十五章 花ひらく
「悠璃様、来るなら直ぐに来てください」
眉を寄せて怒って見える月ちゃんに、悠璃さんはひらひら手を振った。
「えー? 直ぐに来たんだけどなー。でもほら、ヒーローは遅れて来るってやつ?」
いつもの軽口な悠璃さんだけど、私を支える腕や背中から、いつもより少し早い鼓動や汗の気配がした。
急いでくれた。
たったそれだけの事で、さっきまでの怖さや不安が綺麗になくなる。
あぁ、私もしかして――
「ごめんね、怖かったでしょ」
頭越しに聞こえた小さな呟きに、私の胸は震えた。
回された腕をきゅっと両手で掴むと、すごくほっとするのに、なぜか泣きそうになった。
「悠璃じゃないの〜久しぶりねぇ? 元気にしてた?」
「よく言うよ、俺が来るって分かってたくせに」
顔見知しり以上に思える空気感に、少し気持ちが翳った。
「本当に来るとは思わなかったのよぉ、たかだかこんな女の子一人の為に? あぁ、子狐ちゃんもいたわねぇ」
――この人、何か嫌だ。
思わず目を細めてしまう。
月ちゃんも近くの木に移ってきて、耳と尻尾が、びんびんに警戒してる。
「お前は大事にされた事なんか、ないだろうしなぁ」
ふっと笑った息が頭をくすぐる。
「あ〜ら、あたしは誰かに守ってもらいたくないだけよ」
嫌味な人が黒い髪をかき上げると、星空の様にキラキラとした光が髪から舞い上がる。
自分の感情とは裏腹に、その光景に魅入ってしまった。
「あれは黒蝶の魅了の力だから、見ちゃだめー」
私を支える悠璃さんの反対の手が、そっと目隠しをする。
「あらぁ……? 相変わらず女を抱くの、上手いじゃない」
くすくすと聞こえる笑い声が、妙に私の神経を逆撫でする。
「随分安っぽい煽り方するね〜。……まぁ確かに『今の俺』の事は気に入ってるよ」
悠璃さんが少しだけ私を抱く腕に力を込めた。
「だぁってー、忘れた事ないもの。あなたの匂い、温度、鼓動――全部」
「覚えこませた記憶もないけど」
ーー何この会話!
顔が赤くなっていくのが分かって、目隠しされている手を外したくなった。
体温でバレてしまいそうだ。
「でも羨ましいわぁ? その子、あたしの時よりよっぽど甘やかされてるみたいじゃない?」
ずきっと何かが胸に刺さる。
あたしの時――って、やっぱりそういう関係だったのかな。
なんか胸、苦しいな。
「そんな立場にいた事なんか一度もなかったけど?」
「そうかしら? あなた私の髪を他の人に触らせなかったじゃない」
二人のやり合いは過激さを増している。
私の胸も、痛さが増す。
そっかぁ。
こんなに、胸が痛くなるんだ。
「それは綺羅の髪が人を魅了するからだろ」
あー……名前呼んだ。
それは、やだ。
「本当昔から素直じゃないわね。ねぇ? あの夜みたいに、その綺麗な指先で優しくしてよ……」
ーーもういい、もう充分!
隠されたままの目を、感情のままぎゅっと閉じた瞬間――風が私を守る様に包み込んだ。
「ひまり!」
「ひまりちゃん!」
二人の声に反応して目を開けると、私を中心に渦巻くように、風が吹き荒れていた。
「え、何これ……!」
私の動揺に反応したのか、風が乱れて強さを増した。
渦巻く風の中に、見慣れた桜色が見える。
桜の花びら――私がやってるんだ、これ
「ひまり」
「悠璃さん!」
壁のような風の向こう側に、いつもの余裕顔の悠璃さんがいた。
でも、尻尾はゆらゆらしてない。
「今からそっちに行くからさ。受け入れてくれない?」
この風の中を!?
「だめ! どうなるか分からないのに! もしあなたが傷ついたら、私が嫌!」
「ひまりが操る風なら、俺を傷付けるわけない」
「……!」
そんな事分からないのに。
私にだって分からないのに。
「何で……そんなに信じてくれるんですか?」
呆然とする私に、優しく微笑む。
「……何でだろうね」
悠璃さんがゆっくりと風の中に入ってきた。
腕で防いではいるけど、服も髪も凄い勢いで巻き上げられている。
……やめて
耳飾りが悠璃さんの頬を傷つけたのか、赤い血が滲みはじめる。
その僅かな血すら風が吹き飛ばす。
……やめて!
私の周りから風の圧が消えた。
代わりに感じるのは温かい体温と、フサフサの尻尾。
抱きしめられていた。
私の耳元で小さな声が聞こえた。
「きっと、あの時から――」
でも悠璃さんは、すぐにそっと体を離すと、私の髪を整えた。
そして、笑った。
「ほら、無事だった」
あの時と同じ青い目が、私を射抜いた。
……身動きが出来ない。
風で乱れた悠璃さんの、いつもと違う雰囲気に――私は囚われてしまっていた。
「ひまりちゃん大丈夫ですか!」
その声で、私は現実に引き戻された。
止まっていたものが一気に動き出して、触れられていた髪の先まで鼓動が跳ねているような不思議な感覚。
悠璃さんの腕や背中の温もり、乱れた髪、そして青い目。
全てが胸の中に熱く留まっている。
「……え、うん、大丈夫……」
声を絞り出すけれど、心臓はまだ落ち着かない。
悠璃さんは、いつの間にか少し離れた場所にいた。
いつもと同じに見えるのに、その青い瞳は真っ直ぐ私を見つめている。
私はまた固まってしまう。
心臓は落ち着くどころか、速さを増して跳ねる。
全身を貫く、未知の感覚。
私……
悠璃さんのこと、い、異性として、すごい意識してる……?
また顔に熱が集まってきた。
ばっと俯いて、呼吸を整える。
目の前で月ちゃんが心配そうに見つめているけど、視線を合わせられない。
まだ悠璃さんからの視線を感じる。
どうしよう……
見たらだめだと思うのに。
でも、見てしまう。
挑発的な笑みを浮かべて、真っ直ぐに私を捉えるあの青い目を――
あの日出会ってからゆっくりと溜まっていた何かが、一気に溢れ出した。
熱が波の様に全身に広がって――もう止められなかった。
「ね〜え? 私まだ居るんだけどー」
軽やかに近づいて来た存在に、私は驚きすぎて全力で逃げ出した。
完全に忘れてました!
「ひまり!」
すかさず悠璃さんが私を捕まえて、あの人から隠す様に抱きしめた。
今はそれ無理ですって!
本当にー!
離れようと体を押してもびくともしない。逆にもっと強く捕まった。
いつもなら安心する悠璃さんの香りが、今はただ私の全てを掻き乱す。
「綺羅、お前なにがしたいんだよ」
「そんなの最初に言ったわよ? その子の匂いに誘われたのよ」
……言ってた。
「それで?」
「それだけ」
「は?」
悠璃さんの声がかなり低くなった。
「そっちが勝手に何か始める空気作ったんじゃないの! その子狐とか!」
「あなたの存在をひまりちゃんの目に入れたくありませんので」
月ちゃんが私と悠璃さんの前に出た。
「ちょっと意地悪したくなったのよ! 悠璃ったらあたしがどれだけ誘っても全然抱いてくれないのに、いきなり現れた小娘にお熱とか信じられなかったのよ!」
だ、だ、抱いてとか……!
小娘ですけども!
「いい加減にしてください。今も昔も悠璃様は、ミジンコ程もあなたの事を気にしていません」
ミジンコって……
「ほんっと昔から腹立つ子狐ね!」
「もういいから綺羅は帰れ」
「でも折角こんなに"良い花"見つけたのに〜」
急にこちらに話が向いて、ビクッと体が反応した。
私を隠す腕が、一瞬強さを増す。
「――渡さないよ」
いつもより真剣な声にぎゅっ、と胸の奥がきゅーっと痛くなる。
「まぁ、いいわ。別に本気で遣り合うつもりもなかったし。今日はこれで帰るわ」
背後でばさっと大きく風が動いた気配がした。
「次はもっと面白いものみせてね〜!」
上空で聞こえた声に振り返ると、もう綺羅さんは居なかった。
思ったよりあっさり帰っていった。
こうなると、私が暴走した事が途端に恥ずかしく思えてしまって居た堪れない。
「私、本当に大嫌いです。昔から」
月ちゃんがものすごく怒ってる。
それもこれも、悠璃様がさっさと追い払わないから――と、すごく小さな声でぶつぶつ言っていて、最後は聞き取れなかった。
「じゃあ、帰ろうかー」
その一言を言うが早いか、私はひょい、と横抱きにされた。
私は恥ずかしさと情けなさの混ざった顔を両手で隠して、どうにか屋敷までの短い道のりを、耐え抜いたのだった。




