第110話 密使ミラの選択
『アヴァロン帝国暦2年 12月上旬 北方の都市ハーグ 夕刻 厚い曇』
【ランベール王国の密使ミラ視点】
北方の要衝、ハーグの都を激しく襲っていた大雪は、夕刻にはすっかり止んでいた。
しかし、夕日が放つはずの赤い光は、北方特有の厚く重い雲に覆い隠され、街はすでに夜のような薄暗さに沈んでいた。
私は、ランベール王国の密使という素性を隠し、『白熊のねぐら』という活気ある宿屋に滞在していた。
この街の自治領主であるヴァルデマール卿との面会約束は、一か月後だ。それまでは、ここを拠点に情報収集を進めるつもりだった。
今は一階の酒場で、たまたま席が隣り合って仲良くなったバルザフという男と、食事を楽しんでいるところだった。彼はアヴァロン帝国から来た商人だという。
テーブルには、北国の冬に備えた酢漬けの野菜と、香ばしくローストされたチキンが並んでいた。
「なぁ、お嬢さん。南方はやっぱり暖かいのかい? ハーグの冬はこたえるだろう?」
バルザフが、チキンを骨ごとしゃぶりながら気さくに話しかけてくる。
「ええ、南方では、雪なんて降らないですもの……」
(しまった! 私が南方の人間だと隠しておきたかったのに!)
私は、自分の不用意な発言にハッとした。
どう取り繕おうかと考えを巡らせていた、まさにその時だった。
ギィッ!
酒場の重い木の扉が、けたたましい音を立てて開かれた。
「ミラという人物はいるか? ヴァルデマール卿がお呼びである!」
吹き込んでくる冷たい風と共に、衛兵の威圧的な声が酒場内に響き渡る。
喧騒に包まれていた酒場が水を打ったように静まり返り、客たちが一斉に入り口の方へと視線を向けた。
「どうやら、アンタを呼んでいるんじゃないのかな? お嬢さん?」
バルザフが、油まみれの手を布で拭きながら、面白がるように私を見た。
「ええ、そうみたいね……」
(しまった! 名前も隠しておきたかったのに!)
給仕の娘さんには宿の帳簿の関係で名前を伝えていたが、まさかこんな大声で呼ばれるとは思わなかった。
この酒場内に居る女性は、忙しく立ち働く給仕たちを除けば、私だけだ。隠れようもない。
(まあ、バレるのは仕方ないか。それより、思ったよりずっと早くお声がかかったわね。一か月後のはずが……)
私はため息をつきながら立ち上がり、衛兵の元へと歩み寄った。
◇◆◇
外の凍えるような寒さとは打って変わり、ヴァルデマール卿の居城は異様な熱気に包まれていた。
案内された大広間では、いくつもの巨大な暖炉にガンガンと薪が焚かれ、贅を尽くした料理の香りと、人々の放つむせ返るような熱気が渦を巻いている。
そして、その広間の中心には、目を疑うような光景が広がっていた。
巨漢の、ひげ面の大男が、半裸の姿で玉座のような椅子に深く腰掛け、数人の女性たちを両脇に侍らせている。
彼は豪快に笑いながら、彼女たちの滑らかな肩を掴み、豊満な胸を遠慮なく揉みしだいていた。
侍っている女性たちもまた、薄衣一枚の半裸の姿だ。
酒をお酌する者、大男の背後から肩を揉む者、足元に跪いてマッサージをする者。
少し離れた場所では、官能的な音楽を奏でる楽団に合わせて、蠱惑的なダンスを踊る女性たちの姿もある。
まさに、酒と色欲の饗宴だった。
アヴァロン帝国産と思われる、甘く重いワインの香りが、強く鼻をつく。
「ビョルン王よ。ランベール王国の密使殿が到着したようです」
大男――ビョルン王のそばに控え、そう進言したのは、隙のない鎧に身を包んだ騎士風の男だった。
彼がこの街の主、ヴァルデマール卿だろう。
(この大男が、北方を統べる王……)
「よく来た、ランベールの女騎士殿。どうだ? 俺に抱かれる気はないか? 優しくしてやるぞ?」
ビョルン王は、私を上から下まで舐め回すように見ると、そのいかつい風貌には似合わない、ひどく甘く優しい声で語り掛けてきた。
「いきなりは失礼ではないかっ! それが一国の使者に対する態度か! 断るっ!」
私は、反射的に腰の剣の柄に手をかけ、怒鳴りつけてしまった。
(あっ、しまった! 色を使ってでも、この男をこちら側に引き入れなければいけなかったのに……!)
後悔したが、遅かった。
外交の駆け引きなど吹き飛ぶほどに、王のあまりにぶしつけで野蛮な振る舞いに、私は猛烈にカチンと来ていたのだ。
「ならば、こうしよう。俺と剣で勝負しないか? 俺が勝ったら、オマエは言うことを聞く。どうだ?」
ビョルン王は、私の怒りなど意に介さない様子で、愉快そうに提案してきた。
「もしも、私が勝ったら?」
「ふっ、貴国の要求を飲もうではないか。何か交渉ごとがあって来たのだろう?」
悪くない条件だ。
それに、ただの色ボケ親父に剣で負ける気はしなかった。
「その話、乗ったッ!」
先手必勝!
私は叫ぶと同時に、腰の長剣を抜き放ち、弾かれたようにビョルン王へと斬りかかった。
「フッ、足元がお留守だぞ?」
ビョルン王は、座ったままの体勢で、テーブルの上に置かれていたワインの空き瓶が乗った金属製のトレイを、無造作に、しかし恐るべき正確さで投げつけた。
ガキンッ!
トレイは私の踏み込んだ軸足のスネに、痛烈に命中した。
「あっ!」
私は転倒こそ免れたものの、大きく体勢を崩し、その場で突進の勢いを完全に殺されてしまった。
「ヴァルデマール。オマエの隕鉄剣、借りるぞ」
「ご随意に」
ビョルン王は、ヴァルデマール卿の腰から、鈍く黒光りする剣を滑らかに引き抜いた。
そして、その巨大な巨体にそぐわない、恐るべき俊敏さで私の懐へと迫る!
「くっ!」
私は慌てて剣を中段に構え、ビョルン王の振り下ろした強烈な剣戟を、下から受けて防ごうとした。
防いだはずだった……。
キイィンッ!
甲高い悲鳴のような金属音が響いた。
(剣が……折れた……?)
私の愛用の長剣は、まるで枯れ枝のように、真ん中から真っ二つにへし折られていた。
「まだやるか?」
ビョルン王が、私の鼻先に、黒光りする隕鉄剣の切っ先をピタリと突きつける。
その眼光には、先ほどまでの色欲はなく、圧倒的な強者の威圧感だけが宿っていた。
「ま……まいった……」
私は、力の抜けた手から折れた剣を落とし、敗北を認めた。
「よし、さっそく寝室へ行こう! 宴は終わりだ!」
ビョルン王は剣をヴァルデマール卿に投げ返すと、豪快に笑いながら私を軽々と肩に担ぎ上げた。
こうして私は、その夜、北方の王に抱かれることとなった。
雪に閉ざされた北の地の冬の夜は、私の想像を絶するほどに、やけに熱く、そして長かった……。
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