四章 鈴の音
――何?
温かい。
何かいつもと違う。
微かに甘い、香り。
……だけじゃない。
おばあちゃまの扇子の匂いだ。
白檀?
――白檀!
私は自分でもびっくりするくらいの勢いで目を開けた。
見慣れない天井には木組の梁。
そして私を見下ろす淡い紫がかった銀色の目は、自惚れでなければ心配そうに揺れている。
体を起こそうと手をついたところで、月羽さんが手を貸してくれた。
「気分はいかがですか?」
月羽さんの存在が、これは夢じゃないと私に告げていた。その事に少しホッとする。
「すみません! 私、途中で寝てしまって」
そう言った私に月羽さんは僅かに微笑んだ気がした。
「あなたの声が聞きたかったんです。とても可愛らしいですね。鈴の音の様に清らかに澄んでいて」
突然の褒め言葉に私は照れてしまって、何も返す事が出来なかった。
――だめ、ちゃんと話さなきゃ。
「あの! あの、ありがとう……ございます。褒めてくれたのもそうですけど、今日会ってから今までの事、全部、全部嬉しかったです! 小さなお耳も、尻尾も、本当にどれも可愛くて……月羽さんの方が、ずっとずっと素敵です!」
言い切ってから、少し早口になってしまったかもとか、あれ、私またやらかした?とかぐるぐると焦ってしまった。
「ふふ、嬉しいです」
私は今まで友達がいなかったから、全く慣れてなくてものすごく照れてしまった。
月羽さんが無表情だけど、とても穏やかな顔で見つめてくるので、つい私も彼女を見つめた。
恥ずかしい、けど嬉しい。
すごくドキドキする。
でもここからどうしたらいいのか分からない。
そんな時優しく、軽やかな声が、私を少しだけ照れから解放してくれた。
「ごめんねー? こんな良い雰囲気ぶち壊すのもどうかなとは思うんだけどさぁ、やっぱり君の名前とか知りたいんだよね」
座ったままの私達を覗き込む様に、腰をかがめたユウリさんは、ああ、そうそう、と言いながらまたどこかに行ってしまう。
すぐに戻って来た彼の手には紙と筆を持っていた。
それから私達から少しだけ離れて座卓の側に座ると、ユウリさんが何かを書いて、私に見せてくれた。
『悠璃』
「俺はこれでゆうりと読むんだよ。くろはこう」
『玖呂』
「君は?」
私に投げかける悠璃さんの視線は、何となく鋭く感じた。
さっきのまでの軽やかさがない。
「名前を教えるかどうかは、君の自由だよ」
声は柔らかいのに、瞳の奥で鋭い光が揺れた。
一瞬、空気がきゅっと張り詰める。
――その視線は、ただの好奇心じゃない
私の手が微かに震えるのを、悠璃さんは見逃さなかった。
「悠璃様」
悠璃さんは声を掛けた月羽さんに、一瞬だけ視線を向け、またすぐに私の方へ戻す。
その視線は、軽やかさの中に私を『試す』色をはらんでいる。
――害をなす者かどうか。
彼の目が、ほんのわずかに挑発しているみたいで、思わず手が止まる。
理由はわからないけれど、私は自然と呼吸を整えた
ふと思い出した。
昔読んだ本に『人ならざるものに本名を教えると魂を喰われる』と書いてあった事。
私は立ち上がって座卓まで行き、紙と筆を手に取った。
……ものすごく視線を感じて、手が震える。
不安や怖さなど欠片もない。
筆を握り直して、ゆっくりと紙に書いた。
一文字ごとに、まるでこの世界へ自分を刻み込むように。
『結城 ひまり』
書き終えて筆を置くと、悠璃さんの視線がぴたりと紙に落ちた。
彼の口元がふっと緩み、その笑みはどこか安堵と……わずかな喜びを帯びているように感じた。
書かれた字の端正さに、私はつい少し離して置いてしまう。
悠璃さんは軽く笑って、それ以上は何も言わなかった。
「結城ひまり、十八歳です。両親は私が幼い頃に全てを捨てて外国に行きました。記憶はありません。以降、祖母が私を育ててくれました。十五の年に祖母が亡くなってからは、一人暮らしです。でも一人だけ優しくしてくれた人がいて、その人のお陰で今、こうして生きていますが、正直明るい未来を考え事はありませんでした。以上が『私』です。こんな空っぽな私に今日は本当に、本当に、優しくしていただいて、ありがとうございました。とても嬉しかったです」
一気に捲し立ててから、私は祖母の所作を思い出しながらゆっくり丁寧に頭を下げた。
伝えたのは私の全て。
偽りない感謝の気持ち。
静寂の中のみんなの反応が少しだけ怖かったから、ゆっくりと頭を上げた。
私を見つめる三人の視線がふわりと重なった気がして、胸の奥がじんと熱くなった。
月羽さんがすすすっと私の横に来た。悠璃さんに投げかける視線は、もういいでしょう?と言っているようだった。
悠璃さんは淡く笑い、さりげなく手を座布団へと添えた。
その仕草には自然な軽さがありつつも、どこか丁寧で、私を守ってくれるような安心感があった。
その何気ない仕草が、すごくスマートでかっこ良かった。
いそいそと座る月羽さん、可愛い。
小さな耳がぴこぴこ動いてて、可愛い。
淡い紫の瞳がこっちを向いた。
「私の事はどうぞ『月ちゃん』と」
「「月ちゃん!?」」
悠璃さんと玖呂さんの声が被った。
月羽さんはそんな二人に視線だけを投げかけ『月羽です』と言った。
それだけ言うと、二人は今更呼ぶわけない、と笑って肩をすくめた。
「ひまりさん」
「はい!」
「私は、どうぞ月ちゃんと呼んでください。それと……できれば、ひまりちゃんと呼ばせてもらえたら嬉しいです」
そう言い終えた瞳は、ほんの少しだけ柔らかく光っていた。
「ひまりちゃん!? は、はい! 嬉しいです、つ……月……ちゃん……」
あまりの恥ずかしさに、声がどんどん小さくなってしまった。
「私も、嬉しいですひまりちゃん。でもあと一つ」
まだあるの! とちょっと思ってしまったのは嫌だからじゃなくて恥ずかしいからで。
「私に敬語は不要です。ですので、私もひまりちゃんには少しずつ柔らかな話し方が出来るように頑張ります」
そこで初めて月ちゃんが少し躊躇いがちに下を向いた。
「と、友達なので」
震えがちな静かな声に、私の心は持っていかれた。
か、可愛すぎる!
私は両手で顔を覆って悶えた。
「告白終わった?」
いつの間にか悠璃さん達は、お茶を片手にお饅頭の様なお菓子を食べていた。
「うわぁ! ごめんなさい!」
恥ずかしさと申し訳なさが一気に押し寄せて、顔がぽっと赤くなった。
すっと無言で玖呂さんがお饅頭をくれた。
見た目はかりんとう饅頭みたい。
齧るとやっぱりかりんとう饅頭だった。
……美味しい。
お礼を言うと、ん、と一言言って自分の分をまた取った。
玖呂さん甘いの好きなのかな。
すごい早さで食べてる。
思わずじーっと見てしまう。
視界に突然上下にゆらゆら動く手のひらが現れた。
白い指は長くて綺麗で、銀色の指輪たちがとても良く似合っている。それでいて男性らしさもあるそんな手。
「そろそろ俺とも話をしてくれたら嬉しいんだけどー?」
寂しいな〜、と言いながら首を傾げる姿は、とってもあざといのに、素直に見惚れてしまう。
「これからの事を考えたいんだけど、今日はもう休んだ方が良いかもね。君が眠っていたのはほんの数時間だし。明日の朝……いや、昼にまた話そうか」
私は、はいと頷いた。
悠璃さんが『月羽』と呼ぶ頃には月ちゃんはもう既に立ち上がって部屋を出ていく所だった。
***
案内された部屋に一人座り、ふうっと息を吐く。
体から力が抜けて、じわりじわりと疲れを感じるけれど、まだ眠りたくはなかった。
気持ちが昂っていて、今寝ると変な夢を見そうな気がした
眠気覚ましにぐるりと見渡した部屋は文句なしにお洒落だった。
和室でありながら、そこかしこに洋風の小物が飾られてあったりする。
その中でも、一番目を惹いたのはランプだった。
あっちの世界で言うならオイルランプに近いはずだ。
でも紐もオイルもなく、ただ炎だけが中で揺らめいている。
赤と青が混ざり合った光が、ふわりと宙に浮かんでいた。
炎というより、夜空を切り取って閉じ込めたみたいな揺らめき。
見ていると、胸の奥で何かがざわめく。
――この世界と私の境目が、少しずつ溶けていく。
ふっと息を吐いて視線を逸らす。
「これは……理解しようとしちゃだめね。こういう物はただ『そういう物』として受け止めればいいのよ。きっと」
そう。受け止めるだけ。
それが今の私に出来る事。
途端、強い眠気がふわりと襲ってきた。
着ていたドレスは、月ちゃんが後で綺麗にしてくれるらしい。
今は寝るために浴衣に着替えさせてもらった。
座布団に負けないほどふかふかの布団にそっと潜り込み、顔まで布団を引き上げると、ようやく落ち着いた。
「このお布団も、すごくいい匂い……金木犀かな?」
家の庭にもあった、馴染みの香りのおかげで、昂っていた気持ちは自然と落ち着いていった。
瞼がものすごく重い。
……明日コートを探しに行ってもいいか聞いてみよう。
この世界は良い香りで溢れてるなぁ……
睡魔に抗う事なく眠りに落ちた。




