第43話:悪意への称賛
「ひっ、どうか……どうか命だけは……っ!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにし、黒大理石の床に何度も額を打ち付ける勇者。そのどこまでも無様で卑屈な姿を見下ろしながら、マントの男の口から、くぐもった笑い声が漏れ出した。
「くくっ……あっはははははっ!」
最初は静かな嘲笑だったものは、やがて腹の底から湧き上がるような愉快極まりない高笑いへと変わっていった。
謁見の間に響き渡るその笑い声に、勇者はビクッと肩を跳ねさせ、怯えた子犬のように身をすくめる。殺される。とうとう処刑が始まるのだと、勇者は固く目を閉じて絶望に震え上がった。
しかし、マントの男から紡がれた言葉は、勇者の予想とは全く異なるものだった。
「素晴らしい。実に見事だ、泥棒よ。お前のその浅ましさ、自己の保身のためなら仲間も誇りも平気で捨てるその腐りきった本性。我々の期待を微塵も裏切らない、最高の仕上がりだ」
「え……?」
命乞いを嘲笑され踏みつけられるどころか、最上級の賛辞を送られた勇者は、涙と鼻水で霞む目を丸くしてマントの男を見上げた。
男はゆっくりとしゃがみ込み、フードの奥から覗く冷酷な瞳で、這いつくばる勇者の顔を覗き込む。
「世界を救う? 悪を討ち滅ぼす? くだらない。我々がなぜ、あの薄汚い地下牢からわざわざお前のような人間をこの世界へ呼び寄せたと思っている?」
マントの男の言葉が、冷たい氷の刃のように勇者の鼓膜を突き刺していく。
「正義感に溢れ、他者のために自己を犠牲にするような『真の勇者』など、我々には何の役にも立たないのだ。我々が求めていたのは、誰も信じず、己の欲得だけを満たすためならば、他者を裏切ることに一切の躊躇を持たない最悪のクズ……。そう、お前のような人間の皮を被った醜悪な化け物だけなのだよ」
それは氷のように冷たい、しかし確かな歓喜と称賛であった。
共に旅立った五人の若者を囮にして迷宮で見殺しにしたことも。砦の民衆を騙して狂信的な熱狂を巻き起こしたことも。そして今、命惜しさに尊厳を全て投げ捨てて敵の靴を舐め回しているこの無様な姿すらも。
勇者がしでかしてきた全ての悪行と卑劣さは、最初から大魔王側の手のひらの上で踊らされていたに過ぎず、そして彼らから見れば「大正解」の行動だったというのだ。
「お、俺は……クズ、だから、選ばれた……?」
勇者はガチガチと歯の根を鳴らしながら、震える声で呟いた。
マントの男の言葉の真意が何なのか、未だに彼の思考は追いついていない。普通ならば、敵の策略に完全に利用されていたと知れば、怒りや悔しさを抱くはずだ。しかし、極限の死の恐怖に精神を支配されている今の勇者の脳髄には、ただ一つの打算だけがすがりつくように浮かび上がっていた。
(殺されない……のか? 俺のこの卑劣さがこいつらに気に入られているのなら、まだ生き延びる道は……)
絶対的な恐怖に全身を震わせながらも、なおも自己の保身と命への執着だけを這いずり回らせる勇者。
その救いようのない浅ましさを余すところなく観察し、マントの男は満足げに立ち上がった。
「やはりお前は、我々の目的を果たすための極上の『駒』だ」
マントの男が恭しく一歩退いたその時。
沈黙を保っていた玉座の奥の影――大魔王から漏れ出す威圧感がさらに濃密に膨れ上がり、ついにはるか頭上から、空間そのものを震わせるような重く底冷えのする声が響き渡った。




