第34話. 準備
ジュウウウッ―
しばらく肉の焼ける音を聞いていたサンチョが、焼き鏝を置いた。
侍女の鼻と口だったと思われる辺りに手を近づけた。
指先に感じられる微かな息。
まだ命があるのは確かだったが、これといった反応はなかった。
無言で侍女を見つめていたサンチョが踵を返した。
聞きたかった話も聞けたのだから、今日の鬱憤晴らしはこれくらいで十分だった。
「牢番。」
「はい、サンチョ公。」
「可能なら生かしておけ。」
しばらく侍女を見つめた牢番が、自信なさげな顔で答えた。
「努力してみます。」
コツ―
サンチョは牢番を残し、地下牢の階段を上った。
その出口を出ると、入口で待機していた家臣たちを見た。
「少し遅くなったか?」
何も答えない家臣たち。
やがて、家臣の一人が慎重に口を開いた。
「サンチョ公、頬に血がついております。」
「...そうか。」
サンチョは手を上げ、顔についた血を適当に拭った。
少し身なりを整えてから、最も古くから仕える家臣の一人を見た。
「お前は倉庫へ行って、食糧と物資を点検しろ。」
老いた家臣が少し考えてから尋ねた。
「何にお使いになるのですか?」
「戦争だ。冬が終わり次第、遠征に出る。」
サンチョが冷ややかな表情で言葉を続けた。
「フェザンサックのあの老いぼれ。久しぶりに顔を見に行くとしよう。」
家臣が困惑した顔で聞き返した。
「あまりにも突然です。あの者が暗殺の黒幕で間違いないのですか?」
サンチョは先ほどの記憶を思い返した。
「侍女の話では、そうらしい。」
「結局は平民一人の証言ではありませんか? それだけで戦争を始めるのは難しいでしょう。」
心配そうな顔をした老家臣。
サンチョが彼の前へ歩み寄った。
「最終的な決定は会議で下す。今お前がするべきことは、我々に戦争を遂行する余裕があるか確認することだ。」
目の前の老人と視線を合わせた。
「何人を武装させられるか、食糧が何日分あるか、それ以外にも戦争に必要なものをすべて徹底的に確認しろ。」
「...はい、承知しました。」
その場を離れていく老家臣。
サンチョが歩き出そうとした瞬間、別の家臣が問いかけた。
「サンチョ公? メドックにいる庶子はどうなさるおつもりですか?」
サンチョがその場で足を止めた。
彼が死んだ時、ガスコーニュを継ぐ第一順位の継承者。
アイマル。
あのバスク人らしくもないものが公爵になるなど、想像するだけで腹がねじれる。
問題は、その庶子を除けば次の継承者がフェザンサック伯爵だという事実。
あまりにも馬鹿げた状況に、思わず失笑が漏れた。
「...実に気分が悪いな。」
中部の他の伯爵たちもフェザンサック伯爵の愚行に同意していたはずだから、彼らを後継者として推すわけにもいかない。
このガスコーニュには、公爵にふさわしい者が誰もいなかった。
サンチョは考えた末、ゆっくり口を開いた。
「...庶子が何をしているのか、監視だけつけておけ。」
自分が息子をもうけるまで生き残り、フェザンサック伯爵を牽制すること。
庶子の役目はそれで十分だった。
***
屋敷の中庭。
馬に乗ったベルトランが、マルタンへ別れの挨拶をした。
「マルタン卿、ボルドーの知らせは可能な限り早くお伝えします。」
「そうしてくれると助かる。」
パカラッ―
ポワイヤックを去っていくレスパールの一行。
その後ろ姿を見つめているマルタンに、エイナルが近づいてきた。
「それで、何があってあんなに人が押しかけてきたんだ?」
屋敷にも入れず、しばらく中庭に放置されていたからか、不満たっぷりの顔。
マルタンはエイナルへ簡単に状況を説明した。
「公爵が死んだ。」
しばらく考えたエイナルが腕を組み、首を傾げた。
「うん... それで?」
この地の事情を何も知らないエイナル。
マルタンは彼にガスコーニュの状況を説明してやった。
「そういう感じか...」
話を聞いたエイナルが頷いた。
突然顔をしかめると、マルタンへ尋ねた。
「さっき、真っ赤な目をして出ていったガキ。あれがアイマルで合ってるか?」
マルタンが黙って頷くと、エイナルが呆れた顔で言葉を続けた。
「あの間抜けが、よりによって俺と名前が似てるって? あんな物騒な目つきをしておいて、仇を代わりに殺してくれと頼むような奴が?」
どうでもいいことでぶつぶつ文句を言うエイナル。
マルタンは大して気にも留めず答えた。
「まだガキだからな。」
エイナルがあり得ないというように首を振った。
「いつまでもガキってわけじゃないだろ。身体が育ってから復讐すりゃいい。いったいそんな心構えで何ができるんだ?」
鼻息を荒くしていたエイナルが、ちらりとマルタンを見た。
何かに気づいたように頷いた。
「まあ......今のお前にはちょうど似合う程度だし、別にいいか。」
「...?」
妙に気分の悪くなる言葉。
エイナルが彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「心配するな、マルタン。じきにお前を倒して俺の故郷へ連れていってやる。そうすりゃ、そのどんよりした目も少しはマシになるだろ。」
マルタンは肩に置かれた巨大な手を払いのけた。
「何年聞いている台詞か分からんな。一度でも勝ってから言え。」
「そんな目をして俺に勝つつもりか?」
自信満々の笑みを浮かべるエイナル。
遠からず勝負はつくのだから、わざわざ言い争う必要はなかった。
マルタンは彼を放って歩き始めた。
「何だ? 話の途中でいきなりどこ行くんだ?」
「何か準備しに。」
エイナルが彼について屋敷を出てきた。
「準備? 新しく公爵になったって奴が攻めてくるかもしれないからか?」
マルタンは歩みを止めず答えた。
「それもある。」
確かなことは何もない以上、今すぐ誰かがメドックへ攻め込んできても不思議ではなかった。
その余波がポワイヤックにまで及ぶとは思えなかったが、備えない理由もなかった。
エイナルが理解できないという顔をした。
「お前はどうせ俺と一緒にここを離れることになるのに... まあ、好きにしろ。」
再び屋敷へ戻ろうとするエイナル。
マルタンが彼を呼び止めた。
「エイナル。」
無言で振り返った彼と目を合わせた。
「矢でもたっぷり用意しておけ。」
あの巨躯のノルド人は、彼が知る最高の弓兵であり、屈強な戦士。
一度の戦いで一年間こき使えるのなら、何度でも戦う価値のある人物だった。
***
数日後。
ギイッ―
ハサンを連れて屋敷へ戻ってきたピエール
彼は周囲を見回すと、不思議そうな目でマルタンに尋ねた。
「領主様、武器はどこへ行ったのですか?」
マルタンが答えた。
「倉庫へ片づけた。」
万が一に備えて、この数日間準備していた武器。
屋敷のあちこちに配置しておいたものの、無駄なことになってしまった。
「レスパールの使者が、ボルドーはしばらく静かだろうと言っていた。」
「ああ、その間に使者が来ていたのですね。」
ピエールの視線がシモンへ向いた。
「ここ数日、短槍を一生懸命削っていましたし、領主様の大工もようやく休めますね。」
倉庫に入れる前に、短槍へ油を塗っていたシモン。
彼が不遜な目でピエールを見た。
「...私は兵士なんですが?」
ピエールが大して気にも留めず答えた。
「まあ、兵士の中で最高の大工ってことだ。」
釈然としない顔をするシモンから視線を外したピエール。
彼がマルタンへ話を切り出した。
「領主様、この前ハサンが話していた白い石があるでしょう。」
マルタンが数日前の話を思い出した。
「...石灰石と言ったか?」
「はい、そうです。ハサンがやっているのを見ていたら、他の荘園の石工たちが作るものとまったく同じものを作っていました。」
ピエールの後ろに立っていたハサンが、革袋を手に前へ出た。
袋の中に入っている真っ白な石片を見せ、堂々と口を開いた。
「これだ。白い石、焼いたもの。」
マルタンがゆっくり頷いた。
「石灰石というのはこれだったのか。」
その正体に見当をつけたマルタンが、続けて口を開いた。
「わざわざ俺に見せる必要もない。前に話したとおり、自分でやってみろ。」
ハサンが慎重に尋ねた。
「人、どれくらい使っていい? 水路、長くて広い。」
農地の水路を掘ること自体は毎年やっていることなので、領民たちも不満はないだろう。
「必要なだけ。詳しいことはピエールと話せ。」
ハサンとの話を終えたマルタンが席を立った。
特に何もないので、いつものように領地を見回るため外へ向かった。
ギイッ―
屋敷の中庭。
そこには弓を持って立っているエイナルがいた。
シュエエエッ― バキバキッ~
空を裂く音を立てて飛んだ矢。
それは数日前とは違い、塀の奥深くまで食い込んだ。
マルタンは本能的に、エイナルの回復が終わったことを悟った。
「おい、マルタン。」
エイナルがゆっくり顔を向け、マルタンを見た。
「俺はもう準備できたみたいだぞ?」
相手の顔に浮かぶ凄みのある笑み。
マルタンは静かに頷いた。




