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神は人に罪を与えた ――追放された少年は、傲慢の罪で世界の真実を拒絶する  作者: ビッグサム


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第7話 雨の匂いのする手

森の明るさは、本当に出口の光だった。

 木々の密度が少しずつ薄くなり、頭上の枝の隙間が広がっていく。差し込む光も、森の中の細く冷たい筋ではなく、面で落ちてくる白さに変わっていた。レオンは荒い息のまま、その明るい方へ足を運んだ。

 もう走っているとは言えなかった。

 足首は痛みで熱を持ち、肩と肘も沢で打ったところがじくじくしている。服はまだ半分ほど濡れたままで、歩くたびに布が肌へ貼りついた。喉は焼けるように乾いているのに、息を吸うたび肺の奥に冷たい痛みが刺さる。

 それでも、止まるのは怖かった。

 後ろを振り返れば、またヴァルトがいる気がする。

 実際には、さっきから足音は聞こえていない。けれど、聞こえないことは安心と同じではなかった。あの男なら、足音もなく距離を詰めてきてもおかしくない。そう思わせるだけの圧が、まだ背中に残っている。

 枝を払って、最後の木立を抜ける。

 そこは、森と街道のあいだに取り残されたような小さな草地だった。

 丈の低い草が風に揺れ、ところどころに白い花が咲いている。人の手はほとんど入っていないのだろうが、完全な荒地でもない。誰かが通ることはある、そんな曖昧な場所に見えた。奥には細い道があり、その先に古びた石垣のようなものが半分崩れたまま残っている。

 レオンは草地の端まで出ると、そこでようやく足を止めた。

 耳を澄ます。

 風が草を撫でる音。

 どこか遠くで鳴く鳥。

 それだけだった。

 蹄の音も、術の気配も、ヴァルトの足音も、今は聞こえない。

 助かった、とは思えなかった。

 一度だけ見失わせたのだろう、という程度の実感しかない。

 それでも、森の中で追いつかれる恐怖からほんの少し離れただけで、膝から力が抜けそうになった。

 レオンは近くの石へ手をつき、半ば崩れるように腰を落とした。

 吐く息がうまく整わない。

 肩で呼吸をしながら、何度か空気を呑み込む。胸が痛い。足首も痛い。服は冷たい。頭も重い。考えなければならないことは山ほどあるのに、今は一つもまとまらなかった。

 水。

 まずそれが必要だと思った。

 だが、ここに座っているだけで精一杯だった。沢で水は浴びたが、飲める状態ではなかったし、そのときはそれどころではなかった。喉がひりつく。舌が重い。

 耳の奥で、またあの乾いた音が鳴る。

 ――追跡対象、暫定ロスト。

 ――再検索待機。

「……うるさい」

 思わず口に出た自分の声が、想像以上にかすれていて、レオンは少しだけ笑いそうになった。

 何なのか分からない。

 どこから聞こえるのかも分からない。

 それでも、これがもう完全な気のせいではないことだけは分かっている。

 追跡対象。

 暫定ロスト。

 再検索待機。

 意味は分かる。

 分かるからこそ、余計に気味が悪い。誰が誰を追っているのか。何が待機しているのか。何一つ説明されていないのに、自分の中に勝手に入り込んでくる。

 嫌悪感で眉を寄せた、そのときだった。

 草を踏む、軽い音がした。

 レオンは顔を上げる。

 反射的に立とうとして、足首に痛みが走った。息が詰まる。体が遅れた。その一瞬で、最悪の想像が先に来る。

 ヴァルト。

 そう思った。

 だが、草地の向こうに立っていたのは、騎士ではなかった。

 少女だった。

 年は、自分とそう変わらないように見える。旅装の上から薄い外套を羽織り、肩に小さな荷袋を提げている。栗色の髪は後ろでゆるく結ばれていて、足元には土埃がついていた。長く歩いてきたのだろう。整った身なりではない。けれど、不思議と乱れて見えなかった。

 一番印象に残ったのは、手だった。

 荷袋の紐を軽く握ったその指先が、旅人らしく少し荒れているのに、妙に静かだった。慌てて逃げるでもなく、無遠慮に踏み込むでもなく、ただこちらを見て止まっている。その止まり方に、警戒とためらいと、少しの優しさが全部乗っていた。

 それから目。

 大きいわけでも、特別に鋭いわけでもない。

 ただ、こちらを見たその目が、驚きと警戒を浮かべながら、それでも完全には引かなかった。

 普通なら、まず離れる。

 森から傷だらけの少年が転がり出てきて、びしょ濡れで、顔色も悪く、腰には何の身分証も見当たらない。関わらないのが正しい。村の外ならなおさらだ。厄介事に見えるものへ近づく理由はない。

 それなのに、その少女は逃げなかった。

 すぐには、だが。

「……大丈夫?」

 第一声はそれだった。

 レオンは何か答えようとして、うまくいかなかった。

 大丈夫なはずがない。

 でも、大丈夫じゃないと答えるのも違う気がした。

 何より、いきなり他人に弱みを見せるのが怖かった。

「平気」

 ようやく出た声は、平気な人間の声ではなかった。

 少女もそれは分かったらしい。眉を少しだけ寄せる。

「それ、平気って言う人の顔じゃない」

「顔のことは知らない」

「知らないのは困るよ」

 言いながら、彼女は一歩だけ近づいた。

 慎重な一歩だった。助けるつもりはあるが、無防備ではない。距離の取り方に、それが出ていた。

 レオンはその一歩を見ていた。

 追手ではない。

 少なくとも、すぐに縄を持ち出したり、神官みたいな目をしたりはしない。

 だが、安全とも言い切れない。こんな場所で偶然誰かに会うこと自体が、もう十分に信用しづらい。

 それでも、今の自分に他人を疑い続ける体力があるかと言われると、怪しかった。

「水、飲める?」

 少女が荷袋を探りながら聞く。

 その言葉に、喉が勝手に反応した。

 唾を飲み込もうとして、何も出ない。

「……少し」

「少しでいいなら、ある」

 差し出された水筒を見て、レオンは迷った。

 また、自分でも嫌になるくらい長く迷った。

 今の自分は、差し出されたものを簡単に受け取ってはいけない気がしている。村でも、神殿でも、ずっと“向こうが決めたもの”に従う側だったからかもしれない。

 だが、少女は急かさなかった。

 ただ水筒を差し出したまま、こちらを見ている。

 その目の中に、哀れみはなかった。

 心配はある。警戒もある。だが、あからさまに上から見る感じがない。

 それが少しだけ、救いだった。

 レオンはゆっくり手を伸ばした。

 水筒を受け取る。

 冷たい金属の感触が掌に馴染む。

 一口飲んだ瞬間、喉の奥が痛いくらいしみた。思わず咳き込む。だが、その痛みすらありがたかった。

「ゆっくり」

 少女が言う。

 レオンは二口目を飲んだ。今度は少しだけうまくいった。体の中へ水が落ちていく感じが、久しぶりに生きているものみたいだった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 少女はそこで少し首を傾げた。

「……追われてるの?」

 あまりにまっすぐな問いで、レオンは水筒を持ったまま固まった。

 嘘をつくべきだ。

 たぶん、その方がいい。

 けれど、この状態で上手い嘘がつける気がしなかった。

 それに、森からあんなふうに飛び出してきた人間に、今さら何を隠せるだろう。

「たぶん」

「たぶん」

「たぶん、じゃないな」

 レオンは息を吐いた。

 正確に言おうとすると、言葉がひどく重い。

「追われてる」

 少女はすぐには何も言わなかった。

 逃げるか、通報するか、距離を取るか。そういう判断の時間だろう。

 レオンは覚悟した。ここで水を返して、もう行くと言われても仕方ない。

 けれど彼女は、意外なことを聞いた。

「悪いことしたの?」

 レオンは答えに詰まった。

 した、と言われればしていない。

 していない、と言い切るには、あの白い紋が頭から離れない。

 自分が何なのか、まだ自分にも分からない。

「……分からない」

 結局そう答えるしかなかった。

 少女は少しだけ目を細める。

 変な答えだと思っただろう。普通ならそこで終わる。

 だが、彼女は肩をすくめただけだった。

「じゃあ、追ってる方もそこまで全部分かってないのかも」

 レオンは思わず顔を上げた。

「そういうこと、言うんだ」

「言うよ」

 少女は淡く笑った。

 その笑い方はやさしいというより、妙に現実的だった。

「追われてる側が全部悪いって、簡単に決まる話ばっかりじゃないでしょ」

 その言い方が、あまりにも当たり前で、レオンは少しだけ戸惑った。

 村を出てからまだ半日も経っていないのに、もう村の外にはこういう人間がいるのか、と。

「……変な人だな」

「よく言われる」

 彼女はあっさり認めたあと、ようやく名乗った。

「セレナ。旅の途中」

 それから水筒を指さす。

「それ、飲み終わったら返して。大事だから」

 そこで初めて、レオンはちゃんと笑った。

 ほんの少しだけだったが、さっきまでの苦さとは違う笑いだった。

「レオン」

「うん、知ってる」

「何で」

「さっき、自分で呼ばれてた」

 そう言われて、レオンはようやく思い出した。

 たしかに、森の出口に出たとき、自分は名前を呼ばれていたのだ。追手に。

 そのことを思い出すと、また背中に冷たいものが戻ってくる。

 セレナもそれに気づいたのか、ふっと表情を引き締めた。

「ねえ、レオン」

「何」

「もし本当に追われてるなら、ここに長くいない方がいい」

 正しい。

 正しすぎて、今のレオンには少しつらい。

「分かってる」

「歩ける?」

 レオンは立ち上がろうとして、足首に痛みが走り、顔をしかめた。

 その反応だけで、セレナは十分理解したらしい。

「歩けないね、それ」

「歩ける」

「歩けてない」

 静かに言い返される。

 レオンは反論しかけて、やめた。今の自分が意地を張っているだけなのは、自分でも分かる。

 セレナは草地の奥、崩れた石垣の方を振り返った。

「あっちに、昔の小祠みたいなのがあるの。屋根は半分崩れてるけど、少し休むくらいなら使えるかもしれない」

「でも、追手が」

「森の真ん中より、隠れる場所を決めた方がいいでしょ」

 その判断の速さに、レオンは少し驚いた。

 柔らかい顔をしているのに、迷うところでは迷わないらしい。

 耳を澄ます。

 今のところ、蹄の音も足音も聞こえない。

 だが、聞こえないことは安全と同じではない。

 ヴァルトがどれくらいの距離まで追ってきているのかも分からない。副騎手の術がどこまで届くのかも分からない。

 それでも、ここで立ち尽くしているよりはましだった。

「……分かった」

 水筒を返す。

 立ち上がろうとして、ふらつく。

 その瞬間、セレナが反射的に腕を伸ばした。

 指先がレオンの手首に触れる。

 ただ、それだけだった。

 けれど次の瞬間、セレナの表情が変わった。

 さっきまでの驚きや警戒ではない。もっと小さくて、もっと深い戸惑いだった。

「……雨の匂いがする」

 レオンは眉を寄せた。

「何が」

「あなたの手」

 セレナは自分でも変なことを言ったと思ったのか、少しだけ困った顔をした。

「ごめん。たぶん、違う。うまく言えないだけ」

 彼女は指を離したが、視線だけはしばらくレオンの手首に残っていた。

 レオンもそこを見る。

 縄の跡がまだ薄く赤い。

 それだけだ。

 それだけのはずなのに、セレナの反応が妙に引っかかった。

「……俺、変な匂いする?」

「そういう意味じゃないと思う」

「思う?」

「思う、しか言えない」

 曖昧な返事だった。

 だが、適当に誤魔化した感じでもなかった。

 セレナが先に歩き出す。

 レオンは痛む足で、その後を追う。

 草を踏む音が二つ、重なる。

 村を出てから初めて、完全な一人ではなくなった。

 その事実に安心するべきなのか、余計に怖がるべきなのか、まだ分からなかった。

 ただ一つ、はっきりしたことがある。

 彼女の指が触れてから、耳の奥のあの声は鳴っていない。

 止んだのではなく、

 何かが、息をひそめてこちらを見ている。

 そんなふうに思えて、レオンは草地の向こうに崩れた石垣を見た。

 小祠の影は、少しだけ暗かった。

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