二章 月下の屋敷へ
風が収まると同時に悠璃は大鳥居の上から素早く身を起こし、眉をひそめた。
気がつけば、あの少女は視界から姿を消していた。
何が起こった?
確かにそこにいた。
風が起き、髪が舞い、泣き笑いのような表情が見えたはずだった。
だが今、その姿は見当たらない。
「……どこへ行った?」
知らず髪を掻き上げる。焦っていることに、自分でも少し驚いていた。
気配はまだ近い。完全に消えたわけではない。
だが、視線を巡らせても、その姿はどこにもない。
……俺から逃げたのか?
悠璃は軽やかに鳥居から跳び降り、地面に着地する。
風が吹いた方向、少女の髪が揺れた流れを思い出す。
少し下った場所に、大きな欅の木がある。幹は太く、社を背にして立てば完全に死角となる位置だ。
――風に押された?
あの風は何故か少女を抱え込む様に守っていた。
悠璃はゆっくりと足を踏み出した。
気配はその木の裏、ほんの数歩先。
だが悠璃は、すぐには覗き込まなかった。
覗き込めなかった。
見つけたのに、声をかけようとして、声が出ない。
なぜこんなに、心がざわつくのか。
その理由を暴いてはいけないんじゃないか。
――もう一度、彼女を見たい
悠璃は、自分でもわからない感情を持て余して迷ったが、純粋な興味がそっと彼の背中を押した。
***
「どうなってるのこれ……?」
私はさっき居た場所のちょうど裏手、木の根元に座り込んでいた。
ただ背中に感じる木肌は、慰めてくれているかの様な優しい温度で。
なんか風に運ばれた気がする……
「風にも意志があるのかな……」
提灯お化けといい、全てが理解を超えていて、もう逆に何でも来い状態だ。
不安を溶かす様に息を吐いて膝を抱える。ドレスは汚れていない。不思議と泥もつかず、シワひとつなかった。
だけど。
「……コート、どこ行ったんだろ」
あれは、マリさんにもらった大切なものだった。失くした自覚が、胸をちくりと刺す。
罪悪感に押されるように、ぽつりと呟いた。
「鳥居の上にいた人……人なのかな」
しっかりと見たわけではない。
でも確実に視線は絡み合っていた。
まばたきすら出来ずに。
ふわりと温かい風が体を撫でた。
そういえばあちらの世界ではコートがいるほどの気温だったのに今は袖のないドレスでも違和感が無い。
そっと腕をさすってみると、いつもの感覚。
夢じゃない。自分の体。
視線を下げたその一瞬。
「ちょっといい?」
横からかかった声に、心臓が跳ねた。
声を上げることも出来ず私は体をびくりと震わせる。
「ごめんごめん、まぁ驚くよね。さっき鳥居の上に居たの、俺なの」
静かに差し込まれた声は、鳥の鳴き声よりも優しく甘く。
けれどこの世界のものとは思えないほどはっきりしていた。
彼は私から少し距離を取った場所にしゃがみ込み、静かに視線を合わせた。
二人の間に風が吹く。
折角整えた髪がまた風をはらんで舞い上がった。まるで二人の視線を合わせたくないという様に。
私は彼の目を見つめたまま、言葉を返せずにいた。
甘さのある中性的な容姿は人ではあり得ない程整っている。
静かに光をたたえた、吸い込まれるような透明感のある深く青い瞳が、時折り光を吸い込んだかの様に怪しく光っている。
「大丈夫〜?」
その言葉で私はやっと視線を彼の目から外すことに成功した。
小首を傾げてこちらを見ている彼は中々のあざとさを持っていた。
頭からぴょこんと生えている白い耳は大きめで先っぽがほんのり青い。
だめだ、どうしても見てしまう。
……というよりも、見ないで済む人なんているのかな。
耳あるんだよ。ぴょこんと二つ。
それに尻尾なんて、太くて大きくてふっさふさ。
……ものすごーく触りたい。
彼の姿をまじまじと見てしまった自分に、少しだけ罪悪感。
でも彼はまるで気にしていないように、静かに笑っていた。
「じっと見てしまってごめんなさい……あの狐さん、ですか?」
「そう思う?」
「……見た目は、ですけど」
「じゃあ、そうかな」
なにー!?
からかわれてる……?
でも、会話できた! と、なぜか妙にホッとする。
とりあえずこれだけは聞いときたい。
「あの……ここ、どこかわかりますか? 私、さっきまで家の近くにいたはずなんですけど……」
あ、違う気付いたら木の側?
あれ?
自分であらためて混乱した。言葉にすると、やっぱりおかしい。
彼はふっと目を伏せて、少し考えるような間を置いた。伏せた時に見えた睫毛もとても長く、銀色なんだと別の思考が私の中で働いた。
「ここは“あちら”の世界じゃない」
「え?」
彼は私の目をじっと見て言った。
「君がいた世界とは、違うよ」
あの風、あの提灯、そしてこの耳と尻尾の存在がすべて、彼の言葉を裏づけていた。
『……帰れますか?』
そう聞こうとして、声が喉で止まった。
『帰れる』と、聞きたくなかった。
私は今空を飛んでいる。
正しくは、空を飛ぶ様に地面を駆けるユウリさんの、背に乗っていた。
彼は自分を『ユウリ』と呼んで良いよと言った。
いや、それよりもね、もう、怖くて目を閉じるしかない。
初めのうちは目を開けていたけれど、新幹線の上に生身で乗ってるようなスピード感に目が回った。
だけど感覚は冴えていて、耳元を裂くような風が通り抜ける。
少し目を開けると地面が見えるたび、木の枝がものすごいスピードで流れていった。
まるで風景のほうが後ろへ逃げていくみたい。
怖い。でも、どこかくすぐったいような感覚。
そしてこの、しっかり支えてくれてる“もふもふ”がなかったら、私はとっくに気絶してた。
私の後ろ全面をふさふさ尻尾が包む様に支えてくれている。
怖いのに後ろがもふもふで、もう何が何やら。感情が追いつかない。
あの後私は、情報過多で頭の中がぐるぐるして古いパソコン並みにフリーズした。
彼が何か提案してくれていた気はする。
けれど、私の頭は「違う世界」という言葉でいっぱいで、ほとんど覚えていない。
結果今のこの状況で、フリーズから復活した私に、彼は少し笑いながら説明をしてくれた。
私があのまま、あそこにいるのは危険だから、自分の屋敷にひとまず避難させるつもりだという事。
日本人の危機管理からしたら着いていくのは危険だと思う所だけど、今の私はもう何というか、誰でもいいから助けて! だったから。
少しずつ落ち着いて来ている今、私はまた別の問題に直面していた。
この人、すっごく良い匂いがする。
濃すぎず軽やかに漂う香り。
あぁ……私知ってる。これ白檀だ。
おばあちゃまが大事にしてた扇子と同じ香りで、懐かしさと悲しみが込み上げる。
でも彼はどうやら白檀以外にも何かの香を使っているみたいで、私はなんとか意識を逸らせた。今は泣いてる場合じゃない。
それから、白とも銀とも見える柔らかな髪が、風に乗って私の肌を掠めてくる。耳や尻尾だけじゃなく、髪の毛まで毛先に行くほど銀色に青色がかっていて、不思議だけどとっても綺麗で。
月光をまとったみたいに、淡く青く光って見えた。
「なに〜? すごい視線がくすぐったいんだけど。見惚れちゃった?」
んな!?
思わず体を起こしかけると、すかさず尻尾で押さえ込まれる。
「ちゃんと捕まっててくれないと危ないよ?」
そう、ユウリさんてなんか……なんか軽い!
何のドキドキかも分からなくなっている状況に、私はまた目を閉じた。
耳元を鋭く流れる風にふと、かまいたちの風はこれよりも鋭いのかな、なんて考えていた時少し風が和らいだ。
「もうすぐ着くよ」
背中越しに届いた声は、走っているとは思えないほど静かで穏やかだった。
そっと目を開ける。夜の森の先に、ひときわ光るものが見えた。
それはまるで――空に浮かんでいる様だった。
森を抜けた先にぽっかりと現れた、光の結界のようなものに包まれた古びた屋敷。
朱塗りの鳥居がいくつも並び、木々の間に浮かぶようにして存在している。
でも、不思議と現実味があった。
夢じゃない。……多分。
「うわぁ……」
思わずこぼれた声に、彼が笑った気配がした。
ふわっと風が変わった。
一気に重力が戻ったような感覚のあと、足が地を踏む感触が伝わってくる。
森の奥の飛び石のような足場を飛び越え、最後の鳥居を抜けると、そこに屋敷があった。
木々に囲まれ、空気の質が変わる。
――光の中に入ったんだ。
彼の足取りが止まった。私もその背からおそるおそる降ろしてもらう。
急に苦しさを感じて、慌てて大きく息を吸った。
無意識に息を止めていたみたい。
神秘的というか、神聖な圧迫感がすごい。
屋敷の屋根は月光に照らされて、淡く銀色に輝いていた。
時代劇で見たような造りだけど、どこか現実離れしている。
というか、現実からものすごく離れてる気がする。
ユウリさんがそっと、私の横に立った。
「ようこそ〜、いらっしゃい。我が屋敷へ」
甘く、そして、ものすごく整った彼の顔が、柔らかく微笑んだ。
同時に彼の尻尾が、私の背をそっとエスコートするかの様に門へと押し進める。
私がつんのめるように一歩足を踏み出せば、静かに門が開いた。
誰が開けたのかはわからない。でも、まるで私たちの到着を待っていたかのようだった。
「はい、入って入って。休める部屋、案内させるよ」
正直色々限界が近い。
私は素直にはいと、うなずいて、一歩、彼の後について門をくぐった。
屋敷に入る間際にふと見た空には、やけに大きな月が浮かんでいた。




