第32話:血塗られた帰還のシナリオ
絶望の奈落を抜け出し、淀んだ紫色の空が広がる荒野へと戻ってきた勇者の足取りは、これ以上ないほどに軽快だった。
伝説の兜、盾、鎧、そして剣。全ての武具を身に纏い、神にも等しい絶大な力を手に入れた彼にとって、この死の荒野はもはや庭先を散歩するようなものだった。時折、凶暴な魔物が姿を現しても、剣を軽く振るうだけで漆黒の斬撃波が放たれ、魔物は悲鳴を上げる間もなく消し飛んでいく。かつては脅威だった毒の沼も、吹き荒れる瘴気の風も、今の勇者には一切の不快感をもたらさなかった。
「ふふん、ふふーん。さて、そろそろあの薄汚い砦が見えてくる頃合いだな」
鼻歌交じりに荒野を歩いていた勇者は、ふと足を止め、自身の姿を見下ろした。
無敵の防壁を誇る伝説の鎧には、傷一つ、汚れ一つついていない。しかし、このピカピカの完全武装の状態で、たった一人で意気揚々と砦に帰還しては、少々都合が悪かった。
共に旅立った五人の若い兵士たちは、一人残らず勇者自身の手によって「処分」された。彼らをただ見殺しにしただけではない。彼らの死を最大限に利用し、砦の連中からさらなる同情と絶対的な権力を引き出すための、完璧な悲劇のシナリオを用意しなければならないのだ。
「無傷で涼しい顔をして帰ったのでは、あいつらが死んだ悲壮感が出ないからな。少しばかり『メイク』をしてやるとしよう」
勇者は周囲を見渡し、近くをうろついていた犬型の魔物を適当な魔法で惨殺した。そして、ひくひくと痙攣しているその死体に近づくと、流れ出た赤黒い血を指ですくい取り、自分の頬や額に無造作に擦り付けた。ついでに足元の泥もすくい、真新しい鎧の表面やマントにわざとらしく汚れをなすりつけ、綺麗に整っていた髪をボサボサに乱す。
水たまりに映る自分の顔を覗き込み、勇者は満足げに頷いた。
そこには、想像を絶する死闘を潜り抜け、満身創痍になりながらも生還した悲劇の英雄の姿があった。
「よし、見た目はこんなものだろう。次は演技の最終リハーサルだ」
誰もいない荒野のど真ん中で、勇者は突然ガクンと膝をつき、天を仰いだ。
そして、その顔を極限の悲しみと疲労で歪ませ、声のトーンを限界まで低く、掠れさせた。
「王よ……そして、ガイナックスの民たちよ。申し訳、ない……。私に、私にもう少しだけ力があれば……っ!」
両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせる。声の震え具合、間の取り方、全てが完璧に計算されていた。
「あの大魔王の放った凶悪な魔物の群れを前に、彼らは一歩も退きませんでした。五人の勇敢な若者たちは、皆、私をかばって……立派に散っていきました……っ! 彼らの尊い犠牲がなければ、私はこの剣を持ち帰ることはできなかった!」
そこまで言い切ると、勇者は顔を覆っていた手をどけ、腹の底からこみ上げてくる笑いをこらえきれずに吹き出した。
「くくくっ……あっははははははっ! 完璧だ! 俺ってば天才的な役者じゃないか!」
荒野に邪悪な高笑いが響き渡る。
自分の迫真の演技を思い返し、勇者は己の才能に心の底から酔いしれていた。このセリフを涙ながらに語れば、あの砦の単純な馬鹿どもは疑うどころか、感動と悲しみで泣き崩れ、俺の足元にひれ伏して感謝の言葉を叫ぶに違いない。
彼らを騙し討ちにして囮にし、雪山から蹴り落とし、生きたままアンデッドに食わせた。そのことに対する罪悪感など、勇者の心には微塵も存在しなかった。他人の命は、自分の偉大さを引き立て、権力を強固にするための便利な舞台装置でしかないのだから。
「待っていろよ、愚民ども。お前たちの涙と絶望を最高のスパイスにして、俺がこの世界の絶対的な支配者となる瞬間を味わってやる」
顔にこすりつけた魔物の血が乾いていくのも構わず、勇者は再び立ち上がった。
頭の中ではすでに、砦に帰還した後の熱狂的な歓迎と、自分に玉座を明け渡す王の絶望的な顔が鮮明に思い描かれている。底なしに傲慢で、どこまでも強欲な偽りの神は、ルンルン気分で足取りも軽く、人間最後の砦へと血塗られた帰還を果たそうとしていた。




