第9話. 狂人と二人きり
マルタンは鍛冶屋の工房を出た。
次に向かうべき場所は、大工の家。
投擲用の短槍を作るための柄が必要だった。
大工がどこに住んでいるのかは分からなかったが、問題はなかった。
荘園なら大工が一人くらいはいるはずで、大工の家など大体見れば分かったからだ。
マルタンが大工の家を探してポワイヤックを歩いていたときだった。
「うわっ……!」
道の向こうから歩いてきた子供が一人、地面に倒れ込んだ。
子供の手に握られていた粗末な籠。
そこから小さな海老や貝のような、雑多な海産物がこぼれ落ちた。
慌ててそれらを拾い集める子供の前で、マルタンは立ち止まった。
子供が顔を上げ、マルタンを見上げた。
「……誰ですか?」
六つか七つほどに見える子供。
干潟を転げ回ってきたのか、あちこちに泥がべったりと付いていた。
「マルタン。この地の領主だ」
子供の目が大きく見開かれた。
「あ……こんにちは、領主様」
マルタンが何も答えないため、子供は不安そうな顔で尋ねた。
「どうしたんですか?」
マルタンはゆっくりと口を開いた。
「……お前も俺の農奴ということか」
子供はうなずいたが、マルタンは相変わらず何も言わなかった。
子供はマルタンの顔色を窺いながら籠を拾い上げた。
「あの……行ってもいいですか?」
「ああ」
頭を下げ、慌ててその場を去っていく子供。
マルタンはその後ろ姿を見つめながら、自分の財産があまりにも増えすぎたことを実感した。
マルタンはゆっくりと顔を巡らせ、周囲を見回した。
ここに住む人々、家畜、自然環境。
すべてが彼の財産だった。
一人でこれほど多くのものを守ることを考えると、目眩がした。
『……厄介だな』
傭兵だった頃は、自分の財産を守るのは簡単だった。
機会を窺って財産を狙う者を殺してしまえばよかったからだ。
それはマルタンが最も得意とすることだったが、状況は変わってしまった。
共にいた傭兵団はおらず、荷袋といくつかの物だけを守れば済む話でもなかった。
マルタンは、自分のものを狙っている者を思い浮かべた。
レスパール城主。
数十人の荘園領主を封臣として従える、メドック地方の支配者。
殺すことも難しく、その後始末はさらに厄介になることが明らかな相手。
迂闊に殺せば、多くのものを失うかもしれなかった。
『密かに殺すべきか?』
マルタンは頭の中でいくつかの状況を思い描いた。
まずは、城主の本拠地であるレスパールでの暗殺。
決して簡単ではないだろうが、どうにか殺すことはできるはずだった。
問題は、正体を悟られずにレスパールから脱出すること。
どう考えても、発覚する可能性の方が高く思えた。
次に、城主が他の場所へ移動するときの暗殺。
前者より発覚する危険は少なそうだったが、情報があまりにも足りなかった。
相手がレスパールを出るまで待つ時間もなかった。
マルタンは頭の中から暗殺という言葉を消し、改めて考えを整理した。
機会を窺って城主を殺したあと、やるべきこと。
恨みを抱く城主の血縁者と忠臣たちを、きれいに始末すること。
簡単なことではなかったが、十分にやり遂げられた。
問題は城主の配下ではなく、その上にいる存在だった。
レスパール城主の上位君主である、ガスコーニュ公爵。
城主を迂闊に殺せば、手に負えない災厄が訪れることは明らかだった。
『彼を防げるか?』
くだらない考え。
何をしたところで、一人で公爵の勢力を防ぐことなど不可能だった。
城主を殺したあとにやって来る公爵を防げないのなら、城主を殺しても公爵が来ない方法を探さなければならない。
考えを終えたマルタンは歩き始めた。
本来は大工を訪ねるつもりだったが、考えが変わった。
今はガスコーニュ公爵について知る者を訪ねるのが先だった。
***
ポワイヤックの司祭、トマ。
彼は教会に付属する小さな鐘楼で鐘を鳴らしていた。
ゴーン―ゴーン―
太陽が中天に昇ったことを知らせる、正午の鐘の音。
領民たちが食事と休息を取れる時間であることを知らせる音でもあった。
『ふう……』
何度鐘を鳴らしただろうか、これくらいで十分だと思い、手から縄を放した。
トマは鐘楼から降り、長い帯を首に掛けた。
誰もいない礼拝堂。
そこで一人、正午の祈りを捧げ始めた。
「Deus, in adjutorium meum intende.」
(神よ、私をお救いください。)
彼は古い帝国の言語で、自らが信じる神を讃えた。
発音が分からなくなると適当に濁し、思い出せない部分は大雑把に飛ばしたが、いつものように祈りを続けていった。
「……requiescant in pace. Amen.」
(……安らかに眠らせたまえ。アーメン。)
何万回も口にしたであろう言葉を最後に、祈りを終えた。
静寂だけが満ちる礼拝堂。
トマは顔を上げ、天井から吊るされた十字架を見た。
『主よ、ポワイヤックをお見守りください』
無事に正午の祈りを終えたにもかかわらず、彼の心は落ち着かなかった。
ポワイヤックの新たな領主、マルタン。
あの者のせいだった。
故郷へ戻るなり領主一家を殺した狂人。
幸い今のところは静かにしているようだったが、いつ何をしでかすか分からなかった。
ギィ……
トマがこの地の未来を案じている間に、礼拝堂の扉が開く音が聞こえた。
訪問者の顔を確認したトマは、気まずそうな表情で口を開いた。
「……祈りを捧げに来られたのでしたら、遅かったですよ。たった今、正午の祈りが終わったところです」
ポワイヤックの新たな領主、マルタン。
彼は礼拝堂の中央通路を横切りながら口を開いた。
「いや、祈りが終わるのを待っていた」
トマの前に立ったマルタンが尋ねた。
「ガスコーニュ公爵について、どれほど知っている?」
質問の内容も、質問する時機も、すべてがおかしかった。
「突然……どうなさったのですか?」
そもそも、一介の村の司祭である彼が、ガスコーニュ公爵について詳しく知っているはずがなかった。
公爵は、彼が遠くから一度顔を見たことがあるだけの人物。
なぜ自分にこのような質問をするのか、理解できなかった。
「私があの方について何を知っているというのです?」
マルタンは表情一つ変えずに尋ねた。
「ボルドー大聖堂。そこで毎年、教区会議が開かれるはずだが?」
トマは困ったような顔で答えた。
「確かにそうですが……世俗の君主についての話は、それほど多く出ません」
「構わない。知っていることを話せ」
その断固とした態度に、トマはゆっくりと口を開いた。
「……ギヨームの息子、ベルナール。あの方はガスコーニュ公爵であり、ボルドー伯爵でもあられます」
トマはしばらく言葉を止めた。
それ以上説明するには、彼の知る情報はあまりにも断片的で、整理する時間が必要だった。
「……」
「年齢はまだ三十代半ばほどで、おそらく信仰心もかなり篤い方でしょう。修道院に関して、かなり多くの支援をなさったと聞いています」
マルタンは眉をひそめた。
「そんなことはいい。性格や、レスパール城主との関係は?」
「公爵様の性格は分かりませんが……レスパール城主様とどのような関係なのかは知っています」
ガスコーニュ公爵とレスパール城主の関係。
ある程度の情報網さえあれば、知らずにいる方が難しい話だった。
「お二人の仲は、とても、とても悪いです」
マルタンは疑問を示した。
「とても? そこまでなのか?」
「私の知る限りでは、そうです」
トマは、前回の降誕祭に起きたという出来事を思い出した。
ガスコーニュ公爵と、その封臣たちの対立。
宮廷会議で起きた騒動は、自分のような末端の司祭の耳にも届くほど有名だった。
「まず詳しい話をする前に、公爵様の後継者が誰なのかご存じですか?」
マルタンが黙って首を横に振ると、トマは説明を始めた。
「人々が認めている次代のガスコーニュ公爵は、サンチョ公です。公爵様の弟君です」
マルタンは理解できないという表情で尋ねた。
「公爵は三十代半ばだと言わなかったか? 子供は?」
「公爵様には息子が一人いるのですが、事情が複雑なのです」
トマは続けて口を開いた。
「教義には反しますが……我々ガスコーニュ地方が庶子を認めていることは、ご存じでしょう」
マルタンはうなずいた。
「そうだな。庶子でも後継者になることに問題はないはずだが?」
「普通の庶子なら、そうだったでしょう。問題は、ある程度成長した子供を突然庶子として認めたことなのです」
「妾との間にできた子供ではないのか?」
「違います。公爵様が数年前に連れてこられた子供だそうです」
マルタンはしばらく考え込んだ。
やがてトマを見て尋ねた。
「状況は理解した。それがレスパール城主と何の関係がある?」
トマは今年の教区会議で聞いた話を語り始めた。
「前回の降誕祭に行われた宮廷会議でのことです。公爵様が息子を家臣団に紹介し、大勢の者が反発したと聞きました」
「その中にレスパール城主がいたということか?」
「単にその中にいたのではなく、サンチョ公と共に最も強く反発したと聞いています」
トマは心配そうな表情で言葉を続けた。
「その余波なのか、城主様はこの復活祭に開かれた公爵様の宮廷会議にも欠席なさったそうです」
マルタンがどこか浮き立ったような声で尋ねた。
「宮廷会議に欠席した?」
「はい、もちろん他の封臣の方々も……」
トマはそれ以上、言葉を続けられなかった。
奇妙に歪みながら吊り上がっていく相手の口元。
その何でもない笑みに、本能的な恐怖と不快感を覚えた。
「他の……他の封臣の方々も……」
頭の中が真っ白になった。
震える声で同じ言葉を繰り返しながら、自分が狂人と二人きりでいることに気づいた。
『私が……私はどうしてこの者と……?』
相手が狂人であることを忘れていた自分が恨めしかった。
何も考えずにこの者と会話を始めたことを後悔した。
相手のあの奇妙な笑み。
あれが目の前から消えることを祈った。
彼が言葉を詰まらせている間、相手がゆっくりと手を持ち上げた。
歪んだ笑みを必死に抑えようとでもするように。
その指で口元を押し下げた。
「興味深い話だ。続けろ」




