第36話:狂信の出立
人間最後の希望とされる辺境の砦は、かつてないほどの熱狂と歓喜の渦に包まれていた。
どんよりとした紫色の雲が垂れ込める空の下、広場を埋め尽くした数万の民衆たちは、皆一様に目を赤く腫らし、祈りの手を組んで最前列に立つ一人の男を熱烈な眼差しで見つめていた。
伝説の兜、盾、鎧、そして背に負った大剣。世界に散らばる四つの武具を全て身に纏った勇者の出陣式である。
「おお……勇者様! 我らの希望、我らの光!」
「勇者様万歳! 大魔王に裁きを!」
割れんばかりの歓声が砦の壁を震わせる。
玉座を譲るという苦渋の決断を下した老王でさえも、今はその悲壮な決意を隠し、民衆の先頭に立って勇者に対して深く頭を垂れていた。彼らの瞳に映っているのは、五人の若き命を尊い犠牲として乗り越え、世界を救うためにたった一人で魔界の最深部へと向かう、無償の愛と自己犠牲に満ちた神の遣いの姿であった。
その狂信的な眼差しを一身に浴びながら、勇者は荘厳な手つきで民衆に向かって両手を広げた。
「ガイナックスの誇り高き民たちよ。そして、世界のために散っていった勇敢な五人の戦士たちよ。私に力を貸してくれ」
よく通る、慈愛に満ちた声が広場に響き渡る。勇者はわざとらしく声を震わせ、悲壮感と決意を滲ませた完璧な表情を作ってみせた。
「あの大魔王の暗黒の支配を打ち破り、この世界に必ずや光を取り戻してこよう。お前たちの涙を、私が笑顔に変えてみせる!」
その感動的な演説に、民衆の熱狂は頂点に達した。感極まってその場に泣き崩れる者、勇者の名を叫びすぎて喉を枯らす者。砦は完全に、一人の男を崇拝する巨大な宗教施設と化していた。
だが、人々の感動の涙を見下ろしながら、勇者の頭の中を満たしていたのは、世界を救う使命感などでは微塵もなかった。
(くくく……泣け、喚け、単純な馬鹿ども。お前たちが崇めているこの救世主こそが、大魔王を倒した後にこの世界の全てを簒奪し、お前たちを永遠の奴隷として支配する新たな神だとも知らずに)
勇者の心臓は、間もなく手に入る絶対的な権力への渇望で激しく高鳴っていた。
苦労して手に入れた伝説の武具。自らの完璧な演出で手玉に取った民衆の狂信。そして、王の口から引き出した玉座の確約。これら全てを足掛かりにして、自分は大魔王の首を刎ね、玉座にふんぞり返るのだ。元の世界で自分を馬鹿にしていた連中にも見せてやりたいほどの、完全無欠の逆転劇であった。
ギギギギギ……ッ!
重厚な砦の門がゆっくりと開かれ、瘴気の吹き荒れる荒野へと続く道が開かれる。
「では、行ってくる!」
勇者はマントを大きく翻し、歓声の雨を背に受けながら、ただ一人で砦の外へと足を踏み出した。
門が閉ざされ、民衆の声が遠ざかると、勇者はそれまで被っていた慈悲深き救世主の仮面をあっさりと投げ捨て、極悪な笑みを口元に浮かべた。
「さて、と。残るは大魔王という名の、俺の玉座を温めているだけの哀れな前任者を片付けるだけだな」
歩みを進める勇者の全身からは、伝説の武具が放つオーラが立ち上っていた。
しかしそれは、本来ならば邪悪を浄化するはずの青白い清冽な光ではない。地下牢で目覚めた時から勇者の内に渦巻いている、あの得体の知れない異常な力が武具と強制的に結びついた結果、チリチリと空間を焦がすような不気味な赤紫色の瘴気となって武具の表面を覆い尽くしていたのである。
だが、己の全能感に酔いしれきっている勇者は、その禍々しい光の変質を疑問に思うどころか、これこそが自分が神へと昇華した証であると信じて疑わなかった。
(この身体から溢れ出る圧倒的な魔力、そしていかなる攻撃も通さない絶対防壁の鎧。もはや、俺に傷をつけられる存在などこの世にはいない。大魔王の結界など、この俺の神の力の前では紙屑も同然だ)
これまでの過酷な旅路(実際には同行者を犠牲にして楽をしてきただけだが)を振り返り、大魔王への恐怖はすでに綺麗に消え去っていた。
「首を洗って待っていろよ、大魔王。貴様の持つ絶大な力も、魔界の領土も、全てこの俺が有効活用してやるからな」
どんよりとした瘴気の空の下、血塗られた真実を隠し持った偽りの神は、完全な慢心と底なしの強欲を胸に秘め、魔王城がそびえ立つ最深部へと向かって悠然と歩みを進めていった。




