第21話:腐海の迷宮と最初の肉盾
淀んだ紫色の空の下、延々と続く赤茶けた荒野の果てに、大地が大きく裂けたような巨大な洞穴が口を開けていた。
「腐海の迷宮」――第一の伝説の武具である兜が眠るとされるその場所は、入り口に立つだけでも強烈な死の気配を漂わせていた。
内部は、生物が立ち入ることを激しく拒絶する最悪の環境だった。
視界を遮るほどの濃い緑色の有毒ガスが霧のように立ち込め、吸い込むだけで肺が焼け焦げるような痛みに襲われる。足元は腐臭を放つ底なし沼のような泥で覆われており、一歩足を踏み出すたびにズブズブと膝まで沈み込み、歩くことすら困難な有様であった。
「はぁっ、はぁっ……っ、ゲホッ、ゲホッ!」
「あ、足が、抜けない……っ!」
砦から連れてこられた五人の若い兵士たちは、泥に足を取られながら、もがき苦しんでいた。
彼らの背中には、勇者が砦の備蓄庫から強奪した、彼らの身の丈ほどもある巨大な荷物が括り付けられている。ただでさえ歩行が困難な泥沼の中で、異常な重さの荷物を背負わされ、おまけに有毒ガスで呼吸すらまともにできないのだ。彼らの体力は限界をとうに超えていた。
そんな彼らの背後を、勇者は涼しい顔で歩いていた。
(ふん、なんて薄汚くて臭い場所だ。俺の靴が汚れたらどうしてくれるんだ)
不快感に顔をしかめる勇者の足は、泥に沈んでいなかった。彼自身にだけ「浮遊の魔法」をかけ、地面から数センチ宙に浮いた状態を保っているのだ。さらに彼の周囲には見えない「解毒の結界」が張られており、有毒ガスを完全に遮断していた。
魔法を使って兵士たちを助けることなど、今の彼にとっては造作もないことだ。だが、勇者は一切それをしなかった。
(なぜ俺が、こんな下等な荷物持ちのために貴重な魔力を使ってやらねばならないのだ。こいつらの役目は、俺の代わりに罠にかかり、俺の代わりに魔物の注意を引くことだ。先頭を歩かせて道中の安全を確認させるのに、死なれては困るが楽をさせる必要もない)
「立ち止まるな! さっさと足を進めろ!」
勇者が背後から怒鳴りつけると、若者たちはビクッと肩を震わせ、泣きそうな顔で必死に泥を掻き分けながら前へと進み始めた。
さらに奥へと進んだその時だった。
先頭を歩いていた兵士の一人が、泥の中に隠されていた奇妙な石板を踏み抜いた。
カチッ……。
乾いた音が迷宮の壁に響き渡った瞬間、周囲の岩肌に無数の小さな穴が開き、そこから鋭い風切り音と共に、黒い液体を滴らせた無数の毒矢が射出された。
「ひっ……!」
兵士たちが絶望の悲鳴を上げる。
毒矢は真っ直ぐに一行へと降り注いできた。
勇者の強大な魔力であれば、瞬時に強固な魔法障壁を展開し、矢を全て弾き落とすことなど容易い。しかし、彼の歪んだ思考は、ここでも最悪の選択を下した。
(チッ、鬱陶しい罠だ。わざわざ魔法を使うまでも……いや、ちょうどいい盾があるな)
勇者は魔法を行使する代わりに、自身のすぐ斜め前を歩いていた若い兵士の首根っこを背後から力任せに掴み上げた。
そして、自分に向かって飛んでくる無数の毒矢の射線上に、その兵士の体を肉盾として容赦なく突き出したのである。
「え……?」
状況を理解できない兵士の間の抜けた声。
次の瞬間、ズブッ、ズブブブッ!という鈍い音と共に、若い兵士の背中や腕に何本もの毒矢が深々と突き刺さった。
「ぎゃあああああっ!!」
肉を裂き、即効性の猛毒が血管に流れ込む激痛に、兵士は絶叫を上げて泥の中へと倒れ込んだ。勇者は兵士が矢を受けたのを確認すると、何事もなかったかのようにパッと手を放し、矢の雨が止むのを待った。
罠が静まると、静寂を取り戻した迷宮に、倒れた兵士の苦しげな呻き声だけが響いた。
「あ、がっ……ゆ、勇者様……」
兵士の口からは白い泡が吹き出し、顔面は猛毒によってどす黒く変色している。痙攣する手を必死に伸ばし、兵士は勇者を見上げた。彼が背負っている荷物の中には、砦の備蓄庫から持ち出した貴重な解毒のポーションが大量に入っている。それを飲ませてくれと、無言で命乞いをしているのだ。
他の四人の兵士たちも、青ざめた顔で勇者を見た。救世主である彼が、すぐに魔法かポーションで仲間を助けてくれると信じていたからだ。
だが、勇者は倒れ伏す兵士を、ゴミを見るような極めて冷酷な目で見下ろした。
そして、ポーションを取り出すどころか、兵士の伸ばした手を革靴で容赦なく踏みつけ、泥の奥深くへと沈み込ませた。
「ゆ、勇者……さま……なぜ……」
苦痛と絶望に染まる兵士の顔を嘲笑うように、勇者は薄く笑った。
「勘違いするな。お前のような使い捨ての道具に、世界を救う私の大切なポーションを使うわけがないだろう」
「あ……ぁ……」
「お前は十分に囮としての役目を果たした。私のために死ねるのだ、光栄に思え」
氷のように冷たいその言葉が、若者の心に最後の一撃を与えた。
兵士の目から光が失われ、その体は二度と動かなくなった。彼を信じ、世界を救う手助けができると誇りに思っていた若者の命は、勇者にとってただの路傍の石以下の価値しかなかったのだ。
「おい、お前ら。こいつの荷物からポーションと食料だけを抜き取って、四人で分けて背負え。死体は邪魔だ、その泥の底にでも蹴り落としておけ」
勇者は振り返り、恐怖で完全に凍りついている残りの四人の兵士たちに冷酷に言い放った。
「もたもたするな。お前らも同じように肉盾にされたいのか?」
その脅迫に、四人の兵士たちは歯の根を合わして震えながら、亡き仲間の荷物を漁り始めた。
もはや彼らの目に希望の光はない。あるのは、絶対的な力を持つ悪魔に対する、逆らうことの許されない底知れぬ恐怖だけだった。
(ククク……さあ、どんどん進むぞ。伝説の武具の回収に、この便利な道具どもを最後まで使い潰してやる)
一人目の犠牲者を冷たく見捨て、勇者は傲慢な足取りで腐海の迷宮のさらに奥深くへと進んでいった。




