第4話:未知なる荒野への降臨
暗闇の底へと身を投げ出したはずの男の意識は、突如として全身を打つ硬い衝撃と共に途切れた。次に彼が感覚を取り戻したのは、頬に触れるひどく乾いた土の感触と、鼻腔を突く未知の匂いによってだった。
「……う、あ……」
唸り声を上げながら、男はゆっくりと重い瞼を押し上げる。直前までいた光の全く届かない地下牢の暗闇に慣れきっていた瞳には、そこへ降り注ぐ異質な光が鋭く突き刺さった。眩しさに顔をしかめ、腕で顔を覆いながら、男は体を起こそうとする。這いつくばっていた泥水と腐った藁の感触はどこにもない。彼が手をついた場所は、水分を完全に失って無数にひび割れた、赤茶けた硬い大地だった。
視界が徐々に光に慣れてくるにつれ、男の目に信じがたい光景が飛び込んできた。
「ここは……どこだ……?」
思わず呟いた掠れた声は、遮るもののない広大な空間へと空しく吸い込まれていった。
男が見上げた空は、彼の知る澄んだ青色でも、夕暮れの茜色でもなかった。それはまるで腐敗した血と毒を混ぜ合わせたような、淀んだ紫色に染まりきっていたのだ。太陽と呼べるような明確な光源は見当たらないにもかかわらず、空全体が不気味な薄明かりを放っている。空には雲とも煙ともつかない、黒ずんだ靄のようなものがねっとりと這うようにゆっくりと流れていた。
呼吸をするたびに、肺の奥底に重く沈み込むような不快感があった。地下牢のひどい悪臭や腐敗臭からは解放されたものの、ここにある空気はあまりにも異質だった。鉄錆のような生臭さと、微かな硫黄のような匂いが混ざり合った、物理的な重さすら感じるような息苦しい空気。一口吸い込むだけで、内臓を直接撫で回されているかのような悍ましい感覚に陥る。
男はよろめきながら立ち上がり、周囲を見渡した。どこまでも続く赤茶けた荒野には、彼の知る草木など一本たりとも生えていなかった。代わりに点在しているのは、黒褐色のねじ曲がった奇妙な植物らしき物体である。それはまるで苦悶の表情を浮かべた人間の腕が地面から無数に生え、天に向かって助けを求めているかのような、極めて奇怪でグロテスクな形状をしていた。葉はなく、鋭い棘がびっしりと生え揃い、幹の表面からはドロリとした粘液のようなものが滲み出ている。
風が吹くたびに、その奇妙な植物同士が擦れ合い、まるで誰かがヒソヒソと嘲笑っているような気味の悪い音を立てていた。
生命の息吹というものが全く感じられない、完全に死に絶え、呪われた大地。それが男の直感的な感想だった。ここには鳥のさえずりも、虫の音もない。あるのは遠くから時折響いてくる、獣の咆哮とも大地が軋む音ともつかない、不気味な重低音だけである。
「嘘だろ……。本当に、別の世界に飛ばされたっていうのか……?」
あの地下牢の暗闇で出会った、漆黒のマントを羽織った謎の男。彼が出現させた重厚な扉。そして、世界を救えという言葉。
己の権力欲と力への渇望だけで何も考えずに飛び込んだ男だったが、目の前に広がるあまりにも常軌を逸した光景を前にして、ようやく事の重大さと異常性を理解し始めていた。ここは明らかに自分のいた世界ではない。理や法則そのものが根本から異なっている、全くの別次元なのだ。
悪臭に満ちた地下牢から抜け出せたことの安堵よりも先に、得体の知れない環境に対する生物としての本能的な恐怖が男の全身を粟立たせる。背筋に冷たい汗が流れ落ち、膝が小刻みに震え始めた。
(俺は、とんでもない場所に足を踏み入れてしまったんじゃないのか……?)
これまでは強大な魔力という絶対的な盾があったからこそ、どんな場所でも傲慢に振る舞うことができた。しかし、今の自分は魔力を奪われたただの脆弱な人間に過ぎない。こんな正体不明の恐ろしい荒野に一人で放り出されれば、あっという間に見知らぬ野獣の餌食になるか、飢えと渇きで野垂れ死ぬ未来しか見えない。
本能的な恐怖と後悔が、男の心に急速に広がり始めた。
だが、その時だった。
絶望的な状況にパニックを起こしかけていた男は、自分の体に決定的な異変が起きていることに気がついた。
「……ん?」
男は自分の両手を見下ろした。一年間にも及ぶ地下牢での劣悪な生活により、骨と皮だけのようにやせ細り、少し動かすだけでも関節が悲鳴を上げていたはずの肉体。重い枷のせいで血が滲み、常に鈍い痛みを放っていたはずの手足。
その痛みが、全くないのだ。
それどころか、体の中心、心臓の奥底あたりから、信じられないほどの熱量がドクン、ドクンと力強い脈動と共に湧き上がってくるのを感じる。それはまるで、枯れ果てた大地に熱く煮えたぎるマグマが直接注ぎ込まれ、全身の血管という血管を駆け巡っていくかのような、圧倒的で暴力的なまでの活力だった。
荒い呼吸を繰り返すたびに、重く息苦しかったはずの空気が、今度は極上の甘露のように男の肺を膨らませ、全身の細胞を歓喜させていく。
男は自分の胸ぐらを掴み、その異常な熱の正体を探ろうとした。明らかに自分の本来の力ではない、何か外部から注ぎ込まれた異質で巨大なエネルギーの奔流。しかし、その圧倒的な全能感と身体の充実感が、先程までの惨めな恐怖を瞬く間に塗り潰していく。
世界が違う。環境が違う。だが、己の体の中で脈打ち始めたこの変化は、間違いなく男が待ち望んでいたものだった。未知なる荒野のただ中で、男の唇が再び、醜く歪んだ三日月のような弧を描き始めていた。




