第29話:最後の仲間と最期の迷宮へ
暴風が吹き荒れる白銀の霊峰を下り、二人が行き着いた先は、太陽の光すら吸い込まれてしまうような漆黒の荒野だった。
大地の中心に、まるで世界そのものが大きく口を開けているかのような底知れぬ巨大な縦穴がぽっかりと空いている。それこそが、最後の武具「伝説の剣」が封印されているという「絶望の奈落」であった。
奈落の入り口へと向かう険しい獣道を、重い足取りで歩く一つの影があった。
同行した五人の兵士のうち、唯一生き残った最後の若い兵士である。彼の姿は、もはや生きた人間のそれとは呼べないほど凄惨なものだった。
灼熱の火山で両手に負った重度の火傷は化膿してどす黒く変色し、雪山で負った手足の凍傷は完全に感覚を奪い去っている。さらに、死んでいった四人の仲間の分まで、勇者のための食料や物資が詰め込まれた巨大な荷物を一人で背負わされているのだ。
「はぁ……っ、ひゅぅ……っ。ゆ、勇者様……のために。せ、世界を……救うために……」
兵士は焦点の定まらない虚ろな目を前に向け、うわ言のようにその言葉を繰り返し呟きながら、機械的に足を動かしていた。
前の雪山で、冷酷に仲間を見捨てた勇者の純然たる悪意を目の当たりにし、彼の心は一度完全に砕け散った。だが、絶望的な孤独と極限状態の中で精神を保つため、彼は再び「勇者への絶対的な忠誠」という狂気にすがりつくしかなかったのだ。これまでの地獄のような苦しみも、仲間の死も、全ては大義のための試練であると自己暗示をかけなければ、その場で発狂して死ぬしかなかったのである。
そのボロボロの背中を、数歩後ろから勇者が悠然とした足取りで歩いていた。
伝説の兜、盾、そして絶対的な防壁を誇る伝説の鎧に身を包んだ勇者は、疲労など欠片も感じていなかった。過酷な環境も、魔物の気配も、今の彼にとってはそよ風と変わらない。圧倒的な力と全能感に満たされながら、勇者は前を歩く兵士の背中を氷のように冷たい目で見つめていた。
(さて……いよいよ最後の武具だ。この下等な荷物持ちの分際で、よくここまで俺の役に立ったものだ。だが……)
勇者は歩きながら、極めて打算的で残酷な脳内計算を巡らせていた。
(こいつも、この迷宮で死なせた方が都合がいいな)
伝説の剣を手に入れ、四つの武具が全て揃えば、もはやポーションや食料などの物資に頼る必要すらなくなる。神に等しい力を得た自分が、わざわざこんな足手まといを引き連れて砦へ帰る理由などどこにもない。
帰路の案内など、自分の強大な魔力で空を飛び、一直線に砦へ向かえば済むことだ。むしろ、この兵士を生かして連れ帰ることのデメリットの方が大きかった。
(もしこいつが生きて砦に戻れば、道中での俺の『素晴らしい采配』について、余計なことを口走るかもしれないからな。あの王や民衆どもは単純な馬鹿ばかりだが、少しでも疑念の種を残すのは得策ではない)
それに、と勇者は口元を三日月のように歪めた。
(共に旅立った五人の若き勇士たちは、大魔王の凶悪な罠から身を挺してこの私を守り抜き、皆、立派に散っていきました……そう言って、俺一人だけが血と泥にまみれて砦に帰還した方が、演出として圧倒的に美しい)
勇者の頭の中には、すでに砦に帰還した際の「完璧なシナリオ」が出来上がっていた。
たった一人で絶望的な探索を乗り越え、全ての仲間を失いながらも、世界を救うために伝説の武具を揃えて帰ってきた『悲劇のヒーロー』。そんな究極の自己犠牲を体現した姿を見せつければ、砦の連中は間違いなく狂喜乱舞し、感動の涙を流して俺の足元にひれ伏すだろう。
ただの救世主としてではなく、神として崇められ、全ての権力と富をスムーズに引き出すためには、無傷で全員が帰還するよりも、悲劇的な犠牲が伴っていた方が圧倒的に都合が良いのだ。
(そのためにも、この最後の目撃者には、誰にも知られずこの奈落の底で消えてもらう必要がある。……ちょうどいい、最後の迷宮だ。少し奥へ進めば、こいつを肉盾にして囮にするのにぴったりの魔物の群れでも出てくるだろう)
他人の命を、自分の権力闘争と自己演出のための舞台装置としてしか見ていない。
底なしの悪意と傲慢さで彩られた計画を頭の中で完成させると、勇者は歩みを止めず、前を歩く兵士に向けて驚くほど優しく、慈愛に満ちた声をかけた。
「よくここまで耐え抜いてくれたな、誇り高きガイナックスの戦士よ。お前のその忠義と強靭な意志には、私から心からの敬意を表そう」
「あ……ゆ、勇者様……っ」
勇者の優しい言葉に、兵士はフラフラと立ち止まり、ひび割れた唇から感動の嗚咽を漏らした。
「あと少しだ。あの奈落の底で剣を手に入れれば、お前たちの苦しい戦いは全て終わる。共に、人類の希望を掴み取ろうではないか」
「はいっ……! この命に代えましても、必ずや勇者様を最深部へとお連れいたします……!」
涙を流し、再び決意を固めて奈落の階段へと足を踏み出す兵士。
その痛々しいほど純粋な背中を見送りながら、勇者は声を出さずにゲラゲラと下品に笑った。
(その意気だ、馬鹿め。せいぜい俺のために、極上の囮となって死んでくれよ)
絶対的な力を得て、もはや大魔王への恐怖すら失った勇者。
一人の若者の命を「悲劇の演出」のために使い捨てることだけを考えながら、邪悪な救世主は最期の迷宮、絶望の奈落へとその足を踏み入れた。




