銀色の箱
銀でできた小さな箱だ。美しく細やかな装飾がされていて、変色もなくよく磨かれている様子からとても大切にされていたことが読み取れる。
ミラー公爵が、その箱をそうっと開ける。中には褪せた薄紙に包まれている、柔らかな白色の細長い石のようなもので――
(……骨?)
それは間違いなく、リディアの小指の半分ほどの大きさの骨だった。
「これは私の、乳母の骨だ。……生来引っ込み思案で我儘だった私は、唯一私をかわいがってくれる乳母が大好きでね。領地への視察も無理に同行させ、そうして魔物に襲われた」
これまでで一番温度も抑揚もない声で、ミラー公爵が淡々と言葉を続けていく。
視察に訪れた街は、穏やかな街だった。魔物の生息地が近い割には自警団の人数も武器も足りなかったが、これまで大きな被害が出たことはない。うまく領地を管理できている証拠として、父は上機嫌で町長を褒めていた。
滅多に見ることはない父や母の笑顔を眺めながら、誰にも気づかれないように乳母の指をぎゅっと握った瞬間、今まで聞いたことのない恐ろしい咆哮が聞こえた。
「魔物だ!」
その後はもう、阿鼻叫喚だった。まず町長と父がほぼ同時に殺された。次に弟を連れて逃げようとした母が弟諸共殺され、乳母は自分の手を引いて必死に逃げ出す。
生来運動嫌いで、乳母に誘われても運動の類を一切しなかった自分はろくに走れず転んだ。乳母が焦り、「走ってください! このままじゃ殺され……」と叫んだ次の瞬間、顔に焼けつくような強烈な痛みが走る。
「ああああああ!」
魔物の爪に襲われたのだと、瞬時に悟った。
「痛い、痛い! おい、助け……!」
「きゃあああああああ」
乳母に助けを求めた瞬間、魔物に噛みつかれる乳母の姿が赤く染まった視界に映る。
そこから先は記憶にない。
ただ気絶したことで運よく自分は助かり、あとの人間は皆全滅してしまった。そのことだけが、真実だった。
「――父や母や弟は亡くなった後も公爵家の一員だ。高価な服に身を包んでいた両親と弟は遺体を回収されたがね。――……平民である彼女の遺体が、我が公爵家に運ばれるはずもない。領地の亡くなった住民とひとまとめにされ、墓地に投げ込まれたと聞いたよ。回収できたのは、私が握りしめて離さなかったらしい、彼女のちぎれた指だけだった」
その銀色の箱に目を落としたミラー公爵が「何でも欲しいものを授けよう」と言った。
「ラスター・フォン・ヴィルヘルム。私のしたことは、君にとってそう悪いことでもなかったはずだ」
(何を言ってるの?)
どうやら本気でそう思っているらしいミラー公爵に愕然とする。まったく理解ができずに恐れすら感じるリディアのことは意に介さず、ミラー公爵が言葉を続けた。
「お前の母は、お前の五色の瞳に恐れをなして私に二束三文でお前を売りつけた。あのまま生きていても、どうせ魔力暴走を起こして周りを巻き込み死ぬのが落ちだ。それが……私のおかげで愛する女と出会い、適切な教育を受け愛した女を蘇らせることさえできた。……感謝しろとまでは言わないが、君にとっては却ってよかったんじゃないか」
「何を言っているの?」
ミラー公爵の言葉に、低い声が出た。
「あの小さなラスターにそんな怖ろしいことをして、よくも……!」
「いい、ディア」
怒りに飲み込まれていたリディアを、ラスターが冷静に止める。
「……その点に関しては、同意できるな。俺にとってディアとの出会いは、このクソみたいな人生の中で唯一と言ってもいい幸運だった」
そう言いながらラスターが、右手を小さく動かす。
「……っ、何を」
ミラー公爵が持っている銀色の箱が宙に浮き、リディアの手の中にふわりと納まった。
「生憎俺は、お前の動機を聞いても何とも思わない。お前の望みを叶えてやるつもりもない。しかし、下手な嘘もつかない」
ラスターの視線が、リディアに映される。
「そして今の俺には、精霊力のかけらもない。もしも人を転生させるほど強い精霊力を持っているとしたらリディアだが――……リディア。お前がもし本気を出したとして、その乳母を蘇生させることはできるか」
「…………」
手元の骨に、目を落とす。銀細工の箱に収まるそれは、砂浜に落ちている白い珊瑚のようだ。
たとえ相手がミラー公爵であっても、これを伝えるのは心が痛い。
「………不可能だわ」
それでもリディアはミラー公爵に目を向けながら、ゆるゆると首を振った。
「ここからはもう、生命をまるきり感じない。私を蘇生させたラスターにだって……いいえ、古龍にだって、ここから誰かを生き返らせることはできないはず」
精霊士として、断言する。血がたくさん流れた体も、貫かれた心臓も、時を止めたばかりならまだそこに生命としての力を感じる。その状態なら生き返らせることはできるかもしれないが、ここには塵一つほどの可能性もなかった。
「……そしてそれは、無意識であなたもわかっていたのではないですか」
「…………」
ミラー公爵に銀細工の箱を返しながら告げた言葉に、ミラー公爵は無言だった。箱を受け取ったあと机には戻さず上着の懐に入れたあと、ふっと息を吐く。
「…………そうだな」
耳をすませなければ聞こえないような小さな声で、ミラー公爵が呟いた。
「私は、妄執に苛まれながらも彼女を蘇生させられないことに気づいていた」
「お前の事情など、俺には知ったことではない」
ミラー公爵の言葉をばっさりと切り捨て、ラスターが冷えた声を彼に向ける。
「先代筆頭精霊士長の家族の殺害、脅迫、古龍の核を使った人体実験、……大魔術師の暗殺。直近ではディアナ・フィオリアルの血縁者への傷害に、王宮精霊士の試験場で国王への虚言。ざっと挙げただけでも、死んで終わりにするには生ぬるい」
憎しみのこもった冷ややかな声からは、今にも破裂しそうな激情を抑えていることがよくわかる。けれども感情に駆られて衝動的な行動に出ることはない。
「後の話は、牢番でも裁判官にでも話すといいさ。慈悲の欠片も与えられることがないように、国王へと直々に進言するがな」
「はは」
ラスターの声に、ミラー公爵が乾いた笑い声をあげる。
「……知っているか? ずっと果たせない望みを抱いていると、狂うのだ」
そう言いながら、ミラー公爵が窓の外を見上げる。その視線に訝しみリディアも空を見上げると、そこには青空によく映える紫色の結界が今日もきらきらと輝いていて――
瞬間、空に亀裂が入った。
ぴしぴしと、音を立てて割れていく。
「……!」
「彼女がいない世界なら、全部滅びてもいい」
驚いて声も出ないリディアとラスターに、ミラー公爵が狂った笑い声をあげる。
「私はね、ディアナ・フィオリアル。彼女を殺した魔物ごと保護するべきだと綺麗事をほざいていたお前のことを、誰からも愛されなくても平気だという顔をしていた化け物のようなお前を、せめて絶望させてやろうと思っていたんだよ。――彼女を殺した魔物を殺すなとほざいたお前のことを、な……、ぐっ……」
「その薄汚い口を今すぐに閉じろ」
一瞬で拘束の術式を展開したラスターが、ミラー公爵の口を、全身を拘束する。自由を奪われたミラー公爵は立っていられず、そのままべしゃりと床に倒れこんだ。
「ロードリック」
一切の無駄のない動きでラスターが扉を開き、ロードリックを呼ぶ。『面倒ごとはとってもごめんですよ』という顔をしていたロードリックが嫌そうに部屋の中を覗き、拘束されているミラー公爵を目にした途端Uターンしようとする。
その襟首を、ラスターが掴んだ。
「緊急事態だ、空を見ろ」
逃げようとするロードリックの頭を掴み無理やり空に顔を向かせると、ロードリックが「え!!!!!!???????」と驚愕の表情を見せる。
「えっ、えっ、結界!? 結界が!? どうなってしまうんですか!? これは何!!??」
「魔物が攻撃性を持つ。事態は一刻を争う。お前はそこのミラー公爵を王宮へと連れて行き、そいつの策略で結界が破られたと報告しろ」
「一歩間違えれば不敬罪で荷が重い!」
ロードリックが半泣きになりつつも、しかし一刻の猶予もないと悟っているのだろう。大慌てでミラー公爵を肩にかつぎ、「行ってきます!」とラスターに告げる。
「ラスター様は結界の張り直しに行かれるんですよね!?」
「ああ。ディアは……」
「私は、結界が張り終えるまでの間、被害者が出ないように避難の誘導とケガ人の治療を」
鎮静の結界は、非常に繊細で緻密な技術を求められる。それなりの時間がかかることは確実で、かつてディアナが鎮静の結界を空に張ったときはおよそ2時間もの時間がかかった。
「しかし……」
「大丈夫、安心して。何かあったら、ラスターの名前を呼ぶから」
安心させるようににっこりと笑顔を作ると、ラスターは「……わかった」と苦しそうな顔をした。
「それじゃあ、俺は一秒でも早く結界を張ろう」
「ええ、信じてるわ」
ラスターに向かって、リディアは悠然とした笑みを浮かべた。
お互いが絶対お互いの元に戻ってくると、そう確信するかのように。
「私も、ラスターに負けないように自分の役割を果たすわね」




