27.聖女の苦しみ
「聖女マディアよ。これは、これは一体どういうことですか。わたしは、あなたにこんなことをさせるために祝福したのではありません」
マディアがフレイヤのことを女神と言ったせいか、兵達がどうしてよいものか逡巡している。
動揺していたマディアが目を閉じ、うつむいた。そして次に顔を上げると、既にそこに動揺はなかった。
「女神フレイヤ様、お久しぶりです。誤解されては困ります。これはあなたが指し示した道、民が平等で平和に笑って暮らせる道を進んでいることに他なりません」
「わたしはこのような酷いことをしろと言った覚えはありません。聖女マディア、あなたは道を間違えました」
机の縁を持つフレイヤの手が小刻みに震えている。
「さすがは女神様です。あなたは道を指し示すばかりで理想論ばかり。何の血を流すこともなく、この世に平和な世界を作り出すことなど絵空事だとご存じないのですか」
「わたしはあなたに、人を殺せと言った覚えはありません」
「確かにその通りです女神様。でも、殺さなければわたしが殺されていました。わたしの死はあなたの言う平和な世界への道の死。わたしだって好き好んで人を殺しているのではありません。わたしが殺しているのは、平和への道を阻害する者だけです。わたしのいままでの苦しみも知らず、綺麗ごとばかり言わないで頂きたい」
「ここにいた者達は、皆あなたへの恭順を表していました。この行いはあなたの言っていることにも反するものです」
いつもおどおどしているフレイヤが、一歩も引かない。この態度の変わり様はいったい何だ。俺はひょっとして、フレイヤは本当に女神なのかもしれないと思いはじめていた。
「これだから女神様の言うことは理想論ばかりで困ります。この者達が、この犯罪者集団の親玉達が恭順ですって? これらの者達は諸悪の根源です。裏切りや人殺しを平然と行う者達です。わたしを裏切る可能性があるというだけで、処分する理由には事足ります」
「……聖女マディア……あなたに何があったのですか……」
フレイヤは足が震えていたが、それでもしっかりと立ってマディアを見つめていた。
「……何が……あったか……ですって? あなたは女神のくせにそんなことも知らずにノコノコいらっしゃったのですか」
マディアの肩が震えているのが分かる。その顔は憤怒を抑えきれないように紅潮していた。
「女神フレイヤ様、わたしの弟のことを覚えていらっしゃいますか」
「……ジャルナのことですか。覚えています。かわいい男の子でした」
「ジャルナはこの唾棄すべき犯罪者どもに捕まり、拷問されました。わたしの居所を言えと」
「……」
「女神様、ジャルナの死体がどうだったのか教えてあげましょう。両目をくり抜かれ、すべての指の爪をはがされ、手足を折られ、それでも弟はわたしの居場所を話さなかったのです」
マディアはまるで、目の前に弟の死体があるかのように言った。きっとマディアはその時のことを、片時も忘れていないのだろう。それは辛い、辛いなどという言葉で表すことも生ぬるいものだ。
「わたしは報復するために、どこの組織がジャルナを殺したのか必死に探しました。しかし、いまだにそれは分かりません。組織同士がかばい合い、あの組織がやったと罵り合い、謝罪は愚か、拷問した事実さえ隠蔽しているのです。彼らにとって、ジャルナの死を悼む発想すらないのです。彼らは害悪以外の何物でもないのです」
フレイヤを見つめるマディアの目は、憎悪に満ちあふれていた。
「ジャルナはあの害悪どもによって殺されたのです。どの組織がやったかなど、どうでも良いことだったのです。どの組織もすべてジャルナの仇です。すべての組織を殲滅した時、はじめてジャルナの仇がとれるのです。ジャルナの苦しみが救われるのです」
顔を真っ青に硬直させながらもフレイヤは、憎悪にたぎったマディアから目をそらさなかった。
「わたしは犯罪者どもを利用し、殺させ合い、忠誠を誓わせました。そして今日はとうとうすべての組織のボスどもがわたしの軍門に下り、一堂に会する宴の日です。わたしはこの日を心待ちにしていました。女神フレイヤ様、今日七月十八日が何の日かお分かりですか」
マディアの目は、狂気に彩られた歓喜を映していた。
「今日はジャルナの命日です。わたしはこの時を待っていたのです。犯罪者の奴らに、弟の復讐を果たせる日のことを。ああ、今日は何て素晴らしい日なのでしょう。宴にふさわしい!」
両手を広げ、マディアが笑う。
人体の肉片が散らばるこの凄惨な宴会場は、マディアにとっては最高の宴の場所なのだろうか。
マディアの笑い声を打ち消すように、フレイヤが蒼白な顔をしながらも、これだけは譲れないとばかりに言う。
「聖女マディア。こんなことをジャルナは望んでいません。あなたも分かっているはずです」
その言葉を聞いて、突如マディアが叫び出した。
「ふざけないで! お前に何が分かる! たった一人の弟のことを、わたし以上に分かった風な口をきくな! これは冒涜だ! わたしと弟に対する冒涜だ! お前達、あのインチキ女神を叩き斬れ!」
マディアの命令を受けて、フレイヤに兵士達が襲い掛かる。
フレイヤは目から涙を流しながら、それでも一歩も下がらない。
俺はどちらが正しいかなんて分からなかった。ただ、俺は女神様をこれ以上悲しませないように、襲い掛かる兵士達を殺さずにぶっ飛ばす。しばらくまともに歩けないだろうが勘弁してくれ。
五十人ほど片付けたところで、俺は敢て挑発する。
「おい、そこの大女! いつまで高みの見物していやがる。さっさと来たらどうだ」
突っ立ったままの女剣士に、マディアが叫ぶ。
「マルタ! あいつをぶっ殺しなさい! あなたなら出来るでしょう!」
マルタと呼ばれた女剣士が、被っていたフードを取って言った。
「マディア様、あの男はわたしの兄貴分だ。戦うことなんて出来ねえし、戦ったところで勝てねえよ」
俺は驚きのあまり、ぶっ倒れそうになった。
大女は第三皇子騎士団の後輩、マルタ・クリヴォフだった。
そんな俺を手で制し、前に出たフレイヤがマディアに言った。
「気が済みましたか聖女マディア。あなたに必要なのは人を殺す力ではなく、人を赦す勇気です。それをジャルナも望んでいます」
怒り狂ったマディアが叫ぶ。
「五月蠅い! お前に何が分かる! ジャルナがどんなに苦しく、辛く、痛い思いをして死んでいったと思うのだ! ジャルナはわたしのたった一人の身内だった。たった一人の味方だった。その仇をわたしが討たなければ、誰が討つというのだ!」
そう叫んでいるマディアの目からは、涙が零れ落ちていた。
人とはこんなにも悲しい顔が出来るのか。
こいつは弟の復讐がなければ自ら死を選んでいたのではないか、俺はそう思った。
「……まだ分かりませんか。ジャルナを誰よりも愛し、大切に思っていたあなたです。何も感じていないわけありませんね。本当は分かっているのでしょう」
そう言うと、フレイヤはさっと左手を上げた。
すると虚空にうっすらと男の子の姿が現れ、ゆっくりと床の上に降り立った。
マディアの目が見開いた。
「ジャルナ! ジャルナなの! ああ、ジャルナ!」
マディアが男の子に駆け寄り抱きしめる。目からはとめどなく涙があふれ出ている。
その手は確かめるように、慈しむように男の子を抱きしめる。
「お姉ちゃん、ずっと見ていたよ。お姉ちゃんを独りぼっちにさせてごめんね」
「ジャルナ、ジャルナ。謝るのはお姉ちゃんの方。痛い思いをさせてごめんなさい。わたしが聖女だなんて言わずに、選挙に立候補していなければあなたをこんな目にあわさずにすんだのに」
「ううん。お姉ちゃんは立派だよ。僕の誇りだよ。だから僕の仇なんてどうでもいいから、みんなを救って。お姉ちゃんならきっと出来るよ」
「ジャルナ、ジャルナ。お姉ちゃんはあなた以外何もいらないの。ずっとわたしと一緒にいて。あなたがいないと、お姉ちゃんは何も出来ないわ」
ジャルナの体が、少しずつ光の粒となって消えていく。
マディアを見て、ジャルナが微笑む。
「ジャルナ! 折角会えたのに、やっと会えたのに行かないで、お姉ちゃんを独りにしないで!」
「もう行かなくちゃ。ごめんねお姉ちゃん。でもお姉ちゃんのこと、僕はずっと見守っているから心配しないで」
マディアは必死にジャルナからこぼれ出る、光の粒を両手で戻そうとするが止まらない。
「ああ、女神フレイヤ様。どうかお願いです。弟を、ジャルナをわたしから奪わないでください。何もいりません、すべていりません。この命も差し上げます。ですからどうか弟だけは、弟だけはわたしから奪わないでください」
マディアがジャルナの体に必死に縋りつきながら、女神フレイヤに懇願する。
「聖女マディアよ。ジャルナはこのことをお前に伝えるためだけに、この世にとどまっていたのです。天に召される時が来ました」
今や上半身だけになってしまったジャルナが、両手で姉の頬に触れる。
「お姉ちゃん、大好きだよ。お姉ちゃんがいつも頑張っていたの、ずっと見ていたよ」
「ジャルナ! 行かないで! お姉ちゃんを置いていかないで!」
マディアが叫びとも悲鳴ともつかない声を上げる中、ジャルナの光の粒は、破れた窓から天へと昇って行った。




