第10話:最後の砦への帰還
死の荒野を抜け、赤茶けた大地を踏み締めながら進んできた男の前に、ついにその全貌が立ちはだかった。
遠目からでも巨大に見えたその防壁は、直下で見上げるとさらに圧倒的な威圧感を放っていた。岩山そのものをくり抜いて繋ぎ合わせたかのような、無骨で堅牢な石造りの壁。その表面には、幾度となく魔物の猛攻を防いできたことを物語る無数の生々しい爪痕や、黒く変色した血の染みがびっしりとこびりついている。見張り台には篝火が焚かれ、厳しい表情をした見張りの兵士たちが四六時中、外の死の世界を監視している。ここは間違いなく、大魔王の支配から逃れ、死に物狂いで生き延びようとしている人間たちの最後の砦であった。
男は立ち止まり、見上げるほど巨大な鉄と木の門を、ねっとりとした欲望の絡みつく視線で舐め回すように見つめた。
(見事な檻だ。だが、今の俺にとっては、極上の獲物が詰まった最高の宝箱に見えるぞ。この中にいる連中は、俺に極上の生活を捧げるための奴隷どもだ)
腹の底で嘲笑しながら、男は堂々とした歩みで門へと真っ直ぐに近づいていく。
その異常事態に、壁の上で常時警戒にあたっていた見張りの兵士たちがすぐに気がついた。
「お、おい! あそこを見ろ! 門の前に誰かいるぞ!」
「馬鹿な、こんな死の荒野に人間が単身でいるはずがない! 魔物の擬態か、新手の化け物だ!」
防壁の上から、張り詰めた緊張と恐怖の入り混じった声が次々と飛び交う。兵士たちにとって、防壁の外は完全なる死の世界である。武装した精鋭部隊ですら、一歩外に出れば生きて帰れる保証はない。ましてや、たった一人で、しかも身なりはボロボロの布を纏っただけの丸腰の人間が、平然と歩いてくるなどという光景は、彼らの常識を完全に破壊していた。
「止まれ! それ以上近づくことは許さん!」
壁の上から怒声が響き渡り、同時にギリギリと弓弦が引き絞られる音が幾重にも重なった。防壁の銃眼から、数十本の鋭い矢の切っ先が、一斉に男へと向けられる。手にした槍を握りしめる兵士たちの手は極度の恐怖と混乱で小刻みに震えていた。相手が人間であろうと魔物であろうと、この砦の安全を脅かす存在であれば容赦なく射抜く。その必死の覚悟が、重い殺気となって男へと降り注ぐ。
しかし、無数の矢を向けられた男は、足を止めるどころか、怯える素振りすら一切見せなかった。
それどころか、わざとらしく深いため息をつき、極めて尊大で威圧的な態度でゆっくりと顔を上げた。
射抜かれるかもしれないという恐怖など、今の男には微塵もない。あの程度のおもちゃのような矢が何百本飛んでこようとも、今の自分から溢れ出す強大な魔力の障壁の前では、小枝が当たるようなものだという絶対的な自信があった。彼にとって、壁の上の兵士たちは、自分の偉大さを引き立てるための哀れな道化でしかない。
男は、事前に荒野を歩きながら頭の中で何度も練習した通り、最も自分を偉大に見せるための表情を作り上げた。醜い傲慢さを威厳という分厚い仮面で包み込み、哀れな弱者たちを導く超越者のような、慈悲と力強さを装った眼差しで、壁の上の兵士たちを静かに見据える。
「武器を下ろせ」
男の口から放たれた声は、決して怒鳴り声ではなかった。だが、その声は不思議なほどよく通り、兵士たちの鼓膜を直接震わせ、彼らの魂を縛り付けるような異様な覇気を帯びていた。
「俺は、この世界を救うために選ばれた勇者だ」
男がそう宣言した瞬間、その場を支配していた空気が完全に凍りついた。
勇者。その言葉の響きに、兵士たちは息を呑む。おとぎ話の中でしか聞いたことのないような存在が、本当にこの絶望の世界に現れたというのか。疑念と混乱が渦巻く中、見張りの隊長らしき初老の兵士が、震える声で叫んだ。
「た、戯言を! 証拠もないのに信用できるか! この荒野には凶悪な魔物がうようよしているんだ! お前のようななりで、たった一人で生き延びられるわけが……」
隊長の言葉は、途中で不自然に途切れた。
彼が男の背後、つまり男が歩いてきた荒野の彼方へ視線を向けたからだ。隊長の視線につられて、他の兵士たちも次々と男の背後へと目を凝らす。
そして、彼らは全員、声にならない悲鳴を上げて絶句した。
澱んだ紫色の空の下、赤茶けた大地に延々と続く、異様な赤黒い道。
それは、原型を留めないほどに完全に破壊し尽くされ、すり潰された無数の魔物たちの残骸だった。彼らが束になっても敵わないような凶悪な異形の化け物たちが、文字通り肉の絨毯と化して地平線の先まで転がっていたのである。
「あ、ああ……」
誰かが、祈るように武器を取り落とした。カラン、という虚ろな音が砦の壁に響く。
その凄惨な惨状は、目の前に立つこの一人の男が、たった一人で成し遂げたという紛れもない証拠だった。男が全身に浴びている夥しい量の血は、彼自身のものではなく、魔物たちを一方的に蹂躙した際に浴びた返り血なのだと、全員が直感で理解した。
兵士たちの心の中で、男に対する警戒心は一瞬にして絶対的な畏怖へと変わり、そして次の瞬間には、大魔王の恐怖から逃れられるかもしれないという圧倒的な希望へと反転した。
神話の時代から抜け出してきたかのような、常軌を逸した力を持つ存在。彼ならば、この絶望の世界を、大魔王の脅威を本当に打ち払ってくれるかもしれない。
「門を……門を開けろおおおっ!!」
隊長の涙ながらの絶叫が、防壁の上に響き渡った。
ギギギギギギッ……。
鼓膜を劈くような金属の軋む音とともに、大魔王の軍勢から逃れるために長らく固く閉ざされていた最後の砦の重厚な門が、たった一人の男を迎え入れるためにゆっくりと開かれていく。
門の隙間からは、微かな灯りと、生活の匂い、そして壁の上の騒ぎを聞きつけて集まってきた砦の民たちのどよめきが漏れ聞こえてきた。
「勇者様だ!」「世界を救う勇者様が降臨されたぞ!」
開かれていく門の向こう側から、狂喜の歓声と、神にすがりつくような祈りの声が波のように押し寄せてくる。誰もが目を輝かせ、自分たちを死の恐怖から解放してくれる救世主の姿を、今か今かと待ちわびていた。
男は、その熱狂的な歓迎の声を聞きながら、ゆっくりと門の中へと足を踏み入れた。
(ククク……馬鹿な下民どもめ。そうやって俺を崇め、俺に全てを捧げろ。お前たちのちっぽけな命も、砦の財産も、全てはこの俺様のものだ)
男は威厳に満ちた救世主の顔を崩さぬよう、正面を見据えたまま堂々と歩き続ける。
しかし、歓声に沸くガイナックスの人々の誰一人として、その威厳ある仮面の下、男の口元に張り付いたおぞましく邪悪な笑みに気がつく者はいなかった。




