第11話 脱兎
「────…………!!」
雄叫びが木霊となって耳へと届く。
全身を悪寒が駆け巡った。
俺は火の玉で仕留めたばかりのプレイグスライムに口を付けて啜り、さながら飴玉競争のように魔石を探り当てると同時に振り返り、トップスピードに達するまでに口内の飴玉を喰らった。
プレイグスライムはその身が病の粘液生物だ。
触れようものなら直ちに何かしらの疫病に罹る。
手を突っ込んで魔石を取り出すわけにはいかないから、『悪食』による耐性を持つ唇を付け、病を飲み干しながら魔石を摂る必要があったのだ。
粘液生物──俺達のような肉体を持つフォレストウルフやジャイアントラットとは明確に異なる、存在そのものが不可解な生き物。それだけあって、魔石が内包するオドは濃厚だった。
プレイグスライムの粘性が残る唇を舐め取り、全身にオドを巡らせることで身体能力と肉体強度を高め、短距離走者顔負けの走力でショッピングモールを駆け抜ける。
立ちはだかるモンスターは消火器で殴り倒す。
魔石は惜しいがもう十分だろう。
幸いにして五体満足──しかも無傷な俺は全力疾走する。
目指すのはもちろん、雄叫びの元だ。
◆
脱兎は振り返らない。
しかし、帽子で覆われていようとも鋭敏な耳は粘着質な呼吸音を耳聡く捉える。
9つもの魔石を喰らったゴブリンの身体能力はバニラの脚力に迫っていた。──いや、凌駕していた。彼我の距離は少しずつ、だが着実に縮まっている。
「GyagGyagGya!」
下卑た笑い声が迫る。生暖かい吐息が迫る。
「ひいぃっ! 気持ち悪いですぅ!」
冷や汗が伝う背筋が生理的な嫌悪感にゾゾゾと伸びると、全身の筋肉が強張り、図らずも疾走に最適な綺麗なフォームへと整った。
それによって少し距離が離れると腹立たしげにゴブリンが喚くが、バニラにしてみれば知ったことではなかった。そのまま諦めてどこかに行ってほしいぐらいだ。
「うう、ぅぅぅぅぅ……!」
迫る恐怖、募る不安。
人っ子ひとりいないモンスターの楽園。
だだっ広いショッピングモールが──あんなに賑やかだった、華やかで煌びやかで心躍る楽しい場所が、梅雨の雲間から伸びる陽射しのようにじりじりと厭らしく孤立無援を脳裏に照らし付ける。
「いや……いやだようっ……!」
ゴブリンに捕まるのも、失くし物がそのままなのも。
「──っ!」
バニラは意を決して足を止め、後ろ回し蹴りを放った。
「Gyagya!?」
踵がゴブリンの側頭部──こめかみを蹴り抜き、ゴブリンは衝撃のままに吹っ飛び、雑貨店の商品棚に激突した。
バニラは決してゴブリンに背を向けず、摺り足で少しずつ引き返す。距離を取り、距離を取り──そして駆け出した。失くし物を探しに、ダンジョンの方、氾濫の渦中へと駆ける。
走って、走って、走って。
9匹のゴブリンの屍を飛び越えて、いくつかの店舗の前を素通りしたところ──道の端に、足跡だらけになった紙袋が転がっていた。
「あっ……!!」
崩れ落ちるように拾い上げ、乱れた呼吸も整えないまま中身を確認する。
「……はっ、はぁっ、は、ぁ……っ」
見ても触れても購入時と遜色ない。
どうやら無事なようだった。
バニラはそれらを紙袋に戻し、深く大きく息を吐きながら抱き締めた。
「よっ、よかったあぁ〜っ……!!」
ゆっくりと気が弛緩していく。
モンスターが蔓延るこの場所で。
「──っ!?」
ハッとした時には足は振り抜かれていた。
咄嗟に腕で防ぐも、硬い地面を滑るように転がる。
「Gugyagyagyagya!!」
緑の顔を赤い怒りに染めたゴブリンが、何事かを喚きながらバニラへ追撃を仕掛ける。
「ぐ、ぅ……!」
バニラは紙袋を抱き締めながらも、倒けつ転びつ必死に躱す。無様な姿を曝しているという自覚はあるが、立ち上がる隙を与えない蹴りと殴打の嵐に為す術がない。
「はっ、はあっ……うっ、ぐ……」
バニラは転がる。
視界は目まぐるしく移り変わり、もはやゴブリンを捉えられていない。勘だ。ただの勘で避けている。
あまりにも状況が見えなければ手と足で後退りし、上半身と下半身の重心移動で再び精一杯に回避行動を取る。
両手と両足を使えばなんとか立ち上がれはするだろう。
しかし、せっかく、ようやく取り戻した失くし物を再び手放したくはない。
「……っ、う……は、ぅ……」
倒れるように転がりながら、バニラは避ける。
なさけなくてもみっともなくても、醜悪な小鬼に嗤われようとも。打開策なんてない。いつまでもこうしてなんかいられない。それでも、こうするしかなかった。
満身創痍ではないが、這う這うの体の文字通り、這うように。地べたを這い回りながらゴブリンから逃れようと藻掻き、足掻く。
ただ、ただ、ひたすらに──
◆
──どれほど経っただろうか。
少し距離が空いた程度で苛立っていたゴブリンは、数分が経とうと底意地の悪い笑みを絶やすことはなかった。悪辣で悪質なその性根は、獲物を追い詰める愉悦に浸っていた。
「──ぁ……?」
ついに、バニラの退路は絶たれた。
バニラの背には、店と店の間の僅かな壁。
バニラの退路は絶たれてしまった。
「い、いや…………ぃゃ…………」
「Gyahahahahaha!!」
ゴブリンは哄笑する。
そして近くにあったベンチを引き摺り、持ち上げた。
「あ……ぁ……」
原形さえ留めていればそれでいい。
生きていようと死んでいようと構わない。
ゴブリンはベンチを振り下ろした。
「かなたさん──ッ」
無音に消え入るような、囁きにも似た無意識の呟き。
「Ga、Gya──?」
それに応えるように、ゴブリンの手が消し飛んだ。
「────バニラあああああああッ!!」
それは閑散としたショッピングモール全域に響き渡るほどの──モンスターの領域全土に喧嘩を売るも同然の、形振り構わない大声量。
呼ばれて飛び出たわけじゃない。
名前を呼ばれたから来たわけじゃない。
ただ──図太く、厚かましく、ふてぶてしく。おばかで、鈍臭く、人懐っこくて。底抜けに明るく、うるさいほどにやかましく賑やかで、疎もうにも疎めず、憎もうにも憎めず、適当に名前を付けただけで屈託のない笑顔を浮かべる、無神経なぐらい能天気なウサギ──たったの数時間で人の心を掌握してしまうほどに愛嬌が豊かな、あざといまでに可愛らしい魔性のウサギ。
死んでほしくない。死なれたら嫌だ。
死なせるわけにはいかない。
そう思ってしまうほどに魅せられ、惹かれていたから。
だから、姉が悲しみ、涙するとしてもここに来た。
「──かなたさんっ!!」




