第5話:蘇る魔力と襲来する脅威
紫色の空の下、淀んだ重い空気をかき分けるようにして、男は赤茶けた荒野を歩き続けていた。
どこへ向かえばいいのかもわからず、ただ本能の赴くままに足を進める。周囲には不気味にうねる奇怪な植物が点在し、どこからともなく吹いてくる生温かい風が、それらの枝葉を擦れ合わせて気味の悪い音を立てていた。
男の心の中には、未知の世界に対する恐怖と、体内で脈打つ得体の知れない熱への困惑が入り混じっていた。
しかし、その静寂は唐突に破られた。
グルルルル……という、地の底から湧き上がるような低い唸り声が、四方八方から響き渡ったのだ。
男がハッとして足を止めると、奇妙な植物の陰や、赤茶けた岩の裏側から、次々と異形の影が姿を現した。
それは、男が元の世界で見てきたどのモンスターとも異なる、悍ましい姿をした魔物の群れだった。四つん這いの体は皮膚が剥き出しになったように赤黒く爛れており、筋肉の繊維が異様に盛り上がっている。頭部には目鼻がなく、ただ巨大な裂け目のような口だけが存在し、そこにはノコギリのように鋭く不揃いな牙がびっしりと並んでいた。口の端からは、強酸性の黄色い唾液がボタボタと垂れ落ち、それが地面に触れるたびにジュウジュウと嫌な音を立てて土を溶かしている。
「ひっ……!」
その圧倒的な暴力の気配を前に、男の喉から情けない悲鳴が漏れた。
彼は魔力を奪われて以来、ただのひ弱な人間に過ぎない。地下牢での一年間でやせ細った体では、まともに走って逃げることすら不可能だった。
魔物たちは獲物を品定めするようにゆっくりと包囲網を縮め、いよいよ一斉に飛びかかろうと後ろ足に力を込める。
「く、来るな……来るなあああっ!」
男は完全に腰を抜かし、無様に尻餅をついた。ガチガチと歯の根が合わず、恐怖で顔面は蒼白に染まる。這いずって後ずさりしようとするが、足がもつれてうまく動かない。
目前に迫る巨大な牙。死の恐怖が脳天を貫き、男はせめてもの防御姿勢をとるように、両手を反射的に前へと突き出した。
終わった。そう直感し、男が強く目を閉じたその瞬間だった。
ドクンッ!!
男の心臓が、これまで経験したことのないような巨大な鼓動を打ち鳴らした。
同時に、体の中でくすぶっていたあの異常な熱量が、堰を切った濁流のように全身の血管を一気に駆け巡り、突き出した両手に向かって爆発的に集束していった。
「おおおおおおおおっ!?」
男の叫びと共に、彼の手のひらから凄まじい光の奔流が放たれた。
それはかつて彼が操っていた魔力の色とはどこか違う、赤黒い瘴気を纏った圧倒的なエネルギーの渦だった。放出された莫大な魔力は瞬く間に男の周囲に半球状の巨大な障壁を形成し、荒野の空気を震わせて轟音を轟かせた。
ドゴォォォォンッ!!
飛びかかってきていた十数体の魔物たちが、展開された強固な魔法の障壁に激突した。彼らの鋭い牙も、強靭な肉体も、その圧倒的な魔力の壁の前では紙屑も同然だった。凄まじい衝撃波が周囲に吹き荒れ、魔物たちは悲鳴を上げる間もなく弾き飛ばされ、数十メートル後方の岩肌に激突して次々と絶命していく。
周囲にはもうもうと土煙が舞い上がり、ビリビリとした魔力の余波が大気を震わせている。
男は突き出した両手を見つめたまま、呆然と固まっていた。
「ま、魔力が……俺の魔力が……?」
信じられなかった。ダークエルフの罠によって完全に枯渇し、二度と戻ることはないと絶望していたはずの魔力が、今、自分の中から滝のように溢れ出しているのだ。それも、かつて勇者としてもてはやされていた頃のピーク時すらも遥かに凌駕するほどの、圧倒的で暴力的な絶対量となって。
さらに、男の驚愕はそれだけにとどまらなかった。
脳の奥底、魂の深い部分で、長らく断絶していた「回路」が繋がる感覚があったのだ。
それは、召喚師にとって命よりも重要なもの。異界の存在と己を繋ぎ、意のままに使役するための魂の道筋。その感覚が、かつてないほど鮮明に、そして太く強靭になって蘇っているのをはっきりと確信した。
「……ははっ」
男の口から、乾いた笑いが漏れた。
手のひらを何度も握り開きし、体中を巡る絶対的な力のうねりを確かめる。間違いなく、力は戻った。いや、戻ったなどという生易しいものではない。この満ち溢れる強大な力があれば、どんな存在すらも屈服させることができる。
「はははははっ!あーっはははははははははっ!!」
紫色の淀んだ空に向かって、男は顔を歪ませ、狂気に満ちた高笑いを響かせた。
先程まで死の恐怖に怯え、地面を這いずり回っていた情けない姿は完全に消え失せていた。そこにあるのは、再び絶対的な力を手に入れ、万能感に酔いしれる傲慢な人間の姿だった。
「戻った!俺の力が戻ったぞ!いや、以前よりもはるかに強大だ!やはり俺は選ばれた存在だったんだ!俺を閉じ込めたあのクソどもめ、見ていろ!この力で、お前らを一人残らず跪かせてやる!」
男の笑い声に呼応するかのように、彼の体から赤黒い魔力がオーラのように立ち上り、周囲の空間を陽炎のように歪ませる。
未知の荒野の真ん中で、再び力を得た元勇者は、己の身勝手な欲望と復讐心だけを胸に、狂喜の叫びを上げ続けていた。




