第99話 息子カインの出産祝い
『アヴァロン帝国暦2年 10月中旬 帝都フェルグラント グレン邸 昼 晴れ』
【皇帝の右腕グレン公爵視点】
高く澄み渡った秋空から、柔らかな陽光が降り注いでいる。
帝都フェルグラントの一等地に構えられた我が公爵邸は、今日、かつてないほどの賑わいと温かな空気に包まれていた。
窓の外では色づいた街路樹の葉が風に舞い、平和な午後の訪れを告げている。
(いろいろあって、息子の出産祝いが遅れていたからな。ついに、この日が来たか……)
広間を見渡しながら、俺は感慨深い思いでゆっくりと息を吐き出した。
今日は、俺と妻エレーナの間に生まれた待望の長男、カインの誕生を祝うささやかな宴の日だ。大々的な公式行事にはせず、身内や親しい戦友たちだけを招いた内輪の集まりである。
「旦那様! エレーナ様! 本当におめでとうございます!」
目を輝かせて駆け寄ってきたのは、我が家で働くメイドのリタだ。
彼女は手際よく大きなテーブルに、色鮮やかなサラダやローストポーク、そして特製の巨大なパンケーキを並べながら、ゆりかごの中で眠るカインを覗き込んで、ふにゃりと顔を綻ばせた。
「なんて可愛らしいんでしょう……。まるで天上から舞い降りた天使みたいです! 私、これからはカイン坊ちゃまのためにも、一生懸命お仕えいたします!」
「ありがとう、リタ。でも、あんまり張り切りすぎて倒れないでくれよ」
俺が苦笑いしながら声をかけると、エレーナも隣で優しく微笑んだ。
「ええ、リタにはいつも助けられていますわ。これからも、カインの成長を一緒に見守ってちょうだいね」
「はいっ! 坊ちゃまのオムツ替えから夜泣きのお世話まで、なんでも私にお任せください!」
リタが元気よく胸を張った直後、広間の扉が勢いよく開け放たれた。
「おいおい、主役は起きてるか!? 祝いに駆けつけたぜ!」
「ちょっとイリア、大きな声を出さないでよ。赤ん坊が起きちゃうでしょ」
どかどかと遠慮のない足音を立てて入ってきたのは、旧知の仲である傭兵のイリアと、その後ろで呆れ顔をしている同じく傭兵のソフィアだった。
二人は戦場を渡り歩く凄腕だが、今日ばかりは物騒な武器を屋敷の入り口に預け、その代わりに可愛らしいクマのぬいぐるみや、木彫りの馬の玩具を両手に抱え込んでいる。
「いやあ、あのグレンが、公爵になって、しかも父親になるなんてな! 昔からは想像もつかなかったよ。本当はお祝いに名剣でも打たせようかと思ったんだけど、ソフィアに怒られてちゃって」
イリアは豪快に笑いながら、俺の肩をバンバンと叩いた。
「当たり前だ。生まれたばかりの赤子に剣を贈る馬鹿がどこにいる。……エレーナ、本当にご苦労だったわね。グレン様、エレーナ様を今まで以上に大切にして下さい」
ソフィアは静かにエレーナを労い、ゆりかごの中を覗き込んだ。
その瞬間、イリアとソフィアの表情が、戦場では決して見せないような、とろけるような優しい笑顔に変わった。
(こいつらにも、あんな顔ができるんだな)
俺が微笑ましく見守っていると、突然、屋敷の外からただならぬ喧騒が聞こえてきた。
馬のいななきと、重厚な鎧の擦れる音。
ただ事ではない気配に、広間の空気が一瞬だけ引き締まる。
「なんだ……? 客の予定は……」
言い終わるよりも早く、再び扉が豪快に開かれた。
そこに立っていたのは、豪奢なマントを羽織った、大柄で威圧感のある男――アヴァロン帝国皇帝、カール様その人であった。
「グレン! 邪魔するぞ!」
「へ、陛下!? どうしてこちらへ……!」
俺は慌てて姿勢を正し、イリアたちも咄嗟に片膝をついた。
だが、皇帝は気にした様子もなく、背後の近衛兵に命じて、巨大な木樽をドスンと広間の床に置かせた。
「ふん。グレンの息子の誕生祝いがあると聞いてな。宮殿でふんぞり返っていられるか。これは由緒正しき葡萄園で造らせた、とびきり上等なワイン樽だ!」
カール様は顎をしゃくり、誇らしげに胸を張った。
「カインが成人した暁には、これで盛大に乾杯するがいい。それまでは、絶対に封を切るなよ! もし途中で盗み飲みしたら、極刑だからな!」
「ははっ……。ありがたき幸せにございます、陛下。決して手はつけません」
俺が深く頭を下げると、皇帝は満足そうに豪快な笑い声を上げた。
「うむ! では、余は退屈な執務に戻る! エレーナ夫人よ、大儀であったな。無理はせず、しっかり休め!」
嵐のように現れ、言いたいことだけを言って、皇帝は嵐のように去っていった。
残された巨大なワイン樽を見つめながら、広間に、ふう、と安堵の吐息が漏れる。
「相変わらず、情に厚くて豪快なお方だ……」
俺が肩の力を抜いた、その時だった。
昼間だというのに、部屋の隅の影が不自然に濃くなったように感じた。
音もなく、すうっと漆黒の影の中から一人の男が姿を現す。
「――光あるところには影があり、生あるところには死がある。なれど、新しき命の誕生は、我ら闇の底にすら届く尊き祝祭……」
抑揚のない、冷ややかな声。
漆黒の法衣に身を包んだ男――闇の宗教の幹部、チェーザレだった。
「チェーザレ……。お前まで、わざわざ来てくれたのか」
「ええ。公爵閣下には、我ら教団も多大な恩義を感じておりますゆえ。……カイン様に、深淵なる闇の加護があらんことを」
チェーザレがゆりかごに向けて恭しく一礼し、細い指先で何かの印を結ぶと、カインの周囲が淡い紫色の光に一瞬だけ包まれたような気がした。
教団に伝わる、魔除けの加護なのだろう。寝ていたカインが、なぜかきゃあきゃあと嬉しそうな声を上げた。
チェーザレは、女神教の元枢機卿である。彼なりの誠実な祝福であることはしっかりと伝わってくるのが面白い。
「ありがとう、チェーザレ。お前の祈り、確かにカインが受け取ったようだ」
こうして、昼間の賑やかな祝宴は、温かい笑い声に包まれながら和やかに進んでいったのだった。
◇◆◇
夜。
宴が終わり、エレーナとカインが心地よい疲労と共に寝静まったのを見計らい、俺はこっそりと屋敷を抜け出していた。
向かった先は、帝都の裏路地の奥深くにひっそりと佇む隠れ家的な酒場――通称『闇バー』である。
二次会というわけではないが、たまには静かにグラスを傾け、親になったというこの不思議な喜びにじっくりと浸りたかったのだ。
薄暗い店内は、どこからか静かな音楽が流れ、紫煙と熟成された酒の香りが漂っている。
俺はカウンターの隅に座り、強い酒をチビチビと舐めていた。
(俺が、親父か……。何だか、まだ実感が湧かないな)
グラスを傾けると、カランと涼やかな音が鳴る。
死と隣り合わせの戦場を駆け抜けてきた日々。泥水をすすり、いつ死んでもおかしくない剣を振り回していた雑兵時代。
それが今では公爵と呼ばれ、愛する妻がいて、その腕の中には守るべき小さな子供がいるのだ。
自分の人生の数奇な巡り合わせに、ふと口元が緩んでしまう。
「――良いお酒の飲み方をしておるのう。グレンとやら」
ふいに、隣の空席から鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
驚いて視線を向けると、いつの間にか、黒衣を纏った不思議な少女がちょこんと座っていた。
「お前は……」
この闇バーで稀に姿を現す、正体不明の少女。チェーザレが闇の教皇と呼んでいる少女……。
彼女は長い黒髪を揺らし、透き通るような白い肌に神秘的な笑みを浮かべていた。彼女の前には、綺麗なグラスに注がれた透明な液体が置かれている。
「新しい命の誕生、心よりお祝い申し上げる。あの小さき光は、大きな希望をもたらすことじゃろう」
「……ああ。ありがとう。あいつは、俺の宝物だ」
俺が素直に礼を言うと、少女はグラスの縁を指でなぞりながら、静かに目を閉じた。
「光が強くなれば、闇もまた濃くなるものじゃ。この世界には、まだ見えぬ脅威や悲しみが潜んでいるかもしれん。じゃが……そなたがいれば、その子はどんな深い闇の中でも、決して道を見失うことはないじゃろう」
少女の言葉は、予言のようでもあり、優しい祈りのようでもあった。
「当然だ。俺が必ず、あいつが笑って生きられるように、この世界を平和にしてやるさ」
俺が力強く宣言すると、少女は満足そうにふわりと微笑んだ。
そして、自分のグラスをそっと持ち上げる。
「では、小さなカインの未来と、帝国の安寧に――乾杯」
「ああ、乾杯だ」
二つのグラスが軽く触れ合い、かすかな音を立てた。
次に俺が目を向けたときには、まるで夜の闇に溶け込むように、少女の姿はすでに消え去っていた。
「……不思議なやつだ」
声だけが耳の奥に残り、後には冷たい空気だけが漂っている。
だが、俺の心には確かな温もりと、一つの揺るぎない決意が残されていた。
(待っていろよ、カイン。お前が大人になる頃には、最高のアヴァロン帝国を、この親父が作っておいてやるからな)
俺は残った酒を一息に飲み干すと、カウンターに硬貨を置き、愛する家族が待つ屋敷へと帰路についた。
秋の月が、いつもより明るく感じられる夜道であった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




