記録、分岐存在についての概要、キップが書庫で確認した内容。事実だけを、順番に書いた。
最後の行に、一行だけ追加した。
──灯野ミオ。管理局に記録なし。七番線にて観察継続。
ノートを閉じて、ポケットにしまった。
「灯野さん」
「ミオでいい」
「……ミオさん」
「さんもいらない」
すずなは一呼吸置いた。
「ミオ」
「なに」
「長くいられないかどうかは、わかりません。でも、今ここにいるのは事実です。それを確認しないうちに、手放すことはしません。わたしの懐中時計がまだ止まっているうちは」
ミオが、すずなを見た。
「……なんで時計が基準なの」
「わかりやすいので」
「それ、感情じゃないの」
すずなは少し考えた。
「そうかもしれません」
ミオはしばらくすずなを見て、それから小さく吹き出した。声を出して笑った。
「変なの、すずな」
名前で呼ばれた。
すずなは少し驚いたが、訂正しなかった。
窓の外から朝の光が差し込んで、ミオの輪郭が昨夜よりも少しだけ薄く、でも今この瞬間だけは、確かにそこに存在している感じがした。
懐中時計が、ポケットの中でかすかに動いた。
正しい方向にではない。でも、止まったままでもない。
どこへ向かうかわからないまま、少しだけ、動こうとしていた。
その日の勤務が終わるころ、すずなの足は少し重くなっていた。
深夜巡回に入った駅員見習いは、翌日の通常業務から外される。定刻を扱う管理局で眠気による記録の乱れは、もっとも避けるべきものの一つだった。
すずなは休憩室の場所と食堂の利用時間だけをミオに伝え、必要なものをそろえてから、ようやく宿直室へ戻った。
眠る前に懐中時計を見ると、針はまだ、正しい方向とは違うどこかへ動こうとしていた。




