第30話:奈落の底と最後の囮
「絶望の奈落」の底深く。一切の光が届かない漆黒の回廊を、不気味な水滴の音と、二つの足音だけが反響していた。
果てしなく続く下り階段を抜け、一行はついに最深部へと続く巨大な大広間へと辿り着いた。その奥には、微かに青白い光を放つ古びた祭壇が見える。間違いない、あそこに最後の武具「伝説の剣」が眠っているのだ。
しかし、大広間へ足を踏み入れようとした瞬間、むせ返るような死臭と腐敗臭が通路を覆い尽くした。
「……ウゥゥ……アァァァ……」
暗がりの中から、地の底から湧き上がるようなおぞましい呻き声が無数に響き渡る。
見れば、祭壇へと続く広間を完全に埋め尽くすほどの、夥しい数のアンデッドの群れが蠢いていた。腐り落ちた肉を引きずるゾンビ、白骨化したスケルトン、そして瘴気を纏ったグールたち。その数は数百を下らない。大魔王の呪いによってこの奈落に縛り付けられた、亡者たちの軍勢であった。
「な、なんという数だ……っ!」
最後の若い兵士が、恐怖と絶望に顔をひきつらせて後ずさった。
だが、彼は背負っていた巨大な荷物をドサリと床に下ろすと、凍傷と火傷でボロボロになった両手で、腰に差していた粗末な剣をゆっくりと引き抜いた。
彼の目に、もはや迷いはなかった。
己の命がここで尽きることを、彼は完全に悟っていたのだ。仲間たちは皆、世界を救うために尊い犠牲となった。ならば、自分もここで彼らに続くのが、戦士としての本懐であると。狂信に染まり切った彼の脳は、自らの死すらも大義のための輝かしい舞台だと錯覚していた。
兵士は振り返り、伝説の鎧に身を包んだ勇者に向かって、血を吐くような声で叫んだ。
「勇者様! ここは私が命に代えても食い止めます! 勇者様はその隙に先へ進み、どうか、伝説の剣を……ッ!」
その悲壮な決意と自己犠牲の叫びを聞いて、勇者は心の中で拍手喝采を送っていた。
(素晴らしい! 実に素晴らしいぞ、三流役者! 俺が用意した悲劇のシナリオ通りに、自分から見事な囮になってくれるとはな!)
内心では歓喜に打ち震えながらも、勇者は表面上、この世の終わりかのような悲痛極まりない顔を作ってみせた。
「馬鹿なことを言うな! お前一人でこの群れを抑えきれるわけがないだろう! 私と共に戦うのだ!」
わざとらしく声を震わせ、手を伸ばす勇者。
「いいえ! 私の命など、勇者様に比べれば路傍の石に過ぎません! ガイナックスの未来を、どうか……どうかお願いいたします!」
兵士は勇者の制止を(勇者がわざと振り切られるように弱く止めただけなのだが)振り切り、涙を流しながら笑った。
勇者はギリッと唇を噛み締める演技をし、深く、深く頷いた。
「……お前の勇気、決して忘れない。お前の魂は、私が必ず連れて帰る」
「光栄です!! うおおおおおおおっ!!」
若き兵士は、雄叫びと共にアンデッドの群れへと決死の突撃を敢行した。
腐った肉の壁に飛び込み、無我夢中で剣を振り回す。彼の突撃に反応し、広間中のアンデッドが一斉に兵士の方へと群がり始めた。
その瞬間だった。
「さて、と」
勇者は冷酷な無表情に戻ると、兵士が飛び込んだ直後の通路に、杖を向けて呪文を唱えた。
『堅牢なる隔絶の壁』
ゴゴゴゴゴォッ!!
凄まじい地響きと共に、通路の床から分厚く強固な魔法の石壁がせり上がり、広間と通路を完全に分断した。
アンデッドの群れのど真ん中で剣を振るっていた兵士は、背後で鳴り響いた轟音にハッと振り返った。
そこには、自分が逃げ帰るための退路を完全に塞ぐ、巨大な石の壁がそびえ立っていた。
「え……?」
一瞬、兵士の思考が停止する。
勇者様を先に行かせるための囮になる。それは間違いない。だが、退路を断つ魔法の壁を「背後」に作られてしまっては、広間を迂回して祭壇へ向かう勇者を守ることすらできず、ただ自分が密室に閉じ込められて魔物に貪り食われるだけである。
なぜ、こんなところに壁を?
その疑問の答えに思い至る前に、四方八方から押し寄せた亡者たちの群れが、兵士の体を完全に押し潰した。
「が、ああっ!? ぎゃああああああああっ!!」
錆びた刃が脇腹をえぐり、腐った牙が肩の肉を食いちぎる。
「ゆ、勇者様っ! 壁が……! 助け……っ、ぎぃいいいいいあっ!!」
壁の向こう側から聞こえてくるのは、生きたまま肉を噛み千切られ、骨を砕かれるおぞましい咀嚼音と、裏切られた絶望に満ちた若者の断末魔の絶叫だった。
その地獄の饗宴の音を背中で聞きながら、勇者は分厚い魔法の壁のすぐ横にある、祭壇へと続く安全な迂回路を悠然と歩き出していた。
鎧の力で群れなど簡単に蹴散らせるにもかかわらず、わざと兵士を見殺しにしたのだ。この奈落の底で、彼を「美しい悲劇の犠牲者」として完璧に処分するために。
「ふふん、ふーん♪」
壁の向こうで響く凄惨な悲鳴を最高のBGMにするかのように、勇者はご機嫌な様子で鼻歌を口ずさんだ。
血の一滴も流さず、服を汚すこともなく、最後の目撃者を完璧に処理できた。もはや笑いが止まらなかった。
「いい囮だったぞ、名も知らぬゴミ屑。お前のおかげで、俺の『悲劇の帰還シナリオ』は完璧なものになった」
兵士の絶叫が徐々に小さくなり、やがて肉をすする音だけが変わらず響き続ける中。
底なしの悪意と傲慢さで塗れた悪魔は、ついに神の力たる「伝説の剣」が眠る最深部の祭壇へと、その薄汚い足を踏み入れた。




