16.銭湯
わたしは焚火の薪がはぜる音で、目を覚ました。
うっすらと目を開けると、大きな木々が葉を風で揺らし、その合間から空が見えた。まだ朝方の空は少し白んで見える。小鳥のさえずりが気持ちいい。
屋根がないって何て素晴らしいのだろうと、わたしは思った。
わたしは夫が掛けてくれたコートをとって上半身を起こし、川面を見る。
朝靄が流れの上にかかり、木々からこぼれた落ちた陽射しが水面をキラキラと輝かせている。
そして鮮烈な透き通った山の空気。
山の川辺の朝の、何と素晴らしいことだろう。わたしはこんな素晴らしい世界を知らずに生きていたのか。もっと早く出会えていればよかった。わたしの中で価値観の軸が変化してゆくのを感じた。
ふと見ると、焚火の周りに木の枝に刺された魚がいくつも焼かれ、美味しそうな匂いを漂わせていた。
「おう、起きたか……その……バ……バーラ。魚が焼けてるぞ」
我が夫は恥ずかしがって、わたしに背中を向けたままだ。
「ちゃんとわたしの名前を言えましたわね。褒めてあげますわよ、ポール!」
そう言うと、わたしは夫の隣に座って差し出された魚を受け取った。
隣を見ると、夫は魚にむしゃむしゃかぶりついている。見るからに美味しそうだ。魚にナイフとフォークも使わずにかぶりつくなんて、淑女としてあるまじき行いだ。
と思った瞬間には、わたしもかぶりついていた。
「おひひいでふわ!(美味しいですわ!)」
わたしはあまりの美味しさに、はしたない言葉を発してしまった。
塩を振っただけの魚が、これほどまでに美味しいとは思わなかった。
焚火の上に組んだ木の上に、夫が干しておいてくれたドレスはすっかり乾いていた。
☆ ☆ ☆
わたし達は山道を歩き、もう一泊した後で村にたどり着いた。夫が言うには、レバンタイン王国のキルケという街の近くの村らしい。
夫は、わたしのドレス姿のせいで身バレしてしまうと言って、どこかから村娘の服を調達してきた。どうやって調達してきたかは聞かないであげましょう。わたしはよく出来た妻だ。
「う~ん、村娘の服を着せたのに、どうして優雅に見えるんだろう」
「ほほほ。わたしの優雅さは内面から滲み出るものなので、どんな服を着ても優雅なのですわ」
たまにはこうして村娘に扮するのも良いものだ。お忍びで庶民の暮らしを体験するのも面白い。
村を過ぎ、キルケという街に入ると人通りも多くなって来た。
人が多くなると、いままで気にならなかったことが気になってくる。川でずぶ濡れになり、着の身着のままで体を乾かし、汗だくで山道を歩き、焚火で燻される。ひょっとして、わたしはもの凄く臭いのではないだろうか。
「ねえ、あなた。わたしはお風呂に入りたいわ」
「確かにそうだな。俺も入りてえ」
そう言って、我が夫が連れて行ってくれたのは、銭湯だった。
「バーラ、銭湯の入り方知ってるか?」
「おほほほほ。当然ですわ。これくらい常識ですわ」
わたしは、つい知ったかぶりをしてしまって後悔した。夫に買ってもらったタオルと、半分に切った石鹸を握りしめて脱衣所に立ち尽くしてしまった。
どうして同性とは言え、見ず知らずの不特定多数の前で臆面もなく裸を晒せるのだろう。破廉恥なこと極まりない。まるで異空間に放り込まれたようだ。
「あの~、すみません、銭湯初めてですか? 脱いだ服はこのロッカーに入れるんですよ」
銀髪に紅い瞳をした若い娘が、わたしの様子を見かねたのか声を掛けてくれた。
「このロッカーの鍵のゴム輪を手首に巻いて、浴場に入るんです」
親切な娘だ。ニコニコと笑顔で教えてくれる。
「礼を言うわ。わたし、銭湯というものに入るの、実は初めてなのよ」
「やっぱりそうですか。わたしも最初に入った時はよく分からなくて困っちゃって。だからあなたを見たら初めての人かな~って、思ったんです。えへへへ」
浴場に足を踏み入れると、さらにその娘は教えてくれた。
「まずここで体を洗ってから、お風呂に入るんです」
わたしは何故か手で押していないとお湯が出てこない、不思議な蛇口に手を焼きながらも体を洗い終えた。髪の毛は三回洗ってようやく石鹸が泡立つようになった。よっぽど汚れていたのだろう。
その娘と一緒に湯船につかる頃には、わたしはこの銭湯という空間を気に入っていた。
「はじめて銭湯というものに入ったけれど、気に入りましたわ」
「良かったです。お風呂って気持いいですよね。わたし、フレイヤって言います」
「わたしはバーラよ。フレイヤ、あなたのおかげで無事にお風呂に入ることが出来ましたわ」
湯気で煙る湯船の中には、様々な人が気持ち良さそうに入っている。この不思議な一体感は何だろう。この一体感がより銭湯というものを気持ち良くさせている気がする。
フレイヤはタオルを頭の上に器用に載せて、気持ち良さそうに恍惚としている。
胸元の変わったネックレスが目に入った。変な生き物の頭のようだ。
「あ、これ気になります? ビリケン様っていうんです。職場で拾ったんですよ。マニアに売れば三千ゼニーくらいにはなるみたいです」
「そ、そう。なかなか個性的で素敵だわ」
「えへへ。バーラさんってお金持ちなんですか? とっても優雅な感じがします。お美しいし、髪もとっても綺麗だし、お肌もつやつやです」
「いいえ、今は限りなく一文無しに近いわよ」
「凄いです。お金がないのにそんなに優雅でいられるなんて。わたしなんて、朝からずっと働いて、唯一の楽しみであるこのお風呂から出たら、またお仕事です。なんか、辛くって」
「あら、あなたはとっても親切だし、頑張っていれば必ず見てくれている人はいるものよ。俯かずに胸を張って生きなさい。そうすれば必ず運が向いてくるわ」
「なんか、バーラさんにそう言われると、元気になってきました。ありがとう、バーラさん」
そう言ってフレイヤはにっこりと笑った。
この娘はちょっと陰気で猫背だが、綺麗な顔をしているから堂々としていればよいのだ。
わたしがさっぱりして風呂から出ると、下足のところで我が夫が待っていた。
「やっぱりバーラさんってお金持ちじゃないですか。下男の人に送り迎えしてもらっているなんて凄いです」
フレイヤが我が夫を見てそう言った。
夫は気まずそうに俯いている。
わたしは可笑しくなって笑ってしまった。
「あら、この疲れたおっさんの下男は、わたしの夫なのよ」
フレイヤの、その時の引き攣った顔といったらなかった。




