第12話. 稽古試合
商船がポワイヤックに立ち寄ってから、すでに数日が過ぎていた。その間、領地はこの上なく平穏だった。
変わったことといえば、住民たちとの関係が多少和らいだことと、油ランプから出る煤が少し減ったことくらい。
忠誠の誓いを立てる日取りはまだ伝えられていなかったため、マルタンにできることは、ただひたすら時間を潰すことだけだった。
マルタンがピエールとともに領地を見回っていた時だった。
「領主様、それでもレスパールから特に知らせがないのは幸いですね。」
安堵した顔で話しかけてくるピエール。
マルタンはそこで初めて、武官長と会ったことを誰にも話していなかったと気づいた。
「レスパールの武官長について聞いたことはあるか?」
彼がさりげなく投げかけた質問に、ピエールは当然だというように答えた。
「ガルシア卿のことですか? もちろん存じております。」
予想外の反応だった。
せいぜい名前くらい知っている程度だと思っていた。
「知っていて当然なのか?」
ピエールが頷いた。
「はい、この地域ではかなり有名な方です。」
「なぜだ?」
ピエールは喉を整えると、ゆっくり説明を始めた。
「ええと……確か三十年ほど前でしたか、ガルシア卿は当時のレスパール城主様とともに、ガスコーニュ公爵様の遠征へ参加されました。イベリアの異教徒たちとの戦争でした。」
『イベリアか……。』
武官長が若かった頃なら、マルタンはまだ生まれてすらいなかった時代だが、戦争の結果は知っていた。
キリスト教勢力の敗北。
いつ起きた戦争なのかなど知る必要もなかった。
どうせイベリアに存在するあの巨大なムーア人の帝国は、ここ数十年、一度の敗北すら記録していなかったのだから。
「イベリアなら、結果は良くなかっただろうな。」
ピエールが首を傾げた。
「さあ……? 結果までは存じませんが、その後に起きた戦いのほうが重要です。」
彼はそのまま話を続けた。
「ガルシア卿は、ガスコーニュ南部からあのノルド人どもを追い払った戦いにも参加されました。詳しくは分かりませんが、そこで大きな功績を立てたと聞いております。」
マルタンは怪訝そうな口調で尋ねた。
「その程度のことで有名になれるのか?」
「それ以降、ガスコーニュからノルドの海賊どもがすっかり消えましたから、そうなるのも当然でしょう。」
マルタンは、かつて親しくしていたノルド人傭兵との会話を思い出した。
彼から聞いたガスコーニュについての話。
―ガスコーニュですか……あそこは大して金にもならない連中のくせに、やたらと手強いから嫌だって聞きましたけど?
……そこまでか? それなりに暮らしやすかった気がするが。
―俺も詳しくは知りませんよ? 村の年寄りの戦士たちがそう言ってましたけど?
ピエールの言う通り、その戦いがノルド人を追い払う助けになったのは間違いなさそうだった。
マルタンが昔のことに思いを馳せている間、ピエールが不思議そうな表情で尋ねた。
「ところで、なぜ急にレスパールの武官長についてお尋ねになるのですか?」
マルタンは淡々と答えた。
「数日前、あの男と会った。」
「はい?」
ピエールが困惑した表情で尋ねた。
「……いえ、そんな時間があったのですか?」
「水鳥を捕りに行った時に会った。忠誠の誓いを立てる日取りを知らせると言っていたが、まだ連絡がない。」
ピエールは疑わしげな目でマルタンを見つめると、ゆっくり口を開いた。
「……今回は平和に終わったのですよね?」
マルタンは理解できないという顔で尋ねた。
「どういう意味だ?」
「ですから……剣を抜いたり、誰かが地面に倒れたりしたことはなかったのですよね?」
「なかった。」
ピエールが安堵の息を吐いた。
「何よりです。忠誠の誓いが終われば、領地も安定するでしょう。」
忠誠の誓いの終わり。
その結末がどうなるのかは、まだマルタンにも確信がなかった。
「……どんな形であれ、安定はするだろう。」
「はい?」
ピエールが聞き返すや否や、遠くからジャックの声が聞こえてきた。
「領主様!」
一目散にマルタンの前まで駆けてきたジャック。
彼は切迫した顔で口を開いた。
「レスパール……レスパールから人が来ました。」
レスパールの使者。
ここ数日、ずっと待ち続けていた知らせだった。
マルタンが答えようとした瞬間、突然ピエールが前に出た。
「忠誠の誓いの日取りの件か?」
ジャックは戸惑った顔でピエールを見た。
「何だよ、どうして知ってるんです?」
「私は当然知っていた。領主様もちょうどその知らせをお待ちだったのだ。」
マルタンは黙ったままピエールを見つめた。
「参りましょう、領主様。」
「……ああ。」
ジャックとピエールについて屋敷へ移動した。
扉を開けて中へ入ると、見知らぬ者たちが数人、暖炉のそばに座っていた。
『兵士が二人、騎士が一人。』
侍女が出したのか、彼らは見覚えのある燻製チーズと葡萄酒を口にしていた。
「お前か、アマニウをあんな有様にしたというのは。」
片脚を組み、傲慢な姿勢で座っていた騎士。
彼は立ち上がると、マルタンへ手を差し出した。
「レスパール城主様の家臣、アンドレだ。」
「ポワイヤックの領主、マルタンだ。」
マルタンはすぐに本題へ入った。
「忠誠の誓いの件で来たのだな?」
アンドレは大したことでもないというように話した。
「まあ……ひとまず、その日取りを知らせに来たのは確かだ。お前は来たる聖ミカエル大祝日にレスパールへ来ればいい。」
聖ミカエル大祝日。
一週間ほど後にある祝日だった。
「他の用件は?」
アンドレが意味ありげな表情を浮かべた。
「アマニウはどうだった?」
「アマニウ……?」
アマニウといえば、マルタンが力加減を誤って気絶させてしまったレスパールの騎士。
かなり安定して剣を扱っていたことは覚えていた。
「まあ、剣はそれなりに使えていたな。」
アンドレが興味深そうに笑みを浮かべた。
「それなり、か。あの化け物じみた武官長が直々に育てた奴だというのに、それだけか?」
誰かに対する評価を気にする者は、どこにでもいる。
純粋に他人への評価が気になる者。
あるいは、比較対象を置いて相手と自分との差を測ろうとする者。
マルタンから見れば、この男は明らかに後者だった。
「戦いたいのか?」
アンドレが乾いた笑いを漏らした。
「戦うだと? あえて言うなら、一種の稽古試合を望んでいるだけだ。」
稽古試合。
互いに殺しさえしなければ、戦おうという意味だった。
「望むなら、すぐ外へ出よう。」
アンドレが両目を細めた。
「随分と自信満々だな? まあ、俺としては構わない。」
すぐに外へ出ようとしたアンドレは、ふと足を止め、マルタンの全身を眺め回した。
分厚い綿入り鎧を着ている彼とは違い、軽いチュニックを着たマルタンの姿。
それを見たアンドレが眉をひそめた。
「……その格好で出るのか?」
「残念ながら、今着られる綿入り鎧がない。」
本来なら寝室の壁に綿入り鎧が一着掛かっていた。
問題は今朝、侍女に鎧の洗濯を任せてしまったということ。
酢で適当に拭いて使うこともできたが、他人が着ていた物をわざわざそうしてまで使いたくはなかった。
アンドレは表情を硬くし、悩み始めた。
「ううむ……何も身につけていない相手との稽古試合は、あまり気が進まないな。」
鎧があろうとなかろうと、まともに当たれば体を痛めることに変わりはない。
マルタンは相手の悩みを取り除いてやることにした。
「すぐ終わるから問題ない。どうせ鎧を着るつもりもなかった。」
「……すぐ終わるだと?」
アンドレが呆れた顔で言い返した。
「俺はアマニウとは違うぞ。そんな半端な槍術を信じて言っているのか?」
「……?」
アマニウを相手にした時は槍の柄だけを使ったからなのか、相手は何やら妙な勘違いをしているようだった。
「俺は剣と盾を使うつもりだが?」
「……何だと?」
アンドレは一瞬戸惑った後、再び顔を強張らせた。
「いや、槍を使わないのなら、なおさら鎧が必要だろう?」
マルタンは首を横に振った。
「構わないから、さっさと出ろ。」
アンドレは失笑すると、マルタンを殺さんばかりに睨みつけた。
「はっ……傭兵上がりだからか、怖いもの知らずらしいな?」
彼はマルタンの横をすれ違いざまに囁いた。
「すぐに出てこい。忠誠の誓いの儀式を、寝たまま行わせてやる。」
アンドレが屋敷の扉を蹴り開けて外へ出ると、同行してきたレスパールの兵士たちも慌ててその後を追った。
マルタンは黙ってそれを見送り、ピエールへ顔を向けた。
「木剣と盾。倉庫にあるだろう?」
「はい、持ってまいります。」
ピエールが倉庫へ入っていく間、マルタンは屋敷を出た。
ギィッ―
庭の中央に陣取って立っているアンドレの姿。
一緒に出た兵士たちはどこへ行ったのか、見当たらなかった。
「一緒にいた者たちは?」
「馬に積んである俺の装備を取りに行った。まさか稽古試合をしに来て、手ぶらで来たと思ったのか?」
アンドレの言葉通り、ほどなくして兵士たちが彼に装備を持ってきた。
木剣と円盾。
最も基本的な組み合わせだった。
ギィッ―
今しがた屋敷から出てきたピエールが持ってきた装備も、アンドレのものと同じだった。
木剣と円盾。
ただし、こちらの盾は手入れが行き届いていないのか、革がかなり傷んでいた。
相手の装備を見たピエールが、心配そうな表情で尋ねた。
「あの……このような盾で大丈夫でしょうか?」
「構わない。」
一番良い盾は鍛冶場へ預けてあるのだから、仕方のないことだった。
マルタンはそれを受け取ると、アンドレへ近づいた。
「……随分と古びた盾だな?」
「……まあ、事情があってな。」
準備が整った以上、これ以上言葉は必要なかった。
左手には盾、右手には剣。
盾の後ろに体と武器を隠し、相手を見据えた。
***
アンドレはゆっくりと相手の周囲を回りながら、隙を探そうとした。
『傭兵上がりだというだけあって、随分と場数は踏んでいるらしいな。』
装備は粗末だったが、構えはかなり安定していた。
これといった隙が見えない以上、ひとまずぶつかってみるしかない。
決断したアンドレは盾を前に構え、相手へ突進した。
ドン―
盾同士がぶつかる鈍い音。
ここから力と間合いを調整しながら、駆け引きを続ける時間だった。
ガッ―
相手が剣を握る右手。
それが瞬く間に迫り、盾の上端を掴んだ。
『……え?』
予想外の速さで繰り出された奇妙な技。
一瞬で盾が地面へ向けて押し下げられ、アンドレの体が無防備にさらされた。
『何という力だ……!』
もはや意味を失った盾越しに、相手の姿が見えた。
何の感情も宿していない、無関心な瞳。
それを見たアンドレは反射的に剣を振ろうとしたが、すでに遅かった。
バキッ―
マルタンの木剣が、一瞬でアンドレの顎へ叩き込まれた。




