第15話:砦の暴君
歓迎の宴から数日が経過し、人間最後の砦における勇者の扱いは、もはや一国の王権すら凌駕する絶対的なものとなっていた。
砦の最奥部に用意された、最も広く豪華な一室。かつては王族や重鎮が使用していたであろうその部屋には、分厚い獣の毛皮が敷き詰められ、貴重な薪が惜しげもなく暖炉で燃やされ続けている。外の荒野の凍えるような寒さも、砦内のじめじめとした湿気も、この部屋にだけは一切届かない。
その暖かく快適な部屋のふかふかのベッドの上で、勇者は退屈そうにあくびを噛み殺していた。
「遅い……。俺の食事の時間を何だと思っているんだ」
不機嫌に舌打ちをしたその時、重厚な木の扉が恐る恐る開かれた。
入ってきたのは、王に要求して用意させた世話係の若い女中の一人だった。彼女は両手にお盆を持ち、スープや焼き立てのパンなどを運んできたのだが、その顔は恐怖で青ざめ、お盆を持つ手は小刻みに震えていた。
「も、申し訳ございません、勇者様。厨房の火の加減がうまくいかず、少し遅れてしまい……」
「言い訳をするな、このゴミが」
勇者はベッドから起き上がると同時に、傍らに置いてあった硬い木製のゴブレットを容赦なく女中の顔面に向かって全力で投げつけた。
異常な身体能力から放たれたゴブレットは、空気を切り裂くような音を立てて女中の額に激突する。鈍い音が部屋に響き、女中は短い悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。お盆からスープの器が床に転げ落ち、温かい液体が毛皮の絨毯を汚していく。
女中の額からは真っ赤な血が流れ出し、床にぽたぽたと滴り落ちていた。激痛に涙を浮かべながらも、彼女は傷口を押さえることすらせず、すぐさま床に這いつくばって必死に頭を下げた。
「お許しください! どうかお許しください、勇者様! 決してわざとではございません!」
血を流しながら必死に許しを乞う女中を見下ろし、勇者は冷酷な笑みを浮かべた。
かつての勇者パーティー時代にも、雑用係の戦士に対して常に横柄な態度を取り、理不尽な要求を押し付けていた。だが、あの頃はまだ周囲の目があり、一応は「正義の勇者」としての体裁を保たなければならないというわずかな枷があった。
しかし、この世界にはそんな枷は一切ない。自分がこの砦の絶対的な力であり、法そのものである。少しでも気に入らないことがあれば、こうして直接暴力を振るい、相手を徹底的に蹂躙しても、誰も文句を言うことすらできないのだ。
「次はないぞ。俺の機嫌を損ねれば、外の魔物どもと同じように肉塊に変えてやる。さっさと床を舐めてでも綺麗に掃除して、新しい食事を持ってこい」
「は、はいっ! すぐにいたします!」
女中は震える手で床のスープを拭き取り、何度も頭を下げながら逃げるように部屋を出ていった。その惨めな後ろ姿を見て、勇者の胸の奥底には、たまらない優越感と支配の快楽がどす黒く広がっていく。
勇者は部屋を出て、暇つぶしに砦の廊下を歩き始めた。
すれ違う砦の民や兵士たちは、勇者の姿を見るなり壁際に寄り、深く頭を下げて道を譲る。誰もが勇者の顔色を窺い、息を潜めるようにしている。
廊下の角で、警備に当たっていた二人の兵士が直立不動で立っていた。彼らの装備は古く、鎧には数々の激戦をくぐり抜けてきた傷跡が刻まれている。砦の平和を守るため、命を懸けて戦ってきた誇り高き戦士たちである。
勇者はわざとその兵士たちの前で立ち止まると、自分の真新しい革靴のつま先を指差した。
「おい、そこのお前。俺の靴にわずかに土ぼこりがついている。綺麗に磨き上げろ」
突然の理不尽な命令に、初老の兵士は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべた。しかし、勇者が不機嫌そうに目を細めると、兵士は何も言わずに静かに膝をついた。そして、自らの粗末な衣服の袖を使い、勇者の靴についた見えないほどの汚れを丁寧に拭き始めたのである。
「もっと力を入れろ。俺の靴がお前らの命より価値があることを忘れるな」
勇者は兵士の頭を軽く蹴り飛ばすように小突いた。屈辱に兵士の頬が引きつるが、決して逆らおうとはしない。
その様子を遠巻きに見ていた砦の民たちも、唇を噛み締め、悔しさに震えながらもただ黙って耐え忍んでいた。
彼らの心の中にあるのは、絶対的な力を持つ勇者への恐怖だけではない。
「救世主様は、あの恐ろしい魔物の群れとたった一人で戦うという、想像を絶する重圧を背負っておられるのだ」
「我々のような無力な者が彼を怒らせて、この砦を見捨てられたら、それこそ人類は終わりだ。彼が大魔王を倒してくれるその日まで、どんな理不尽でも我々が耐え忍べばいいのだ」
そう、ガイナックスの心優しい人々は、勇者の凶行すらも「世界を救うためのストレス」だと自分たちに言い聞かせ、正当化してしまっていたのだ。大義のために自らを犠牲にすることを厭わない彼らのその崇高な精神が、皮肉にも勇者の増長をどこまでも加速させる結果となっていた。
(ククク……傑作だな。どいつもこいつも、俺の靴を舐めて喜んでやがる)
靴磨きを終えて頭を下げる兵士を鼻で笑い飛ばし、勇者は再び廊下を歩き出した。
誰も自分に逆らえない。自分の言葉一つで、他人の命も尊厳も簡単に奪い取ることができる。魔法や召喚獣の力を振るうまでもない。この砦の人間たちは、勝手に希望という鎖で自分たちを縛り付け、俺という絶対的な暴君の前にひれ伏しているのだ。
「さて、明日は何を要求してやろうか。あの王の持っている宝物殿の鍵でも取り上げてみるか」
薄暗い石造りの廊下に、勇者の下品で邪悪な笑い声が響き渡る。
大魔王を討伐して世界を救うなどという使命は、勇者の頭の中には欠片ほども存在しなかった。彼はただ、この人間最後の砦という閉鎖空間で、他者を徹底的に搾取し、踏みにじるという絶対的な支配者の地位にどっぷりと浸りきっていた。かつての栄光を失い、地下牢でどん底を味わった男は、新たな世界で誰よりも醜い暴君として君臨していたのである。




