六章 桜の血
「……普通の人はどうなるんですか?」
「そのままでは生きていけないかな。この世界と何らかの繋がりがない限りはね」
痛くなった胸をギュッと握った。
屋敷に着くまで、尻尾の先がその手をずっと包んでくれた。
行きと変わらず、景色は後ろへ吸い込まれていく。
淡い霞のような桜並木が、遠ざかるたびにふっと溶けて消えた。
耳元では風が低く唸り、頬を刺す冷たさが、私を包む存在を実感させる。
――この温もり、香り、景色も音も、全部、全部無くしたくない。
私は確かに今、ここに居る。
屋敷の庭に着くと月ちゃんが待っていてくれた。
「おかえりなさい。コートあって良かったですね」
私は少しの安心に縋りたくて、月ちゃんの袖をきゅっと掴んだ。
月ちゃんは僅かに目を見張ると、私の後ろに視線を投げた。
視線でやり取りを交わしたのか、どこか納得した様に私の背中にそっと手を添えた。
「行きましょう。そろそろだと思っていたので、美味しいお茶を淹れて待っていました」
「月羽、玖呂も呼んでくれる?」
「大丈夫です。既に待ってます」
屋敷に入ろうとした所で、外の景色が色を変え始めた。
まばたきをする間に明るかった昼の白金色が、夕方の茜色に変わる。
こんな一瞬で様変わりする事も十分驚くべき事だけど、それより私は時間が気になった。
「まだお昼か、軽く回った所だと思ってました……」
「ここでは朝、昼、夕の中だと夕暮れが一番長いんだよね」
空を見ながら悠璃さんが、気まぐれな世界だよ、と呟いた声が耳に残った。
その間にも、空には紫色が混じり始めている。
まるでオーロラのようだった。
本当にこの世界は、私に驚く暇を与えてくれない程の変化を見せる。
「あやかしはお祭り好きだから、この時間が好き奴は多いよ」
「悠璃さんも?」
「俺は君たちで言うところの深夜かな。銀の星が光る濃藍色の世界に、月光の雫や狐火が漂っていて綺麗なんだ」
私は未だ色が混じり合う空に未練を残しつつ中へ入った。
部屋へ入ると、縁側に続く雪見障子が開いていて、そこから外を見ている玖呂さんがいた。
「おかえり」
玖呂さんは空を見上げている。
「ただいま」
「ただいま帰りました」
「見つかったみたいで良かったな」
空を眺める事に満足したのか、部屋に戻りながらそう言った。
玖呂、と悠璃さんが言った。
「今からするよ」
そうか、とだけ呟くと、玖呂さんは座った。
月ちゃんもいつの間にかお茶を注ぎ終えていて、私の横に立っていた。
悠璃さんは私に座る様促すと、自分も向かい側に座った。
昨日からずっと緊張と緩和の連続で胃が痛くなりそうだ。
「さーて」と、唐突に悠璃さんが切り出した。
「さっき『人はここでは生きていけない』って言ったよね。それ聞いてどう思った?」
問いかける視線に厳しさはない。
だけど、知らず私はぎゅっと手を握りしめた。
「とても……とても胸が苦しくなりました……」
声が掠れてうまく言葉が繋がらない。
「それってさ」
悠璃さんは、俯く私の視線を声で上げさせた。
「ひまりは自分が人だから、ここに残りたいのに残れないんじゃないかって思ってるって事?」
「……はい」
言葉にされると泣きたくなる。
「まぁ、ひまりはその限りじゃないけど」
ふっと笑う悠璃さん。
……ん?
少し前のめりになる。
「私がその限りじゃないと言うのは……? え?」
もう、心臓が働きすぎて破裂するんじゃないかくらい体中がどくどくしている。
握りしめていた手に、月ちゃんの手がそっと重なった。
核心は自分から突かないといけない。
「……私は人ではない、ですか?」
声が震える。
だけど帰ってきた言葉は意外なもので。
「人だよ」
……人だった。
悠璃さんの、口元がかすかに笑う。
「今はね」
今は!
「あの、それはどういう……」
いや、もう実際意味が分からなくて、自分ではもう考える力が残っていなかった。
頭の中がグラグラして、本当に目が回りそうで――
「――ひまり」
スッと耳に入ってきた低く優しい声音。
混乱を極めている今の、このタイミングでのいつもと違う低い声は心に響きすぎる。
私は、一瞬で落ち着いた。
「君は桜の精の血を引いてる。はるか昔に混じったんじゃないかな。だから、君がこの世界に惹かれるのは、おかしな事じゃない」
「……え?」
「半妖って言い方もできるけど、そんなに構えなくてもいいよ」
悠璃さんは和ませる様に、片手をひらひらと振ってみせる。
「珍しいことは確かだけど、俺にとっては悪いことじゃないし。君にとってもね。むしろ、腑に落ちることもあるんじゃない?」
……腑に落ちる事?
人の世界で馴染めなかった事とか?
ここまでずっと黙っていた月ちゃんが、気付いてますか? と、静かに言った。
「ひまりちゃんはずっと、ほのかに桜の香りを纏っているんですよ」
私はふるふると首を振った。
「……この世界の風の香りだと思ってた」
あれ、私だったんだ……
「君の香りだよ――」
そう言うと悠璃さんは、机越しに近づいて私の赤みがかった茶色の髪を一房掬うと、口元に近づけた。
私の体がぴくりと動いたのを見て、彼の尻尾がゆらゆら動く。
――淡く、甘い香りだね、と悠璃さんは呟いた。
「見た目は人そのものだけどね。本来なら眠ったまま消えるはずだった血が、何かをきっかけに目覚めたんだと思う」
「目覚めた……?」
「だから君はこの世界に惹かれるし、この世界も君を拒まない」
拒まれないんだ……
聞きたい事は沢山、ある。
でも、私が今、一番聞きたい事。
一番、欲しい言葉。
震える両手を胸に抱いて、しっかりと前を向いた。
悠璃さんが興味深げに私を見つめる。
――私は願いを口にした。
「……私は、ここで皆さんと生きていけますか?」
悠璃さんは、にっと笑うと私の頭をぽんと撫でた。
「君が、望む限り」
――その瞬間、胸いっぱいに桜の香りが満ちて、心の奥まで春が降りてきた。
その言葉だけで、十分だった。




