第8話 崩れた祠の夜
小祠は、祈るための建物というより、忘れられた祈りの残骸だった。
崩れた石垣の向こうへ回ると、半分落ちた屋根が見えた。壁は三方だけ残り、正面は柱が一本折れて口を開けている。昔は何かの神を祀っていたのかもしれない。今は祭壇らしい石台に苔が張りつき、供物を置くためだったらしい浅い窪みには、枯葉と砂が溜まっていた。
それでも、雨風をしのぐだけなら十分だった。
「ここなら街道からは見えにくいから」
セレナが振り返って言う。
レオンは頷こうとして、うまくいかなかった。小祠の入口に足を踏み入れた瞬間、体の中に残っていた力がいっぺんに抜けた。張りつめていたものが緩んだせいだろう。森の中では、止まったら終わると思っていた。だから無理やりでも動いていられたのかもしれない。
膝が折れかける。
セレナがすぐに腕を伸ばしたが、レオンは反射的に身を引いた。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない人って、たいていそう言う」
「今それ言われるの、三回目くらいだ」
「じゃあ三回言われるくらいにはそう見えてるんだよ」
軽い口調だった。
からかっているわけではない。重くしすぎないために、少しだけ言い方をずらしている。そういう話し方だった。
レオンは壁際へ移動し、ようやくその場に腰を下ろした。石が冷たい。濡れた服越しでも分かる冷たさだった。けれど今は、それがありがたかった。熱を持った足首や肩に、少しだけ輪郭が戻る。
セレナは荷袋を下ろし、中を探った。包布、細い瓶、小さな針金みたいな道具、乾いた薬草の束。旅の荷にしては、ずいぶん手慣れた中身だ。
「旅の途中って言ってたな」
レオンが言うと、セレナは顔を上げずに答えた。
「言ったよ」
「一人で?」
「今は」
今は、という言い方だけが少し引っかかった。
だが、今のレオンにそこを掘り返す余裕はなかった。
「足、見る」
「見なくていい」
「見る」
言い切られて、レオンは黙った。
拒む力が残っていない、というのが正しいのかもしれない。あるいは、拒んだところで無駄だと分かったのかもしれない。どちらにしろ、今の自分が一人で歩ける状態ではないことだけは、もう認めるしかなかった。
セレナは膝をつき、慎重にレオンの足元へ手を伸ばした。
森の出口で触れたときとは違って、今度の手つきに迷いはない。靴紐をほどき、痛む方の足首を固定していた布を少しずつ外していく。
空気が触れた瞬間、熱を持った痛みがむき出しになった。
レオンは眉を寄せる。
「腫れてる」
「見れば分かる」
「歩けるって言った人の足じゃないね」
「……うるさい」
セレナは少しだけ笑った。
その笑い方が嫌じゃなかったのは、久しぶりだった。村を出てから、いや、祭壇に立ってからずっと、向けられる視線には意味がありすぎた。恐れか、判断か、管理か、処理か。そういうものばかりだった。今のこれは、少なくともそれとは違う。
セレナは薬草を指先で砕きながら言った。
「折れてはないと思う。でも、無理して走ったら悪くなる」
「もう無理してる途中なんだよ」
「だったら、ここで少し止まる」
「追手が来るかもしれない」
「来るかもしれない。でも、歩けないまま出たら、もっと早く捕まる」
正論だった。
最近、自分は正論ばかりに追い詰められている気がすると、レオンは思う。
セレナは砕いた薬草を布に包み、瓶の中の液を少し垂らしてから足首へ当てた。苦い匂いが立つ。薬草の匂いのはずなのに、どこか雨上がりの石みたいな冷たさが混じっていた。
「しみる」
「効いてる」
「雑だな」
「優しく言っても痛いものは痛いから」
その返しに、レオンは少しだけ息を吐いた。
笑った、というほどではない。けれど、自分の声以外で小祠の中の空気が少し柔らかくなった気がした。
セレナは手早く布を巻き直し、結び目を押さえたあと、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
まただ、とレオンは思った。
森の出口でもそうだった。
彼女は時々、こちらに触れた瞬間だけ、どこか遠くを見るような顔をする。
「……何だよ」
思わず聞くと、セレナは小さく肩を揺らした。
「ごめん」
「いや、謝られても困る」
「自分でもよく分からないから」
彼女は布から手を離し、膝の上で指先を握った。
「あなたに触ると、時々、変な感じがする」
レオンは少しだけ身を固くした。
また拒絶されるのかと思ったのかもしれない。自分でも分からないうちに、そういう身構え方が染みつき始めていた。
だが、セレナの顔に恐れはなかった。
むしろ、困っていた。
「冷たいとか、雨の匂いとか、そういう断片だけ。ちゃんとした意味にならないの」
「意味にならないなら、気のせいじゃないのか」
「そう言えたら楽なんだけど」
セレナはそう言って、小祠の外へ視線を向けた。
風が草を揺らしている。空はまだ明るいが、陽は少し傾き始めていた。
「昔から、たまにあるの」と彼女は言う。
「人に触ると、言葉になる前のものが入ってくることがある。痛いとか、怖いとか、そういう分かりやすいものもあるけど、もっと曖昧なこともある」
レオンは黙って聞いた。
「気持ち悪いと思う?」
その問いは、妙に静かだった。
試しているわけではなく、本当に聞いている声だった。
レオンは少し考えた。
今日一日だけでも、自分の身に起きたことは、だいたい全部気持ち悪い。聖石の白い光。神官の怯えた顔。耳の奥の音。拘束術が弾ける感触。ヴァルトの言葉。どれを取っても、まともではない。
その中に、セレナの言う“触れた相手の断片が入ってくる”が混じったところで、今さら驚く気にもなれなかった。
「分からない」
正直にそう言う。
「まだ、何が普通か分からなくなってる」
セレナは少しだけ目を丸くして、それからほんのわずかに笑った。
「それは正直でいいね」
「取り繕う余裕がないだけだ」
「それでも」
彼女はそこで言葉を切り、代わりに荷袋から黒パンを取り出した。半分に割って、片方を差し出す。
「食べる?」
レオンは受け取った。
腹は空いていた。空いていることすら、さっきまで忘れていた。噛むと硬い。だが、何かを食べているというだけで、自分がまだこの場にいると実感できた。
少しのあいだ、二人とも黙っていた。
小祠の外では、風が向きを変えたのか、草の鳴る音がさっきより低くなっていた。鳥の声もしない。代わりに、遠くで木がきしむような音が一度だけした。
レオンは顔を上げる。
「何か聞こえた」
セレナもすぐに立ち上がった。
今度は迷いがない。小祠の入口まで行き、外を窺う。レオンも壁に手をついて体を起こした。足首が痛むが、じっとしていられない。
音は、もうしない。
だが、静かすぎた。
森を抜けたばかりの場所なら、もっと鳥が鳴いてもいい。風の音だけが妙に大きい。そういう静けさは、ただ平穏なときのものではない気がした。
「追手かな」
セレナが小声で言う。
「分からない。でも、あの騎士なら、もっと音を消せる」
口にしたあとで、自分がずいぶん自然にヴァルトのことを“あの騎士”として認識しているのに気づく。名前で呼ぶのも違うが、ただの追手と言うには存在感が強すぎた。
セレナは振り返る。
「その人、強かった?」
「すごく」
即答だった。
「追ってくるって分かるのに、逃げ切れる気がしなかった」
言ってから、少しだけ苦くなる。
それを認めるのは、負けを口にするみたいで気分が悪い。
だが、事実だった。
セレナはその答えを茶化さなかった。
「じゃあ、見つからないようにした方がいいね」
その言い方は、どこか当たり前すぎて、かえって落ち着いた。
戦うとか、立ち向かうとか、そういう格好のいい話ではない。今やるべきなのは、見つからないことだ。今の自分にはその程度しかできない。そういう現実を、彼女は妙に自然な顔で受け入れている。
「少しだけ休んだら、日が落ちる前に場所を変えよう」とセレナが言う。
「ここは隠れるにはいいけど、留まるには弱い」
「詳しいな」
「一応、旅してるから」
「何から」
つい口に出た問いに、セレナは一瞬だけ黙った。
嫌な沈黙ではなかった。
ただ、すぐに出せる答えではないというだけの間だった。
「いろいろ」と、彼女は結局そう答えた。
レオンはそれ以上聞かなかった。
自分も何一つ説明できていないのだから、相手にだけ答えを求めるのは違う気がした。
小祠の中へ戻る。
石の台座に背を預けると、疲れがまた重くのしかかってきた。水と薬草と、少しのパン。それだけでどうにかなるほど甘くはないだろうが、それでもさっきまでよりは、少しだけ息がしやすい。
セレナが入口のそばに立ったまま、外を見ている。
その横顔を眺めながら、レオンはふと思った。
どうしてこの人は逃げなかったのだろう。
森から飛び出してきた、びしょ濡れで、傷だらけで、追われていると自分で認めるような相手に。
村の人間なら、もっとはっきり避けただろう。
「……何で」
セレナが振り向く。
「何で、逃げなかったんだよ」
彼女は少しだけ考えてから答えた。
「逃げた方がよかった?」
「たぶん、その方が普通だ」
「普通って便利だね」
皮肉ではなく、事実を確かめるような言い方だった。
「でも、あの顔してる人を置いていくと、あとで寝つきが悪くなるから」
あっさりした答えだった。
立派な理由でも、運命めいたものでもない。
ただ、見捨てると自分が嫌な気分になるから。
その身も蓋もない優しさが、かえって妙に信じられた。
レオンは目を伏せる。
「……変な人だな」
「二回目」
「何回でも言う」
「じゃあ、そっちも相当変だよ」
「何で」
「追われてて、痛そうで、たぶんすごく怖いのに、まだちゃんと座って話してる」
レオンは返事をしなかった。
怖い。
たしかに、ずっとそうだ。
けれど、怖いと口にした瞬間、どこかで本当に崩れそうで、まだ言葉にはできなかった。
耳の奥は、静かなままだった。
それが逆に不気味だった。
声が消えたのではない。
近くにいる何かが、ただ様子を窺っている。そんな沈黙だった。
風がまた草を揺らす。
そのとき、小祠の外で、小石が一つだけ転がる音がした。
ほんの小さな音だった。
だが、今の二人には十分すぎた。
セレナの顔から表情が消える。
レオンも、反射的に息を殺した。
入口の外には誰も見えない。
草の揺れも、さっきまでと変わらない。
なのに、気配だけがあった。
見ている。
そういう気配だった。
セレナが、声にならないくらい小さく囁く。
「まだ、終わってないね」
レオンは頷いた。
村を出て、森を抜けて、こうして屋根の下に入っても、何一つ終わっていない。
ただ少しだけ、隣にもう一人いる。
違うのはそれだけだ。
けれど、その“それだけ”が、思っていたより大きいのかもしれなかった。
耳の奥のあの声は、相変わらず鳴らない。
止んだのではなく、
何かが、こちらと彼女のあいだに割り込む隙を測っている。
そんなふうに思えて、レオンは小祠の暗がりの奥へ、無意識に半歩だけ下がった。




