第9話:救世主を演じる準備
遠くに見える巨大な岩山と防壁を目指し、男は淀んだ紫色の空の下を歩き続けていた。
頭の中はすでに、これから始まる極上の生活への期待と、いかにして砦の人間たちを自らの足元にひれ伏させるかという打算的な計算で完全に埋め尽くされている。
ただの遭難者や迷い人として砦の門を叩く気は毛頭なかった。それでは相手と対等、あるいは下手に出なければならなくなる。見ず知らずの余所者として扱われ、砦のルールに従わされるなど、絶対的な力を手に入れた今の彼にとっては屈辱以外の何物でもない。男が求めているのは、絶対的な支配者としての確固たる地位だ。そのためには、登場の瞬間から強烈なカリスマ性と圧倒的な優位性を連中に叩きつける必要がある。
「俺は、大いなる使命を持ってこの絶望の地に降臨した勇者……。そう、世界を救うための救世主だ」
男は歩きながら、ニヤニヤと歪む口元を無理やり引き締め、わざとらしく低い声で呟いてみた。
ただ己の力をひけらかして暴れ回るだけの暴君では、無用な警戒心を抱かせ、いずれ反乱の種を生むかもしれない。奴らに心から服従し、自ら進んで全てを差し出させるには、「このお方にすがりつくしか我々が生き残る道はない」と盲信させるのが最も効率的だ。かつての世界で、周囲の無知な人間たちが自分をどう崇め奉っていたかを思い出しながら、男は尊大で威厳に満ちた口調を頭の中で何度も反芻した。
立ち止まり、自らの身なりを見下ろす。
地下牢での一年間に及ぶ生活で衣服はボロ布のように擦り切れ、先ほどの容赦のない虐殺によって魔物の赤黒い返り血を全身にたっぷりと浴びている。このままでは、救世主というよりはただの狂った殺人鬼に見えかねない。
男は忌々しげに舌打ちをすると、衣服にこびりついた大きな血の塊や肉片を手で払い落とした。完全に綺麗にすることは不可能だが、逆にこのボロボロの姿を利用してやろうと男は考えた。
「恐ろしい魔物の群れとたった一人で何日も戦い抜き、ようやくこの地に辿り着いた孤高の戦士……。うむ、悪くない設定だ。むしろこの血の汚れは、俺の強さと過酷な戦いを証明する箔になる」
身勝手な演出プランを固めると、男はわざと胸を張り、ゆっくりとした重厚な足取りで歩き始めた。顔つきも、醜い傲慢さをうまい具合に隠し、威厳と慈悲を装ったような表情へと作り変える。息を深く吸い込み、堂々とした声を荒野に響かせる練習すら始めた。
「恐れることはない、脆弱な民たちよ。この俺が来たからにはもう安心だ。俺に全てを委ね、忠誠を誓うのであれば、必ずや平穏を与えてやろう……クククッ、傑作だな。連中の泣いて喜ぶ顔が目に浮かぶぜ」
誰もいない荒野で一人、独り芝居を続ける男の姿は滑稽極まりなかったが、本人は至って真剣に自らの演出効果を高めることだけを追求していた。他者を騙し、利用することへの罪悪感など微塵もない。
そんな時だった。
砦まであと少しという距離に点在する岩陰から、微かな呻き声が男の耳に届いた。
立ち止まり、警戒しながらそちらへ視線を向ける。岩の裏側に倒れていたのは、砦の偵察兵か何かだろうか、粗末な革鎧を着た一人の人間の若者だった。
若者の周囲には、先ほど男が粉砕したのと同じ異形の魔物の死骸が数体転がっている。どうやら多勢に無勢で襲われ、相打ちに近い形で致命傷を負ったらしい。若者の腹部は鋭い爪で大きくえぐられ、夥しい量の血が赤茶けた大地を黒く染めていた。虫の息であり、放っておけば数分で命を落とすことは誰の目にも明らかだった。
男の足音に気づいたのか、若者は焦点の合わない目を必死に向け、血まみれの震える手を男の方へと伸ばしてきた。
「た、たす……けて……。砦に……妹が……」
掠れた、必死に懇願するような声。
もしここで男が彼を抱え上げ、急いで砦まで連れて行けば、あるいは一命を取り留めるかもしれない。たとえ死んだとしても、瀕死の仲間を助けようとしたその姿勢は、砦の人間に大きな感動と信頼を与えるだろう。
しかし、男の冷酷な瞳は、足元で命を散らそうとしている若者をまるで道端の汚い石ころでも見るかのように見下ろしていた。
男の頭の中で、瞬時に極めて冷徹な計算が弾き出される。
こいつを助けるメリットはあるか。答えは否だ。こんな死にかけの重傷者を抱えて歩けば、せっかく練習した威厳ある歩き方が台無しになる。服に余計な血がつくし、何より重くて面倒くさい。
それに、こいつが生き残ってしまえば、「なんだ、あの恐ろしい魔物相手に相打ちに持ち込める人間もいるじゃないか」と、自分が魔物を瞬殺したことの価値が相対的に下がってしまうかもしれない。自分が絶対的な存在として君臨するには、他の人間は徹底的に無力でなければならないのだ。
「ふん。自分の身も守れないような弱者は、ここで死ぬのがお似合いだ」
男は冷たく吐き捨てると、助けを求めてすがりつこうとした若者の血まみれの手を、無造作に足で強く蹴り払った。
「あ……」
絶望に目を見開く若者を冷酷に見下ろしながら、男は卑劣な笑みを浮かべる。
「お前はここで死ね。だが安心しろ、お前の死は無駄にはしない。俺が砦の連中にこう伝えてやる。道中で勇敢な兵士の亡骸を見つけた。俺の到着があと少し早ければ救えたかもしれない。彼の遺志を継ぎ、俺がお前たちを守ろう……とな。どうだ。最高のお涙頂戴の演出だろう」
男の言葉のあまりの非道さを理解し、若者の瞳に深い絶望と怒りの火が灯った。しかし、それ以上抗議の声を上げる力は残っておらず、若者は大きく痙攣すると、そのまま動かなくなった。
「フン、他愛もない。俺の輝かしい伝説のための踏み台になれたのだ、あの世で感謝するんだな」
他者の命など、自らを飾るための便利な小道具程度にしか考えていない。男は微塵の罪悪感も抱くことなく、若者の遺体を靴底で踏み越えて歩き出した。
目の前に迫る巨大な防壁。いよいよ、男にとっての最高の舞台の幕が上がろうとしていた。己の利己的な欲望と卑劣な本性を分厚い仮面の下に隠し、男は救世主としての堂々たる足取りで、人間最後の砦へと向かっていった。




