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神は人に罪を与えた ――追放された少年は、傲慢の罪で世界の真実を拒絶する  作者: ビッグサム


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第6話 森を抜けるまでの距離

林の中へ飛び込んだ瞬間、光が変わった。


 街道の上ではあれほど明るかった昼の陽が、枝葉に切り刻まれて地面へ落ちる。乾いた土の匂いが濃くなる。踏みしめるたび、去年の落ち葉が靴の下で細かく砕けた。レオンは息を切らしながら、とにかく前へ走った。


 振り返る余裕はない。


 けれど分かる。背後に一つだけ、音がある。


 副騎手の術の気配は、もう近くない。代わりに、一定の速さで距離を詰めてくる足音が一つだけ、ずっと消えない。枝を払う音も、地面を蹴る音も、無駄がなかった。追っているというより、そこにいるだけでこちらとの差が縮んでいくような足音だった。


 ヴァルトだ。


 レオンは唇を噛んだ。


 速い。自分も遅い方ではないと思っていた。村の子どもの中では走れる方だったし、山道や林の中を動くのにも慣れている。だが後ろの男は、その“慣れている”という程度をまるごと踏み越えてきている。足場の悪さも、斜面も、枝も、何も障害になっていない。


 胸が痛い。喉の奥が焼ける。

 まだ走れる。

 でも、ずっとは無理だ。


 右手に倒木が見えた。レオンはそれを跨がず、左へ回るふりをして急に身を沈めた。勢いのまま倒木の裏に滑り込み、呼吸を殺す。ほんの数秒でいい。追い越してくれれば、その逆へ――


「浅い」


 すぐ後ろから声が落ちた。


 レオンは反射的に身を起こした。


 真上から、影が差す。


 ヴァルトは倒木を踏み台にして、そのまま飛び越えていた。剣は抜いていない。だが抜いていないことが、逆に余裕に見えた。男は着地と同時に片腕を伸ばす。掴まれる、と思った瞬間、レオンは転がるように横へ逃れた。


 指先が肩を掠める。


 ただそれだけで、ぞっとした。

 力が強い、というより、止める場所を知っている手だった。


 レオンは立ち上がりざま、近くの細枝を掴んで振り払うように投げつけた。目眩ましにもならない。分かっている。だが何もしないよりはましだった。


 枝はヴァルトの肩に当たる前に、手の甲で払われて落ちた。


「少しは考えているな」


 声に皮肉はなかった。ただ事実を言っただけの調子だった。


「でも、その程度で逃げ切れる相手かどうかは、走る前に見極めるべきだ」


「親切にどうも」


 息が苦しくて、うまく声が出ない。それでも返すと、ヴァルトは少しだけ目を細めた。


「口が利けるなら、まだ余裕はあるな」


 次の瞬間、距離が消えた。


 さっきまで三歩分はあったはずの間合いが、一歩で潰される。レオンは反射的に後ろへ跳んだ。だがヴァルトはそこで踏み込まず、逆に動きを止める。行くと見せて止まる。それだけで、レオンの体勢が崩れた。足が落ち葉に滑り、半歩だけ遅れる。


「――っ」


 腕を取られた。


 今度こそ終わりだと思った。だがヴァルトが掴んだのは手首ではなく、布袋の肩紐だった。強く引かれる。布が首元に食い込み、息が詰まる。レオンはとっさに肩を抜いて布袋ごと体を捨てた。荷が地面へ落ち、乾いた音を立てる。


 中の水筒が石に当たり、鈍く鳴った。


「荷を捨てる判断は悪くない」


 ヴァルトは布袋を手放した。


「だが、それで身軽になっても結果は変わらん」


 変わらない。

 その通りだった。


 レオンは後退りながら周囲を見た。前方は藪、左は浅い斜面、右は少し開けている。右へ抜ければ一瞬走りやすい。だが開けた場所に出れば術を使われる。藪は遅くなる。斜面は足を取られる。


 どれも最悪だ。


「来い」


 ヴァルトが言った。


「これ以上傷を増やすな」


「そっちに行ったら、傷が増えないみたいに言うなよ」


「増やさないようにはする」


「ずいぶん丁寧だな」


「雑に扱う理由がない」


 その言い方が、かえって気味悪かった。


 この男の中では、自分を乱暴に扱わないことと、自由を奪うことが矛盾していないのだ。壊さずに捕まえれば、それで正しいのだと思っている。


「お前は何なんだ」


 レオンの口から、半ば反射のように言葉が出た。


「神官とも違う。村の奴らとも違う。危険だって言いながら、殺す気もないみたいな顔をする」


 ヴァルトはわずかに黙った。


 風が二人の間を抜け、頭上の枝を鳴らす。

 その数拍のあいだに、レオンは少しだけ息を整えた。


「執行者だ」とヴァルトは言った。


「秩序を崩すものを止める。それが役目だ」


「俺が崩したのか」


「まだ崩してはいない」


 その“まだ”が重かった。


「だが、お前の印はその可能性を持つ」


「可能性でここまでやるのか」


「可能性の段階で止めるのが、執行者の役目だ」


 そこには迷いがなかった。


 この男は、今ここで自分が正しいと信じている。

 だから説得では崩れない。


 レオンは少しずつ後ろへ下がった。視線は逸らさない。逸らした瞬間に終わる。足裏で地面を探る。落ち葉の下に石がある。滑る。根もある。走れるかどうか、ぎりぎりだ。


「お前は」とヴァルトが言った。


「自分の力を知らないまま使っている。それが一番危険だ」


「使ったつもりはない」


「そうだろうな」


「じゃあ何なんだよ、あれは」


 初めて、問いが怒鳴り声に近くなった。


「俺だって知りたい。あの石の音も、さっきの拘束が弾けたのも、全部意味が分からない。分からないのに、そっちは分かった顔をして追ってくる」


 ヴァルトの目が、ほんの少しだけ変わった。


 冷たさが薄れたわけではない。

 ただ、こちらを“対象”としてではなく、“話している相手”として見る一瞬があった。


「分かった顔なんかしていない」


 低い声でそう言う。


「私は、お前より少し多く記録を知っているだけだ」


「記録」


「罪印の記録だ」


「だったら教えろよ」


「今ここで教えることじゃない」


「じゃあいつだ」


「拘束が終わった後だ」


 話にならない。


 いや、話にはなっているのかもしれない。

 ただ、その結論が最初から決まっているだけだ。


 レオンは左足を半歩引いた。

 その動きを見て、ヴァルトの重心がわずかに前へ移る。


 今だ。


 レオンは右へではなく、左へ踏み込んだ。斜面の土を蹴る。足を取られる前提で、転がるように下る。予想通り、最初の二歩でほとんど滑った。だがその勢いのまま、体ごと斜面を落ちて距離を作る。


 背後でヴァルトが舌打ちした気配がした。

 初めて聞く、人間らしい音だった。


 細い木立の間を抜ける。枝が腕を打つ。額に冷たい汗が流れる。もう呼吸を整える余裕はない。肺が悲鳴を上げている。けれど、足を止めれば終わる。


 斜面の下には浅い沢があった。春先の水が細く流れている。石が多い。跳び越えられなくはない。


 レオンは助走もろくに取れないまま踏み切った。


 飛距離が足りない。


 そう思った瞬間、背後から強い衝撃が来た。ヴァルトではない。白い光。副騎手の術が届いたのだと理解したときには遅かった。直接当たったのではない。足元の石に当たり、そこで弾けた衝撃が足をさらった。


 体が横倒しになる。


 沢に肩から落ちた。冷たい水が服に染み、息が詰まる。石に肘を打ち、視界が白く跳ねた。


「っ、ぁ……」


 声にならない。


 立ち上がる。立ち上がろうとして、膝がずれた。痛い。足首も変だ。折れてはいない。だが、まともに走れる感触ではない。


 沢の向こう岸に、ヴァルトが立っていた。


 息一つ乱していないように見えた。実際には呼吸が上がっているのかもしれない。だが少なくとも、こちらのようにみっともなく肩で息をしてはいない。


「終わりだ」


 そう言って、沢を渡ってくる。


 レオンは後ずさった。水の中で、うまく踏ん張れない。石が滑る。逃げ場がない。木の根、岩、水、息苦しさ。全部が敵だった。


 怖い。


 今さら、ようやくそれがはっきりした。


 村の広場でも、倉の中でも、家を出るときでさえ、怖さはどこか薄膜の向こうにあった。だが今は違う。この男にここで捕まる。もしかしたら、抵抗次第では殺される。その現実が、冷たい水と一緒に皮膚へ染みてくる。


 ヴァルトが手を伸ばす。


 その手を見た瞬間、また、あの感覚が来た。


 受け入れてはいけない。


 理由は分からない。

 ただ、そう思った。


 嫌だ、とレオンは心の底から思った。


 今度は願いではなく、拒絶だった。


 次の瞬間、沢の水面に白い紋が走った。


 線が一本、二本、三本。細く鋭い光が、レオンの足元から円を描くように広がる。ヴァルトの眉が初めて、明確に寄った。


「――下がれ!」


 誰へ向けた声か、一瞬分からなかった。


 その直後、水が弾けた。


 爆ぜたのではない。

 押し返したのだ、とレオンは後になって思うことになる。

 沢の水が一瞬だけ盛り上がり、ヴァルトの伸ばした腕と、その先の空間をまとめて押し戻した。


 男の体が半歩だけ後ろへずれる。


 たったそれだけだった。


 けれど、レオンにとっては十分だった。


 彼はほとんど這うように沢の向こう岸へ上がると、そのまま木立の奥へ転がり込んだ。走るというより、倒れないために前へ出るだけだ。それでも、止まらなければ距離は生まれる。


 背後でヴァルトの声がした。


「追うな!」


 副騎手に向けた命令だろう。


「森を閉じろ。こいつは術で追い詰めるな」


 その言葉が妙に耳に残った。


 こいつは術で追い詰めるな。


 それはつまり、もう相手がレオンを普通の逃亡者とは見ていないということだ。


 木々の奥へ、ひたすら進む。


 視界が滲む。足首が痛む。肩も肘も熱い。息が苦しい。

 それでも、今だけは止まれなかった。


 耳の奥で、またあの乾いた音が鳴る。


 ――拒絶反応、増大。

 ――観測値、更新。


 もううるさい、とレオンは思った。

 意味も分からないくせに、自分の中へ勝手に入り込んでくるその響きが、ひどく鬱陶しかった。


 だが、鬱陶しいと思えたことで、少しだけ現実へ戻れた気もした。


 痛い。

 苦しい。

 怖い。

 それでも、まだ捕まってはいない。


 木々の隙間から、やがて夕方の光とは違う、ひらけた明るさが見えた。森の出口かもしれない。あるいは崖か、川か、もっと悪い場所かもしれない。


 分からない。


 けれど、止まって考えられる場所まで行かなければ、本当に終わる。


 レオンは荒い息のまま、最後の力を絞って前へ進んだ。

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