第27話. 神の名
アイマルを連れて屋敷を出たマルタン。
庭に立っていたベルトランがそれを見て尋ねた。
「出てくるのが早すぎるのではありませんか?まともに話もされていないようですが?」
マルタンが屋敷の扉を閉めながら言った。
「少し荘園を見せることにした。」
領主としてすべきことを尋ねていたアイマル。
人をまともに斬るには力が足りなさそうなので、いっそ荘園を見回るところを見せることにした。
「そうですか... なかなかいい考えですね。」
ベルトランが顔を向け、アイマルを見た。
「アイマル様、メドック一帯は内陸とはまた違った感じですから、一度見て回るのもよいでしょう。」
アイマルが黙って頷いた。
しばらくして、それぞれの馬に乗って庭を出たアイマルとマルタン。
彼らは何の会話もなく馬を進めた。
パカッ-
数分経った頃、彼らの視界に、冬ライ麦の種を蒔いている領民たちの姿が入ってきた。
「この辺りで止まればいいな。」
マルタンはその場で止まり、じっと領民たちを眺めた。
しばらくそうして立っていると、アイマルが慎重に口を開いた。
「マルタン卿...? 急にどうされたのですか?」
マルタンが領民たちに視線を固定したまま答えた。
「領主はこうして領民たちを見ていればいい。」
「ただ見ていればいいんですか?」
マルタンが頷いた。
「こうして立っていると、あいつらの作業速度が速くなる。」
「...?」
マルタンの言葉が終わるや否や、顔を上げた領民の一人と彼の目が合った。
領民は仰天した顔で他の者たちに何かを叫ぶと、以前の何倍もの速さで播種が始まった。
「え... 本当ですね?」
アイマルが怪訝そうな顔で尋ねた。
「どうしてこうなるんですか?」
マルタンがしばし考え込んだ。
単に領地を歩き回っていて気づいたことなので、彼にも正確な理由は分からなかった。
「おそらく... 土地の主人が見ているからだろう。」
「うーん... そうかもしれませんね。」
アイマルが頷いてから、畑を指差して尋ねた。
「ところで、畑で採れた収穫物はどれくらい持っていかれるんですか?」
「元々やっていた通りに取るだろう。使用人たちが勝手にやっているから、よく知らん。」
アイマルが首を傾げた。
「それでいいんですか?もう少し細かく確認したほうがいい気がしますが?」
マルタンが淡々とした顔で答えた。
「領民の倉庫にあろうと、俺の倉庫にあろうと、どうせ全部俺のものなのだから気にする必要はない。」
アイマルが理解し難いというように瞬きをした。
「...それって、そういうものなんですか?」
マルタンが当然だというように頷いた。
「どうせポワイヤックにあるものは全部俺の財産だからな。」
マルタンはやがて馬首を巡らせ、別の場所へ向かった。
砂利の丘にある小さな葡萄畑、豚たちがドングリを拾って食べている森、草を食べに向かう羊の群れ、貝や魚介を採れる干潟まで。
彼についてポワイヤックのほぼ全てを見たアイマルは、感嘆を隠せなかった。
「確かに、マルタン卿が見ている時は作業速度が速くなりますね。」
「領主らしいことをしている唯一の時間だ。」
「唯一の時間ですか...?」
アイマルが怪訝そうな目で尋ねた。
「領主がしなければならないことは、もっと多いのではないですか?」
「俺はこれで全部だ。」
「...これで全部なんですか?」
黙って頷くマルタン。
それにアイマルが戸惑いながら尋ねた。
「え... 領民同士で争いが起きたりした時も、領主が処理しなければならないと聞きましたが?」
領民同士の争い。
マルタンはそれを解決してほしいと訪ねてくる者を見たことがなかった。
「争いのせいで訪ねてきた者は特にいないから、分からんな。」
「ここはそんなに平和なんですか?」
「些細な揉め事なら時々あるが、そういう時はただ見ているだけでも解決する。」
アイマルは理解できないという顔で彼を見た。
「うーん... では、他の領主と会うことは?」
「他の領主?」
「あ...!」
アイマルがマルタンの様子を窺いながら、ゆっくりと口を開いた。
「マルタン卿は... 近隣の他の領主と会う機会がなかったんですね。」
マルタンがそれを認めた。
「そうではあるな。他の領主と会って何かすることがあるのか?」
アイマルが自信のない声で答えた。
「たぶん... 一緒に狩りでもしながら親睦を深めると聞きましたが?」
「狩りか...」
マルタンがゆっくりと頷いた。
「...悪くはないな。」
近隣に住む荘園領主との狩り。
退屈な時に何度か試してみるくらいはよさそうなことだった。
***
万聖節、忠誠の誓いの儀式当日の朝。
ギィィッ-
リストラックの領主が宴会場の扉を開けて入ってきた。
朝だからか、かなり閑散としている宴会場の内部。
彼が一群の荘園領主たちが座っているテーブルへ向かうと、席にいた領主の一人が彼に挨拶した。
「リストラックの領主か。だが、その顔はどうした?」
リストラックの領主が周囲を見回してから、小声で尋ねた。
「...あいつはまだ来ていないのか?」
「まだだ。何か問題でもあるのか?」
リストラックの領主が溜息をつきながら席に座った。
ポワイヤックの領主。
あの者の蛮行を皆に知らせなければならなかった。
「ふぅ... 三日前だったか、あいつが短槍と弓を持って俺の領地にやって来たんだ。」
「...その割にはお前、無事に見えるが?」
リストラックの領主が馬鹿な質問をした領主を睨みつけた。
「俺は無事だ。あいつは狩りをすると言って訪ねてきたんだからな。」
「いきなり狩りを?お前の土地でか?」
「そうだ。親睦を深めようだの何だの。ともかくそんなことを言いながら、早く装備を用意しろと言ってきた。」
別の領主が呆れた顔で口を開いた。
「招待もしていないのに、他人の土地でいきなり狩りをしようとは、そんな話があるか?」
「俺もそう思う。俺の代わりにお前が行って一言言ってやってくれ。」
「それはちょっと...」
そっと視線を逸らす別の領主。
リストラックの領主が額に手を当て、悔しそうな顔で嘆き始めた。
「よりによって、どうして俺のところに来るんだ... ポワイヤックならすぐ隣にシサックがあるじゃないか?その周辺にはヴェルトゥイユもあるだろう?いったいなぜ?」
彼の愚痴を聞いていた領主の一人が口を開いた。
「そこまで悪く見ることもないのではないか?結局のところ、あいつもここに馴染んで暮らそうとしているということだろう。」
リストラックの領主がきっぱりと首を横に振った。
あの者がしたことを考えれば、そんなはずはなかった。
「いや... そういうことじゃない。あいつ、うちの荘園の鹿の群れを丸ごと一つ狩り尽くしたんだ。」
領主たちが信じられないというようにざわめいた。
「群れを丸ごと一つ?お前はその間何をしていた?」
「...あいつが狩りをやめるよう祈っていた。」
毎年一、二頭ずつ狩り、慎重に個体数を調整してきた鹿の群れ。
それがポワイヤックの領主によって、あっという間に消えてしまった。
「鹿が八頭消えてからようやく... 狩りすぎではないかと言い出せた。」
領主たちの視線が彼に集中した。
「それで、あいつの反応はどうだった?」
「...自分が処理してやると言って、死んだ鹿の半分を持っていった。」
リストラックの領主が怒りに震えた。
無邪気な顔で鹿を持ち帰っていたあの者の部下たちが、今でも目に焼きついていた。
「ただでさえ近隣に二つしかない鹿の群れだったのに... 今では一つになってしまった。」
「それは.....肉はどうした?」
「ほとんど塩漬けにした。鹿四頭分なんて、どう処理しろというんだ?」
彼が領主たちに不満をぶちまけている間に、宴会場の扉が開き、また別の領主が入ってきた。
コツ-
シサックの領主。
彼は周囲を見回してから、領主たちの集まりに加わった。
「あいつはまだ来ていないのか?」
「そうだ。」
シサックの領主が複雑な顔で話し始めた。
「昨日は言いそびれたんだが、実はあいつが俺の領地に来ていたんだ。」
どこか聞き覚えのある話。
リストラックの領主が顔を上げて尋ねた。
「あいつ、弓と短槍を持って訪ねてきたのか?」
シサックの領主が彼を見た。
「 ...まさか、お前のところにも?」
「来たさ、三日ほど前にな。」
リストラックの領主が妙な仲間意識を覚えながら質問を投げた。
「あいつ、お前の領地でも鹿を狩っていったのか?」
「鹿...?」
訳が分からないという顔をしたシサックの領主。
「あいつは猪の群れを狩っていったが?」
「...猪だと?」
シサックの領主が頷いた。
「奴らをいつ仕留めるべきか悩んでいたところに、ちょうど来て狩ってくれたんだ。」
リストラックの領主が裏切られたような思いで身体を震わせている間に、シサックの領主が言葉を付け加えた。
「あいつが狩りを終えてそのまま帰ろうとしていたから、猪の脚をいくつか持たせてやった。意外と悪くない奴なのかもしれないと思ったな。」
歯を食いしばるリストラックの領主。
それを見たシサックの領主が怪訝そうな目で尋ねた。
「.......」
「.......」
「お前はどうしたんだ?」
リストラックの領主は黙って彼を睨みつけた。
シサックの領主へ向けられた彼の視線は、忠誠の誓いの儀式が始まるまで続いた。
***
いつの間にか太陽は中天に昇っていた。
レスパールの聖堂。
マルタンはそこで、ちょうど行われている忠誠の誓いの儀式を見守っていた。
『...多いな。』
二十人近い荘園領主。
彼ら一人ひとりが忠誠の誓いをするため、同じ光景が延々と続いた。
「最後に、ポワイヤックの領主。マルタン。」
ついに呼ばれた彼の名。
マルタンがゆっくりと祭壇の前へ歩み出た。
コツ-
ざわめいていた聖堂の中に静寂が漂った。
背後から感じる領主たちの視線を無視したまま、アイマルと、その代理人であるベルトランの前に立った。
緊張しているように見えるアイマルの顔。
マルタンはアイマルの手を握り、ゆっくりと誓いを始めた。
「このマルタンは、今日よりあなたの人となります。」
乾いた声で、そのまま誓いを続けていった。
「主君を害そうとする者は私の敵となり、主君の友は私の友となるでしょう。」
マルタンはアイマルと目を合わせた。
「いかなる状況においても主君を害さぬことを、神の名において誓います。」
神の名。
自分にとって何の価値もないものを懸けて、その誓いを終えた。




