二十五章 特別
あの月夜のキス。
あの日から私の中が大きく変わった。
悠璃さんのことが、ただ"好き"じゃなくて、"愛しい"になった。
触れられるだけで心臓が跳ねて、名前を呼ばれるだけで息が詰まる。
あの香りに包まれながら、濃い藍色に見つめられると、思考が止まって……その先を期待してしまう。
こんなに誰かを想うのは、本当に初めてで――苦しくて、嬉しくて、切なくて、すごく、大好きで。
でも――
『変わってない』
あの、悠璃さんの言葉に嘘は感じられない。
私に向けられる彼の気持ちも嘘は感じられない。
……悠璃さんには変わらない何かがある?
私と、悠璃さん。
きっと私たちには合わさなきゃいけない"ズレ"がある。
それを埋めるにはきっと言葉だけじゃだめなんだ。
*
——『変わってない』
そう言ったのは、嘘じゃない。
俺の中でひまりは、最初から特別だった。
始まりのあの日、大鳥居の下で視線が絡んだ瞬間から、もう決まってた。
だから、昨日のキスも、今日ひまりにつけた証も、全部当たり前の延長線。
でも。
あの月夜のキスから、確かにひまりは変わった。
俺を見つめる目、触れる温かな指先、纏う香り。
そもそも彼女や、玖呂が言った『関係性』とは何だ?
……彼女の中で何が変わった?
もしそれが俺の知らない『何か』なら――俺はそれを知りたいと強く思った。
*
空が濃藍色に変わる頃、私は悠璃さんを庭の東屋に呼び出した。
「ちょっと試したい事があるんです。それを一緒に見てもらいたくて」
「いいよ、何するの?」
いつもは肩が触れ合う距離の私たち。
でも今は、どちらからとなく出来た拳一つ分くらいの隙間があった。
ふっと小さく息を吐く。
今は集中。
悠璃さんの事だけ考えて。
目を閉じて深呼吸を何度かすると、隣からの彼の匂いに包まれる感覚がした。
……あぁ、愛し過ぎても涙って出るんだ。
閉じた目尻にジワリと滲む涙に、温かさを感じて、頬が緩む。
手の中で練られていく力は、彼への『好き』や『大好き』が溢れていてとても熱い。
最近では制御出来るようになってあまり舞わなくなった花びらが、ふわりと微かに舞う気配がした。
同時に手の中に桃玉が出来上がる。
ゆっくり目を開けて閉じたままの、手を見つめる。
……中、見なくても分かる。
今までの桃玉とは違う。
私は確信した。
「悠璃さん。この中にあるのが、私の『変わったもの』です」
隣で静かな緊張を感じた。
私はそっと手を開いて、桃玉を悠璃さんに渡した。
以前の桃玉も悠璃さんを想って作ったものだ。
濃淡の違う桃色が螺旋を描く、その桃玉。
悠璃さんが桃玉を摘んで空に翳した。
息を呑む悠璃さん。
「これ……」
その桃玉は、中心に優しい桃色の光、そして淡い桃色が花びらの様な螺旋を描きながら、銀色の粒子を纏って広がっていた。
全体的に柔らかな印象を受ける桃玉は、私の『愛しい』が詰まっていた。
じっと桃玉を眺め続ける悠璃さん。
どれくらいそうしていたのか、悠璃さんがふいに自分の耳飾りを外した。
前の桃玉と並べる。
「……これが、君の『変わった』こと?」
掠れがちな声。
何を思っているのかな。
「そうです。変わったのは私の心——あなたを想う気持ちです」
悠璃さんはまだ黙って桃玉を見つめている。
「私の中であの日から『好き』に『愛しい』が加わったんです。それはきっと小さな事かもしれないけど、私の中での関係性は大きく変わった」
……その桃玉みたいに。
「うん」
彼は大きく息を吸って吐いた。
そして、柔らかな笑顔で私と向き直った。
「俺はさ……君が元から特別だった。一緒に過ごす時間の中で、湧いてくる愛しい感情も、全部そんなの当たり前だと思ってた」
そっと彼の指先が頬を撫でた。
「こんな風に君に触れて、鼓動が跳ねるのも」
親指が唇に軽く触れる。
「こんなにも——君に焦がれるのも」
私の目に少しずつ涙が溜まっていく。
「ずっと変わらずあったんだ。だから『関係性』って言われても分からなかった。そもそも立場とかそういうものだと思ってたからね」
まばたきで溢れた涙を、彼は指で拭った。
「……悠璃さんにとっての『特別』って何なんですか?」
「ん?」
「好き、とか愛しい、とか。私には違いがあって」
「ああ。俺にとっては簡単だよ」
悠璃さんが笑った。
「ひまりしかいらない。ひまりがいい。それが俺の『特別』」
真っ直ぐだと、思った。
私の心に真っ直ぐ届いて、確かにそれは特別だと納得した。
「それなら、関係性とか……こだわる必要ないかもですね」
「立場は欲しいけど」
「立場?」
「現世でいう『婚約者』とかさ?」
思わぬ言葉に、私は目を丸くした。
「こ、婚約者!?」
自分で口にしたら言葉の響きが妙に恥ずかしくて、真っ赤になって俯いた。
涙なんて、もうどこかへ消えた。
「何かおかしい所ある?」
「お、おかしくはないですけど……!」
「そう、良かった」
そう言って笑う悠璃さんの顔は、どこか安心したようにも見えた。
私たちはずっと同じものを見ていた。
見る角度がほんの少し違うだけ。
だけど今は、そのズレさえ愛おしく思える。
東屋を抜けた風が花びらを攫っていく。
テーブルの上では、新しい桃玉が淡く輝いていた。
私たちの想いを映したようなその光を眺めながら、私は隣の温もりにそっと身を寄せた。




