第42話:無様な命乞いと地に落ちた尊厳
玉座の間を支配する圧倒的な重圧の中、勇者の両腕から完全に力が抜け落ちた。
ガランッ……!
乾いた金属音が黒大理石の床に響き渡る。限界を迎えた勇者の震える手から、「伝説の剣」があっけなく転げ落ちたのだ。武器を捨てるということは、戦意の完全なる喪失を意味する。しかし、今の彼にはそれを拾い直すという思考すら、恐怖によって完全に焼き切られていた。
「ひっ、ひぃぃ……っ!」
次の瞬間、勇者は重力に逆らうことすらできず、操り糸を切られた人形のように膝から崩れ落ちた。
そのまま前のめりに倒れ込み、両手両膝を床につけた四つん這いの姿勢になる。それは、つい数分前まで神を僭称していた男の姿ではなく、死の恐怖に怯えるただの哀れな小動物の姿であった。
「た、助けて……助けてください……っ!」
広間に響いたのは、威厳の欠片もない、甲高く上擦った命乞いの声だった。
勇者は床を這いずるようにして、広間の中央に立つマントの男の足元へと擦り寄っていった。無敵であるはずの伝説の鎧を身に纏いながらも、乱れた髪の間から覗く顔は、涙と鼻水、そして脂汗でぐしゃぐしゃに歪んでいる。
「命だけは、命だけはお助けください! 私が愚かでした、どうか、どうかお慈悲を……っ!」
砦の民衆の前で見せていた、悲劇を乗り越えた気高く慈悲深い救世主の面影など、そこには微塵も存在しない。
勇者はマントの男の黒い靴先にすがりつかんばかりに顔を近づけ、何度も何度も、額がすりむけるほどの勢いで床に頭を擦り付けた。
「なんでもします! 命令には絶対に従います! 荷物持ちでも、奴隷でも、靴舐めでもなんでもやりますから、殺さないでください、どうか殺さないで……っ!」
かつて、元の世界の地下牢で、看守たちの暴力に怯えながら媚びへつらっていたあの頃と全く同じ。
いや、伝説の武具という最強の力を得て、一度は世界の頂点に立ったと錯覚した分だけ、今の姿はより一層滑稽で、救いようのないほど浅ましく卑屈であった。
自分を信じて命を捧げた若者たちを平気で裏切り、大魔王の首を刎ねて世界を支配するなどと大口を叩いていた男の成れの果てが、敵の足元で鼻水を垂らして命乞いをするこの無様な姿なのだ。
「あぁ、ああああ……っ! 私は、私は神などではない! ただのゴミ屑です! だから、お願いです、どうか見逃して……!」
恐怖で完全に発狂寸前となった勇者は、もはや自分が何を言っているのかすら分かっていなかった。ただ、一秒でも長く生き延びるために、自らの尊厳を泥水の中に放り投げ、必死に命乞いの言葉を羅列し続ける。
静まり返った魔王城の最奥で、地に落ちた偽りの神の、あまりにも無様で醜悪な啜り泣きだけがいつまでも響き続けていた。




