第4話. 荘園領主
マルタンは村の司祭と領民たちを後にして、考えた。
『神の慈悲、か……』
マルタンは神の存在を信じていた。
そうでなければ、自分がこの世界へ放り込まれた理由を誰かに問い質すこともできないからだ。
同時に、マルタンは神の存在を信じてはいても、神がただひたすら慈悲深い存在だとは思っていなかった。
本当に神が慈悲深いのなら、彼をいきなりこんな時代へ放り込んだりはしなかったはずだ。
ギィ……
マルタンが屋敷へ入ると、広間の隅に座っていた者たちが立ち上がった。
「お……お帰りになりましたか、領主様」
昨夜生かしておいた兵士と使用人、それにピエールだった。
彼らから「領主」と呼ばれたことで、ようやく傭兵暮らしが終わったのだと実感した。
「ピエール」
「はい、領主様」
「ひとまずお前が責任者として家の切り盛りをしろ。必要なことがあれば、他の者たちを適当に使え」
荘園の領主になったのは喜ばしいことではあったが、特別な意味があるわけではなかった。
ただ、自分のものだから手に入れただけだ。
領主としての役目は果たすつもりだが、何か偉大なことを成し遂げたいとは思わない。
強いて望むことがあるとすれば、生活環境を改善したり、もっとましな食事を食べたいという程度だった。
「俺は少し寝る。その間に領地の状況や倉庫の中身を把握しておけ。俺が知るべきことを中心にな」
領主として基本的な領地の事情を把握するのは後回しだ。
マルタンは長旅の疲れを癒やし、昨夜の騒ぎで取り損ねた眠りを取り戻すことにした。
マルタンは何とも知れない料理の匂いで目を覚ました。
領主の部屋には扉がなく、広間で交わされる会話がそのまま聞こえてくる。
「……どうする?」
「そのまま食べちゃ駄目なのか? 一日中何も食べてないんだぞ?」
「だったらお前だけ食って死ね。俺は待つ」
ピエールたちの声だった。
マルタンはベッドから起き上がり、部屋を出た。
彼が広間へ入ると、炉を囲んで円になって座っていた者たちの視線が一斉に集まった。
「あ、お目覚めになりましたか。お待ちしておりました」
マルタンは炉で煮えているシチューをじっと見つめた。
何が入っているのか分からない灰白色のシチューには、ときおり魚の頭らしきものが浮かんできた。
「……中に肉は入っていないのか?」
ピエールはシチューを器いっぱいによそい、彼へ差し出した。
「ですが、魚はたっぷり入れました」
マルタンは顔をしかめながらも、とりあえず器を受け取った。
「本来なら屋敷で働く者はもっと多いんじゃないのか? どうして朝と人数が変わらない?」
ピエールは他の者たちの器にもシチューをよそいながら答えた。
「侍女は体調が悪そうでしたので休ませました。馬丁は馬に草を食べさせに出ています」
「侍女と馬丁か……昼間に屋敷へ来ていた連中だな」
彼らがいないことは大した問題ではなかったので、席に着いて話を始めた。
「よし。まずは言っていた通り、領地の状況から聞こう」
マルタンは幼い頃の記憶を少し辿った。
「俺の記憶では、この辺りで小麦を作っている者はほとんどいなかったはずだが、違うか?」
ピエールは苦笑した。
「はい。この近辺は土地が湿っているため、小麦よりもライ麦や燕麦を育てています。あまりにも湿気が多いので、それすらあまりうまく育ちません」
穀物栽培がうまくいかないということは、代わりになる食料があるということだ。
「それなら、人々はどうやって暮らしているんだ?」
「豚や羊などの家畜を放牧したり、ジロンド川で獲れる魚や干潟で採れる貝を食べています。森と川、それに農地をまんべんなく利用しているわけです」
ピエールは続けた。
「時折、川を下ってボルドーへ向かう商人の船がここへ立ち寄ることもあります。彼らとの取引も悪くない収入になります」
こんな場所に商人の船が立ち寄るというのは、理解し難かった。
「わざわざここへ船が寄るのか? 商人が欲しがるような商品でもあるのか?」
ピエールは気まずそうに後頭部をかいた。
「ええと……干潮のときは川を遡るのが難しいので、休憩しているだけです。満潮になればすぐ出発していきます」
マルタンの頭の中で、おおよその荘園の状況が描かれた。
主食はライ麦。
不足する食糧は川や干潟の水産物と家畜で補う。
上流へ向かう船から停泊税を徴収したり、商取引ができる環境でもある。
生活は決して楽ではないが、ある程度の基盤は整っているということだった。
「……だいたいどんな感じか分かった」
村の状況を把握したので、次は自分の財産だ。
「倉庫には何がある? 今頃なら収穫もほぼ終わって、倉庫がいっぱいになっている時期じゃないのか?」
「はい。ライ麦はほぼすべて運び込まれているはずです」
ピエールは一本ずつ指を折りながら数え始めた。
「ええと……まず穀物はライ麦が百二十袋、小麦が一袋、燕麦が五袋。そのほかには塩漬けのニシンが二樽、干した豚の後ろ脚が一本、チーズが二塊、塩が一袋、葡萄酒が半樽、麦酒が一樽あります」
指をすべて使い切っても説明は続いた。
「食料以外では羊毛が三袋、羊皮が三枚、牛皮が一枚、蜜蝋のろうそくが一本、斧が二本、熊手が三本、鎌が三本、亜麻布が二――」
説明があまりに長くなったので、マルタンは手を上げて止めた。
要するに、来年まで食べても余るほどの食糧と、細々とした品々がひと通りあるということだ。
話が長くなるのは大嫌いだった。
「もういい。聞くべきことは聞いた」
「家畜の状況はお聞きになりませんか? それも調べてあります」
この時代、家畜は最も重要な財産の一つだ。
それを聞き漏らすわけにはいかなかった。
「……ひとまず話してみろ」
「はい。まず牛ですが――」
ピエールの報告はしばらく続いた。
豚、羊、牛、ガチョウなど、さまざまな家畜を合わせると百頭ほどになるという。
それを聞いているうちに、別の財産のことを思い出した。
貴重品をしまってある箱だ。
小さな荘園の領主とはいえ、どれほど価値のある品があるかはともかく、一応確認はしておく必要があった。
「前の領主の私物はどこにある? 父上と同じようにベッドの下の箱か?」
マルタンの問いに、突然別の使用人が割って入って答えた。
「はい、間違いなくベッドの下にありました。私がこの目でしっかり見ました」
昨夜、ベッドの下に隠れて震えていた使用人。
あのときとは正反対の自信満々な態度に、マルタンは呆れて言葉を失った。
「そうか、お前が見たなら間違いないな」
マルタンが使用人と話している間に、ピエールは懐から黒ずんだ鍵を一本取り出した。
「鍵はこちらです。ロベールの遺体から見つかりました」
「箱を壊す必要はなさそうだな」
マルタンは鍵を受け取り、懐へしまった。
それからどれほど時間が経っただろうか。
食事を続けながら話をしていた、そのときだった。
「ロベール! いるか!」
『……ん?』
外から聞こえてきた誰かの叫び声。
先代領主の名を遠慮なく呼び捨てにする者なら、ポワイヤックの住民ではないことは確かだった。
「ロベール! 聞こえないのか!」
正体不明の叫びに、皆が手にしていた器を置いて外へ出た。
ギィ……
屋敷の庭には、軽装で長槍を持つ四人と、綿入れ鎧を着て腰に剣を帯びた男が一人立っていた。
しばしの沈黙が流れた。
互いに相手を予想していなかったからだろう。
沈黙を破ったのは、腰に剣を帯びた男だった。
「私はレスパール城主様に仕える騎士、アマニウだ。お前たちは何者だ?」
マルタンが前へ進み出て答えた。
「ポワイヤックの領主、マルタンだ」
アマニウは眉をひそめた。
「何を言っている? ロベール卿はどこへ行った?」
「昨夜死んだ」
「……死んだだと?」
マルタンは淡々と事実を説明した。
「夜襲を仕掛けてきたから、俺が殺した」
マルタンの説明が終わるや否や、アマニウは腰の剣を抜き放った。
その切っ先をマルタンへ向け、威圧する。
「ありのままを話してもらおう。何があった?」
マルタンは昨夜の出来事を、自分なりに説明し直した。
「ポワイヤックの正当な支配者である俺を、ロベールとその息子たちが殺そうとした」
その答えが気に入らなかったのか、アマニウの表情は変わらなかった。
「どこの馬の骨とも知れん奴が……! ガストンとエメリクはどうした?」
初めて聞く名前に、マルタンは少し口をつぐんだ。
「……それは誰だ?」
それを聞いた後ろの使用人が、小声で囁いた。
「その……領主様の従兄弟の方々です」
「ああ、あいつらか?」
昨夜、森の中で殺した者たちだ。
マルタンが彼らの現状を答えるより早く、アマニウの剣先は彼ではなく使用人へ向けられた。
「おい、そこのお前! その顔は覚えている! まさかロベール卿を裏切り、この無頼漢に仕えているのか?」
使用人はすぐに反論した。
「無頼漢ではありません! マルタン様はロベール様の甥にあたるお方です!」
「……甥だと?」
アマニウはしばらく考え込むと、再び剣先をマルタンへ向けた。
ひどく歪んだその顔には、軽蔑と怒りが満ちていた。
「……だいたい分かった。この人でなしめ、荘園領主の座が欲しくて叔父と従兄弟たちを殺したというわけか!」
マルタンは疲れたような顔で答えた。
「もう一度言うが、夜襲を命じたのはロベールだ。ここに証人もいる」
「証人? どうせ事件を直接目撃した者はいないのだろう! そんな証言など信用できん!」
その強硬な態度に、マルタンは後ろに立っていた兵士を前へ押し出した。
「ここには実際に夜襲へ参加した兵士もいる」
「……?」
アマニウの剣先がわずかに下がった。
マルタンと兵士を交互に見比べ、ゆっくりと口を開く。
「お前が夜襲に参加したというのか? そいつを殺すために?」
兵士は気まずそうな顔で答えた。
「は、はい……ロベール様に命じられたので、どうしようもありませんでした」
アマニウはしばらく呆然としたあと、信じられないというように首を振った。
「……笑わせるな! その簒奪者と仲良く並んで立ちながら、昨夜の夜襲に加わっただと? 私を愚弄しているのか!」
彼は振り返り、兵士たちに叫んだ。
「全員拘束しろ! 私が直々に城主様のもとへ連行する!」




