第16話:大魔王討伐の絶対条件
暖かい暖炉の火がパチパチと爆ぜる心地よい音が、豪華な部屋の中に響いている。
外の荒野で吹き荒れる瘴気を含んだ冷たい風も、砦の内部に蔓延するじめじめとした湿気も、この部屋には全く届かない。砦の最奥に用意された、最も上等な獣の毛皮を何枚も重ねた巨大なベッドの上で、勇者はこれ以上ないほどの堕落した時間を貪っていた。
傍らには怯えた表情の若い女中が控え、勇者が指を鳴らすたびに、砦の備蓄から搾取した貴重な果実酒をグラスに注ぐ。勇者はそれを寝転がったまま喉に流し込み、退屈そうに大きくあくびをした。
砦の民たちが毎日の食事にも事欠き、空腹を抱えて震えているというのに、勇者のテーブルには常に豪勢な肉料理が並べられ、少しでも冷めれば手をつけずに捨てさせている。
砦にやってきてからというもの、勇者の生活はまさに暴君そのものだった。誰もが勇者の顔色を窺い、機嫌を損ねないように必死に尽くしてくる。自分が神にでもなったかのような絶対的な全能感に、勇者はどっぷりと浸りきっていた。
「ああ、退屈だ。もっと面白い見世物でもあればいいのだがな」
独り言のように呟いた時、部屋の重厚な扉が控えめにノックされた。
「勇者殿。ご休息中のところ誠に申し訳ありませぬが、少しよろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、この砦を治める辺境の王の声だった。勇者は面倒くさそうに顔をしかめると、女中に目配せして扉を開けさせた。
部屋に入ってきた王の顔はいつになく深刻で、深い疲労と焦燥に満ちていた。王の後ろには数人の側近も付き従っており、皆一様に暗く、張り詰めた表情を浮かべている。
勇者はベッドから起き上がろうともせず、片肘をついたまま不遜な態度で王を見下ろした。
「なんだ、騒々しい。私がこの世界の環境に魂を適応させるため、重要な瞑想を行っている最中だということが分からないのか」
当然、瞑想など嘘八百である。ただ酒を飲んで惰眠をむさぼっていただけだが、勇者は平然と恩着せがましい言い訳を口にした。
王は深く頭を下げた。
「申し訳ありませぬ。しかし、事態は一刻を争うのです。砦の最奥にあるクリスタルの光が、ここ数日で急激に弱まっております。大魔王の放つ瘴気が、日に日に強まっている証拠……。勇者殿、大変心苦しいお願いではありますが、大魔王討伐の旅立ちの時期を、どうかお教え願えないでしょうか」
勇者は心の中で盛大に舌打ちをした。
(うるさいジジイだ。こんな快適で極上の生活を放り出して、なんで俺がわざわざあの薄汚い荒野に出向いてやらなきゃならないんだ。適当な理由をつけて、もう少しこの贅沢な生活を長引かせてやるか)
「焦るな、王よ。私とてすぐにでも飛び出し、大魔王の首を刎ねてやりたい気持ちでいっぱいだ。だが、異世界から渡ってきたばかりの私の肉体は、まだ完全にはこの地の魔力と同調していない。万全を期すためにも、あと数週間はここで英気を養う必要がある」
もっともらしい嘘を並べ立てて先延ばしにしようとする勇者に対し、王は悲痛な顔で首を横に振った。
「勇者殿の御身を案じればこそ、我々も無理は申し上げたくありません。しかし……大魔王を討伐するためには、どうしても勇者殿に知っておいていただかねばならない、恐るべき事実があるのです」
「恐るべき事実、だと?」
勇者が眉をひそめると、王は重々しい口調で語り始めた。
「大魔王は、ただ魔力が強大であるだけではありません。奴の肉体は、この世の理から外れた強固な暗黒の結界で覆われているのです。我々が過去に解読した古代の文献によれば、大魔王に対していかなる強力な魔法も、召喚獣の攻撃も、そして物理的な打撃も、一切通用しません。全ては結界に触れた瞬間に無に帰してしまうのです」
「……なんだと?」
勇者の顔から、余裕の笑みがスッと消え失せた。
いかなる魔法も物理攻撃も通じない。それが事実であれば、自分が今持っている絶対的な力も、大魔王の前では全く無意味ということになる。
「馬鹿な。この私の桁外れの魔力をもってしても、傷一つつけられないというのか」
「はい……残念ながら。大魔王の結界は、通常の力では破ることは不可能です。奴に唯一ダメージを与え、滅ぼすことができる手段は、この世界に古くから伝わる『伝説の武具』を用いることのみ」
王は側近の一人に手を持たせていた古い羊皮紙の地図を広げた。
「世界に散らばった『伝説の兜、鎧、盾、剣』。これら四つの武具を全て揃え、身にまとった勇者だけが、大魔王の絶対的な結界を切り裂き、奴を討ち果たすことができると伝えられています。そしてその武具は、大魔王の軍勢が蔓延る危険な遺跡や迷宮の奥深くに、今も眠っているのです」
その言葉を聞いた瞬間、勇者の内心で、完璧に組み上がっていたはずの計画が音を立てて崩れ去った。
(ふざけるな……!)
勇者の頭の中にあったのは、この圧倒的な力で適当な時期に大魔王の城へ乗り込み、強大な召喚獣と魔法で一捻りにすり潰すという、極めて単純で簡単なシナリオだった。大魔王をあっさりと倒せば、自分はこの世界を救った唯一神として、この王を始末し、永遠に全ての人間から搾取し続ける最高の独裁者になれるはずだったのだ。
それがなんだ。いかなる攻撃も通じないだと?
しかも、大魔王を倒すためには、わざわざ危険で薄汚い荒野や迷宮をいくつも探索し、世界中に散らばった装備をチマチマと集めて回らなければならないというのか。
(こんな快適で極上の生活を手に入れたというのに、俺自ら泥水やすすにまみれて宝探しのお使いに行けというのか! 冗談ではない!)
「チッ……!」
勇者の口から、無意識のうちに極めて不機嫌な舌打ちが漏れた。
あまりにも柄の悪く、そして威厳の欠片もないその音に、王と側近たちはビクッと肩を震わせ、驚いたように勇者の顔を見上げた。救世主たる者が発するとは到底思えない、ドス黒い苛立ちに満ちた反応だったからだ。
「ゆ、勇者殿……? 今、何か……」
「……いや」
勇者は慌てて顔の筋肉を引きつらせ、どうにか威厳ある表情を取り繕った。
「チッ……忌々しい大魔王め、己の力で真っ向から勝負せず、そのような姑息な結界に逃げ込むとは、とんだ臆病者だと言ったのだ。私の圧倒的な力を恐れている証拠だな」
無理やりの言い訳だったが、王たちは「なるほど、大魔王の卑怯さに憤っておられるのだな」と勝手に都合よく解釈し、深く安堵のため息をついた。
「おっしゃる通りです。しかし、勇者殿の御力があれば、伝説の武具を手に入れることは必ずや可能でしょう。どうか、我々のために……!」
王が再び頭を下げる中、勇者は忌々しげに毛皮のシーツを強く握りしめた。
圧倒的な力で簡単に世界を支配できるという甘い見通しは完全に崩れ去った。伝説の武具とやらを集めなければ、自分の一番の脅威である大魔王を排除することはできない。
大魔王を倒さなければ、いずれこの砦も結界が破れて魔物になだれ込まれ、俺のこの最高の生活も終わってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
勇者は顔を引きつらせたまま、腹の底で激しい怒りを煮えたぎらせていた。世界を救うためでも、民のためでもない。ただ己の絶対的な安全と、永遠の搾取の基盤を完成させるためだけに、勇者はこの忌々しい「宝探し」を引き受けざるを得なくなったのである。




