一章 風のざわめき
もう生きていけないと思った。
「おばあちゃまお願い!私も一緒に連れて行って!」
私はふくよかだった頃の面影がすっかりなくなった祖母の布団に縋りついた。
あんなにぽちゃぽちゃしてたのに……
祖母の目に映る泣き腫らした目をした私。
祖母は今この時をどう思ってるんだろう。
私――結城ひまりは祖母と二人暮らしをしている。
両親は私が記憶のない幼い頃に二人で海外に移住したそうだ。
私は幼い頃に両親に捨てられたけど、その分祖母は私を愛し慈しんでくれた。
その祖母がこの世からいなくなろうとしている。
私にはその事だけでもう生きていたい理由なんてなくなっていた。
周りは私を『可哀想な子』として扱って、まるで関われば自分もそうなるみたいに誰も近寄っては来ない。
誰も踏み込んで来てくれなかった。
生きていたいと思う?
それなのにそんな私に祖母は言った。
「あなたは必ず幸せになるから。絶対に。だからおばあちゃまを信じて生きなさい!」
繋いだ手が微かに握られる。
息をするのも辛そうなのに、なんでそれだけはっきり生きろって言うの?
手だっていつも強く握ってくれたのに!
その時、祖母と握りあった手にふわりと、薄紅のひとひらが落ちた。甲から指先をかすめ、淡く消えるように。
そのかすかな温もりの違和感に気づくことなく――
私は答えの代わりに泣いた。
ただただ泣いて、その後の記憶は涙の海に沈んでいった。
生前祖母に言われていた通り、弁護士さんに電話して後はもう私はただ座っていたと思う。
気付けば家には一人だった。
高校に入学する年に私は一人暮らしを始めた。
家も祖母の家をそのまま引き継いだようで、面倒な手続きや一人暮らしの際の生活費なども、そこから弁護士が全てやってくれた。
ツンとした出来る女性の見本の様な見た目だけど、定期的に来てくれて私にはとても優しかった。
頼る親戚も居ない、友達もいない私には、それだけで充分だった。
それだけで、私は三年頑張れた。
***
「ひまりちゃん卒業おめでとう!」
そう言ってニコニコとグラスを掲げて乾杯を待つマリさん。
三年の間私の事を気にかけてくれていた弁護士さんだ。
昔はなかった前髪が、今は短く切られていて何だか可愛い。
「やだマリさん、卒業はまだだよ?」
初めての乾杯に初めての薄いグラスはハードルが高い。
恐る恐る合わすと、とても高くて小気味いい音がグラスからした。
「あはは! すっごい慎重な乾杯ね。中身は炭酸水だけど」
グラスを見ると、底から小さな泡が面白いほどに綺麗に整列して、立ち昇ってはぱちんと弾けていった。
マリさんは来週卒業を迎える私にお祝いだと言って高級なレストランに連れてきてくれた。
なんとドレスコードがあってこの日のためにわざわざ私のドレスを買ってくれたのだ。
何度断っても折れてくれないマリさんに最後はありがたく甘える事にした。
「よく似合ってるわ、そのドレス。前からそういう淡いピンクとか似合うと思ってたのよ」
「本当に、こんな素敵なドレスをありがとう。マリさんもその黒いドレスがよく似合っててすごく格好いい」
マリさんはありがとうと言って微笑んだ。
「そういえば、旦那さんは元気にしてる?」
「元気よ。どこで何してるかは、知らないけど」
軽く答えるマリさん。
私は炭酸水を吹き出しそうになって慌てて飲み込んだ。
「寂しくならない?」
「あたしは恋より元々仕事の方が千倍好きなのよ。だからこの距離感が刺激的で逆に良いのよ」
そう笑うマリさんはとびきり綺麗で、私もそんな風に思える何かを手にすることが出来るのかなと、思ったら少し寂しさを覚えた。
その後私はマリさんがくれたタクシーチケットを、ありがたく頂戴して帰宅中だ。
早めの時間からのディナーだったこともあり、空はまだオレンジや紫、赤といった世界が広がっていた。
……ご飯美味しかったな。
初めて食べる物が殆どで私はずっと感動していた気がする。
タクシーがビルの谷間を抜けた所で、空を見上げた。
この時間の空は、涙が出そうなくらい綺麗で、あっという間に終わってしまう『刹那の美学』だと昔読んだ本でそう表現されていた。
本当にその通りで私は泣きそうになっていた。
夜の孤独感とは又違う感情をこの空は私に突き付ける。
『結城、進路を相談できる人は居るか?』
悪気のない、純粋な教師の質問。
マリさんは私が何を言ってもきっとそれに寄り添う様に、応援してくれるだろう。
今までもずっと付かず離れずの距離を保ってくれていた。
私が完全に心を開くのをきっと待ってくれている。
私もマリさんが好きなのに、差し出してくれた手を簡単に掴めない自分が、本当に嫌い。
十八年生きてきて、私はまだこの世界に馴染めないでいる。
さむい――
ドレスの上から羽織った柔らかく暖かいコートごと、自分で自分を抱きしめた。
さっきまでのキラキラした空間を思い出す。
いつでも笑顔のマリさん。
しゅわしゅわと弾ける炭酸水。
どれを思い出してもとても綺麗な思い出で。
そう。今日は楽しかったんだ。
だから今はまだ――と、私は逃げた。
タクシーを降りて用事で向かったコンビニを出て数分後。
そこで突然の大雨。
「まさかのゲリラ豪雨……」
三月を間近に控えたこの時期に?
「せめてコンビニにいた時に降ってくれたらよかったのに!」
マリさんがくれたコートやドレスを駄目にしたくない一心で、視界が悪い中いつもの帰り道を走った。
ローヒールの靴を選んだ自分に拍手を送りたい。
幸いコートはハーフサイズで走るのには問題ない。
でもスカートが足にまとわりつく。
もう無理なくらい雨粒が大きくなった所で、何かの香りに誘われて視線を向けた。
視線の先にはまるで急に出てきたかの様に大きな木が見えた。
天災に勝てるはずもなく全身ずぶ濡れで体は冷え切っている。
それに幸い雷は鳴らないタイプの豪雨の様で木の側へ行っても大丈夫なはずだ。
私は何かを考える前にその場所へと走り出していた。
案外すぐに辿り着いたそこは、何だか空気が軽かった。
木の下に行くまでに、これでもかと繁った枝葉によって、全身で感じていた雨粒の存在がなくなる。
雨音まで静かになりまるで本当に包み込まれてる感覚になる。
どんどん楽になっていく……
立ち止まって下から上へと眺めた。
「すっっごい……大きな木。こんな木この辺りであったかな」
まだ冬も終わり切っていないこの季節にこれだけ立派に葉をつけている不自然さも、この木の大きさを前にするとそんなものなのかもと思ってしまう。
私が何人か並んでやっと幹に手を回せるくらいの太さ。
「千年くらい生きてるのかな。ちょっとお邪魔します。雨宿りさせていただきますね」
木の幹に近づけば近づく程、柔らかなマットの上を歩いている感覚が増す。
“雨に濡れた土の香り”とでも言うのかな、湿気を帯びたその香りと足元の柔らかさで昔飼っていたカブトムシを連想した。
触れる程近くに来た私は、目を閉じて湿気でじっとりとした木肌に手をついた。
祖母は私が小さい頃から『何物にも命があると思って接しなさい』とずっと言い続けていた。
おかげさまでその通りに育ち、さっきの様に色んな物にも躊躇いなく話しかけた。
実際祖母が生きていた頃は、祖母自身もそうやっていたので何も感じなかったけれど、学校という集団生活の中で私は異質だった。
みんなそうだと思っていたのに。
ついに友人と呼べる人は出来なかった。
私は気持ちが落ちそうになるのを、大きく息を吸って木の香ばしい香りを吸い込む事で打ち消した。
木に触れている両掌と額が段々と熱を持ってきた気がする。
「何だろう、体があったかい気がする」
冷え切って固まっていた指先から熱が送り込まれてくる様な感覚。
そっと目を開けてふと視線を動かした私は、文字通り固まった。
土砂降りだったはずの空は、高く広く澄み渡り、足にまとわりついていたはずのドレスは、湿り気を帯びてはいるがびしょ濡れではなかった。
少し震える手で髪を触ると、あれだけ水が滴っていた髪も乾いている。
こーれーはー。
ちょっと普通じゃないかもしれない。
私はまだ勢いよく辺りを見渡す覚悟はなかったので、そろそろと視線だけを動かすことにした。
まずは、足元を見てみよう。
そっと視線を下にずらすと、ほぼ大きな木が視線を遮っていて見えない。
「そうよね、それはそうよね」
小さく息を吐く。
「よし、次」
そのまま右斜め上に視線を上げる。
もちろん体はまだ大きな木と向かい合ったまま。
すると視界の端っこに僅かに揺れる何かが見えた。
「あーー、何か見えるよー!あれ見えて良いやつなのかなぁ」
独り言は一人暮らしの賜物だ。
「よし。よし、見よう。ゆっくり顔を動かせば怖くない怖くない」
視界の端っこでチラチラと見え隠れしているものを目で捉えるべく私は顔ごとそちらを見た。
ぎくりと肩が跳ねる。
息が止まるかと思った。
提灯。飛んでる。
私が見たものは、屋台や縁日で大活躍の提灯。
それがいくつもゆらゆら、ふわふわと浮かんでいた。
よく本で見る様な、カパッと開いた口や、目はついていない。
「提灯お化け……」
凝視したまま呟いたそれが正解だったのか、提灯が淡い光を一際輝かせた。
私は再び木に額をくっつけて目を閉じると、思考の海に沈んでいった。
ただ一つ絶対に間違いないのは、ここは私が今まで居た場所ではないって事。
だってこの一瞬で空が、辺りが、輝く様な夜に変わっていたから。
真っ暗なのに何故か余計に綺麗に見える。
……あの場所じゃないんだ。
おばあちゃまの思い出たっぷりのあの家。
あそこで一人暮らしをする事は、私にとって酷く残酷であり、それでいて唯一の守られた場所だった。
あそこではない場所。
帰らなければ。
なんて、思わなかった。
私が最初に感じたのは――泣きたくなるほどの安堵感だった。
「ふふ」
思わず笑ってしまったのは、楽しいのではなくて、あちらの世界に帰れないかもしれないと思っているのに全くの未練が湧いてこない自分への苦笑。
私はそれからふーはー、と何度も深呼吸をして冷静でいようとした。
よし、一旦この木から離れよう。
この大きな木はそっと守ってくれていた様な気がしていたので、感謝を込めて木肌を両手でしっかりと撫でた。
心の中でタイミングを取る。
せーの!
後ろを振り向くと、突然足元からぶわりと風が舞い上がった。
だからびっくりどころの騒ぎじゃないってー!
鼓動が激しすぎて、次何かあったら心臓が止まるよ。
ほのかに甘い香りを連れてきて、それを嗅いだ私は何故か泣きそうになった。
こんな短時間で、これだけの感情は扱いきれない。
そんな混乱の間にも風で荒れ狂う髪の毛を何とか抑えつつ、スカートを押さえた。
その時ふと青く煌めく何かが視界に入る。
……何か今、『何か』と目が合った?
「――、――――?」
風の中に、誰かの囁くような声が混じった気がした。
はっきりは聞こえない。けれど、その声はたしかに、私に向けられている。
その声に誘われる様に、大鳥居の上に視線を向ける。
普通の鳥居の二倍?もっと?ありそうなほどの大鳥居。
その上に見えるのは――
まるで高さを感じない様に、片方の足はブラブラと下ろしていて、もう片方は膝を立てそこに腕を預けてこちらに向けてひらひらと手を振っていた。
視線が交わる瞬間というのを、私は初めて実感した。
磁石がバチっとくっつく様なあの感じ。
あれは何?
何で?
どうやってるの?
本物?
だめだ、心臓とまる。
色々な疑問も視線に絡め取られて言葉にならなかった。
だけど、目が合ってから向こうも何故か私と同じ様に固まっている。
一際強い風が吹いたことに気付いたのは、それから少し経ってからだった。
――それが、新しい春の始まりだった。




