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第12話 鬼

「────バニラあああああああッ!!」


 いつぶりだろうか。


 頭のどこか──燃え滾る溶岩のように熱く、感情的になっている傍らで、涼やかな森の湖畔のように静謐な頭の片隅を以て記憶を掘り返すが、どれだけ掘り起こそうと、こんな大声で叫んだことはただの一度もなかった。


「──かなたさんっ!!」


 握り締めた拳では間に合わない。

 そう判断した俺は、拳の代わりに圧縮したオドの塊を炎に変え、それを殴り付けるように投げ飛ばすことで、ベンチを掲げたゴブリンの手を四散させた。当然ながら、ゴブリンはベンチに押し潰され、ベンチの下敷きとなっている。


 走って、走って、駆け付ける。

 この勢いのままバニラを抱き締めてやりたかったけど、ゴブリンはひっくり返った虫のように手足を振り回し、未だに生きようと足掻いている。


 逃げ惑うバニラを弄んでいたのが遠目に見えていた。


 人型をしているが、これはヒトじゃない。

 殺すことに抵抗はない。慈悲も情けも必要ない。

 あるのは抑えきれない憤りだけ。容赦はしない。


 握り締め、空振りすらできなかった空回りの拳。

 再び握り、殴り損なった無念をすぐさま晴らす。


 ゴブリンがベンチを押し退け、不用心に立ち上がる。


「──死ィィイ──ねェェエエアアア──!!」


 拳に殺意を満たし、赤熱した怒りのままに振り抜いた。


「──ッ!?!?」


 インパクトの瞬間、オドを解き放つ。


 鼻骨、上顎、眼孔──頭蓋。


 その性根のように醜く歪んだ顔の中心に風穴が空く。

 ロクな断末魔すら上げられずゴブリンの頭は砕けた。

 血を撒く緑の骸は宙を舞い、地面を跳ね、転がった。


「はっ……はぁっ……はぁ……」


 全力疾走に乱れた呼吸を、肩を揺らして整える。


「かなたさ──」


「バニラっ、バニラっ、バニラっ……!! よかった!! 間に合った!! 生きててよかったぁ……!!」


 バニラを抱き締め、自分を慰めるように言葉を漏らす。


 せっかく蓄えたオドを一時の感情に任せて発散してしまった。精神力、気力、活力──マインドに、メンタルに作用するオドを解放してしまった。


 意識こそ失わなかったが、そのせいだろう。


 依存するように抱き寄せ、弱ったバニラではなく、弱った自分の心を癒してしまっている。なんと自己中心的、なんと愚かなことか。バカめ。さながらヒーローのように駆け付けたのに、なんとみっともなくなさけない。


 抱き返してくれるバニラの腕が唯一の救いだ。


 しっかりしなければ。


「……バニラ、怪我はないか?」


「えっと……はい、大丈夫みたいです」


「そっか、良かった。それで、なんで戻ったんだ?」


「あの……逃げる途中でかなたさんに買ってもらったものを落としてしまいまして……それで探しに……」


 俺が買ったもの──大切そうに抱えている紙袋からして下着のことだろうが、たかだか一万数千円程度の下着のためにその命を危険に曝したというのか。


 わかる。わかっている。人の家のベランダから窓ガラスを割って不法侵入し、揚げ句の果てに食っちゃ寝不法滞在するような違法怠惰ウサギではあるが、根っから悪い奴なわけではない。

 むしろその逆で、俺が不用意に「俺には金がないから〜」とか言うものだから、金欠なりに身銭を切って買ったこの下着を貴重で大切なものだと見做し、律儀に取りに戻ったのだろう。……わかる。わかっているが、それを聞いてなるほどそうだったのかと、すんなり受け入れられるかは別だ。


「──ああもう、まったく……バカ……おばかウサギ!! ほんとにバカだぞ!? こんな布切れ数枚のために命を懸けるな! 気持ちはありがたいけど、こんなものよりお前の方がよっぽど大切だ!!」


「ご、ごめんなさい……」


 しょんぼりするバニラ。

 言い過ぎただろうか、心が痛い。


 でもしょうがない。

 第1段階、第2段階を省いた不完全な第3段階だったからだろうか。氾濫というにはあまりにもモンスターの勢いが弱かった。こんな不幸中の幸いが今後の人生に何度あるだろうか。

 二度とこんなことをさせないためにも今はきちんと怒らなければいけない。下着と命を天秤にかけて下着を取るなんてどうかしてる。


「……」


「……」


「…………」


「…………」


「………………」


「…………はあ」


 こんな可哀想なウサギ、見ていられない。

 俺は溜め息を吐いてバニラの両頬を摘む。


「い、いひゃいれす、はらふぁひゃんっ」


 むにむにといたずらに柔らかい頬を遊ばせる。


「……心配したんだ。バニラが酷い目に、痛い目に遭っていたらどうしよう、心に消えない傷を負ってしまったら、死んでしまっていたらどうしようって。ロクでもない出会い方をしてまだ数時間しか経っていないけど、それでも、不幸な目に遭わせたくない、幸せに生きてほしい──欲を言えば、俺の手で幸せにしてやりたいと思うほどには、バニラのことが大切なんだ。だからもう二度とこんなことはしないでくれ」


 みょーんと伸ばした頬から手を離す。


「かなたさん……」


「……ほら、帰ろう」


 立ち上がり、頬から離した手をバニラに差し出す。


「──はいっ!」


 バニラは満面の笑みでその手を取り立ち上がった。


「(………………あ、そうだ、魔石)」


 ふと、その存在を思い出す。


「………………まあ、いいか」


 俺は振り返ることなくバニラと共に歩き出した。


 纏わり付くような生暖かい空気が俺達を捉えた。

 蛇に睨まれたようにその場から動けなくなった。


「──ッ、なん、だ……!?」


 背後──モンスターの発生源、ダンジョンがあるはずの方向から、背筋を冷やし、脊椎を凍て付かせるような怖気が走る。


 マナかオドかはわからないが、これは魔素の奔流だ。


 予感──いや、直感する。

 氾濫の元凶が異界より出でたのだと。


 錆び付いたように固まった首をぎこちなく動かして振り返り、目を凝らす。


 姿は見えない。上の階か下の階か。

 どこであれ逃げるなら今しかない。


「走るぞ……!」


「は、はいっ!」


 一歩踏み出すと、足音がいやによく響いた。

 俺達が駆け出すと同時にそれも駆け出した。


「Grrrraaaaaaa──!!」


 地の底から唸り上げるような咆哮。地響きと破壊音を伴うその存在感は、超特急で迫ってくる。


「GuOOAAaaaa──!!」


 急接近した威圧感に、視線だけで振り向き吹き抜けを覗き下ろせば、そこには疾駆する赤い鬼がいた。

 ゴブリンなどとは比べ物にならない。距離感が、遠近感が狂っている。それは3メートル──天井にまで届きそうなほど大きく、思いのほか近くで目と目が合う。


 赤い鬼──世間ではオーガと呼ばれるそれは、獰猛に口角を吊り上げ、跳躍した。するとオーガにとっての天井が、俺にとっての床が崩壊し、オーガは俺と同じ階層に降り立った。


 3メートルもある巨躯、その一歩は巨大。それゆえに緩慢に見える動作でも、呆気なく俺達を追い越し、壁のように立ち塞がった。


 アウルベアなんかとは比べ物にならない脅威。

 アウルベアはあれでもFランクのダンジョンに出現するようなモンスター。対するオーガはCランク相当。ここに現れたジャイアントラットはGランク、プレイグスライムはEランク、ゴブリンはFランク──圧倒的な格の差。やはり氾濫の元凶はこのオーガだと考えていいだろう。


 もっとも、いまそんな真実に辿り着いたところで、現状を鑑みれば冥土の土産にしかならないのだが。


「クッ、ソ……!」


 急停止し、対峙する。


 ゴブリンを必殺するため、ありったけのオドを拳に込めて放った。それがなければオーガと渡り合えたとは思わないが、バニラが逃げる時間ぐらいは稼げたかもしれない。あるいは、ゴブリンの魔石を喰らっていれば。


「(どう、する……!?)」


 考えるまでもない。決まっている。

 稼げずとも稼ぐしかない。


「……バニラ、先に家に帰っていてくれ」


「え……?」


「もっと金を稼いでいい暮らしをするために、俺はこいつを殺さなくちゃいけない。心配はいらない。遅くはなるだろうけど、必ず帰るから。今までそうしてたみたいにお前は家でのんびりしていろ」


 モンスターが蔓延るショッピングモールを1人で行かせるなんてあり得ない。だが、ここにいるよりはマシなはずだし、このオーガの存在感にあてられて周囲のモンスターは逃げ失せてるはずだ。きちんと逃げれば逃げられる。逃げるための時間は稼いでみせる。


「なっ、なに言ってるんですか、かなたさん!? そんなの無理ですよ! わたしにも、わたしでもわかります! こんなのを殺すだなんてできっこないです! 死んじゃいますよぉ! 一緒に逃げましょうっ!?」


「無理でも無茶でもやり遂げるのが俺だ。俺の金への執念を舐めるなよ。さあほら、グダグダ言ってないで家に帰れ」


 慢心か様子見か。黙って俺達を見下ろしていたオーガだが、痺れを切らしたのか殺気とも呼ぶべき圧力が膨らむ。その異常なまでに発達した筋肉のように張り詰め、緊張していた空気は一瞬にして臨界に達した。


「か、かなたさ──」


「──早く!! 行け!!」


「──っ、ぅぅ……!」


 そう叫べば、バニラは振り向き駆け出した。


「Guoooooooooo──!!」


「また失くすんじゃないぞ……」


 独りそう呟き、俺はオーガを睨め上げた。


 死んでたまるか。死んでたまるかよ。


「──ちくしょう、こっちだクソったれッ!!」







 死が風を切る。

 硬い壁をいとも容易く粉砕するそれはまさしく死だった。

 拳の一振りで周囲のありとあらゆるものが壊れる。


 赤い鬼──オーガはその巨躯に見合った尋常じゃない暴力を以て俺へと迫る。


 たかが人間ひとりに向けるには過剰な殺意。


 心臓が早鐘を打つ。痛いぐらい脈打つ。

 鼓動が眼前の現実を捕捉し、甘えた夢を許さない。


 ひとつのミスが死を齎す。

 足を縺れさせれば、腕を浮かせれば、体の輪郭を見失えば、それだけで容易に死に得る。


 顔が引き攣る。口角が吊り上がる。


 錯覚している。

 この緊張を、ドキドキハラハラを、興奮と勘違いしている。皮膚がヒリつき、脳が茹だる。全身が熱を持ち、汗を浮かばせる。感じているのは紛れもない恐怖。


 生き残る未来が視えない。一寸先が闇。

 暗闇を出鱈目に藻掻く。そんな途方もない現状。


 走り回って、跳び回って、転がり回って。

 避けて、躱して、ようやく生きている。


 一瞬一瞬が奇跡だった。


 もうなにがなんだかわからない。

 死に物狂いというに相応しい有り様。


 死んでたまるか。死んでたまるかよ。

 まだ死ねない、ここで死にたくない。

 死が俺を襲う。死が脳を埋め尽くす。


 けれど、希望の光は見失わない。


 第3段階──氾濫が起こってから、もうかなりの時間が経っている。かなりの大事になっている。そろそろ、誰かが助けに来てもいい頃合いだ。


 天井が崩れ落ちる。壁が砕け散る。床が踏み抜かれる。


 赤鬼が。瓦礫が迫る。

 身を翻し、逃げ惑う。


 視界に、あるものが入った。


 頭が潰れたゴブリンの死体だ。


 いつの間にか、こんなところまで戻ってきていた。


 俺は拾い上げた鋭利な瓦礫を手に、死骸に飛び付いた。

 瓦礫を痩せ細った腹に突き立て、破裂させて引き裂き、そして手を突っ込んでめちゃくちゃに掻き回し、目当てのものを引き摺りだした。


 第六感が警鐘を鳴らす。

 その場を飛び退くと、ゴブリンの死体がシミになった。


 オーガはまるで俺のことなど眼中にないとばかりにゴブリンの残骸がへばりついた拳に舌を這わせ、その甘美な味わいに身を震わせた。

 俺もオーガに倣い、ゴブリンの魔石に舌鼓を打った。鉄臭く血腥い味が口内に広がる。オドが体内に広がる。


 満ち溢れる力に──研ぎ澄まされていく感覚に、自然と挑発的な笑みが浮かんだ。


 これでもっと足掻ける。まだまだ藻掻ける。


 闘争はしない。逃走する。それでいい。


 脳内物質が俺を狂気の高揚へと誘う。

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