第3話:謎の男の導きと開かれた扉
圧倒的なプレッシャーに息を呑み、泥水の上に這いつくばったまま硬直する男の頭上から、静かな、しかし地の底から響くような低く冷たい声が降ってきた。
「お前は……力を取り戻したいか?」
その言葉は、男の鼓膜を震わせただけでなく、直接脳の髄にまで響き渡るような不思議な響きを持っていた。
一瞬、男は何を言われたのか理解できなかった。あまりにも長きにわたり、光のない地下牢で絶望と狂気の中を彷徨っていたため、他者から投げかけられたその言葉の意味を処理するのに時間がかかったのだ。
しかし、濁りきった脳細胞が徐々にその単語の羅列を理解し始めると、硬直していた男の身体に、これまでとは全く異質の電流が走った。
力を取り戻す。
奪われた魔力を。失われた召喚術を。かつて自分を絶対的な強者たらしめていた、あの万能感に満ちた栄光の力を。
「あ……ああ……」
恐怖で引き攣っていたはずの男の表情が、一瞬にして醜悪な欲望に歪んでいく。喉の渇きも、手足の痛みも、目の前の謎の人物に対する本能的な恐怖すらも、その一言によって完全に吹き飛んでしまった。
男はガシャンと重い鉄の枷を鳴らしながら、無様に這いずってマントの男の足元へと擦り寄った。
「取り戻したい!当然だ、力を返せ!俺の力だ!俺は選ばれた存在なんだぞ!」
男の口からは、一年間溜め込み続けたどす黒い怨嗟と自己中心的な欲望が、堰を切ったように溢れ出した。ひび割れた唇から唾を飛ばし、血走った両目を大きく見開きながら、狂ったように首を縦に振る。
「あんな薄汚いダークエルフの卑怯な罠さえなければ、俺は今でも王侯貴族のように暮らしていたはずなんだ!それなのに、俺の偉大さを理解できない馬鹿な連中が、俺を見捨てやがった!俺を利用するだけ利用しておいて、魔力がなくなった途端にゴミのように捨てやがったんだ!許せない……あいつら全員、俺の前にひざまずかせて踏み潰してやらなきゃ気が済まない!力を……俺を誰よりも高い場所へ連れて行く、絶対的な力を寄越せえっ!」
薄暗い地下牢に、男の浅ましくも狂気じみた叫び声が響き渡る。
己の軽率さや傲慢さが招いた結果であるという反省は、やはり微塵も存在しなかった。ただひたすらに周囲を恨み、他者を見下し、自分だけが甘い汁を吸う権利があるのだと喚き散らす。その姿はかつて世界を救うと称された勇者のものとは程遠く、欲望のままに喚く醜い獣そのものであった。
しかし、マントの男はその見苦しい姿を咎めることも、呆れることもなかった。
むしろ、漆黒のフードの奥底で、男の底知れぬ身勝手さと強欲さを歓迎するかのように、わずかに空気が歪んだように感じられた。これほどまでに自己中心的で、力に対する執着に塗れた人間であれば、極めて扱いやすい「駒」になる。そう判断したかのように。
「……よかろう。そこまで力を渇望するというのであれば、お前に相応しい試練を与えよう」
マントの男が、闇に同化していた腕をゆっくりと持ち上げた。
すると、男の目の前の虚空が、まるで水面に石を投げ入れたかのようにぐにゃりと歪み始めた。空間そのものが捻じ曲がるような不気味な低い音が鳴り響き、地下牢の腐臭を掻き消すような、濃密で異質な空気が流れ込んでくる。
歪んだ空間の中心から、徐々に一つの巨大な物体が形を成していった。
それは、重厚な石と未知の金属で造られた、見上げるほどに巨大な両開きの「扉」だった。扉の表面には、複雑に絡み合う蔦や、見たこともないような異形の獣たちを象った不気味な装飾がびっしりと彫り込まれている。そして、その彫刻の隙間からは、脈打つような怪しい紫色の光が漏れ出していた。
このじめじめとした地下牢には到底不釣り合いな、あまりにも異質で、そして圧倒的な存在感を放つ扉であった。
「ならば、この扉の向こうに広がる世界を救ってみせよ」
マントの男の声に合わせて、ギギギギ……と、長い間開かれることのなかった金属が擦れ合うような重い音を立てながら、扉がひとりでにゆっくりと開き始めた。
「その世界に降り立ち、お前の望むがままに力を行使しろ。そうすれば、お前の中にある枯渇した魔力は完全に蘇り、かつて以上の絶対的な力を手にすることができるだろう」
開かれた扉の向こう側には、完全な暗闇だけが広がっていた。松明の光すら届かない、底なしの漆黒の空間。そこから吹き込んでくる風は、ひんやりとしていて、どこか血の匂いに似た鉄の香りが混じっていた。
まともな知性を持つ人間であれば、この状況の異常さに気づくはずである。
鍵のかかった密室に現れた正体不明の男。突然虚空から出現した不気味な扉。そして「世界を救え」という甘すぎる誘い文句。これが何らかの恐ろしい罠であり、扉の向こうに待っているのは救いなどではなく、取り返しのつかない破滅であるかもしれないと疑うのが自然だ。
しかし、今の男にはそのようなまともな思考力や、危機を察知する理性など、とうの昔に失われていた。
男の頭の中は、「力を取り戻せる」「かつて以上の力を手に入れられる」という欲望だけで完全に埋め尽くされていた。扉の不気味な装飾も、吹き込んでくる異質な風も、マントの男の怪しさも、今の彼にとっては全くどうでもいい些細なことだった。
「力が……俺の、力が戻る……!俺の世界が、俺の栄光が戻ってくるんだ!」
男は涎を拭うことすら忘れ、ふらつく足で立ち上がった。一年前から彼を拘束し続けていた重い鉄の枷が、扉から放たれる奇妙な力に当てられたのか、ボロボロと砂のように崩れ落ちていく。
自由になった身体で、男は吸い寄せられるように扉へと歩み寄った。一切の迷いも、振り返ることもない。ただ目の前にぶら下げられた欲望という名の餌に食いつくためだけに。
「俺は勇者だ!誰よりも偉大で、誰よりも力を持つ、特別な存在なんだっ!」
歓喜の叫びを上げながら、男は自らその重厚な扉の奥に広がる底なしの暗闇へと、勢いよく飛び込んでいった。
直後、重い扉が鈍い音を立てて完全に閉ざされ、まるで最初から何も存在しなかったかのように空間ごと消滅する。
後には、再び静寂と腐臭だけが残る無人の地下牢と、フードの奥でただ静かに佇むマントの男の姿だけが取り残されていた。




